第十六話 ミタカ・リンク・フォース~春を待って~


 未貴ミタカ市には巨大な池がある。かつて公園として愛されていた場所らしい。廃墟と化して久しい市街区とは打って変わって水面は透き通り、木々の色彩も鮮やかだった。瞼を閉じて耳を澄ますと、水音や鳥のさえずり、風に揺れる葉の囁きが静寂を彩る。


「楽しみだねえ」


 ルーの声が聴こえて、キアラは目を開けた。身を起こして伸びをする。


 池沿いの緑地で昼寝をするのがキアラは好きだった。そんな彼女をたしなめるでもなく、一緒に付き合ってくれるルーは、彼女にとって親友と言って差し支えない存在である。


「ねえ、聞いてるの? 寝坊助ねぼすけさん」


 ニコニコと笑顔を浮かべるルーの金色の髪が日光を反射する。


「ごめん。うとうとしてた」


 謝ると、彼女は頬を膨らませた。「もぉー。いっつも人の話を聞かないんだから。……春になるのが楽しみだねー、って言ったの」


 春かぁ、とキアラは思う。未貴ミタカの池は春になると桃色の花吹雪が舞うらしい。毎年花吹雪の下、隊員たち総出で宴会を開くという話である。いかに未貴ミタカが平和な区域だとしても、いかがなものかとキアラは思っていた。


「宴会なんて呑気だよね。信じらんない」


 そう呟くと、ルーのへらへらした笑いが聴こえた。「へへへ……。キアラちゃんはいっつも任務をさぼってるのに、宴会は嫌いなんだね」


「宴会が嫌いというか、人付き合いが苦手なの」


 ルーは首を傾げてキアラを見つめた。「じゃあ、あたしも苦手?」


 そう言われると困ってしまう。物事には例外というものがあるのだ。


「ルーは特別。……というか、地上で宴会をするなんて呑気過ぎるよ」


 言うと、ルーは立ち上がって両腕を広げた。その目は対岸の木々に注がれている。


「いいのです! 我々リンク・フォースには充分な休息が与えられてしかるべきなのですからぁ! ……どう? 似てた?」


 きっと隊長の真似だろう。全然似ていない。それがかえって面白く、キアラはお腹を抱えて笑った。「あはははは……。もっと練習したほうがいいよ。それに、隊長は絶対にそんな事言わない」


「くそぅ」とルーは悔しそうに頬を膨らまして座った。「キアラちゃんは春が待ち遠しくないの?」


 春と宴会は別だ。「そうだね……。ちょっと楽しみ」


 水面が桃色の花弁で満たされる様を想像して、春の訪れを恋しく思った。地上には風光明媚な景色がたくさんある。地下コロニーの鬱屈した世界とは比べるべくもない。


「でしょでしょー」とルーがへらへらと笑う。その豊かな表情を見つめているだけでも気持ちがほぐれる。だから彼女と一緒にいるのが好きなのだ、とキアラは内心で呟いた。自分は感情表現が巧みではないから、その分、たくさんの反応を持っている彼女といると心地良い。


「さてと」と呟いてルーは立ち上がり、手を差し出した。「隊長に怒られに行こうか。一緒に」


 彼女の手を握り、不器用に微笑んでみる。ルーと一緒なら、こうして無断で地上に出て気ままに過ごしていることを隊長にとがめられたって平気だ。むしろ、一緒に怒られる事がキアラを満ち足りた気持ちにした。


◇◇


貴女あなたたちは一体どうして勝手に地上を歩き回るんです!? 何度言ったら理解してくれますか!? 私は貴女たちの身を案じて言っているのですよ。地上で突然化物が現れたら貴女たちだけで倒せますか? 傷ひとつ負うことなく無事に帰ってこれますか? お願いですから、任務以外で地上に行く事は避けて下さい。これは貴女たちの身の安全のためです」


 隊長の声が部屋にとどろく。キンキンと頭に響くものだからたまらない。


「お花見の下見ですよー」とルーは悪びれもせずに言う。


「下見は不要です。いいですか? 宴会が待ち遠しい気持ちは分かりますが、ほどほどにして下さい。でないと貴女たち二人は地下で留守番をさせますよ?」


「ええ! 酷い!」


 悲鳴を上げるルーをたしなめるように隊長は言う。「分かったら、勝手はつつしむ事。いいですね?」


「はぁい」


「……キアラさん。返事は?」


 突然水を向けられて、キアラは小さく頷いて「はい」とだけ答えた。


「宜しい。もう行っていいですよ」


 隊長の部屋を出ると、二人は大きく伸びをした。毎度毎度の事ながら、隊長も飽きないのだろうかと考えてしまう。彼女の眼鏡の奥に光る鋭い眼も、お叱りの言葉も、毎回大した変化がない。もうバリエーションが尽きたのだろう。


 そしてこの後ルーが口にする台詞も、きっと同じ。


「終わった終わった」とルーは息をつく。そしてキアラを覗き込んで、楽しそうな笑みを見せた。「明日も同じ場所で待ち合わせね。それじゃ、また明日」


 自室へと駆けていく彼女の背を見送り、キアラは「また明日」と呟く。自然と頬が緩むのを感じた。


◇◇◆


 地上で活動するリンク・フォースが手にする武器――リンク・メイトには大切な人間の魂、地下に残してきた人の魂がこもっている。キアラのリンク・メイトも、例によって心底大事な人の魂によって駆動していた。


 雑な扱いなど一度もしたことがない。いつだって大切に大切に扱ってきたつもりだった。手入れは欠かさず、化物と戦闘するときも力を制御しつつ武器を振るってきた。


 なのにどうしてこんな事になるのか。キアラは運命を呪った。


◇◇◆◆


「おーい」と呼びかけるルーを見返し、キアラは枯れたはずの涙が再び湧き出るのを感じた。それは止めどなく彼女の頬を濡らす。


 抱きしめたリンク・メイトは真っ二つに折れ、かつて武器だったそれは、今やブリキの塊と化していた。


「キアラ――」


 ルーの目が大きく見開き、言葉が途中で消える。彼女の瞳が、涙と、リンク・メイトの残骸を捉えたのだろう。


 ルーは無言でキアラを抱きしめた。その温かい抱擁ほうようは、キアラから最後の歯止めを奪っていった。


 それからは声を上げて泣き続けた。涙も鼻水も出るがままに任せて。どうしてかルーも嗚咽おえつを漏らす。二人分の慟哭どうこくが池の静寂を揺すった。


 泣き止んでも、ルーは抱きしめ続けてくれた。彼女の優しさが肌を通して伝わってくる。


「あたしが守る」


 その呟きが聴こえたとき、キアラは自分でもよく分からないまま「駄目」と返していた。


「守る」


「駄目」


「守るもん」


「駄目だって……」


 突然ルーは身を離し、キアラの肩を掴んで真っ直ぐに見つめた。そして有無を言わせぬ口調で「守る」と口にした。今度こそキアラは、何も言い返す事が出来なかった。


 ルーが手を離すと、二人は水面みなもを見つめて黙っていた。昨日まで耳を潤していた音色――自然の奏でる様々な音が、今は他人行儀に聴こえてならない。


「隊長の言う事……しっかり聞いておけば良かった」とキアラは呟いた。勝手に地上に出なければ、こんな事にはならなかったのだ。


「何があったか教えて」


 ルーはいつになく真剣な口調で訊ねた。


「うん……」


 それからキアラはぽつぽつと、雨垂れのように語った。


 いつもより早く出発し、この池でぼんやりしていた事。対岸に化物がいる事に気が付いた事。そいつが池を飛び越えて襲ってきたので、リンク・メイトで撃退した事。そしてその直後、リンク・メイトが壊れた事。


