「自己採点」

「……ん」


 赤いボールペンの動きを止めた。少し強く押し込んだせいか、紙の上に赤いインクが滲む。


 問題用紙には①から④まで四つの選択肢が並んでいる。この中から正しいものを一つ選ぶ問題のはずだが、目の前の用紙には②と③の両方に鉛色の〇が付いている。手元の模範解答をのぞき込むと、正解は②だった。


「うーん……」


 思わずうなり声がでてしまった。思ったよりも大きな声だったので、静かな自習室に声が響く。ごまかすように咳ばらいをし、もう一度問題に目を落とす。


 確かに試験中、この二択で迷った覚えはある。しかし、最終的に解答用紙上でどちらの数字を塗りつぶしたかの記憶が曖昧だった。


 マークシート式の模試は何度受けてもこんな感じだった。記述式の試験と違ってただ単に自分の選んだ選択肢に〇をつけてくればいいだけなのに、試験が終わると僕はいつも何問か自分が提出した答えが分からなくなっていた。今回のように二つ〇をつけている時もあれば、△を沢山つけている時もある。大体そう言う問題は悩んだ結果どちらを答えに選んだか覚えていなかった。そのせいでいつも僕の自己採点と実際の点数の間には5~6点のズレがあった。


 しかし、今日の模試は特に多い。いつもは全体で一つか、多くても二つくらいなのに、今日は問題の半分もいかないのに既に三つだ。今回の模試は本番前最後の模試だった。ひどい点数をとれば試験まで不安にさいなまれることになるだろうし、結果によっては志望校を諦めなければならないかもしれない。三つも答えの分からない問題を作ってしまったのも、そんな緊張感のせいだったのかもしれない。


 僕はもう一度選択肢をじっくり見直した。うっすら残った記憶では、確か③を選んだような気がする。わからなくて結局あて勘で③をマークしたような覚えがある。マークシートの③にエンピツを執拗にぐりぐり押し付けた手触りもぼんやり思い出した。


 しかし、既に答えが②であることを知ってしまうと、どうにも②を選んだような気にもなってきてしまう。解説を読んでしまったので、試験時間中、自分も同じように考えていたような気がしてしまうのだ。


「……」


 悩んだ末に、僕は②の上についた鉛色の〇の上に赤ペンで控えめな〇をつけた。つけた瞬間、ざらっとした後ろめたさが手に残る。少しずつこのテストが価値を失っていくのが分かる。その後ろめたさをごまかすように、ほとんど反射的に頭の中は自己弁護でいっぱいになった。


 たしか、たしかこちらを選んだはずだ。うん。確かにこれだ。間違いない。


 そうすると、少しだけ後ろめたさが軽減された。僕はそんな風に、曖昧な部分があるたびに、自分に都合のいい方を選んでは誰にしているか分からない言い訳を頭の中でつぶやいた。


 僕だって、自己採点で見栄を張ることに何の意味もないことはわかっている。無意味どころか有害だ。僕の正確な点数、ないしは学力が把握できないことは、学校や両親が判断を間違える要因にもなる。


 しかし、ここまでの自己採点の戦況はあまりよろしくない。問題用紙には〇と×が大体交互に並んでいる。このテストの結果が悪ければ、具体的には七割に乗らなかったならば、志望校を再検討しなければならないかもしれない。


 正直、今の志望校に行きたい明確な理由はない。大学に行ってやりたいことも特にあるわけじゃない。親だって僕に大した期待はしていないし、僕自身もいける大学に行ければそれでいい


 でも、十一月の今から志望校のランクを下げるのは敵前逃亡のようでダサい。自称ではあるが進学校を名乗る僕の高校は皆それなりの大学を志望校に掲げている。自分もそんな周りに合わせており、今更勉強が間に合わなかったのでランクを下げるなんて、恥ずかしくてできなかった。それなら見栄を張って難関大に特攻した方がいくらかマシなように思える。


 そんな取り留めのないことを考えながら、僕は自己採点を終えた。結果は70点ちょうどだった。実際の点数とどれくらい乖離があるかは分からない。できればわかりたくもない。不正確な自己採点では実力は測れない。しかし、自分の実力を思い知るよりも、目の前に現れた70点という数字で得られる、つかの間の安心の方が僕には大事だった。



「ユージ、模試どうだった?」


 予備校からの帰り道、ケーゴが話しかけてきた。声はどこか弾んでおり、その声だけでケーゴの点数が窺い知れた。


「あんまし。ケーゴは?」


 あまり触れられたくない話題だったので、そっけない返事をした。が、ケーゴは興奮しているのか気にも留めずに話し続けた。


「おれ、今回初めて八割超えたわ」


「え、すご! マジで?」


 いつもケーゴは僕と同じくらいの点数だった。元より、予備校で仲良くできる相手なんて、基本的に同じくらいか自分より下の成績のやつだけだ。


「なんか試験中に『お、なんか今日ヤバくね?』って感じしてたんだけどさ、丸付けてたら今までにないくらい丸ついてよ。自己採点めっちゃ気持ちよかったのよ。なんかパチンコ当たった時みたいな?」


「未成年だろお前」


「おう、だから想像だけどな。脳内麻薬ドバドバって感じ」


「表現が危ねえなぁ」


「そんだけすごかったのよ。あー、結果が出るとやる気出ちまうな」



 素直な小学生みたいにケーゴは笑った。屈託のない笑顔だ。


「ユージは何点くらいだったのよ?」


「えー、まあ、ギリ七割かな」


 そう口にした瞬間に、妙な後ろめたさを感じた。自分の声の嘘くささを感じ取られやしないかと心配したが、ケーゴは僕の様子を気にも留めなかった。


「A大だよな、志望校。七割ならワンチャンあるだろ」


「……まあな。何とか首の皮一枚つながったよ」


 言いながら、気分が暗くなる。七割でワンチャンなら僕の結果ではチャンスなんてないだろう。何が首の皮一枚だ。完全に僕は生首になっている。そもそも、首の皮一枚しかつながっていない状態って、普通に既に死んでる。


 暗い気持ちが僕の顔に出たのか、ケーゴは慰めるように言った。


「心配したって始まんねえだろ。それに、現役生は終盤にかけて伸びるって皆言ってるし、本番までに仕上げりゃいいのさ」


「……そうだな。心配してもしょうがないな。少なくとも七割、とれたんだもんな」


「おう。最近まで五割とかウロウロしてた俺らが七割とか八割とかとれるようになってんだからよ。いけるって」


 ケーゴの語る明るい未来に、少しずつ僕の心も明るくなった。そうだ。まだ終わってない。足らない点数は、これから伸ばせばいい。それだけのことだ。


 しかし、不思議なもので、自分で何度も「70点」と言っていると、本当に自分が70点とれたような気がしてきてしまう。都合のいい考えが頭の中に次々と現れ、70点という採点結果が正しいモノのように思えてくるのだ。


 そうだ、少なくとも四択をニ択まで絞っているのだから、本当に全部正解している可能性だってあるじゃないか。確かに、迷った挙句、正解と違う番号をマークしたような気がするが、僕の記憶力はそんなに正確じゃない。


 そう、気のせいかもしれない。なにせ覚えていないのだから。忘れてしまったのだから。本当に僕は七割とれているかもしれない。その可能性はゼロじゃない。そう思うと段々気分が高揚してきた。


 それに、仮に全部間違っていて、今回のテストが惨憺たる結果だったとしても、結局本当の点数なんて、答案が返却されるまでは分からない。だったら、今から暗くなる必要なんてない。せめてテストが帰ってくるまでの間、心の安定を得る方がいくぶん建設的じゃないか。


 そうだ。結局だれも彼もが自分の現実からある程度目をそらしながら生きている。そうでもしないと生きていけないのだ。現実だけ見ていたら息苦しいじゃないか。どっちか分からない部分、あえて曖昧な部分が残っている方が、幸せってもんじゃないのか。


 テストの点を引きずるより、少し盛ったテスト結果で安心しておく方が今後の勉強もはかどるってもんだ。


 うん。僕は間違ってない。そう判断してもいいような気がしてきた。

 



 ケーゴと別れて家に帰ると、リビングに母が一人座っていた。ひどく重たい溜め息をついている。


「ただいま」


「ああ、ユージ、おかえりなさい」


 声に生気がない。僕の方も見もせず、手元に持っている紙をのぞき込んで、もう一度深いため息をついた。


「なんかあったの?」


「……おばあちゃんのことよ」


 心底、うんざりした声だ。怒りや悲しみやいらだちを一通り終えて、諦めに到達しているように聞こえる。


「何? どうしたの?」


「……これ、おばあちゃんが今日受けたカウンセリングの結果なんだけどね」


 そう言いながら手元の紙を僕の前に差し出した。のぞき込むとそこには「要介護認定 基本チェックリスト」とあった。


「要介護認定?」

「そ、ちょっともう私じゃおばあちゃんの面倒見切れないと思ってね、友達にヘルパーさん紹介してもらったの」


 確かに祖母は最近どこかおかしい。僕と父と母、祖母は同じ家で生活している。数年前まで祖母は祖父とともに別の家で暮らしていたが、祖父の他界をきっかけに自分の家を引き払い、娘、つまり母の家に住むようになった。


 言い出しっぺは母だった。「その歳で一人で暮らすのは大変だろうし、少しぐらい親孝行させて」と殊勝なことを言っていたような気がするが、本音を言えば祖母が孤独死するようなことがあれば自分の世間的な立場が悪くなる、という保身の気持ちもあっただろう。


「本当、ごめんねぇ」


 祖母はうちに来てから口癖のようにそう言った。世話になるのは肩身が狭いのか、毎日謝ってばかりいた。相手は自分の娘であるというのに、いっそ卑屈なほどに腰がひくい。できるだけ迷惑をかけないようにしたいのか、それとももうなにもする気になれないのか、祖母は一日中テレビばかり見ていた。



