海宮ーーわたつみのみや

玉山 遼

わたつみのみや

 その想いは海に沈めた。私には必要ないものだったから。

 いらない欲を削ぎ落とし、生きてきた。言い寄ってくる人も、例外なく、削ぎ落とした。

 利用しようとする人はまだ分かりやすくていい。それよりもよっぽど質が悪いのが、私をモノにしようとする人だ。自分の付属品として扱うと考えれば「利用する」の一種として分からないでもないのだが、その中の恋情だの愛欲だの、そういったものが分からなかった。

「なっちゃんは三大欲の『性欲』が欠けているんだろうね」

 一度だけ付き合った人に、そう言われた。まだ成熟していないころ、自分の考えがまとまっていないころ、言い寄られたので、付き合った。

 デートらしきことを何度かした。友達と遊ぶときのように振る舞った。ある日の帰りしな、繁華街から少し離れたところへ連れていかれて、口づけをされた。そのときに、相手の胸を強く押して引き剥がしたため、こんなことを言われてしまった。

 それからその人とは会わなくなった。だからといって悲しみも憤りも湧かなかった。そうだよなあ、と思うばかりであった。

 してみたいと、考えたことがなかった。生まれてこの方これといった自慰もせず、セックスもしたことがない。純粋培養と言われればそれまでだが、アダルトビデオを見てみたり、自らの乳房を揉んでみたりもしたが、心身ともに何の変化もなかった。むしろ乳房を揉んだ際、痛みがあった。それからは触っていない。

 食欲も睡眠欲もあるのだから、生きていく上で問題はないだろう。現代人にとって性欲、愛欲は必須のものではない。

 そうなると、この容姿はお荷物となる。

 緩やかに畝を描く黒髪、大きくて光を受け止める瞳、小ぶりで形の良い鼻、瑞々しい唇。

 自惚れのようだが、会う人会う人に「きれい」「美人」と言われれば嫌でも気づく。本物の美人は自分が美人であると気づかない、なんて抜かす奴もいるが、それはよっぽど自分に頓着していないか、鏡を持っていないかのどちらかだ。

 かといって隠すこともしないのは傲慢なのだろうか。「痴漢されるのは露出の激しい服を着ているから」といった理論のように、「異性に好かれるのは綺麗な顔をしているから」と糾弾されるものなのだろうか。

 異性には好かれるわ、同性からはやっかみを受けるわ。この顔に生まれてよかったと思ったことは、記憶の上ではない。

 だが、人が自我を押し込めることを好まないように、私は自分の容姿を隠すことを好まない。だから今日も、自分が気に入った化粧をし、自分がときめく服を着て、異性に対してつっけんどんに、誰にも負けぬよう生きてゆく。


 この街には、海がない。

 母親の生家の程近くには海があり、幼い頃によく行った。私はおそらく、その海でこの感情を沈めた。沈めたというか、捨てたというか。何と言えば適切だろうか。

 海には波がある。沖に行くと離岸流に攫われて更に沖へと連れていかれてしまう。私はそこに愛欲を投げ入れた。そして遠く遠くへと流されていった。

 しかし、岸辺はたくさんある。捨てたものが流れ着くことも、ままあるのだ。


***


「あのさ、友達が奈都のこと、気に入ってるんだけど」

 何十回か聞いた台詞を、今日もまた聞くことになった。

 夏場のカフェテラスなんて座るものじゃない。陽がぎとぎと照りつけて、華の友達への苛立ちがつのる。

 頼んだアイスコーヒーの氷が、みるみるうちに融けてゆく。あっという間にぬるくなってしまうそれは、醒めてゆく私の心と逆行しているかのようだ。

 華は私の質を知っている。しかし義理堅いために、お願いあの子に一言だけでも、と言われてしまうと断り切れないのだ。それだから、いつもどこか申し訳なさそうにこういった話を持ちかける。

 彼女の苦悩も分かる。あの子は決して振り向かないよ、無駄だよ、傷つくだけだよ、やめときな。そんな言葉を並べ立てている様がありありと浮かぶ。それでも、どうかお願い、頼むよ、と華の気持ちも慮らず頼み込んでくる奴は、一体どういう神経をしているのか。頭をかち割って覗き込んでやりたい。

「ごめん、男には興味ない」

 何回も告げた謝罪を、今日も告げる。そうすれば華も、だよねえ、と表情を和らげ、いつものようにくだらない話で盛り上がることができるはずだ。

 ふと、陽ざしが翳る。覆っている雲は、一雨降らしそうな色と厚みだ。

 華の表情も、曇る。今回は、ちょっと話が違っていて。

「話が違うって、どういうこと?」

 テラスを覆うテントに、ぽつ、と雨粒の当たる音が小さく響いた。ぽつ、は次第に頻度が高くなり、みるみるうちにざんざん降りの悪天となる。

 わたし、女子高だったからっていうのもあると思うんだけど、いやそれは偏見か。とか、まあいつものことだと思うんだけど。とか、珍しく彼女の仮説を聞かされる。

 華はもやもやとした物言いはしない。基本は起こった事象を簡潔に面白く述べるだけである。

 そんな華が、何をむにゃむにゃ言っているのだ。

「いいから、はっきり言ってよ。気になるじゃない」

「わかった、言うよ。言うけど引かないでよね」

 彼女は、大きく深く、息をした。そして決心がついたとばかりに、瞳を険しくし、抑えた声でこう言った。

「その友達、女の子」

 途端、稲光がして雷鳴が轟く。まるでミステリの登場人物にでもなったようだった。


 友達は、トウコさんという。一度私と会ったことがあるらしい。高く一つに結われた栗色の髪、大きな瞳に小ぶりな鼻、いきいきとした唇。そこまで聞くと、覚えているような、いないような、しかし自分と似た女性に会ったな、という記憶が蘇った。

