87.青い果実と腐り落ちる寸前の実
「我が国の将軍職を預かる男がこれかっ!!」
叫んだ国王の怒りを孕んだ声に、広間の人々は黙り込んだ。うっかり声を上げれば、八つ当たりされるのは彼らも理解している。グリュポス国は周辺国に比べ、歴史が浅い。他国との交渉の場で何度も煮え湯を飲まされてきた国王は、自国内で権力を振り翳す暴君だった。
どれだけ自国内で粗暴に振る舞おうと、他国には関係のない話だ。干渉されたことはないが、縁談や同盟の話も持ち掛けられない。他国はこの国を信用しないし、必要としない。いてもいなくても同じと見下されてきた。その状況を打破するための一手だったのに、まさかの事態だ。
聖国バシレイアに向けて軍を動かすと同時に、宮廷魔術師の上位者を伴い川を遡った王弟が、手足のないだるま状態で返された。しかも正気を失った幼児の反応しかしない。奇声をあげたり転がって暴れたり、地位があっただけに扱いが難しい姿だった。
連れて行った宮廷魔術師5人は全滅――これも手痛い失態だ。この国で選りすぐりの者を付けたというのに、すべて台無しにした弟が心底憎らしかった。傷物の女を一人連れ帰る程度の使いが出来ないなら、いっそ彼の国で殺されればよかったのだ。それならば非難の材料として使えたであろうに。
それを見越して生かして帰したアガレスの狡猾さを知らぬグリュポス王は、盛大に舌打ちした。
「こんな役立たずは弟ではない。殺せ」
王の命令に衛兵は息を飲み、すぐに我に返って王弟ライオネスを布に包んで運び出した。げらげらと笑うライオネスの声に「滅ぼされる」と不吉な言葉が混じる。城の外まで運ぶ兵達は、複雑な心境でかつての上司を見つめた。
国王の命令に逆らう術はない。生かしておく危険性も理解している。こんな状態に貶められたが王弟として、将軍としてこの国の特権階級にいた男の首を簡単に落とすのか。グリュポスが国としての体裁を保てているのは、周辺の小国を潰して併合したライオネスの功績あってこそだった。
「お気の毒です、将軍」
涙を流す兵士は、彼に習った剣でライオネスの首を落とす。寝転がる無抵抗な男の首を、重力に従い真っすぐに剣を振り下ろして、痛みを知覚させないよう一瞬で終わらせた。転がる首は笑みに似た表情を浮かべており、兵士は膝をついて首を抱き上げる。
「この国はもう終わりでしょう」
国に貢献した王弟ですら、この扱いなのだ。この国の命運はついえた。守るべき家族もいない兵士は覚悟を決める。本音をこぼした彼は、敬愛する将軍の首を上着に隠して逃亡した。
「ライオネスが死んだようですわ」
オリヴィエラが嬉しそうに告げる。書類に目を通しながら「そうか」と相槌を打った。手足を切り落として痛めつけた際に、何かしらの魔術を仕掛けたのだろう。男の命が消えた事実は疑う必要がない。生きていようと死のうと、あの肉片に気にする価値はなかった。
「アガレスが何かしていますけれど、許可しましたの?」
「外交を一任した。裏工作は人間の方が得意だからな」
人間は非力な分だけ、駆け引きや汚い騙し合いで戦うことが多い。魔族のように力に任せた交渉ができる戦力を持つ国は、この大陸には存在しなかった。大なり小なり国の規模に関係なく、この世界の人間は前の世界より
他者を
アースティルティトが居れば、アガレスを越えていく作戦を見せるはずだ。あの女の残虐性も狡猾さも、アガレスでは太刀打ちできなかった。そんな男でも、この世界では有能であり使える。世界としての成熟が足りていなかった。
この世界が青い果実だとするならば、かつて支配した世界は腐り落ちる寸前の熟した実だ。いつ落ちてもおかしくない、ただれた匂いで周囲を誘惑する危険な状態だった。
「どちらも一長一短か」
この世界に召喚された意味を考えながら、最後の書類に署名を終えた。
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