「どうしてこんな事になったのか分からない……」


 ルーは何も言わなかった。どんな言葉でも慰めにならない事を知っていたのだろう。だからこそキアラは、自分の頭を撫でる優しい手を感じても驚きはしなかった。自分は武器を失って地上で生き残れるのか、という問題よりも、ルーが無茶をしないだろうか、という心配の方が大きかった。彼女は優しく、そして、突拍子もない事を仕出かすのだ。


「え」


 突然手を引かれて立たされ、ぐいぐいと引っ張られる。「ルー。どこへ――」


「いいから、ついてきて」


◇◇◆◆◆


 地下拠点への入り口にキアラは立ち尽くしていた。荒廃した市街区に空いた階段口は、地上と地下を決定的に隔てている。特殊なゲル状の膜は、鍵を持たない者には決して通過する事の出来ない堅固な壁。そしてキアラは鍵――リンク・メイトを失ったがゆえに地下世界から隔絶されてしまったのだ。


 地下拠点の自室を思い描いて、途方もない寂しさを覚えた。


 やがて足音が聴こえ、キアラはなんとなくばつ・・の悪い思いにとらわれた。ルーと隊長が姿を現すと、胸には悔しさと哀しみがぜになって押し寄せる。どうせ自業自得だとか落第だとか言われるに決まってる。そうして見放されるんだ――。


 上背のある隊長が目の前に立った時、キアラはぎゅっと目をつむった。


 しかし、頬を張られる痛みも、叱咤しったの言葉も飛んでこなかった。


 全身を包み込むような抱擁。その感触に驚いて隊長を見上げると、眼鏡の奥で彼女の瞳に涙が滲んでいた。口元をゆがめ、必死で哀しみをこらえているような、そんな表情。


 どうしてそんな顔をするのだろう、とキアラは疑問に思った。言いつけを破って勝手をしていたのはこっちだし、リンク・メイトを失ったのもこっちなのに、と。


「貴女の事は、隊員全員で守り抜きます。けれど――」


 安心はしないで下さい。隊長はそう付け加えて、口元を引き結んだ。


「隊長。キアラはあたしが守ります。ずっと地上にいるつもり――」


 ルーの言葉は、隊長の怒声に遮られた。「馬鹿言わないで!!」


 びくり、とルーの身体が震える。さすがに隊長も眉尻を下げて、さとすように続けた。「貴女まで危険な目にったらどうするんですか……」


 武器を失った隊員は化物にとって格好の餌である。リンク・メイトを持たない人間なんて、彼らにとって脅威でも何でもないのだから。


「でも! それじゃキアラは――」


「ですから、隊員全員で彼女を守るんです……」


 キアラは俯いて、割れた地面を見つめた。気持ちはどんどんと暗くなっていく。もう二人の会話を聞いていたくなかった。


「隊長」呟いて、隊長の目を真っ直ぐに見つめる。「わたし、ちゃんと知ってるんです。……喪失ロストした隊員が化物にとってなんなのか。わたしのような人間は、化物を引き寄せる事くらい――」


 俯く隊長を見て、言葉を切った。それも承知の上なのだろう。


 武器を失った隊員は化物の群に襲われる。それも、異様に高い確率で。まるで死臭に群がるはえのように、どこからともなく嗅ぎつけて来るのだ。


 守るという事はつまり、迫り来る化物の群を昼夜問わず撃退し続けるという事であり、そんな芸当は誰にも出来ない事くらい分かり切っている。それを承知で「守る」と口にするのは、きっと、ほんの僅かでも安堵を与えたいからだろう。その気持ちを否定する気にはなれなかったが、本気になってもらっても困る。


「それでも――」


 ルーが言いかけたところで、キアラは駆け出していた。自分のために危険な目に遭わせるなんて、考えたくない。


 逃げたところで、きっとルーは探すだろう。隊長がどれだけ止めても、探すだろう。それでも足を止めなかった。キアラは頭の中を空っぽにするように、ただひたすらに駆けた。ルーを振り切り、誰も知らない場所へ。化物さえ追いつけない速度で。