「その人、ちょっと私に似ている?」

「そうそう!」

 雨脚はだいぶ弱まり、雲の切れ間からは青空がちらちらと見えている。

 トウコさんは、バイセクシュアルだそうだ。男の人を好きになったかと思えば、女の人に恋をする。まあ、奔放な性格と言えばそうであろう。

「好きってよりは、気になるな、ってくらい。気に入ってるっていうのは聞こえが悪かったね」

「それはいいんだけど」

 女性か、と思い悩む。付き合うと決まったわけではないし、話を聞く限り、少々惚れっぽいものの、のべつまくなし恋愛感情を抱く質でもないようだ。けれど、経験したことのない想われかたに、些か動揺している。

 同性に友愛や嫉妬を向けられたことはあれど、愛欲を抱かれることはなかった。いや、まだそうと決まったわけではない。しかし。

 その人にとって私は、ただの友達ではだめなのだろうか。私を特別とし、私の特別とされたいのだろうか。友達でも親友でもなく、恋人として。

 特別というものが分からなかった。とくに、愛欲をこめての特別というものが。

 どのくらいの閾値に達したら、特別なのだろう。こと恋愛に関しては距離を置いて生きてきたから、分からない。

 アイスコーヒーの水面が揺れる。私も、揺れていた。だが。

「嫌だったら断ってね、あの子気にしないと思うから」

 その一言に、引っかかる。

 気にしない。気にしないのか。私が興味ないと断ったとて、そうか。まあいいや。次に行こう。と切り替えも早いのだろう。

 今思い悩んでいたことが馬鹿馬鹿しくなる。それと同時に、生来の負けず嫌いに火が点いた。

 ストローに口をつけてアイスコーヒーを飲み干す。ぬるく苦いそれが喉を通り過ぎていって、奥へ奥へと流れていった。

「ううん。一度会ってみたい」

 空はすっかり晴れ渡り、テントからは雨水が垂れて光を受け輝く。

 華は、トウコさんの連絡先と名前の漢字を教えてくれた。透きとおる子と書いて、透子。

 私の名前の漢字も教えてあげて。奈良の奈に都でなつ、と。


 透子さんは名前の通り、透きとおるような肌をしている。性格も、隠したところがないみたいにあっけらかんとしている。

 メッセージのやり取りを何度かして、実際に会うこととなった。本当は華も含めて三人で会うはずだったのだが、華が急に体調を崩した。

 乗り気でないわけではないが、初対面――厳密に言うと、二回目だが――の人と会うのはどうしても身体中がむずむずする。

 そんなふうに緊張している私を見つけた透子さんは、明るく挨拶の言葉を発した。

「こんにちは、奈都さんですよね? またお会いできて嬉しいです!」

そして完璧とも言える笑顔。私より背が低いのにそう感じさせない、堂々たる態度である。

 私もつられて、こんにちは、と発する。

「ごめんなさい、以前お会いしたときのこと、ほとんど覚えてなくって」

 華に尋ねたところ、何だったかのパーティの準備に透子さんは駆り出され、同じく駆り出されていた私に出会った、とのことだった。

 しかし私はそのパーティの存在すらもまるっきり頭から抜けていた。私と似ている女性がいたな、という記憶だけを残して。

「パーティの準備で、というのは覚えているんですが」

「そうです! そこで助けてもらって、また会いたいな、って思ったんです」

 そこで、助けた? 全く記憶にない。

 間抜けな顔をしていたのだろう。透子さんは歯を見せながら笑い、こう付け加えた。

「あたしの届かない荷物を取ってもらったんですよ。それで、優しいなあって」

 荷物を取ってもらった。

 そんな、そんな些細なことで気になり出したのか。少々惚れっぽいというか、華が「いつものことだと思うんだけど」と言っていたのも頷ける。

 しかし、そんな些細な親切なんて、透子さんのように人当たりがいいのなら、たくさん受けてきただろうに。その度に惚れていたのでは、気も休まらないだろう。

「ひとまず、ご飯食べましょ!」

 透子さんは人ごみの中をすいすいとゆく。高く結った髪がふわふわと揺れる。それを追いかけようと決めた瞬間、くるりと振り向く。

「人多いんで、手繋いでもらってもいいですか?」

 上目遣いに小首を傾げる。その仕草があまりにも可愛らしくて、子どもに言うみたいに、いいよ、と答えてしまった。

「いま子ども扱いしましたよね?」

「えっ!?」

「子ども扱いでもいいです、奈都さんの素を見れたみたいで嬉しい」

 うっとりと眦を下げ、やや紅潮した頬で透子さんは、緩く力を込めて私の手を握った。

 以前男性に、ほんの少し優しくしただけで、似たようなことを言われた。そのときは勘違いしないでほしい、とただただ不快だった。

 けれどいま、透子さんに言われたとき、いやな気持ちは微塵も湧かなかった。

 いやな気持ちには味がある。苦くて、なまあたたかい。けれど透子さんからの言葉は、甘くて、僅かにとろみのあるものだった。

 少なくとも、嫌悪感は抱かなかった。それを今日の感想としよう。そう決めたはずだったが、易々と覆される。

 幅広い知識を背景にした発言に、機知に富んだ返し。明るくて可愛らしい上に教養もしっかりと兼ね備えている。話していて飽きる瞬間がなかった。

 席の時間が残りわずかとなったころ、帰るのが惜しくて堪らなかった。つい、もう一軒行きませんか、と誘う。

「あーごめんなさい、明日早くから用事があるんです」

 透子さんも名残惜しそうに眉尻を下げ、しかしきっぱりと断った。こんなふうにきっぱり、だめと言われたことは今までになかった。

