119.わずかな休息と懐かしさ

 風呂で泳ぐクリスティーヌを叱り、膝の上から下りないリリアーナを寝かしつけ、ようやく静けさが訪れた。魔王の業務に含まれない雑事が多すぎるが、これも愛玩動物を飼う者の務めなのだろう。契約した部下と考えることもできるが、それなら仕事の手伝いを求められる。


 一方的に愛される対象として愛玩動物が存在するのだから、やはりこの2人はペットなのだ。はしゃいでいたドラゴンと吸血鬼は、魔法で乾かした髪をそのままシーツに散らして眠っていた。窓の外は月が昇って明るい。月齢を数えるでもなく眺め、窓際の椅子に腰かける。


 長椅子と呼ぶには狭いソファのひじ掛けに凭れ、指輪をした右手を収納空間へ入れる。触れた手紙を引っ張り出した。いつもと同じ薄緑の封筒2通と一緒に、別の封筒も重なっている。裏を返すと、小さなマークが入っていた。文字が得意ではないククルが良く使う、署名代わりの印だ。


「ククルか」


 淡い桜色の封筒を膝の上に置き、伸ばした爪をナイフ代わりに薄緑の封筒を開いた。中の文面に目を通す。前半は世界の状況や執務の内容、後半の報告に同僚の愚痴が滲んでいた。バアルとナハトが騒動を起こしたらしい。あの双子は物を壊すことにかけて優秀すぎた。


 後片付けに奮闘したアースティルティトの姿を想像し、口元が自然と緩んだ。最後に付け加えられた一文は彼女自身の望みだ。――また会いたい、と。


 群雄割拠ぐんゆうかっきょの戦乱が終息したばかりの世界は、まだまだ強者の不満が燻っている。火山を根城とするナーガか、森を統べるベヒモス、海の巨人クラーケンあたりなら、魔王の地位を狙って攻めてくる可能性があった。手足となる配下を削り落としたが、彼ら自身は傷を負わせたものの生きている。


 復活した彼らとの再戦を望んだため生かしたが、この事態を予知することが出来たなら殺しておいた。残された配下を苦労させる結果になったことは、申し訳なく思う。封筒ごと手紙を箱に保管する。薄緑のもう1通の封筒を開いた。


 こちらは内容ががらりと変わっていた。こちらから送った手紙が届いたと綴られた文面は、ところどころ滲んでいる。強気で弱さを見せないアースティルティトが、本当は涙もろく優しい女だと知るのは仲間だけだろう。情に厚く面倒見がいい彼女は、貧乏くじを自ら選ぶような吸血鬼だった。


 その性格が致命的な欠点にならないのは、魔族特有の気質が強いためだろう。主人と決めた存在のためなら、己の身内であっても排除する。主人を貶されたり引き離そうとしたら、豹変して相手を徹底的に叩きのめす。魔族なら当たり前の行為だが、その度合いが一段と激しいのが彼女だった。


 2枚目の便せんは、この世界を捨てる準備を始めたと記されていた。そこに躊躇いも涙の跡も見られない。報告書に似た硬い文面が並び、彼女の署名と血判があった。さらに続けて、ククルと双子の印や署名が続く。


 最後に、ククルの印がある桜色の封筒を開いた。中に入っていたのは便せんだが……文字ではなく絵が描かれている。おそらく人だろうが、恐ろしく下手くそだった。線を引っ張ったに過ぎない絵は、オレと彼女達らしい。ククルは文字も絵も苦手だった。


 報告書を書かせたら解読するのに半日近くかかり、最終的に口頭での報告を許可した過去を思い出す。呆れながら文字を教えたアースティルティトすらお手上げになったのだから、筋金入りの勉強嫌いだ。武器の扱いや体術を含めた戦闘技術は、魔族でも指折りの優秀さなのが不思議なほどだった。


「返事を書かねばなるまい」


 彼女らの書いた日付を確認し、やはり時間の流れに差を感じた。こちらで10日も経てば、向こうでは1年近く経過した計算になる。やきもきしながら返事を待つ部下の姿を想像しながら、深夜の静けさの中でペンを手に取った。

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