第4話 首にKATEのファンデ塗りたくった



 翌日になり小鶴と別れ、下北沢での舞台稽古を終了した氷咲は事のあらましを――相手が女性ということは避けて――マネージャーの三胡桃みくるみに話した。


「恋じゃないですか!!」


 恋バナ大好きな彼女はきゃあっと声を上げ、運転している車のハンドルを握る手にギュッと力を籠めた。


「えーかっこいいじゃないですかその人! 助けてくれたってこと!? やば!」

「う、うん」


 氷咲は助手席でシートベルトの下部分をなぞるように弄りながら俯き気味で答えた。

 三胡桃は、自分と六年間苦楽をともにした相棒が初めてした恋愛話でひゃあだのわあだの鳴きながらシートから跳び上がらん勢いだった。彼女は感情が運転に直結するタイプだったため、スピードは上がるし曲がり角でコーナーを攻め始めている。青信号の残像が尾を引いてきたあたりで、ワイスピ観たくなってきたな――などと考えながら「それでそれで!?」という三胡桃の追撃に氷咲は小さく咳を払う。


「私……今まで恋愛とか、考えなかったし、……考えてもすぐ避けてしまってたから、よくわからなくて……」

「うんうん」

「好きってどうやって伝えればいいのかも、そもそも、一目惚れでそんなこと言ったら軽率な奴って感じもするし……」

「ひーちゃん……」


 三胡桃は、氷咲が恋愛をしてこなかった理由は知らない。探ろうとせず、放っておいてくれたただ一人の友人だ。そんな彼女の目に、ドラマティックな夜の出来事を気恥ずかしそうに語る氷咲の姿は健気な女性に映ったことだろう。今注目度ナンバーワンの女優は、美麗な顔を憂い気な表情にして、窓ガラスの外の夜景を肘を着いて眺めていた。

 しかし。


「――ただどうにかしてヤりたいなって……」

「早い早い早い! 段階踏んでこ!?」

「強くて怖い奴を屈服させるのを我慢するなんて私にはとても……」

「いや、ちょ、ねえ、なんでそんなドラマみたいな出会いから週刊誌すっぱ抜かれネタ№1みたいな展開になるの?」

「目の前でパンツに手を突っ込みだして……」

「そいつイカレてんじゃん」

「可愛かったな……」

「こっちもイカレてた」


 車、赤信号で急停止。慣性の法則でちょっと前のめりになった氷咲は昨夜のことを思い出す。


 ――「ホントごめんあたしあのちょっとムラムラしてきた」

 ――「え……は? なに……??」

 ――「いや違くて、だって夜に二人きりで宅飲みって展開的に、そうじゃん?」

 ――「はあ? なに、缶をそっと取り上げてキスすればいいわけ?」

 ――「ぎゃはははは月9ドラマかよ! それやってそれやって!」


 これ以上思い出すと一生酒が飲めなくなりそうだったので止めておいた。正直パンツに手を突っ込んだのは引いたし「ありえねえ」「生き恥の擬人化」「正月にどういう顔で実家帰るの?」とまで叫んだが、確認・・してみたら本気マジだったのがなんか嬉しくなってしまい、小鶴が触ったなテメー責任取れとか言ったのであの爽やかさ半分悪夢半分のような朝を迎えた。

 まあ、結局のところLINEも電話番号も交換してない上に相手は朝になったらなにもかも忘れているときた。多分これから会うことはないだろう。ショックではない。「こんなものか」という感覚だ。

 自分が大事に思っているものが相手にとってそうではないなんて、よくある話だ。

そんなことで一々傷付いていたら皆二十歳には疲れ果てて死んでしまうだろう。そういうときの感情――そう、わーっとなるような――は無視することが一番エコな解決方法だ。氷咲はそれをよく理解していた。

午後十時、車は八王子に到着した。雄大な自然と多彩な商業施設が交ざり合っている雑多な風景。この時間になると、駅や東急スクエアよりも飲み屋や風俗店の光が目立ち、駅に向かう学生やサラリーマンではなく居酒屋やキャバクラに吸い込まれる大人たちが増えた。氷咲はその中に白い頭とスカジャン姿の女を探した。夜の気配がよく似合う女だったから、いたとしても自然過ぎて気付くことが出来ないかもしれないと思いながら。