 残念です、と笑みを作り、会計を済ませて店を出る。透子さんは、私の数歩後ろで何やらがさごそと鞄の中を掻きまわしている。

「どうしたんですか?」

「あった!」

 私が声をかけたのと、透子さんが声を上げたのはほぼ同時だった。

 彼女はグレーの表紙の手帳らしきものをひっぱり出して、ページを手繰る。

「再来週になっちゃうんですけど、土曜日、一日空いています! デートしましょう!」

 デート。その単語ばかりが大きく聞こえて、頭の中を回る。駅までの道で、何を話したのか忘れてしまった。

 それからの二週間が、やけに長く感じた。

 私には趣味がたくさんある。読書に水泳、美術館巡りに古本屋散策、その他たくさん。

 それらをしていても、時計を始終見て時の流れを確認してしまう。そういう行為をしているということは趣味に集中できていないのだし、おまけに時の流れを遅く感じてしまう。

 何事も、手にはつく。つくけれど、集中できない。

 本を読んでいる最中にはあちこち移動してみたり、美術品を見ているときも古本屋街を歩いて好みの本を見つけたときも、透子さんはなんて言うだろうか、と考えたりしてしまう。

 なんだろう、この感情は。煩わしいという言葉が一番似合う感情だ。

 邪魔だなあ、いやだなあ、そう思っても相変わらず時の流れは遅く、やっと金曜日を迎えたときには疲れ切っていた。なぜなら泳ぎ続けていたから。泳いでいるときだけは色々を忘れられたから。

 疲れ切ってもいられない。明日は透子さんに会うのだ。

 じんわり赤く染まるリップと、くすんだ桜色のボウタイ付きブラウスに、黒いスキニーパンツ、普段より低めのヒールを選んで、その日は力尽きた。

 秋の虫が鳴き始めてから、しばらくが経っていた。透子さんを紹介されてから、もう一か月近くが経つ。

 汗ばむ日もあれば、半袖では肌寒い日もあり、約束の土曜日は、薄手の長袖ブラウスでちょうどよい気候であった。

 普段より歩きやすい靴で約束の場所へ向かうと、透子さんはそわそわした様子で辺りを見回していた。

 小さく手を挙げると、透子さんは大きく手を振り返す。今日はどんな話が聞けるだろうか。

「奈都さん、前より目線が近くてちょっとどきどきしちゃう」

 話の合間、耳の端を赤らめながら透子さんは言った。見ると透子さんはスニーカーではなく、ヒールのある靴を履いていた。つられて、私のどきどきも高まる。透子さんには調子を崩されやすい。

 その日は水族館を廻った。チンアナゴとニシキアナゴの違いを初めて知った。マゼランペンギンたちの関係は、ややもすると人間以上にややこしいことを知った。

 透子さんといると、時の流れが早い。

 暗くて静かで、時おり遠くから子どもの声がする。落ち着ける場所。透子さんの顔が、うすぼんやりと青い光に包まれている。綺麗で可愛い人。

 透子さんは満面の笑みを見せた。なんだろう。

「ずっとあたしのこと見てたから。嬉しいけど、恥ずかしいもんですねえ」

 そんなに見つめていただろうか。やけに恥ずかしくなって、顔を背ける。けれど知らず知らずのうちに瞳は透子さんを追いかけている。

 この感情は、煩わしい。胸の奥が熱くなるような、急に忙しなくなるような、どこか懐かしいような。香りがするとしたら、透子さんのつけているオードトワレの香りがしそうだ、なんてぼんやりと感じる。

 そこでやっと、この感情は沈めたはずのものだと気づいた。沈めたものが岸辺に漂着するかのごとく、足元に転がっていた。

 もう一度、沈めなくては。そう、いやに焦っていた。

 帰りしな、次はいつごろ会いましょう、と訊いてくれた透子さんに、さあ、とか、ちょっと分からなくて、と曖昧に答えた。水族館の閉館時刻が迫っていた。

 透子さんは察しの良い人だから、分かってくれるだろうと、甘えていた。透子さんは俯いて、口を噤む。唇を噛んで、何かを堪えているようだった。

 その表情がひどく切なくて、透子さん、呼ぼうとした途端、声が吸い込まれるように消えた。

 そこは暗がりだった。誰もいなかった。私と透子さんしか、いなかった。

 前歯に小さな衝撃が走る。何かがぶつかった。思わず目を閉じていたから、それが透子さんの前歯であることも、その瞬間は分からなかった。

 唇を、温かく湿ったものがなぞっていった。驚きに目を見開くと、透子さんの顔があった。悲し気に、歪んでいた。

「じわって、赤くって、おいしそうだなって、思ってたんです。ごめんなさい」

 透子さんは早足で暗がりから抜け出る。我に返って、追いかける。彼女は高めのヒールで、私はそうではない。じきに追いつくのは自明の理であった。

 みやげ売り場からエントランスに出たところで、透子さんの腕を捕まえた。

「なんで逃げるんですか」

 やや強めの語調で問いかける。

「なんで追いかけるんですか」

 するとさらに強い語調で、問われる。その剣幕に、何も言えなくなってしまう。透子さんの唇は、私と同じ唇の色をしている。

 なんで私は追いかけたのだろう。答えに突き当たりそうになるが、そこへは辿り着けない。何かが私をそこへ通さないようにしているみたいに。

「……好きでもないのに」

 さっきの語気はどうしたのか、一転してか細い声で透子さんは俯く。

 ふたたび沈めようとした感情は、あっけなく浮き上がってきた。どうやって片付ければいい。どうすれば片付けられる。そもそも私は、透子さんへのこの感情を片付けたいのだろうか。

 黙りこくっていた私が口を開こうとしたときには、透子さんは目元を赤くしていた。

「――泣かないでください」

「フラれたんですよ。泣かずにいられますか、ばかっ」

 ばか、がやけに幼くて、彼女の魅力は少女っぽさにもあるのだな、なんて悠長に考える。

「なに笑ってるんですか、あたし怒ってるんですよ」

「ふふ、ごめんなさい」

「もうやだ、嫌いっ」

 奈都さんなんて、と言い差して、言葉に詰まり、ごめんなさい、嘘です。と私の手を握る。振り払われないだろうか、そんな怯えが伝わってくる握りかただった。

 その手を握り返す。戸惑った表情でこちらを窺い、なんでですか、とまた問う。

「私、愛欲とか、知らなかったんです。誰かを好きになるってことが今までになかったし、これからもないんだろうな、って思って生きてきました」

「……そうなんですね」

 諦めたように、透子さんは私から手を離そうとした。私はその手を再度握る。

「でも透子さんといると、恋愛小説みたいに、透子さんのことを想っているんです」

 エントランスは煌々と明るくて、透子さんの表情がはっきりと見えた。口を、え、の形に開けていて、大きな瞳はことさら大きい。

 なんで私は追いかけたのか。

 その答えを出すことを、ためらっていたのだろう。けれど、言ったって透子さんは馬鹿にしないし、拒絶もしない。やっと分かったその事実に、背中を押された。

「私、透子さんのことが好きです」

 沈めていた感情を、流れ着いた感情を、拾い上げて抱える。浅くではあるが、それは息をしている。

 いっぱいに溜めていた涙を、透子さんはとうとう溢した。人目も憚らず、ぽろぽろと溢した。

「私のことは奈都って呼んで。あなたのことは透子と呼ぶから」


***


「なんで私を好きになったの?」

 透子と呼ぶようになりしばらくが経ってから、訊いた。

 初めて会話したとき、高いところの荷物を取ってもらって気になり始めた、なんて少女漫画さながらの理由を透子は聞かせた。けれどたったそれだけで、人を好きになるものなのだろうか。

 最初は、前に話した通りだよ、と透子は譲らなかった。しかしそのうち根負けして、渋々話し始めた。

「奈都に直接会う前にね、華から奈都のこと聞いてたんだ」

 綺麗なのにそれを鼻にかけず、とても優しい子がいる、と。

 最初は聞き流す程度だったらしい。しかし頻繁に話すものだから、つい気になって写真を見せてほしい、と頼んだそうだ。

「それでね、初めて奈都を見たら、お世辞抜きで綺麗で。会ってみたくなったから、パーティの準備に参加したの。そこで高いところの荷物を取ってもらって、すっごくいいなって思ったんだ」

 顔が緩んでいるのが自分でも分かる。透子は口が上手いなあ、なんて茶化しながらも嬉しかった。この顔に生まれてよかったと、初めて思った。

「あとね、性格もとっても好きなの」

 優しくて、負けず嫌いで、実は子ども好きで。もっとあるんだろうな。もっと奈都のこと、知りたいな。

 そんなことを言われて笑みを我慢できるほど、私はポーカーフェイスではない。つい破顔して、私も透子のこと、もっと知りたいよ、と口にすると、透子も顔をくしゃくしゃにした。

「華が『あの性格じゃなかったら友達になってなかった』って言うくらいだから、素敵な人なんだろうとは思っていたけど」

 あの性格じゃなかったら、友達になってなかった? それは、どういうことだ。

 透子の口からぽろりと転げ出たその言葉に思考を巡らせていると、透子はあれ、知らない? と小首を傾げる。

「華ってね、美人嫌いなの」

 緩んでいた顔が、強張ってゆくのを感じた。

 華は、私のことを嫌っていたのだろうか。

 透子と付き合うことになったと告げたとき、心の底からおめでとうと言っていたと、私は勘違いしていたのだろうか。

 人間には裏があることは重々承知の上で日々過ごしていると思い込んでいた。けれど、とても仲良くしていた友達が、そんなふうに思っていたとは。

 透子はおそらく、性格を重視している華に対して私が好印象を持つと思い、こう話したのだろう。

 私が黙って、華と付き合っていけばいい話なのだ。華は、悪い子ではないのだし。

 そう、その場では頭を切り替えたつもりだった。けれど実際に華と会って、最近どう? と訊かれた際、私の顔が嫌いだって聞いたよ、と口をついてしまいそうに感じて、うまく話せなかった。

 人付き合いの幅を狭めようと、決めた。今までも友達は華だけのようなものだったけれど、今は透子がいる。

 今度あの展覧会行こうよ、なんて話をしているときや、古本屋を巡って、この本が面白い、と熱く語り合っているとき、誰もいないところで、こっそりと口づけを交わしているとき。