 行けども行けども、廃墟だった。地上は荒廃し、人の影など少しも見られない。そこに生きる生物はみな、人間の脅威になるようなしたたかさを持っている。武器を持たずに化物と渡り合う事なんて、キアラには考えられなかった。


 廃ビルを貫いて伸びる大樹を見上げて足を止めた。自然はどこまでもたくましく、そして恐ろしい。こうして立場が変わるだけで、それまで祝福していた景色が一変してしまう。風はまるで化物に餌の存在を知らせるかのように吹き、太陽は探照灯のように思えてならない。安全な地下に戻る手段はなく、こうして途方に暮れるしか出来ない。


「ルー……」


 呟くと、虚しさが心を吹き抜けた。それまで存在していた日常は瓦解がかいし、跡形もない。恐くなって廃ビルに入り、大樹の根元に座り込んだ。涙は既に枯れている。


「……寂しいよ」


 答える者はなく、薄暗闇が辺りを満たしているのみ。舞う埃が、光に照らされて妙に寒々しい心地にする。


 もう誰も追いついてこない。ここがどこなのかも分からない。そうなって初めて、素直に救いを求められる。


 天の邪鬼な自分を思って、キアラは自嘲気味に笑った。


◇◇◆◆◆◆


 膝の間に頭をうずめ、瞼を閉じる。暗闇に浮かぶのは愛する人の姿だった。喪失ロストによって永遠に失われた魂。悲哀がかさを増し、キアラは胸を引き裂かれるような苦しさを感じた。


 泣き疲れたのか、走り疲れたのか、キアラの思考は断片的になり、やがて眠りが訪れた。


 目覚めると、薄闇だった。荒廃し、様々な染みの浮いた天井を眺め、ここが穏やかで安全な自室ではなく、地上の廃墟である事を思い出す。巨木に貫かれた廃ビルは、木漏れ日のような月明かりを抱え込んでいた。


 ふと、自分のものではない呼吸音が聴こえた。それも、すぐ隣で。ぎょっとしてそちらを向くと、思わず声を上げそうになった。


 ルーがいたのだ。


 彼女は小さく丸まって、規則的な寝息を立てている。辺りを見回しても彼女の姿しかなかった。すると、隊長の制止を振り切って探しに出たのだろう。そしてどうしてか、この廃墟まで辿り着いたのだ。


 なんでそんなに真っ直ぐなんだろう、とキアラは思う。溢れそうになる鳴咽おえつこらえて、口元を手で押さえた。それでも、切れ切れに涙声が漏れる。


 すると、ルーは寝ぼけ眼でキアラを見つめ、ただ一言だけ口にした。


「大丈夫だよ、キアラちゃん」


 ルーの言葉は無根拠で、けれども真摯しんしだった。それゆえに信じられる。


 激しさを増す鳴咽の合間になんとか「ごめんね」と返すと、ルーは小さく首を横に振った。


「友達だもん」


 友達だから助ける。友達だから救う。たとえ困難な道だとしても。ルーらしい。


 彼女を死なせるわけにはいかない。けれど、そのためには生き残らなければならない。武器をうしなった身で。それは途方もなく難しくて、綺麗事だという事は理解している。


 けれど、とキアラは思う。けれど、そうしなければならない。ルーのために。そして、自分自身のために。


 ルーの手を握ると、力強い反応があった。そして彼女の口が動く。


「まずは夜明け。次は明日。その次は明後日。一週間。一ヶ月。一年。……きっと、大丈夫。キアラちゃんを守るから」


 ルーの透き通った瞳が、キアラをじっと見つめていた。眼差しを通じて、柔らかな感情が流れ込む。


「ありが――」


 キアラの言葉は、夜を裂くような雄叫びに遮られた。ぞわり、と背筋に悪寒が走る。化物の鳴き声は廃墟のすぐ外で聴こえた。


 ――!