車は駅を通り過ぎ、京王八王子駅方面に向かう。更に向こうへ、それから小さな路地を抜け、どこにでもある平凡な外見、平凡なセキュリティの七階建てマンションの前に到着した。


「じゃあひーちゃん、明日五時に迎えに来るから」

「うん。ありがとう」


 仕事が増え知名度が上がったときファンの一人が氷咲の家を特定して押しかけたのをきっかけに、先月引っ越したばかりの家。何故八王子にしたのかといえば、交通の便が悪くないのと、ずっと都会暮らしで少し自然の気配を感じたかったからだ。

 車から降りると、冷風が皮膚を抓り上げた。コートの前を合わせるために視線を下にしたときだった。覚えのある煙草の匂いが、鼻を掠めた。


「――……」


 マンションの前に、見覚えのある女がいる。白く脱色した髪が風で揺れている。背後で三胡桃の車が去る音を聞くと同時に、褐色の目が――小鶴が、こちらを向いた。


「な――」


 なんでここに、と氷咲が言う前に、小鶴の手がぱっと制止を求めるように上げられた。


「ワタシハストーカーデハアリマセン」

「片言……??」

「ネットで調べたのと知り合いのツテで家探してみたら見付かっちゃったから来ました」

「それはストーカーでは」

「アリマセン」


 というよりそんな簡単に見付かるのか、情報社会怖いな――もう一度引っ越すことを検討しながら、氷咲は小鶴に近付いた。身長差があるため、その名の通り鶴を連想させる白い髪のつむじが見えた。


――あ、つむじ二個あるんだ。かわいい……。


 指を突っ込みたくなる衝動を我慢していると、小鶴がヴィレヴァンで買ってそうな派手な柄のトートバックから「ん」と言って一冊の冊子を取り出した。


「あ」

「大事な物かなって」

「……忘れてた」

「おい」


 いつもの氷咲なら命より大事な台本を無くし、加えてそのことに気付かないことなんでありえない。ただ今日は、一日中小鶴のことを考えていた。それから寝不足で稽古に集中するのに精一杯だった。

 外気でキンキンに冷えた台本を手に取るも、小鶴はそれ以上言葉を続けず、だからと言って立ち去ることもなかった。その内、「あー……」と気まずそうに頭を掻く。


「……朝の答えなんだけど」


 どきりとした。

心臓から一番最初に押し流される血液の勢いがどっと増したのを皮膚で感じる。

「いや、」と、氷咲の口から否定する言葉が最初に出た。


「私あのとき、寝惚けてて……」


 冗談ということで済ませたい気持ちがあった。一晩限りの過ちだ。やっちゃったよね、と笑い話になるよりも、真剣に受け止められ、酷く気まずい様子で断られる方が苦痛だった。


「ごめんね困らせてお酒も残ってたみたいで。変なこと言ったよね」


 相手が何か言う前に早口に捲し立てる。


――笑い話で終わらせて。

――それで明日、友達に「女のことヤッちゃった」って、人と違う経験をしたみたいな優越感に浸りながら、大袈裟に話を盛って、飲みの肴にすればいい。

――昨日のことを否定するくらいなら。


 性交は愛情に直結しないが、感じることは出来る。小鶴が、朝の告白めいたものを断れば、自分が感じた愛情もなかったことになってしまう。はっきりと断られるくらいなら、告白そのものを本物と思われたくない。


――「そうだよね、冗談だよね」……貴方はそう言えばいい。


 けれど小鶴は何も答えない。じっと氷咲を見詰めて、それから「ふうん」と鼻を鳴らし、スカジャンのポケットからハイライトを取り出した。ライターで火を着けると、白い息とともに煙を吐き出した。


