触れてはならぬ、パンドラ匣の底
作家には猫が必要らしい。探偵には黒猫、ミステリ作家にはキジ猫だったかサバ猫だったか。とにかく早急に猫が必要なのだと、自称ミステリ作家は言った。
そう言えば、かれこれ彼との付き合いも一年は経つのに、私は彼が一度だけ出版した本を読んだことがない。
「ねー、
狭い休憩室で加苅と二人きり。長机に並んでぼんやりとスマートフォンを眺めている。加苅のスマホを覗くと、どうやら生息地であるBL創作家たちのタイムラインを見ていたらしい。私はというと「裏アカウント」である「
加苅は「んー?」と生返事。口元がにやけていた。何を見ているのかは察しないでおこう。
「あのさー、古代先生の本、タイトルってなんだっけ?」
聞くや否や、加苅の丸い眼鏡がキラリと光った。
「ほっほー? ついに志熊も古代廻流入門の扉を叩いちゃいますか」
寒気がするからやめろ。そんな気色悪い扉、だれが叩くっていうのよ。
しかし、言動から察するに彼女は古代廻流ファンなのかもしれない。
加苅はスマホを閉じ、指を組んで真剣に言った。
「古代廻流、三年前に彗星のごとく現れた気鋭の新人ミステリ作家。彼のデビュー作にして処女作、『
「なんか壮大に言うね」
「まぁね。私、文芸書籍担当だし、他店の書店員からも話は聞いてたのよ」
加苅は指を組み換え、真正面の壁を見た。私と話をしているのに、どこを向いているのだろう。まぁいいや。
私はスマホで本のタイトルを検索した。ふうん、単行本か。マットで真っ赤な装丁の中心には肖像画風の若い男の横顔がある。おどろおどろしいミステリ小説なのだろうか。そんなことを考えていると、加苅の話が続いた。
「しかし、その正体はただの変人お喋り野郎で、面倒なお客様だったわけね。いやぁ、あの衝撃ったらなかったわ。ミステリアスでクールで、ちょっと病んでる感じかなーと思いきや、つぶったー炎上文豪だし。クレーマーよりタチが悪い居座り大臣だし」
私よりもものすごい批判をしていると思う。いいぞ、もっとやれ。
「なんと言うか、イメージと違いすぎた。まぁ、作家の私生活に踏み込みすぎるのも良くないとは思うんだけど、いちファンとしては作家そのものにも興味があるもんじゃない。なんと言っても『浪漫画廊』はあたしに言わせちゃ熱くて儚い、生死を懸けた至高のボーイズラブなわけで」
「ん? 待って? そういう話なの?」
思わず遮ると、加苅の眼鏡がまたもキラリと光った。
「そういう話なの。読めば分かる。天才画家で名を馳せるも一発屋で終わった長瀬という男と、そのファンである花岡青年が巡り会う。長瀬のアトリエで逢瀬を重ねていくうちに、長瀬の禁断の秘密が紐解かれ、そして――やば、ネタバレしそう」
ミステリ愛好家はネタバレ厳禁を厳守するというのは本当らしい。私はスマホの画面の中にある『浪漫画廊の陰謀』をじいっと見つめた。通販、するか。いや、別に読みたいわけじゃないし。生まれてこのかた、ミステリなんてものに触れたこともない。それに、小説は読んでいると眠たくなるタチだ。
「あ、休憩終わる」
加苅が言うまで、私は頭の中で「本を読まない」言い訳を並べていた。
***
「ふぅむ。加苅くんは相当に偏った読み方をしているんだな。しかし、その解釈もまた面白い」
休憩が終わった直後に、例の古代廻流先生がカウンターに陣取っていた。
「そうですね。まぁ、あの子は腐女子なので、なんでも食えるんじゃないですか」
「腐女子の吸引力は掃除機をも凌駕する力を持っているからな。侮れないよ。しかし、興味深い話を聞けて嬉しいな」
彼は言葉通り嬉しげで、満面の笑みを向けていた。憎たらしいほどに歯並びが良すぎる。ほんと、なんで二次元キャラじゃないんだろう。私はアニメの実写は断固反対派だ。
しかし、今日の古代先生は詰め襟の上から藍染の着流しで、上から黒いマントを羽織っている。今日は少し冷えるから、
「ちなみに、猫は飼えたんですか?」