 その瞬間、透子だけでもいい、透子と私だけの世界でもいい、と願いにも似た想いが溢れる。

 透子だけでいいと、想いはじめていた。


「三大欲の『性欲』が欠けている」。いつだかそう言った人がいた。

 そのときは、そうだよなあ、私、セックスしたいとか考えたことないから。そう、発言を信じ込んでいた。

 ところが最近、そうでないように感ぜられる。

 透子と口づけをするとき、お腹だか腰だかの奥を、さわさわと何かに撫ぜられるようなじれったさを覚えはじめた。

 付き合いたてのころは、そんなことは一切感じなかった。透子とは買い物に行ったり、美術館を見たり、たまに口づけをするだけでいいと、淡白なものだった。友達より少し、特別。そのような位置づけでいいと決めつけていた。

 しかし、次第に物足りなくなってきた。本当にそれだけでいいのかと、内なる声が問いかけてくるようになった。

 唇に触れるたび、奥底にさわさわと触れる何かが生じた。それによって、触れられた部位が熱を帯びはじめた。もっと透子を感じたいと、切望するようになっていた。

 これが性欲で、愛欲で、特別。

 特別。響きは甘やかだが、底なしの淵のようだ。こんなところで溺れてたまるか。必死で抗う。

 けれど冬も近いある日、透子の住むアパートで口づけをしているさなか、彼女はこんなことを口ずさむように聞かせた。

「生き別れの双子って、強く惹かれ合うって言うらしいよ」

 生き別れの、双子。繰り返すと、そう、双子。と目を細める。

 透子と私はよく似ている。第一印象で似ているな、と感じるくらいなのだから、傍から見たら姉妹や双子に見えてもおかしくはないだろう。

「あたしたちも、そうだったりしてね」

 透子はそれから、深く口づけた。舌と舌とが触れ合うのは、初めてだった。

 柔らかで微弱な電流が身体の奥で流れているような感覚に、透子の香りに、溺れてしまうと慄いた。

 透子の胸を押して引き剥がそうと考えた。しかし、昔に自分の胸を触って痛かったことを思い出して、透子を痛くするのは可哀想だ、と引き剥がすことが出来なかった。

 うまく息ができない。胸の鼓動が速い。くるしい。でも、きもちいい。

 透子の舌に為されるがままになっていた。口を離すと、透明な唾液の糸が私と透子の唇を繋いでいる。呼吸が荒くなっていた。

 透子の声が、遠くで聞こえる。大丈夫、と。荒く息をしていると、優しい口ぶりで、こう訊いた。

「もっと、する?」

 漸く肺いっぱいに空気が満ちて、鼓動も落ち着いた。冷静な判断ができるようになる。

 こんな行為で世の中の人々は欲を満たしている。私には知り得なかったし、知ろうともしていなかった満たしかただった。

 これだけでは満足しない人もいることは知っていた。透子は、おそらく満足しないだろう。覗き込んでくる瞳は熱で蕩けて、もっと、もっと、そう希求しているのがありありと伝わってくる。

