ハリボテパティシエ

那由多

ハリボテパティシエ

 「もう……ダメだ……」

 私の声は、自分でも驚くほど絶望に満ちていた。

 時刻は現在午前零時を回ったところ。

 両親はすでに寝室に行き、多分明日の朝まで起きては来ないだろう。

 もし万が一起きてきたときにこの惨状を見られたらと考えると、ドキドキする。

 こぼれて半分固まった生地とまき散らした粉、汚れた調理器具の数々。

 朝までに片付けておかねばならないと考えると、私に残された時間なんて無かった。


 今、私の目の前にあるのは、湯気と共に焦げ臭を放つを真っ黒の物体だ。

 本来ならば、ここにはふわっふわのスポンジケーキが乗っかっているはずだった。

 平たく言えば大失敗。

 もはや食べ物ですら無い。

 自分を追い込むため、と代わりになる物も何も買ってはいない。


 やはり全てを打ち明けるしかない。

 この惨状を目の当たりにした上で出せる結論なんて、それしかなかった。


 明日は……いや、今日はバレンタイン。

 私はこの絶好の日に、好きな男の子に渡す物を何も持たない状態で迎えてしまった。

   

 久谷雅也くたにまさや君はクラスメイトの男子だ。

 背が高くて細身で顔だちも整っている。

 気さくで、私のような地味で引っ込み思案に対しても分け隔てなく気軽に接してくれる。

 そんな良い男を、私は一年間騙し続けた。

 騙し続けた挙句、そのまま想いを告げる事すら最初は考えていた。

 だが、騙し続けた一年は、思った以上に空虚でストレスも溜まった。

 ここらが潮時に違いなかった。

 

 浅葱仁美あさぎひとみというのが私の名前だ。

 久谷君を騙す事になったのは一年前、私のお兄ちゃんがお菓子作りに目覚めた事に始める。

 当時、お兄ちゃんは大学の三回生。

 昔から唐突に何か始めるのはよくある事だった。

 テレビに感化されたのかもしれないし、何か本でも読んで思い立ったのかもしれない。

 とにかくある日突然、焼き菓子を作り始めたのだ。

 もう家族も慣れたもので、特に誰も何も言わなかった。

 

 趣味を始めるのは大いに結構だが、お兄ちゃんには厄介な癖が一つあった。

 結果に興味を持たないのだ。

 今回も出来上がったお菓子は味見を兼ねて一口食べ、一つ頷いてそれで終わりだ。

 私を呼びつけては好きにしろ、でおしまい。

 多分捨てても文句は言わないだろうが、それはあまりにも心苦しい。

 初めのうちは私が全部食べていた。

 だがある日、体重計に乗って衝撃的な数値を見てしまい、私は思わず悲鳴を上げた。。

 これ以上一人で食べ続けてはお饅頭になってしまう。

 父も母も多少は食べてくれるが、どうしても余る。だが、私がお饅頭にならないためには、どうしても摂取量を減らさねばならない。

 そこで、私は学校に持っていくことにした。

 これぞカロリー分散計画。


 決心した日、お兄ちゃんは私にクッキーをくれた。

 厚手で表面が艶々とした綺麗なきつね色をしている。

 たっぷり使われているのであろう、バターの香りが凄まじく食欲を誘った。

「これはガレット・ブルトンヌ。たっぷりのバターと、少々の塩が決め手のクッキーだ」

「厚手のクッキー……でしょ」

「このど素人が。ほろっとした口どけに腰でも抜かしてろ」

 罵声なのか自慢なのか……。

 ともかく、見るからにカロリー爆弾であるこいつを一人で完食した日には、どんな恐ろしい未来が待っているやら。私はそれを早速タッパーに詰め込んだ。

 

 翌日の昼休み。

 一緒にお弁当を食べていた友人達の前に、ガレット・ブルトンヌを入れたタッパーを出して見せた。

「美味しそう。これどうしたの?」

 友達に尋ねられ、私は一瞬答えに迷った。

「ひょっとして、作ったの?」

「う、うん、まあ……」

 私はフワッとしたまま嘘を吐いた。

 その方が食べて貰いやすいかなぁと思ったのだ。

「凄いね、こんなの作れるなんて」

 そう言ってくれる友人達の邪気の無い笑顔に、私の心臓は抉り出される様な痛みに襲われた。

「ありがとう……」

 笑顔は引きつっていたんじゃないかと思う。

「すごーい、おいしーい」

 そう言いながら嬉しそうに頬張る友人達の背後から、顔を覗かせたのが久谷君だった。その衝撃は言葉でうまく言い表せない。月並な表現だが、心臓が止まりそうになったと言っておこう。

「何々? 何はしゃいでんの?」

「あ、久谷君。仁美がね、お菓子作ってきたんだよー」

「え、浅葱ってお菓子作れんの? すげーな」

「すっごい美味しいんだから。ほら、食べてみ」

 私の手からタッパーを取った友人が、久谷君にそれを差し出して見せた。

 私はこの時、自分が深い縦穴に落ちたのを感じた。これは多分、自分で掘ったものだ。

「おー、すげー分厚いクッキー。綺麗に焼けてんなー」

「単なるクッキーじゃないんだから。ねぇ、仁美?」

 突然話を振らないで欲しい。体がビクッとなったのに気付かれなかっただろうか。

「何々? これ、何クッキー?」

 久谷君も興味津々。

「えと、ガレット・ブルトンヌって言って……、まあ、クッキーなんだけど……ね」

 詳しい説明なんてできないので、私はそう言って逃げた。

「へー、ちゃんと名前あんだね」

「あ、うん」

 しげしげとクッキーを眺めてから、久谷君は迷いなくそれを口の中に放り込んだ。

 サクサクという音が彼の口から聞こえてくるたび、私の心臓はドキドキが増していった。

「すっげー、うめー」

 久谷君の大きく見開いた目が、きらきらと輝いていた。

「え、何コレ? すっげー、バターのいい匂いだし、ほろほろだし……。すげーな、浅葱!!」

「あ……ありがとう」

 やや気圧されてしまうほど、久谷君のテンションは上がっていた。

 久谷君が私に向けて誉め言葉を投げてくれた。ちょっとにやけてしまう。けど、それだけだった。だって、実際私が褒められているわけではないし。

「浅葱って菓子作るの上手いんだな」

 そんなこと露ほども知らず、久谷君は私に向ってそう言ってくれた。

 この瞬間、初めて私の心にチクリと罪悪感の芽が生まれた

「ありがと……」

「また、なんか作ったら食べさせてよ」

「う……うん」

 ここで嫌とは言えない。ましてや、実はお兄ちゃんが作りまして、なんて言えるはずもなかった。

 

 私が家に帰ると、キッチンからは甘い匂いが漂ってきていた。

 私はキッチンに駆け込み、大きな背中を丸めて作業しているお兄ちゃんに声をかけた。

「む? どうした」

 大きな体を丸めて作業をしていた兄は、その手を止めてこっちを振り返ってくれた。

 手に小さな絞り袋を持っていた。中身は……アイシング?

「えーと、ちょっと話が」

「ちょっと待ってろ。すぐ終わるから」

 そう言ってお兄ちゃんは作業に戻った。

 お兄ちゃんの鼻歌を聞きながら、待つこと十分。

「よし、終わった」

 お兄ちゃんは満足そうに言って、バットを冷蔵庫に入れた。何を作ってたんだろ。

「お待たせ」

 振り返ったお兄ちゃんのエプロンは、綺麗なものだった。順調に作業してた証だ。

「で、話って?」

「実は……」

 私はきょう学校であったことをお兄ちゃんに話した。

「バカだな、お前は」

 お兄ちゃんにそう言われ、私には返す言葉もなかった。

「お兄ちゃんが作ったのって言えよちゃんと。そしたら、えー、どんなお兄さん? 会ってみたーいってなるだろうが。俺が女子高生と触れ合う機会を奪うとか、とんだ鬼畜妹だな」

「そこ?」

「そうだよ。他に何がある」

 妹としては、そのようなお兄ちゃんにクラスメイトを紹介するのは避けたい。

「んで、どうするんだ?」

「私も、作れるようになろうかなって……」

「良い心がけだが、お菓子の道は厳しいぞ」

「厳しいの?」

「まあ、段取り命みたいな作業だからな。お前は不器用だから兄としては心配だな」

「うう……」

 返す言葉も無い。

 卵を割ると三つに一つは失敗する女とは私の事だから。

「まあ、しばらく菓子作りを止める気はない。その間は、出来たもんはお前にやるよ」

 お兄ちゃんはそう言って私の肩をぽんと一つ叩いた。


 それから一年の間、お兄ちゃんは思い立ったように菓子を作り、宣言通り私にくれた。

 フィナンシェだったり、マカロンだったり、タルトだったりと、種類は多岐にわたったが、不味い物は一つとしてなかった。

 まあ、お兄ちゃんに言わせればすべてまあまあらしいけれど。

 私はそれを学校に持って行き、友達と分けるついでを装って久谷君にあげた。

 久谷君はその度に感動してくれた。

 その笑顔を見られるのはとても嬉しいのだけれど、心のどこかに常に罪悪感はあった。


 十二月に入ったばかりのある日の朝の事だった。

 私がいつものように通学路を歩いていると、背後から声をかけられた

「よ、おはよう」

 振り返ると、そこには片手をあげて気さくに笑う久谷君がいた。

「お……おはよう」

 あまりの事に驚いて、思わず声が上ずってしまった。

「えと、何で?」

「やっぱり気付いて無かったんだな? ずっとこの道で通学してるよ」

 全然気付いておりませんでした。

「たまに見かけてたよ。あんまり喋った事無かったから、声かけ辛かったけど」

 久谷君はそう言って恥ずかしそうに笑った。

「きょ……今日はどうして?」

「いやその、まあ最近はほら、声かけても平気かなって」

「あ、うん」

 平気どころか嬉しい。朝から心拍数の上昇が止まらない。

「もうすぐ冬休みだなぁ」

「楽しみ?」

「もちろん。長い休みは大歓迎だよ」

 私だってそうだ。

「でもなぁ……、浅葱の菓子が食えないのがなぁ」

 思わず耳を疑った。

 彼は私の持っていくお菓子を食べられ無い事について、残念そうな口調で言ったのか? 

「冬休みにはクリスマスもあるし、浅葱の作るケーキ、食べて見たかったなぁ」

 心底残念そうに首を振っている久谷君を前に、私はどう返事をすれば良かったのだろうか。

 それじゃあ用意するよ? 一緒に食べましょうね? クリスマスの夜は一緒よ?

 言えるわけがない。

「お菓子……好きなんだね」

「浅葱が作るのは好きだよ。美味しいからな」

 好きって言葉に胸がどきどきした。

 それ以上は言わないで欲しい。だって、私は何もしていない。ただの運び屋で、裏に真のパティシエがいるんです。

「浅葱の彼氏になる奴は幸せだな。こんな美味い菓子を腹いっぱい食えるんだろ?」

 ここで頷けるならどれだけ良かった事か。

 実際のところ、私の彼氏になった人が知るのは、私の素敵な不器用っぷり。そして、今まで食べていた菓子は全てお兄ちゃんが作った物だったって事だけ。一瞬で心が穴だらけになった気分だ。

 せっかく久谷君と並んで歩いているこの時間を楽しめないなんて辛すぎる。


 やがて冬休みがやって来た。

 クリスマスが刻一刻と近づき、商店街がクリスマス一色に染まるころ。

 私はお兄ちゃんが作ったシュトーレンをちまちま食べながら、宿題に勤しんでいた。

 久谷君と過ごしたかったなぁと思う。想像もいろいろしちゃうけど、何ていうか現実感は無かった。


 その日の夜。事態は急転した。

 もちろん悪い方へ。

 ぼんやりとリビングのソファに座ってテレビを見ていた私の隣に、不意にお兄ちゃんが腰を下ろした。

「なあ、仁美」

「何?」

「そろそろ卒論に集中するから、しばらく菓子作りは封印な」

 明日晴れるかな、ぐらいの軽い口調で突然そんな事を言ったのだ。

 私は思わずソファの背もたれから身を起こした。

「お兄ちゃん、お菓子作り止めちゃうの?」

「しばし封印するだけだ。多分な」

 その間に飽きたら再開しないって事だ。

「い……いつまで?」

「二月の終盤ぐらいまでだな。口頭試問が終わるまでは油断できん」

 お兄ちゃんは言うだけ言って去って行った。

 引き留めようかとも考えたが、私の為に卒論なんて無視してお菓子を作ってよ何て言えるはずもなかった。

 言ったところでお兄ちゃんに罵倒されて拒否されるのがオチだ。

 バレンタインをどうしよう。作るか……。買うか……。


 悩んだ結果、私は作る方を選んだ。お兄ちゃんのレシピ本をまずは参考にしてみる。

 最初に作ってみたのはクッキー。それも、ドロップクッキーという生地を寝かせる必要のない奴だ。お兄ちゃんに確認を取り、材料は使わせてもらった。

 キッチンに粉が舞い、私の髪とエプロンは卵と生地で汚れ、床にはチョコチップをばらまいた。

 挙句の果てに半分は焦げた。

 ただ、もう半分はいい感じの焼き色になったから、試しに食べてみた。

「うん、美味しい」

 初めて作ったとは思えぬ出来になっていると思う。ただ、苦労して作った補正が入っているだろうし、ここはひとつ客観的な意見を貰おう。

「お兄ちゃん」

 私は卒論に取り組むお兄ちゃんに作ったクッキーを差し入れしてみた。

「お前が焼いたのか?」

 ふうん、と言ってじろじろとクッキーを眺めてから、ようやく一口齧ってくれた。

「一応火も通ってるし、食えるものではあるな」

「それっておいしいって事?」

「……まあ……まあまあだな」

 お兄ちゃんにまあまあと言わせたのは、大きいような気がした。だって、お兄ちゃんのまあまあはいつも美味しい。

 意外とお菓子作りに向いているのかも。

 心のどこかにそんな気持ちが生まれた。

 その日から私の戦いが始まった。

 何日かに一度はお菓子を作り、それを差し入れと称してお兄ちゃんに食べて貰った。

「まあまあではあるな」

 お兄ちゃんの感想はいつもそんなのだった。


 冬休みが明けた初日。

 友達は私に容赦ない一言を浴びせた。

「太った?」

「え、えー……厚着してるからじゃないかな」

 そうは言ったけど心当たりがあった。

 試作品の一部をお兄ちゃんにあげていたとはいえ、大半を自分で食べていたのだ。

 だが、そんな事で挫けていられない。

 私は挫けず菓子を作り続け、兄に食べさせた。

 学校に持っていく勇気はなかなか出なかった。

 友達も、それから久谷君も欲しがってたけど、色々理由をつけて断った。

 バレるのが怖かったのだ。


 そしてバレンタイン前日の夜。

 私は台所に立っていた。

「あんまり汚さないでよ」

 お母さんの言葉を聞き流し、私は材料の確認をしていた。

 作るのはチョコレートケーキ。

 本来、ここはチョコで良いところなのだが、一つ問題があった。

 そう、テンパリングが絶望的に下手なのだ。

 何度かチョコレート菓子にはチャレンジしてみたが、いつも見た目からして良くなかった。

 お兄ちゃんも「なにこれ、餌?」と絶望的な感想をくれた。

 だからチョコレートケーキ。

 ココアのスポンジに、チョコレート入りのクリーム。

 だが、その難易度は半端なく跳ね上がる。

 それでもどうにかなるんじゃないか。心のどこかでそう思っていた。


 戦いは壮絶を極めた。

 舞う粉。入る欠片。飛び散る生地。溶かし過ぎたバター。忘れた余熱。

 膨らまぬスポンジ。角の立たぬクリーム。焦げ付くチョコレート。

 やり直しに次ぐやり直し。悪戯に消費されていく高級な素材達。

 ごめんね卵。

 許して無塩バター。

 来世ではきっと飲みますココア。

 食べたら美味しいよねチョコレート。


 甘い物を作りたかった私に示された現実は、ちっとも甘くなかった。

 絶望が私の前に現れ、満身の勝ち誇った笑い声が聞こえた。

 私が製造したものは、餌ですらない。食べられない黒い塊だったのだ。

 

 少しだけ寝て、すぐ起きて学校へ。

 寝不足のはずが眠くなかった。

 一日中心臓がバクバクと音を立てていた。

 完全に葉を失った木々の枝が寒風に揺れているのを眺めつつ、私は久谷君が出てくるのを、足踏みしながら正門前で待っていた。

 放課後に話があるから正門前で待ってる、と彼には伝えてある。

 三十分も待っただろうか。久谷君が正門前に姿を見せた。わざわざ小走りで出てきてくれた。

「久谷君!!」

 私が呼ぶと、彼はこちらを振り返ってにこりと笑った。

「浅葱。悪いな、掃除当番で」

「ううん、呼び立てして、ごめんなさい」

「で、話って?」

「うん、実は……」

「待った、場所移そうよ。寒いでしょ」

 その通りだったので、この申し出は嬉しかった。

 二人並んで歩く下校道。

 けど、ちっとも心は弾まなかった。それどころか、一歩ごとに心が重くなっていく。

 死刑台に向かって歩いている気分だ。


 私達は駅にある待合室で話をすることにした。

 平日夕方という事で、大して人はいない。

 待合室の中は十分に暖かく、話をするにはもってこいだった。

「ほい」

 久谷君は自販機で買った暖かい紅茶をくれた。

 彼は缶コーヒーを持っている。

「で、話って?」

 いよいよこの時が来た。

 私は立ったまま彼をまっすぐに見て、それからそのまま上半身をパタンと倒した。

「ごめんなさい」

「え?」

 顔を上げてみると、久谷君は半開きの口で固まっていた。面食らわせてしまったらしい。

「何? 急に」

「えと……その……」

「なんか、長い話? とりあえず、座らない?」

 その言葉に甘えて、手近な椅子に私は腰を下ろす。

 久谷君は私の隣の椅子に座った。

「あのね……あの……」

 久谷君の方を向くことができなかった。

 言わなくちゃ。今までの事が全部嘘だって。

 私はお菓子なんか作れないって。

 言わなくちゃ。

 胸のあたりがきゅっと締め付けられるような感じがした。

「私……実は……」

 目の前が滲む。ぼろぼろと涙がこぼれだすのが分かった。

「お、おい、どうした? 急に泣くなよ」

「私……私ね……」

 ああ、ダメだ。言えない。言葉が詰まって出てこない。

 多分、無理に出そうとしたら、大泣きしてしまう。こんな駅の待合室で、久谷君と一緒のタイミングで大泣きしてしまう。

「お、落ち着け。な? 何かわかんないけど、まず落ち着こう」

 久谷君の顔が私を覗き込んでいた。

 その表情から、凄く心配してくれているのが分かる。

 嘘をついた上、心配までさせた事が、私の胸をさらに苦しくさせる。

 涙が止まらなかった。

「喋らなくていいから。落ち着くまでゆっくり深呼吸して。後、これ」

 久谷君が手に持たせてくれたのはタオル地のハンカチ。そして、私の手から飲みかけの紅茶をそっと取ってくれた。

 ほんとにいい人だ。ごめんね。

 結局、一言謝った後は、ひたすら泣き続けて十五分ぐらいが過ぎた。

 その間、久谷君は私の傍にずっといてくれた。

 初めのうちは何か言おうとしていたが、やがてただ黙って傍に座っていてくれた。

 それは凄く心地よくて、私は悪い事をしているにも拘らずその心地よさに少し甘えて、泣いている時間が少し長引いた。 

 彼のタオルハンカチをぐしゃぐしゃにしつつ顔を上げると、久谷君と目が合った。

「だ……大丈夫?」

 おっかなびっくりな彼の姿に、私はつい笑ってしまった。

「心配してるんだぞ……」

 久谷君はちょっと憮然とした顔になった。

「ごめんなさい……」

 慌てて謝った。

「落ち着いた?」

 私が頷くと、彼はスッと顔をひいて、椅子に座り直した。

 私は一つ深呼吸をして、今度は久谷君の方をきちんと向いて口を開く。

「実はね、あのお菓子、私が作ったんじゃないの」

 今度は恐ろしいほどすんなりと言葉が出た。

「……そっか。誰が作ったんだ?」

「お兄ちゃん」

「すげぇな、お前の兄ちゃん」

 驚く気持ちは分かるよ。

 それから、どうして学校に菓子を持っていくことになり、結果として騙すような事になってしまったかを説明した。

 久谷君はいちいち頷きながら聞いてくれた。

「確かに、浅葱の手作りって方が、女子は食べやすいかもな」

 分かんねーけど、と久谷君は付け加えた。

「てことは、俺が喜び過ぎたのも浅葱を追い詰めてたんだな」

「え、あ、いやっ、その……」

 その通りなんだけど、その通りって言いたくない。

「私、久谷君が凄く喜んでくれるのが嬉しくて……」

「俺も……。その……浅葱の手作りの菓子を食べるの、楽しみにしてたよ」

「お菓子、好きなんだものね」

「そうじゃなくて。その、浅葱の……が嬉しくて……」

「え?」

「実は……今日も、浅葱から……その……」

「ご、ごめんなさい……」

 うん? 今、妙な流れになったぞ。

 見れば、久谷君の顔が真っ赤になっていた。

 確かに夕日が差し込んで部屋は赤いけど。

 それだけじゃ、ないよね?

「次は浅葱が作った奴、食べてみたいな……」

「あ、はい……ぜひ」

 今は、クッキーが精一杯ですけど。

「そ……そろそろ帰るか」

「うん」

 久谷君は慌ただしく立ち上がり、空になった二つの缶を、自販機の横にあるゴミ箱に捨てた。

 私も立ち上がり、カバンを肩に担ぐ。

 随分と体が軽くなっている事に、今頃気付いた。


 待合室を出ると、冷たい空気が火照った頬に気持ち良かった。

 駅の外に出て、小さな広場で二人向かい合う。

「今までゴメンね」

 オレンジ色の中で改めて謝ると、久谷君はきょとんとした顔を私に見せた。

「いいよ、もう。クッキー、楽しみにしてる」

「うん……頑張る」

 改めて意識した途端、恥ずかしさがこみあげてきた。多分顔真っ赤。ありがとう夕日。

「ら……来年っ!!」

「は?」

「来年のバレンタインには、必ずケーキ作るから。それまで……」

「わ……分かった。待つ」

「う……うん」

 頷いたものの、やっちまったかもという気がむくむくと沸き起こる。

 それを察したのか、私が続いて何か言う前に、また明日なと言い残して久谷君は夕日の向こうへとかけて行った。

 

 大それた約束をしてしまった。

 

 帰り道を歩きながら、我ながら良く言ったな、と自分に感心すらしていた。

 だが、この約束はどうしたって実現させなきゃいけない。

 

 沈みゆく夕陽を見ながら、私は一人静かに拳を握り固めたのだった。

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