壁際のないしょ話

山田沙夜

第1話

晩ごはんは名古屋に帰ってからにしよう。食べたいのはお寿司。

 東京駅十七時二〇分発のぞみに乗った。六号車、C席。チケットを買うときに空席を確認したB席は、品川も空席のまま出発した。

 ニンマリしながら社へメールをする。最後に「直帰します」。


 水曜の夜七時すぎ、名古屋駅中央コンコースを東へ歩く。さすがに混雑しているが、構内地図はシンプルなので、人の流れにのれば歩きやすい。

 駅を出て、ミッドランド方向へ横断歩道を渡り、笹島方向へ向かう。狭い夜空にぽつんと見える星は金星かな、木星かなと考えながら、柳橋中央市場へ進む。築地市場とは比べものにならないけれど、名古屋駅前と言ってもいい場所にある水産市場だ。

 目指すはその界隈。

 縦長の細い雑居ビルを目隠しするような階段を、カンカンと足音を響かせながら二階へ上がる。

「すし江川」の看板を照らす編笠を被った白熱電球を見上げ、からりと戸を開けると、カウンターが奥深くへ続いている。席はまだ半分も埋まっていない。宵っ張りたちの店なのだ。


 一〇時にはお風呂に入って、十一時半には寝たい。

「江川」にいるのは一時間と決めた。


「大倉さん……」

 奥の席でわたしを呼びながらおいでおいでと誰かが手を振った。カウンターの奥の席は、玄関より暗いから、声の主の顔がわからない。

 聞き覚えのある女性の声。でもメンドーは嫌だし、早く帰りたいし。軽く手を振り返して、入り口付近の席に座ろうっと。

 わたしはコートを脱いだ。

 声の主はわざわざ席を立って、わたしを迎えに来ることにしたらしい。

 うわっ、メンドー。

「こんばんは」

 加藤光希……さん。

 同業他社で同じ職種、ときどき競合プレゼンでお会いする。名刺交換もした。これは面倒な状況……なのかしら? 今夜の展開予測不能というか、わたしは激しくここから逃げたい。

「ど……うも、何というか、奇遇ですね」

 などとぼそぼそ言いながら、加藤さんの後に続いた。どうぞ、とわたしを壁際の席に誘い、加藤さんはわたしの左側に座った。

「壁際の隅っこがお好きでしたよね」

 そう。わたしはなにかと隅へ行きたがる。そこに壁があれば完璧。落ち着くのだ。

「大倉さん、いらっしゃい。何にする?」

 大将が寿司下駄を置き、左手で飲みポーズをした。

「お茶にします。家に帰ったらまたひと仕事しますんで」

 わたしはキーボードを打つ仕草をする。嘘つきだな、わたし。帰宅してから仕事なんてしませんよ。

 食べたら、家に帰ってお風呂に入って寝る、今の希望はそれだけだ。明日は朝からきっちり仕事だ。というか、今日の出張が明日の予定のオーバーワークに加担している。

「あら大倉さん、常連?」

「常連ってほどじゃ……」

「だからさ、もっと来店して常連の肩書きを背負ってくださいよ」

 大将がニヤリとした。

「予算五千円、おまかせで。最後に赤だし。よろしく」

 五千円! 加藤さんを前にして、見栄を張っちゃったよ。

「わたしは白ワインを。それに子持ち昆布」

 待ち人来らずで、確保しておいた壁際の席が不要になったのかと勘繰ったが、そうでもないのかな。加藤さんはもう満腹らしい。置き去りにされたのかな。


下駄に月見おろしの軍艦巻きが置かれた。鶉卵の黄身に大根おろし、醤油を一滴。ハートマークつきの大好き。

 顔を上げると、大将が眼を細くしてにこっとした。片目だけを瞑れなくて、ウインクが下手くそなのだ。

 わたしはそっと親指を上げる。


「大倉さんの江川の制限時間は? 大倉さんのことだから決めてあるんでしょ」

「一時間のつもりです。十一時半にはお風呂に入って寝たいから」

 加藤さんは小さく頷いた。

「打ち明け話なんて聞きたくないだろうけど、少し付き合ってくださる。身内以外の誰かに話したいけど、それは無理な相談だなって思ってたら、大倉さんが一人で店へ入ってきた。願いが通じたと思っちゃった」