「おばあちゃん、最近ちょっとおかしいじゃない? 一日中何か探してたり、物忘れひどかったり……」


「まあ、歳だし? 今年八十だっけ。みんなある程度そうなんじゃない?」


「……最近はトイレとかも自分でできなくて、おばあちゃん老人用のおむつはいてるのよ。もうしばらく外に出てないし、もう自力であるくのもしんどそうなのよ」


 そう言われてみれば、祖母が家から出ていくのを最近はぜんぜん見ていない。僕が学校に行っている間にどこかに出かけているのかと思ったが、それもないようだ。一日に何度も僕に「今日って何月何日だっけ?」と聞くこともあったし、一日中引き出しを開け示して何かを探していることもあった。


 母はそんな祖母に対して、献身的だった。ご飯を作ったり、掃除をしてやったり、おむつの後処理をしてやったり……。時には話し相手にもなって、何度も繰り返される「今日は何曜日?」「通帳はどこ?」「リモコンってどう使うの?」といった質問にも根気強く答えていた。それも自分の仕事をしながらだ。日に日に母の目の下の隈が濃くなっていくのには僕も気づいていた。が、受験を後ろ盾にしてみて見ぬふりをしてきていた。


「正直、私の手には負えなくなってきたから、ヘルパーさんに来てもらったんだけど、そしたら、要介護の程度調べたいからっておばあちゃんと話しをさせてくれってことになってね。なんかランクみたいなのがあって、症状が重いほど補助が手厚くなるって話だったのよ」


「で、これがチェックの結果?」


「そうよ。でも……これちょっと見て」


 母が紙にかかれた質問とその回答を指さす。僕は指さす部分に視線を落とした。



「日用品の買いものをしていますか」……〇


「15分くらい続けて歩いていますか」……〇


「週に一回以上は外出していますか」……〇


「周囲から『いつも同じ事を聞く』などの物忘れがあると言われますか」……×


 …………


 チェックリストを一通り見終わって、僕は苦笑いをした。リストから浮かび上がるのは、歳をとっていながらも、なんでも一人でこなせる健康で活発な一種の「理想的な」老人像だった。その姿はどう見積もっても祖母とは重ならない。


「……なるほど」


 僕がつぶやくと、母は身体中の力が抜けたように椅子に体重を預けながら、心底疲れた声を出した。


「私、結果見て呆れちゃった。あまりにも事実と違うから。ヘルパーさんに申し訳なくなっちゃったよ。ヘルパーさんは『よくあることですよ』って言ってくれて、私の話聞いてくれたけどさ」


「……」


「信じられなかったんだよね。こんなすぐバレる嘘、なんでつくのかなって。なんでできないことできるようなフリすんのかなって。見栄はってるの? 自分ができないってこと認めたくないの? だったら、いい歳して何やってんだろ? って」


 母の疲労はピークに達しているらしい。いつもなら僕にしないような愚痴や祖母への悪態が母の口からとめどなく湧き出てくる。


「それともあれかな。自分でトイレにも行けないって言うことが申し訳ないのかな。自分が迷惑かけてることに後ろめたさでも感じてるのかな。でも、出来ないことはできないって言ってくれないと、そっちの方が迷惑だよ。これで要介護認定されなかったら保険受けられないわけだし」


「それとも、自分ではできる気でいるのかな? 今はやってないけど、その気になればできる気でいるのかな。そうやって自分をごまかしながら生きてるのかな。それはもうなんて言うか、呆れを通り越してひどく哀れだよ。もうできないことをできるって信じながら死んでいくなんて。まあ、できないことに気づかずに逝けたら、それは幸せなのかもしれないけど……って」


 そこまで言うと母は我に返ったように椅子に預けていた背中を伸ばした。



「ごめん、ユージを心配させるようなこと言って。ちょっとお母さん、疲れちゃって」


「……別に」


 僕はなんとかそれだけ言った。全力で走った後みたいに心臓がひどく激しく脈打っている。母の言葉が、自分の頭の中でガンガン鳴った。


 何というか、思い当たる節がありすぎた。


 母は椅子から立ち上がって伸びをし、「ご飯、食べる?」と聞いてきた。それだけのことなのに、ひどく動揺する。心臓をぎゅっとつかまれたように息苦しい。


「……いや、あんま食欲ないからいいや。部屋で勉強するし」


 悟られないように何とか声を絞り出す。


「そ。受験も追い込みだし、勉強、頑張ってね」


 母はのんきにそう言った。僕は返事もせずに母に背を向け、足早にリビングを出ようとした。


「ああ、そういえば」


 ふと、思い出したように母が僕の背中に向けて呼びかける。瞬間、背筋が凍るような緊張が走った。






「模試あったんでしょ? 結果どうだった?」





 僕は聞こえないフリをして、自分の部屋へ駆け込んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

暗澹編 1103教室最後尾左端 @indo-1103

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