 私は。私はこれだけでいいのだろうか。

 もっとしたい? したくない? 心の中でせめぎあい、鼓動がまた速くなる。 

 以前、女友達が「わたし、彼氏とはキスやハグするだけでいいな」と満ち足りた表情で話していたのが、脳裏を過ぎる。

 きっとそれは嘘ではなかった。しんじつ、そう思っていたのだろう。

 私もそうだろうか。

 身体の奥底にさわさわと触れる何かが生じている。これが、性欲で、愛欲であることはとっくに感じ取っていた。それに抗おうともしていた。

 けれど、透子の蕩けた瞳に見つめられると、この大きな波に抗おうとしている自分がよほどちっぽけに思えて、馬鹿馬鹿しくなる。透子の欲に、応えたくなる。

「もっと、したい」

 外では木枯らしが吹き、寒々しい音を立てている。窓の外は見えないが、皆防寒をしているのだろう。冷えびえとして、きんと透きとおった、空気。

 透子は柔らかく微笑み頷いて、服を脱いだ。

 部屋の空気は少し澱んでいて、透子は温かい。

 乳房を触られるのは痛いだろうと初め拒んでいたが、透子に触れられると痛くはなかった。熱いものが奥底から込み上げてきて、喉のあたりで突っ掛かる。

 私には、この熱をどのように処理していいのか、分からない。息をつくことしか、逃がしかたを思いつかなかった。

「生き別れの双子は、強く惹かれ合う」

 私と透子が双子だとは、微塵も考えていなかった。

だけど、そうだったら。私がこんなに溺れているのにも説明がつく。愛欲にも性欲にも従順になっているのにも、言い訳できる。

「私たちは双子だから」

 透子は私で、私は透子。ふたりでひとつ。そうだとしたら、どれほどよかっただろうか。


 肌を重ねてから、少しずつ、恐れが強くなりだした。透子が飽きて、離れていってしまうのではないか、と。

 元々透子は奔放な性格である。だとしたら、一度モノにした私にはもう目もくれず、どこかへ行ってしまうのも、可笑しい話と一蹴できはしない。

 透子の様子に別段おかしなところはない。今のところは。その兆候が現れはしないかと、日々怯えて過ごすようになっていった。

 本を読んでも没頭できない。美術館を、古本屋を巡っても、透子が現れる。

 泳いでいる最中はまだ大丈夫だった。一挙一動に気を使わねば、水の中では溺れてしまうから。けれどこれも、時間の問題のように感じた。

 相談できる友達がいるのなら良かった。しかし、女同士であるし、唯一打ち明けた華とは、今は疎遠だ。それに、華に話して「透子は確かに飽きっぽいね」と言われでもしたら。

 こういった考えは、セックスのたびに私を訪い、強くなる。

 天辺に連れて行かれそうになるとき、ちらりとよぎる。

 終わった後も、ぽうっとした頭の隅に、考えは陣取って動かない。

 それだから、ここ最近はセックスを断っている。行いさえしなければ、考えなくて済むのではないだろうか、と。それも無駄なあがきだった。

 透子の熱が欲しくなる。欲しくなると、考えがよぎる。

 彼女は奔放であるし、男性女性関係なしに、好きになる。私に飽いたら、男性に行ってしまうのではないか。女性に行ってしまうのではないか。

 当然ながら、この懸念は相手が異性愛者でも、同性愛者でも浮上するものであろう。悩んでも詮無いことであるのはよく分かっていた。

 透子を信じられない自分が嫌になる。彼女は浮気も何もしていない。それはよく知っている。それなのに不安がって、一人で悶々と抱え込んで、何をやっているのか。

 ある日、とうとう水に入っても透子のことを考えるようになっていた。泳いでも、溺れるような息苦しさを感じる。すぐに水から上がった。

 家に帰り、自分の只事ではない変化に戸惑った。濡れたまま乾かさなかった髪が、ぱさぱさと潤いを失っていた。

 戸惑いを少しでも打ち消そうと、以前貰った、透子がつけているオードトワレを自らもつけた。しかし当たり前のように戸惑いは消えず、むしろ大きくなるばかりだった。

 透子がここにいるかのような幻を見た。奈都、髪乾かさないと風邪引いちゃうよ。そんなことを言い出しそうな、幻。

 透子。私は、自分で思っている以上に、透子を想っているみたい。

 ぼろぼろと涙しながら、透子の幻影に縋った。透子は何も話さないし、触れられもしなかった。

 そんなふうに毎日を送っていると、久しぶりに華から連絡がくる。

「久しぶり。最近どう? よかったら今度ご飯食べない?」

 華と会うのは、少し躊躇した。でも、一人悶々とするより、話の分かる友達に聞いてもらったほうが楽にはなるだろう。怖々と、返事を入力する。

「久しぶり。ちょっと聞いてもらいたいことがあるから、○日の夜はどう?」

 すぐに快諾され、おいしいご飯を食べよう、と笑っている華の顔が容易く想像できた。

「透子と仲良くやってる?」

 第一声はそれだった。相変わらずからっとした気風で、透子が言っていたことは嘘だったんじゃないかと疑わしいほどである。

 レストランの、奥の席に通される。予約は華がしてくれた。もしかすると、私の話を周りに聞かれぬよう、この席を指定したのかもしれない。

「で? 話したいことってなに?」

 逡巡して、透子のことなんだけど、と切り出すと、話したいことが溢れて止まらなくなった。

 透子はとても優しい。居心地も良い。けれど時おり、凄まじい不安が襲ってくる。私の元から離れていくのではないかと。奔放だし、惚れっぽいらしいから。

 それらのことを長々話し、一息つくと、華はハンカチを差し出した。どうやら私は泣いていたらしい。透子のこととなると、涙もろくなる。

「確かに透子は奔放に思われるかもしれない。男性女性問わず好きになるし、ちょっと惚れっぽいからね。でも、奈都が思ってるほど、軽い女じゃないよ。一途過ぎるくらいなんだから」

「そうなの?」

 そうだよ、と華はトマトパスタを口に運びながら言った。

 私も頼んだマルゲリータに手を伸ばす。チーズがおいしかった。泣いた後のご飯は、いつもよりおいしい。

「信じてあげなって。透子は一途だからね」

「うん、ありがとう」

 凍てついていた心が融けるように、ほぐれ、あたたかくなってゆく。華はやっぱり優しい。私の顔が気に食わなかったとしても、こんなに親身になってくれるのなら、それでいいじゃないか。あとで華に、ここのところ連絡取れてなくてごめんね、と謝らなくては。

「それより私が心配だったのはね」

 華は瞳を険しくする。言いにくいことを言うとき、華はこんな表情になる。

「……透子が、奈都を束縛しているんじゃないかってこと」

 束縛。それらしいことは覚えている限りされていない。

「あの子、好きすぎるあまり相手を束縛しすぎて振られることが度々あったの」

 好きすぎるあまり、相手を束縛。それらしいことは、されていない。

 やはり、私のことは「好きすぎない」のだろうか。私ばかりが溺れていて、透子は浅瀬で遊ぶようにしているのだろうか。

 私の表情が曇ったのを見て、華は笑う。

「大丈夫だって。透子も馬鹿じゃないんだから。いい加減学んだんだよ」

 私の頭をくしゃくしゃ撫でた。その乱雑さが華らしくて、笑ってしまう。

 今日は来てよかった。帰りしなそう告げて、華をぎゅっと抱きしめた。


 華と話をして心がほぐれたのか、したいと身体が強く訴えかけてくるようになった。

 オードトワレを身につけ、透子にされるよう身体に触れた。けれどあの快楽はやってこない。いくら透子を想っても、貰った物をこんなことに使っている背徳感で、快楽からは遠のいてゆく。違和感ばかりがつのって、透子への愛欲が溢れてゆく。

 透子は私が何度か拒絶してから、誘ってはこなくなった。口づけはするし、そのあと物足りなそうに私の唇を指先でなぞったり、抱きしめてきたりはしたが、セックスの誘いはしなかった。

 今日もまた、暖かな透子の部屋で本を読んだり映画を観たり、伸びやかに過ごしていた。そんな中でしたい、と持ちかけるには、並大抵の勇気では足りない。

 お昼ご飯を買いがてらレンタルビデオ店で数枚借りてきたDVDの中に、一つアダルトビデオを入れていた。間違えて借りてきちゃったんだけど、これも観ない? と冗談めかして問い、観た後になりゆきで、などと考えていたのだが、女優の喘ぎ声が尋常ではなく、私も透子も醒めてしまっていた。

「ねえ奈都、これわざと借りてきたの?」

 透子は虐めるように訊く。これを二人で観て、何をしたかったの? と。

「……わかってるくせに訊かないでよ」

「ごめんごめん。奈都は可愛いなあ」

 したいの? と小首を傾げる。私は透子のこの仕草に弱い。

 頷くと、軽く口づけしてビデオを止めた。

「久しぶりだね」

 やや強い力で、抱きすくめられる。それから二人で行為に耽ろうとしたが、私は耽りきれなかった。

 どうしても、華の言葉が引っ掛かる。

 好きすぎるあまり相手を束縛していた、透子。今はそうでない、透子。私のことを好いていないとは思わない。けれど、「好きすぎる」わけではないのだろうか。

 どこまでいったら、透子は束縛してくれるのだろう。私ばかりが透子に依存し、絡みつき、けれど透子は風のようにすり抜けて、私の届かないところへ行ってしまう。

 はらはらと涙が落ちる。透子は、痛かった? と尋ねた。

 身体に痛みはなかった。ただ、心が痛かった。透子は、私のものではない。誰のものでもないから、当然私のものにもならない。その事実が、胸を締め付けるようにして、痛みを生んでいた。

 私は、透子のものであるというのに。

「大丈夫、痛くないから、続けて」

 透子は心配そうに見下ろし、瞼に唇をそっと当てがった。

 快楽は身体の上を通り過ぎ、心の中には入らない。いたるところが気持ち良いのに、頭はやけに冷静で、透子を欲していた。一番近くにいるというのに、透子が遠くて怖かった。透子が欲しい。その一心だった。

 冬が深い。私は、底なしの淵に落ちてしまったかのように、出ようにも出られず、一人凍えている。


***


 何年かぶりに、母の生家へ遊びに行った。伯父と伯母と、その娘夫婦の住む家。

 私一人で遊びに行った。ちょっとした、逃避行のようなものだ。

 自分の部屋にいると、透子が匂い立つ。だというのに、目覚めると隣に透子がいない。その静けさに耐え切れなくなりつつある。

 透子は一緒に住まない? と持ち掛けてくるが、決心がつかないでいる。私が既に透子に依存しきっているにもかかわらず、これ以上一緒にいるとなるとどうなってしまうのか、と恐ろしく感じたためだ。

 近くにある海は穏やかで、潮風は冷たかったが微かに春のような香りがした。

 ここにあの想いを沈められたなら。

 僅か、そう願う。しかし沈めたところで、いつかはまた岸へと帰ってきてしまう。それに心からこの想いを沈めたいと願っているのか、分からなかった。

 足を、海水に浸す。初春の海は冷たくて、足の裏の砂が波にさらわれていく感覚がした。

「なっちゃん久しぶり。元気にしてた?」

 従姉の明佳は朗らかに話しかける。結婚してやや太ったと愚痴をこぼしてはいたが、幸せに日々を送っているようだ。

「まあ、元気かな」

 歯切れの悪い返事だったことを、明佳は訝しむ。何かあったでしょ、と言い当てられ、長年の付き合いであることを確認させられた。

「ほら、話してごらんなさいな」

 話していいものかどうか。私たちは女同士で、世間からしたらマイノリティである。とくにこの地にはそういった人々も余計に少ないように見える。明佳がそういったことに理解を示してくれるのか、悩む。

「友達に相談されたことが引っかかってて」

 そう濁した。「友達の相談」なんてものは十中八九自分の話であることは明佳も分かっているだろうが。

「ふうん。どんな話?」

 促されて、話しはじめる。

「友達は女の子で、でも女の子と付き合っているのね。友達は相手のことが好きで好きで、どうしようもないくらい好きみたいなんだけど、相手がそうじゃないんじゃないかって不安みたい」

 明佳はまた、事も無げにふうん、と相槌を打った。

「そんなの、男相手だろうが女相手だろうが言えることは一つだけね」

「……なんて言うの?」

「ちゃんと相手と話し合いなさい。まっすぐ向き合って、だめだったらそれまで。ろくでもない相手だからね。以上。おしまい」

 そのとき初めて、明佳に対してすごいな、と尊敬の念を覚えた。

 私が愛欲から距離を置き、面倒くさがって恋愛をしなかった間に、明佳は幾度も愛欲に溺れ、恋愛を重ねてきたのだろう。それが積み重なって、今の幸せがある。

 私も愛欲から距離を置かず、面倒くさがらずに恋愛と向き合っていたなら、こんなに思い悩むことはなかったのだろうか。もっと器用に、透子を愛することができたのだろうか。

「――わかった、話し合うよう言ってみる」

 その晩、自宅に帰った。変わらず透子が匂い立ち、寂しくなる。寂しさは透子の形をしている。透子にしか埋めることのできない形。

 透子が離れてしまったら。ぞっとするほど空しい響きだった。

 だけど透子はろくでもない人ではない。だから大丈夫。大丈夫。

 オードトワレの香りを嗅いで、彼女に心を添わせた。


 ところが、透子と会ってもうまく話を切り出せない。変わらず、不安がつのるばかりだ。

 透子が不誠実な態度をとっているわけではない。あまりにも誠実で、優しくて、だからこそ他の人に連れていかれてしまうのではないか、と胸が痛くなる。

 現代人にとって性欲、愛欲は必須のものではない。そうかもしれないが、それを私自身に当て嵌めて考えるのは、ただの驕りだった。怠惰なだけだった。

 私は、透子がいないとだめなんだ。

 セックスのさなか、強く思い知らされてしまった。

 透子、透子とその名を呼んで、身体を引き寄せる。なめらかで柔らかい肌。

「どうしたの?」

「なんでもない」

「うそ。なんでもなくないでしょ」

「怖かったの」

 あなたに溺れている自分が。私を溺れさせるあなたが。

 うわごとのように、怖かった、そう繰り返した。

 透子を強く抱きしめる。苦しいよ、と笑うように不平を漏らすが、逃げようとしない。その胸に顔を埋めた。

「ちょっと外出ない? 桜、もう咲いてるよ」

 その提案に賛成した。脱ぎ散らかしていた服を二人で探し、身に着ける。それから薄い羽織物を掛け、温かい紅茶を水筒に淹れて外へ出た。

 日が長くなったとはいえ、夜はまだひんやりとしている。

 公園へ向かう最中にも桜が植わっていて、見事に花を咲かせていた。

 二人で公園のベンチに腰掛け、紅茶を飲み、ぽつぽつと話をする。

 このままじゃ、私はだめになってしまうかもしれない。透子に溺れきっているから。そう話すと、別れたいの? と悲しげな声で訊かれ、そうではないと強く否定した。

「怖いの。透子が離れていくことが」

 本当にただ、それだけだった。透子は、私のものではない。誰のものでもないから、当然私のものにもならない。前にも頭の中で巡っていたことが、再度巡りはじめる。

「あたしも怖いよ。奈都は優しいし綺麗だから、誰かが連れてっちゃうんじゃないかって」

「え、」

 あまりの驚きに、目を瞠った。

 同じように、透子も私を想っていたなんて。そうと知ると、鼻の奥が痛くなる。涙が溢れそうになるのを堪えた。

「奈都が気持ちよさそうにしているとき、男だったらもっと気持ち良くさせられるのに、って思う。男は嫌って言っていたけど、そのうちもっと大きな快楽を求めて、男の方に行っちゃうんじゃないかって、思う。でも奈都を信じていないわけじゃないよ」

 ああ、同じように想い合っていた。双子のように。生き別れの双子のように。

「私も、透子を信じてる」

「知ってるよ」

 透子は歯を見せて笑った。無邪気な、少女じみた、笑い方。しかしそれはすぐになりを潜めた。

「でも、あたしね、自分に嘘をついている気がする」

 自分に嘘? どういう嘘を、透子はついているのだろう。

「あたし、前に付き合ってた人にも、前の前の人にも、その前の人にも、束縛しすぎて愛想尽かされてフラれちゃった。だけどね、奈都だけには離れられたくなかったし、離せる気がしなかった」

 話を、じっと聞く。透子は、何を言いたいのだろうか。注意深く、耳を傾ける。

「だから束縛しないでいたんだけど、すごく不安なの。奈都には誰とも会ってほしくないし、誰とも話してほしくない。この間、おばあちゃんの家に行ったのも、華とご飯してたのも、本当は嫌だった。怖かった」

 透子も、恐れていた。不安だった。私が分からなかった。そうして、底なしの淵で溺れて、凍えていたのだろう。今となっては分かる。双子同士が思っていることを分かりあえるように。

 私は透子から逃げようとしていた。浅瀬へ向かって泳ごうとしていた。けれどそれは、透子も同じことだったのだろう。

「あのね、怒られちゃうかもしれないんだけど」

 怖々と口を開き、私の顔を覗き込む。

「ううん、怒んない」

「ほんとに?」

「ほんとだよ」

 それで少し安心したのか、透子は深く息を吸って、決心を固めたとばかりに再度口を開いた。

「華が美人嫌いっていうのね、嘘だったの」

 それが、唯一見せた束縛の片鱗だったと言う。

「華のことは好きだよ。友達として。でもね、奈都をあたしより知っていて、あたしより仲が良くて、それが許せなかった。……ね、奈都、あたしのこと、嫌いになった?」

 華が美人嫌いだと伝えられてすぐに、あれは嘘だったと話されていたら嫌いになったかもしれない。けれど、今は透子が愛しくて仕方なかった。そんな嘘で、私の気を惹こうとしていたことが。

「透子。私ね、そんなの忘れてたよ」

 それは私が透子を愛しく想うがあまり、ついた嘘だった。

 風が強く吹いた。散った桜の花びらが舞い上がる。枝についていた花びらが舞い落ちる。

 共に、愛しくて仕方なかった。お互いがお互いを愛するあまり、見えなくなっているものがあることも、分かりきっていた。

 それは、私が一番いやだったことだ。愛欲に溺れ、盲目になること。

 だけどもう、そんなことどうでもよかった。私は透子の手を離せない。透子は私の手を離せない。それで、よかった。不器用でも、不格好でも構わない。

 海に沈めたはずのものは、波打ち際に流れ着き、私と透子に拾われて、二人の間でゆっくりと、深く、息をしている。

 今度、引っ越しておいでよ。透子は私に凭れ掛かりながら、そう言った。

 そうしよう。二人だけの楽国を築こう。誰も入ってくることのできない楽園を。

 周囲がどうであろうと、知ったことではない。そうしてたとえ百年、千年が過ぎていようとも、透子となら。

 花びらが透子の前髪についている。そっと払い落として、口づけをした。

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海宮ーーわたつみのみや 玉山 遼 @ryo_tamayama

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