「人選ミスかも、です。大倉朋子は噂話大好き人間という可能性を考慮されました?」

「わたし、人を見る眼はあるのよね」

 わたしは肩をすくめ、加藤さんは子持ち昆布を一つ食べて、ワインをひと口ゆっくり飲んだ。


「その席、妹が座ってたの。旺盛に遠慮なく食べて出てったわ。七時三分の大阪行きに乗ったと思う」

「新幹線ですか? わたしはその新幹線を降りてきましたよ」

 加藤さんは首を振りながら、額に手をあてた。

「こういう時、神様の存在を感じる。家族の愚痴なんて聞きたくないのは承知の上で、言い逃げにしちゃいます。借りにさせてね」

 わたしは小さく頷いた。加藤さんは「ありがと」と言いながら、身体を寄せてきた。

 誰にも聞かれたくない話は小さい声で。


「妹は叶栄といって、今年三〇になるのね。わたしの八つ下」

 加藤さんはわたしの四つ上、と疑問の一つが解消できた。

「わたしたち、事あるごとに母から『看護師になりなさい。一生の仕事を持ちなさい』と言われてきたの。母は専業主婦だった自分が嫌だったんじゃないかと思う。叶栄が高校入学したころから、パートで仕事をするようになった、かな。父は仕事人間であまり存在感はなかったわねぇ。今もそうだけど」


 わたしは母の望むところの公務員にも看護師にもならなかったから、母とは壁があったりするんです。言うことを聞かない子って壁。厚い壁なのか薄い壁なのかわかんないけど。

 ま、それだけじゃないとは思いますけどね。気が合わない同士とでも言うのかな。

 叶栄と母は一緒に買い物に行ったりランチしたりしてたけど、わたしはそういうこともなくて、いじけてたわ。今でも……ね。ちょっとだけど。いいえ、案外根深く思ってるかも。

 わたしは就職してすぐに家を出ちゃったから、余計に距離ができたんだろうな。

 妹は看護大学を卒業して、りっぱに看護師になったもの。実家住まいだし。

 そこって、かわいい子とかわいくない子の選別ラインですよね。

 父も歳をとってきて、行動が母の縄張り入りしちゃったし。

 わたし、可愛がってもらえなかった子って気持ちが抜けないまま残っちゃってる。

 両親と妹は三人でよく外食してたみたい。

 わたしも一言誘ってくれればいいのにって思ったわ。それってフツーの感覚ですよね。大人気なくないですよね。ささやかな家族の行事の声がかからないのって寂しいですよ。寂しいのボディブローって感じで。


 叶栄が看護師として働き始めてからは、年に何回かいっしょに外食するようになったんだけど、ここ二年ぐらいは月に一度の定例食事会みたいになってきて、わたしはすっかり叶栄の愚痴の聞き役になりましたね。

 職場の愚痴もあったけど、だんだんと両親の愚痴が多くなってきましてね。悪口寄りの愚痴です。

 叶栄のそういう気持ち、気がつかなかったですよ。仲良し三人組だと思っていたから。

 八歳も違うと、保護者っぽくなるのか、まさかわたしが妹に愚痴をこぼすってわけにもいかないですし。

 聞いてるうちに、だってあなたはいい思いもしてきたんじゃない、可愛がられてきた代償でしょ、それくらい我慢すればいいのにと思ったわ。でも気がつけなくて申し訳ない、重たい両親だったね、大変だったね、とも思ったの。

 叶栄も大人になったんだなぁ……って。

 そのうちに、成人式で出会った男性とずっと付き合ってる、って打ち明け話になってきたの。


 実家は中区なんです。

 中区の小学校はまとめて中区役所ホールで成人式をするから、当日は見知らぬ人ばかりの中で同級生を探すか、どこかで待ち合わせして会場入りするかするんだけど、叶栄はなんと待ち合わせ場所を会場にしたんだって。さすがに「アホ」って突っ込んだわよ。

 そりゃあ同級生を探して会場をうろつくことになるわよね。

「もしかして千早小学校?」

「松原小学校です」

 というような出会いかただったみたい。彼は医大生だった。

 だからなのか、付かず離れずだったらしいけど。看護師もそれなりに医師に対して思うところもあったりするんでしょうね。彼は救急外来の勤務医になったそうです。


 叶栄、彼のことは両親には一言も話してないし、話す気もまったくなかったと言ってたわ。

「親に干渉させるつもりはない」と言い切ったんですよ。

「あの人たち、しゃしゃり出てくるからね。しかも自分たちは『叶栄のため』と本気でそう思ってそうだから、面倒だし怖いよ。ピンポイントでなにかしでかしそうなんだもん」

 これにはわたしもズキンときたわ。

 わたしは逃げ得してたのかもしれないと思いましたね。

 そう思ったけど、わだかまりって無くならないものです。わだかまり続けてしまう自分が嫌にもなるし、そういう自分が面倒くさいったらない。

 叶栄がいっしょなら両親と四人で食事に行くこともできるかもしれないけど、わたしと両親の三人だけじゃ行こうって気にならないわ、絶対に。

 