「……あたしセフレが三人いたんだけどさァ」

「は?」

「さっき三人とも切ってきた」


 唐突な話題に氷咲はしばし固まり、「ごめん何の話?」と訊き返した。


「だから、三人にもうセックスを伴う遊びはしないっつってきたの。っていうか、普通に遊ぶのもやめるって言ってきた」

「……? なんで?」

「朝、あんた真剣だったでしょ。マジに告白してきた奴に答えるのに、セフレがいますってのはどうかしてるし、ヤッたことある奴と『普通に遊ぶ』のも彼女的に嫌じゃん」


 氷咲は再び言葉に詰まった。セフレがいる――しかも三人――人間の人格をどう評価するのか迷うところだが、斜め上の誠実さがあることは受け取れた。いや、それよりも――


「……私、別に真剣じゃ……」

「……さっきからなんで嘘吐くわけ?」

「嘘じゃない」

「ジョークで告白する人間は緊張で汗かかんでしょ」


 小鶴がぷーっと煙を吐き出した。汗。かいていただろうか。氷咲には思い出せないが、小鶴は何故確信をもってかいていたというのだろう。そこまで考えて、


――「ふうん。ハイタッチしよーぜ・・・・・・・・・


 あの不自然なハイタッチ。朝に触れ合った場面と言えばあそこだけだ。

 冗談や笑い話では終わらせることが出来なくなった状況だという自覚が氷咲に湧き上がる。


「よくわかんないけどあんたが何か怖がってるのはわかった」小鶴は深く頷きながら、指にシガレットを挟み直す。「よくわかんないけど。でも考えてほしいけど、あんたが怖がるとこそこじゃあないから」

「こ、え? なに?」

「まずあたし無職。電気ガス水道たまに止められるくらいは常に金欠だけどその理由は飲みに使ってるから。自分で言うのもなんだけどスゲ~カッとなりやすい。度々腋毛を剃り忘れるし休みの日は下着で一日中ベッドに寝っ転がってるズボラ」

「え、ええ……」

「セックスのとき必ず鎖骨噛んでもらわないと三歳時並みの駄々を捏ねる」

「それは知ってる」

「よかった。つーわけであたし、近々ホームレスになる可能性あるし大学も暴力沙汰で中退してて将来もないし、あたし自身が今楽しく生きてれば早死にしていいと思ってるから更生の余地なし。こんな女と付き合うの、あたしがダチだったら絶対やめろって言う物件だけどそれでもいいなら付き合おう」


 小鶴の勢いに振り落とされないようにうんうんと聞いていた氷咲。しかし、最後の一言で再び硬直し、目を見開いた。


「今なんて言った?」

「セックスのとき――」

「もっと先」

「ホームレスのくだり?」

「最後の最後」

「『付き合おう』」


 あわや、ぎゃあと叫び出すところであった。


「ツッ……本当に!?」

「ガチで嬉しそうじゃん。友達としてはオモローだけど恋人としては最低ランキングin八王子で三年連続一位のあたしの何がそんなに気に入ったのか知らないけどさ」


 氷咲は心底嬉しそうに顔を輝かせたからか、小鶴も頬のタトゥーを歪ませてはにかんだ。


「で、でも、なんか、色々……」


 慌てて冷静さを手繰り寄せ、女同士であることとか関係の始まりが一夜限りの祭りであることとか色々言おうとしたが、「てかさァ」と小鶴が近寄る、吸いかけのシガレットを氷咲の口に押し込んで、空いた手で閉めていたスカジャンの前を開けた。


「これはもう、あたしはあんたのものでしょ」


 生け花の花止めを押し当てたのかと思われそうなうっ血痕が、襟元に広がっていた。ダイソンは小鶴だけではなく氷咲もだったらしい。十時間以上経過しても尚鮮やかな赤色は、所有印のようだった。

 言うべき言葉が氷咲の脳から霧散した。たっぷり十秒経つ頃には煙草の火が唇に到達しそうになり、その前に小鶴がシガレットを取り上げた。そして、氷咲は口を開いた。


「……ファンデーション貸すね」

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八王子の休日~帰ってクソとセックスして寝ようぜ~ 八王子某所大衆酒場~みゆき~ @miyukisake

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