 共鳴するように、遠方から同様の雄叫びが響く。


「キアラちゃん」


 ルーの声は落ち着き払っていた。静かで、決意に満ちていて、けれども取り返しのつかない悲劇を予感させるような、そんな声。


「大丈夫。大丈夫だからね」


 ルーは彼女のリンク・メイトである槍を手に立ち上がった。


 何か言わなければと思ったが、キアラが言葉をつむぐ前に化物が姿を現した。


◇◇◆◆◆◆◆


 ルーが倒れたとき、キアラはたとえようもない絶望感を味わった。目の前の光景が夢であればどんなにいいだろう、と。


 ルーは化物の群を相手にして勇敢に戦っていたが、数は全く減らず、段々と動きが鈍くなっていったのである。キアラは瓦礫がれきを投げて加勢したが、化物は意に介さなかった。まずは武器を手にしたほうを、とでも考えているかのように。執拗にルーを狙う化物に、キアラはなすすべもなく、無意味な投擲とうてきを続けたのである。


 そして恐れていた事態が起こったのだ。


 ルーは化物の爪に首を裂かれ、ぐったりと倒れたのである。


 化物を突き飛ばし、ルーの首筋に触れる。真っ赤な流れが、絶える事なく続いていた。


「ルー!! ルー! ルー……!」


 ルーは何も言わず、震える手で槍を持ち上げた。彼女のリンク・メイトが、キアラの手に触れる。


 その口が薄く開かれ、ほんの少しだけ動いた。声にはならない声。決して耳では聴けない音。しかしキアラは、確かにそれを読み取った。


『使って』


 ルーはそう言ったのだ。


 言葉を読み取り、心で理解したとき、キアラは不思議と落ち着きを覚えた。すべき事は決まっている。今度は自分がルーを守る番だ。


 慣れないはずの槍は驚くほど手に馴染み、次々と化物を裂いていく――。


◇◇◆◆◆◆◆◆


 白みゆく空に、隊長は焦りを感じていた。キアラが去り、ルーが彼女を追ってから一晩が経過した事になる。


 一晩。その時間を思い、隊長は奥歯を噛み締めた。


 喪失ロストした人間が生き残れる確率は非常に低い。およそ七割がその日のうちに化物に襲われて命を落とす。つまり、キアラが生き残っている確率も一般的にはその程度なのだ。もしルーが一緒にいるのなら生存率は上がるだろうが、二人とも絶命する可能性も必然的に高くなる。


 喪失者に群がる化物にたったひとりで対抗出来る隊員など、ほんのひと握りだ。そして、隊長にとって認めたくない事ではあったが、ルーはそのひと握りの猛者ではない。


「隊長……どこにもいません」


 隊員の報告を聞き、ぐっと拳を握った。焦りは諦めの影に覆われつつある。隊長の頭は既に、残酷な考えに支配されつつあった。


 自分を含めた捜索隊の撤退。その指令をどのタイミングで口にすべきか、計りかねていたのである。


 任務で席を外しているメンバーを除いた全隊員を二人の捜索にあてたのが、ルーが去ってから一時間後である。通常任務を放棄してまで夜通し捜しはしたものの、望んだ結果はいまだ出ていない。


 それもこれも、一瞬の逡巡しゅんじゅんが原因だった。


 ルーが駆け出したとき、隊長は追うべきか彼女に任せるべきか、ほんの一瞬迷ってしまったのだ。結果、ルーを追うのが遅れたのである。足の速さにかけてはルーのほうが上手うわてであり、止めて聞くような子でもなかった。それでも、幾度いくども彼女を呼び止めたのである。その名を呼び、隊長命令を振りかざしても、ルーは止まってくれなかった。


 思えば、と隊長は今までの事を振り返る。彼女が私の言葉で静止してくれた事など一度もなかった、と。全てはこの日に繋がっていたのだと思うと、自分の適性のなさに腹が立つ。隊長なんていう大層な肩書を貰っても、こうして隊員を危機にさらしているようでは意味がないではないか。