 

 叶栄、一ヶ月前に実家を出て彼の部屋へ引っ越したんです。

 荷物は大型のキャリーケースひとつ。売れるものはアプリで売って、実家に残ってるものは要らないものばかり。

「親には」……叶栄は両親のことを「親」って呼ぶの。

「親には引っ越し先の住所を教えてないよ、けど役所に転居届けは出したから、親がその気になれば簡単にわかっちゃうんだけど、余計なことしたら二度と会わないし、訪ねて来たら警察を呼ぶからね。脅しじゃないよ。本気だから、ドアを開けたらあなたたちがいたなんてことになったら、警察に電話しますからね」

 叶栄は叶栄で拗らせてるな、と思ったんだけど、その先があったんです。


 彼のおかあさんは日本人で、おとうさんはネパール国籍のチベット人。彼は両方の国籍を持ったままなんですって。

 彼が医師を目指したのは、ネパールで難民の医療活動をする、という義務感からだと叶栄は言ったわ。

 夢じゃなくて義務感。日本で平和と安定を享受している自分に、高校生のころから負い目を感じてきたって。

 その意思を聞いた彼のおとうさんは、さすがに反対したらしいわ。最後には黙って頷いたんだそうだけど。


「叶栄さん、その彼と結婚なさったの?」

 わたしは思わず訊いてしまった。

 加藤さんはきっぱりと首を振った。

「叶栄は情で動かない子なんですね。甘ったれでも、夢見る夢子さんでもない。心のどこかによく冷えた場所を確かに持ってる子なんだと感じました」


 彼とネパールへ行く。最長一年、とにかく一度帰国する。それからのことを探りながら考える一年になると思う。彼とのその先も、ね。

 親には言わないでね。知らぬ存ぜぬを通しといて。

 あの人たちに知れたら、変におお事にしちゃいそうで、ほんと怖いったらないんだから。

 でもおねえちゃんには週に一度はメールするよ。

 電話できるときは電話もする。


 というわけで、わたしは叶栄専用でウエブメールのアカウントを三つ持ちましたよ。なんにしろ、複数あるって安心だなって思いましたねぇ。

 テロ、拉致、誘拐、レイプ、危険で悪いことしか思い浮かばなくて、心配でしょうがない。不安でいっぱいです。

 彼のご両親と連絡を取り合うことにしてはいるんだけど、二人の仲がうまくいかない可能性もあるから、そこは最低限にしておかなくてはと自制するつもり。


「というわけで、大倉さんが乗って来た「のぞみ」に乗って、叶栄は関空へ向かいました。」

 加藤さんはワインを飲み干し、わたしはアサリの赤だしをを飲み、アサリの身を外して口に入れた。

「大倉さん、今日はほんとうにありがとう。心が鎮まりました。ほんとうにほんとうに神様はいるんだって思いました。江川に入ってきた人が大倉さん以外の知り合いだったら、わたしは挨拶だけしてお勘定してた。そしたら、家に帰って一人撃沈して、回復に時間がかかることになったんでしょうね」

「加藤さん、帰りに氏神様にお参りしてくださいね」

「ほんとね。大須の観音様にお参りしてくわ。近くなんです。大倉さん、今夜の借りはちゃんと覚えてます。そんな日があったらメールしてくださいね」

 わたしたちは個人用メールアドレスを交換した。

 空席待ちの客が五人ほどいた。

「またのご来店を」

 大将の言葉を背に、ヒールの足音を二人分響かせながら階段を降りた。


「大倉さん、その服はどう見てもプレゼンスーツですよね。東京はどこへ?」

 おっと、加藤さんのモードが切りかわった。用心用心。

「残念ながら、ユニコーンガンダムを見に行く時間はありませんでした」

 加藤さんはあははと笑いながらタクシーを止めた。

「乗ってかない?」

「わたしは地下鉄で帰ります」

「じゃ」

 軽くハグをして、手を振った。

 

 今夜は高牟神社へお参りしてから帰ろっと。


 noteより転載(2019/2/23 投稿)

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