顔がにやけないように話を変えてみると、先生は目を伏せた。
「まだ飼えてないんだ。この窪という街は野良猫に厳しいものでね、公園に行っても見当たらない」
「じゃあ、ペットショップで探せばいいじゃないですか」
「命を金で買うのは傲慢な人間のやることさ」
なんかもっともらしいことを言ってるが、キメ顔で言ってるので嘘なんだろう。
「あー、先生ってニートですからね。高い猫なんて買えるわけないか」
「ニートではない。高等遊民だ、高等遊民。そこを間違えるな」
似たようなものでしょ。
「君は本当に無礼な店員だな。これでよく勤まるよ。まぁ、本を探す能力はずば抜けているとは思うがね、それくらいだ」
褒められているのに嬉しくない。
ふてくされていると、先生は不機嫌にカウンターを指で叩いた。
「ともかく、猫の生態は頭に叩き込んだ。やはり活字はいいな、活字は。文字を食らうというのは、人間の特権だ。そんなわけで、次は猫に関する雑学とペットの歴史なんかが分かる本を探したまえ」
「はぁ……」
私が選んだ本、ほとんど写真や図が多かったと思うんだけど。それに、ペットの飼い方を覚えたほうがいいんじゃないのかな……なんて、言おうものなら話が長くなりそうだ。私はカウンターから出て、頭の中に刻み込んである店内マップを思い浮かべた。
これまた西側の本棚だ。まったく、無駄にこき使うんだから。
「志熊くん、猫というのはなかなか奥深い生き物だぞ」
「へぇぇ」
「彼らがどうして狭い場所をくぐり抜けられるのか、という話が面白かった。内蔵を自在に移動させることができるらしい。まるで軟体動物のようだね。いやぁ、恐れ入ったよ」
「猫を飼うのに、そんな知識いります?」
「そりゃあもちろん。共に生活する上で、彼らの常識を学んでおかないとね。何事も見聞を広めることが平和への第一歩なのだよ」
もっともらしいことを言ってるが、私に
私はやれやれとため息をついて、目当ての本があるコーナーへ足を止めた。
「動物の雑学全集」「歴史辞書〈ペット・家畜〉」「人はなぜ、動物を愛玩するのか?」というタイトルの本を先生の腕に積み重ねていく。
「まぁ、これくらいでいいんじゃないですか。でも、猫を飼ったところで『作家復活!』なーんて淡い期待はしないほうがいいと思いますけど」
現実は厳しい。先生が一発屋で終わったのも、次回作が出せないのも、猫を飼ったところで変わることはないのだ。いつまでも夢見る少年のままではいられないということを突きつけなければ。
先生は珍しく黙り込んでしまった。しかし、表情はすっかり冷ややかで、なんだか私を咎めるように眉をひそめている。
「――君は、僕の小説を読んだことがあるのかい?」
「えっ」
思わぬ問いに、私はすぐに後ろめたくなった。
「僕の小説だよ。『浪漫画廊の陰謀』は古代廻流の人生における記念すべき第一作だった。デビュー作にして処女作。粗削りで鋭利に尖ったミステリ小説を、君は読んだのかと聞いているんだ」
「……いえ」
読まないという理由をあれこれ考えていたくせに、どうにも今は彼の圧に押し負けていて、口が重たくなっていく。
「小説は作家が文字に魂を吹き込んだものだ。それを読者が食らう。僕も、いち作家として僕の文字をいろんな人に貪ってほしいと思っている」
「………」
「
いつになく真面目な声で言われてしまい、私はもうなんとも返せずにいた。立ち止まったままでいると、先生が手に持っていた本を私の頭にコツンと叩きつける。
「会計をしよう。僕は猫を飼って、新しい小説を書く。それを君に食わせてやる。僕の文字を味わってみるがいい」
片眉を上げてニヤリと笑う。そして、彼は東側のキャッシャーへ歩いていった。その後ろを、私は慌てて追いかける。
もしかすると私は開けてはいけない扉、いや、箱を開けてしまったのかもしれない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます