変われる世界
良く晴れた朝。マンションの一室にて、わたしはゆっくりと背筋を伸ばした。
時刻はもうすぐ朝八時。朝食を食べ終えて一休みし、身体はすっかり本調子になっている。何時でも動き出せる状態だ。現在座っているテレビ前のソファーでごろごろ寝転がりたい衝動と戦いながら、ゆっくり立ち上がる。
なんとなくお腹を摩りながら、さて、何をしようかと考える。今日は出掛ける用事がないので、家でのんびりしていられる。とはいえ、じゃあ今すぐカウチポテトという訳にはいかない。ゴミ捨てにも行かないと行けないし、部屋の掃除もそろそろしたいところ。済ませてあるのは朝食の洗い物だけ。
良し、まずは掃除から始めよう。うちが使っているゴミ捨て場に回収車が来るまでまだまだ時間が掛かるし、掃除をしてからでも十分間に合う。
早速始めるべく、掃除機が置かれている洗面所の方へ……向かう前に、まずはテレビを消そう。節電は大事だ。という訳でソファーの上に置かれているリモコンを手に取り、テレビを消そうとした。
その時である。
【昨日正午頃、『合成樹脂生物』の日米合同駆除作戦が沖縄沖にて行われました】
テレビから聞こえてきたその言葉が、わたしの動きを妨げた。
……リモコンを掴んでいた手は下り、立ち上がっていた身体は再びソファーに座り込む。視線は、テレビに釘付けとなった。
【作戦により『合成樹脂生物』のコロニーは壊滅。防衛省の発表によると五十三体を駆除したとの事です。近隣住民からは安堵の声が聞かれる一方、米軍基地を正当化するための政治的アピールだとの意見も根強く……】
ニュースを読み上げるアナウンサーの、淡々とした声。それを聞いたわたしは、大きく肩を落とす。
――――わたし達がアフリカの地で『怪物』と出会ってから、今年で四年が経った。
四年間で、わたしの身には色々な事が起きた。大学院は無事卒業したし、就職先で嫌ぁな上司にいびられたり、ルビィと磯矢くんのケンカに巻き込まれたり……半年前には零くんとついに結婚したり。
世界も色々と変わった。あのプラスチックの怪物達……正式には合成樹脂生物と呼ばれるようになった生物が、世界中に現れるようになった。わたし達が旅行したログフラ共和国は経済不安から起きた内戦で最貧国に転落している。そして一般人の海洋ゴミへの意識が少し高まった。
だけど変わらなかった事も多い。
ログフラ共和国の油田火災はかなり沈静化したとはいえ今も続いているし、途上国へのゴミ輸出は大して減っていない。国の偉い人は環境問題より政治とか選挙の事ばかり気にしていて、一般人も大多数は自然環境より経済問題の方が大事。途上国は今でも開発優先で、先進国でも経済的な問題がある国はそうなりやすい。プラスチックの怪物という如何にも自然からの逆襲みたいな存在が現れても、大部分の人間は環境問題を殆ど気にしていなかった。
その一番の理由は、合成樹脂生物があまり強くないから、だと思う。
四年前に零くんが予想した通り、合成樹脂生物は人間が少し本気になれば簡単に駆除出来る存在でしかなかった。普通の銃や大砲でも倒せたし、研究が進んだ事で『燃やす』のが一番安価で効率的に倒せると判明している。時折現れる体長一千メートル超えの個体すら、ナパーム弾や焼夷弾のような燃やす事に特化した攻撃を大盤振る舞いすれば、二十四時間以内に倒される有り様。核兵器なんて使う必要すらない。
そして今では総個体数が概算ではあるけど算出されていて、世界各国が協力して根絶作戦を実施中。数は確実に減っていて、十年もすれば絶滅に追い込めると少し前に新聞で読んだ。自然保護団体も、余程カルト的な団体でない限りこの『異常な新生物』の絶滅に反対するところはなく、多分問題なく作戦は進むのだろう。
……だから今では、その合成樹脂生物を使った政治があちこちで行われている。例えば日米同盟の強固さや基地の重要さをアピールするため、或いは米国の兵器の威力を誇示して中国やロシアを牽制するために。
【やっぱり政治的に利用しようという勢力の多さが問題です。その所為で駆除作戦の進行が遅れていると考えられます】
【いやぁ、早く退治してほしいですよ。あんなデカい怪物がもし東京に現れたら、もうとんでもない被害が出ますよね?】
【政府には国民の事を一番に考えてほしいものです】
テレビの専門家やコメンテーター、ゲストの芸能人達も、その意見は政府への批判とかそんなのばかり。合成樹脂生物そのものには、あまり関心がないように思える。まるでもう、絶滅が確定しているかのように。
合成樹脂生物に本気の警鐘を鳴らしているのは、多分零くんだけだ。
「……あの大きな奴が地下に潜ってから四年、か」
ぽつりと、考えていた事が声に出てくる。
ログフラ共和国に出現した六千七百メートル級の個体は、今もその行方は分かっていない。
油田の中で窒息死した、というのが大半の専門家の意見だ。テレビや新聞もそう言っている。だけど死骸は見付かっていなくて……だから零くんのような、一部の識者はこう言っている。
奴は生きていて、今も何処かに潜んでいるんだ、と。
そしてそれは、破滅のカウントダウンが始まっている証なのだ。
【次のニュースです。現在国際的な値上がりが続いている原油価格ですが、今週から更に上がる見通しとなりました。世界各地の産油量減少が止まらず、更なる供給不足が予想されるためです】
……プラスチックの原料は石油。だから合成樹脂生物が石油を食べたとしても、なんらおかしくない。奴が生きていたなら、大量の石油を食べて、より大きく、より強くなっている可能性がある。
そうした意見に対し、ならばログフラ共和国の石油火災が今も続いている事は奴が死んだ確かな証拠だという反論もある。石油を食べる奴が地下に居たら、原油火災なんてあっという間の鎮火する筈なのだから。だけど別の見方、例えば奴は地下を掘り進みながら何処かに去っていて、何処かでひっそりと繁殖していたなら……世界各地で原油の産出量急減が起きるかも知れない。そして繁殖が止め処なく続けば、いずれ全ての石油が『枯渇』するだろう。
人間は宇宙の彼方まで観測する術を手に入れた。だけど未だ足下の大岩の中身を覗き見る手段は持っていない。大地の奥底を移動されたなら、わたし達にそれを知る事は不可能だ。何かとんでもない、人類の存亡に関わる事態が起きていたとしても。
零くんは、そのもしもに備えていた。
あの日から四年が経ち、零くんは今や立派な研究者だ。主に海洋のプラスチックゴミを分解するための、安価で環境に優しい『還元技術』の開発に勤しんでいる。プラスチックを石油に戻す技術自体は何十年も前に実用化されているけど、コスト面とか廃液の処理、対象が限定される点や不純物混入などの問題であまり一般化されていない。
この技術が実用化出来れば、海洋プラスチックゴミは何処の国でも利用出来る『油田』となる。油田の有無による貧富の差や、奪い合いによる紛争もなくなるかも知れない。そして何より、零くんが想像した通り奴が石油を貪っていたなら……増殖した合成樹脂生物から効率的に石油を取り出す技術がなければ、石油の枯渇と共に人類文明は本当に終わってしまう。
勿論油田で繁殖しているという説は、零くんの憶測だ。人類に見通せない地球の地下深くの事を、人間である零くんに見通せる筈もない。だからこの研究は、今の自然環境を綺麗にするだけのもので終わるかも知れない。零くんも、そうなる事を祈っている。
ううん、それこそしなければならない事だ。
零くんは言っていた。環境問題というのは夏休みの宿題みたいなものだと。
合成樹脂生物が宿題を放置した事へのお仕置きだと言うのなら、わたし達がやっている事はそのお仕置きを焼き払う事。お仕置きを燃やしたところで宿題は消えない。むしろこれで宿題をやった気になっている分、却って状況が悪化していると言える。
そして合成樹脂生物が、先生からの最後のお仕置きとは限らない。次のお仕置きは合成樹脂生物ほど優しくないかも知れない。なのに世界は今、宿題から目を背けている。お仕置きされても燃やせば良いと、楽なその場しのぎを見付けてしまったがために。
零くんはその宿題を、一生懸命やっている。
勿論、宿題をやらないといけないのは科学者だけじゃない。わたし達一般人も同じ。むしろ宿題の原因という意味では、わたし達こそが率先してやらないといけない事だ。
出来る事からやっていこう。
「……この子が産まれた時、汚れた世界なんて、可哀想だもんね」
もう一度お腹を摩ったわたしはテレビをちゃんと消してから、部屋の掃除をすべく洗面台へ向かうのだった。
穢れた生命 彼岸花 @Star_SIX_778
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