 心に浮かんではべったりと貼り付く呵責かしゃくとらわれてばかりはいられない。いくら隊員が消えたからといって、勝手に捜索隊を指揮するのは職権濫用らんようにあたる。本部からの叱責は覚悟の上だが、隊員をいつまでも外に出しているわけにはいかない。二次被害が出ては元も子もないのだ。


 非情と知りながら決断するのも職務の一環である。公私混同厳禁、私情に流されるなどもってのほか。それを重々承知しながらも捜索中止の一言を叫べずにいた。


「隊長……!」


 隊員の声に振り向くと、朝靄あさもやの先に人影が歩いてくるのが見えた。それはゆっくりと、しかし着実にこちらへ向かってくる。


 隊長はほとんど無心で駆けた。予感が全身を巡り、心臓は痛いほど脈打っている。昔、荷詩魂ニシタマにいた頃に聴いた『不朽の歌』が頭で鳴っていた。祝福を前にしたとき、決まって思い出すメロディである。


 それは段々とボリュームを上げ、やがて不協和音が混ざり、ひずんで消えた。


 彼女・・を前にして、隊長は崩れ落ちそうになる身体を意思の力で支えていた。言葉は出ず、ただ呆然と立ち尽くすことしか出来なかった。


「隊長……ルーの手当て……。早く……」


 傷だらけのキアラが、ルーを背負っていた。ルーの顔は蒼褪あおざめ、唇は青紫に変色している。顔は、まるでろうのような濁った白さをたたえていた。


 隊長は歯噛みし、短く息を吐いた。拳を握り、手の震えを止める。


「……キアラさん。ルーさんをこちらに」


 そう言って、ルーの身体に触れる。隊長の腕に広がった冷たさは、ひとつの事実を示していた。


 ルーの身体をキアラの背から離す際、こびりついた血が不快な音を立てて剥がれた。


 隊長は慎重にルーの身を横たえて、心臓に耳をつける。既に答えは知っていても、そうせずにはいられなかったのである。


 本来鼓動がある生命の小箱は、全くの静寂だった。


「ルーの手当てを……」


 そう繰り返すキアラに向き直り、隊長は物言わず抱き締めた。


「ぅうぅぁああぁあああああああ――!」


 キアラの慟哭どうこくが、白んだ空に溶けていく。隊長は嗚咽おえつを噛み殺し、その分、強く強くキアラを抱いた。


 時間を忘れて、いつまでも。


◇◇◆◆◆◆◆◆◇


 宴会の席から離れ、キアラはひとりで水面みなもを眺めていた。この公園にいると、思い出すのはルーの事ばかりだ。その声、その仕草、その表情……。時間が経つにつれ、思い出との距離が遠ざかっていくように感じる。それが何より辛い。


 いつか、ルーの事を忘れてしまう日が来るかもしれない。そして、それを薄情とすら思わなくなるときが訪れる……。


 けれど。


 キアラはルーから引き継いだ槍を握った。あの日彼女から受け取ったリンク・メイトは、しっくりと手に馴染んでいた。そして不思議な事に、地下拠点への防壁も通過する事が出来たのである。隊長の話では、前例に無い事らしい。


 足音がして振り向くと、隊長がいた。彼女はキアラの隣に腰を下ろし、池を見つめる。


「辛いときは誰かに相談なさいね。私じゃなくてもいいから」


 隊長の言葉は、配慮に満ちていた。キアラはそれをありがたく思ったし、事実助けられている。それでもひとりで抱えてしまうのは、性格の問題だろう。こればかりはどうしようもない。


「ありがとうございます」


 キアラと隊長は、何も言わずに目の前に広がる景色を眺め続けた。


 柔らかな桃色が、はらはらと舞っている。池のおもては花弁に彩られ、時折鳥のさえずりが聴こえた。


 キアラは心のなかで、呟く。熱い涙が頬を伝った。


 ルー。春に、なったよ。


 ツンと痛んだ胸を押さえて、キアラは目を閉じた。

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