第3話 樫の木ほどどっしり構えていられるような性格ではなく冬の終わりに咲く花ほど逞しくもない

 八重樫やえがし氷咲ひさきは樫の木ほどどっしり構えていられるような性格ではないし、冬の終わりに咲く花ほど逞しくもない二十六歳の女だ。

確かに身体は強く骨太で自立した女性といった風だが、どちらかというと繊細でちょっとしたことでも結構気にしてしまう。けれどなんとなく周囲の期待――というより、一方的なイメージ――を感じて大人っぽく凛として振舞ってみたりするから「氷咲ねえさん」とか可愛い系の女子に呼ばれて恋愛相談をよくされるが、語れるほど経験があるわけではない。なんせ出会いがなかった。何故なら、氷咲はゴリゴリのレズビアンであったためだ。


 昨今、多様性を認めていくという取り組みにより誰かがどんな人間を好きでもそれは本人の勝手でしょ、という考えが若い世代を中心に広まりつつあるが、日本国憲法は同性婚を認めていないこともあり、まだまだこの国で同性が好きと口にするには覚悟と度胸がいる。中には周囲にそう公表している人もいるが、言ったが最後、「私のこと狙わないでよ~?」だの「男の人と付き合ったことないからそう思うんだよ」だの的外れな色々言われることは経験済みだ。

2015年に渋谷でパートナーシップ証明書――法律上の婚姻と異なり、戸籍上の性別が同じ二者間での関係を『パートナーシップ』とし、関係を証明するもの――の発行が決まったときは希望を感じもしたが、その後パートナー関係になった二人が証明書を返還したと聞いて落胆した。二人が離婚したことにではない、をニュースがわざわざ取り上げたことが、氷咲にこの国で同性愛者が特殊な存在であると再認識させた。

 パートナーシップ証明書は画期的なことだったし、それを初期に利用した人の行く末をメディアが追うのは当然ことだが、氷咲は繊細な性格だった。昔はドラマで菜々緒を見かける度「付き合いてえ~!!」と仰け反りナタリー・ポートマンがブラックなスワンの役をした映画を毎日見て「結婚してくれ~!!!」と蹲っていたが、最近は好みのタイプを見かけると微妙な拒絶反応が出て目を逸らすようになった。多分、好きになってしまう前に離れるようにしてしまったのだろう。氷咲はこれを『無意識の恋殺し』と名付けた。


 恋からは離れたが、幼い頃からの夢だった舞台役者としては成功し始めてると言っていいだろう。昨年上演した舞台がそこそこ大きな記事に乗って、それを見た有名な舞台監督が劇を観てくれたのが始まりだった。月9ドラマや興行収入一位の映画に出るような錚々たる面々に混じって出た舞台が大成功、SNSで一気に有名になりマネージャーは男泣きし祖母は報告を聞いて跳ね上がりぎっくり腰になった(今は完治している)。夢のように嬉しい反面、これでますますカミングアウトなど出来ないなと、遠いところで思った。

 そのときの氷咲は、客観的に見れば幸せの絶頂だったが、主観的に見ると荒んだ気分だった。

 具体的に言うと、これから益々研鑽を積み女優として昇りつめてやる、全員捲ってやるぜと思う一方でサンバの衣装で多摩川に飛び込み何もかも台無しにしてやろうか、楽しそうだぜという気持ちが同居していた。突然の成功が降り注いで漠然とした不安を感じた人間なんて皆そんなものだ。アイザック・ニュートンも木から林檎が落ちて万有引力に関してピンと来たとき裸踊りしたかっただろうしJ・K・ローリングもハリー・ポッターシリーズの契約と出版が決まったとき出版社中駆け回ったに違いない。


 でも氷咲には繊細なところがあった。サンバの衣装で多摩川ダイブはちょっと気後れした。よって結果的に、八王子のいつもはいかないような治安が悪い飲み屋に行く、という行動に落ち着いた。

 それが昨夜の話である。



***



 結果的に言えば、サンバの衣装で多摩川の方がマシというほどには後悔した。


「ねえねえ名前なんて言うの? 俺ねえ、タカシ」


 カウンター席の隣に座り煙草を吸う、多分三十歳代でイケメンとブサイクのキメラのような髪と顔と服をした男。氷咲がゴリゴリのレズビアンはなら、この男はバリバリの他人である。誰だテメー「ねえねえ」って声のかけ方していいのはジャニーズJr.だけだ――苛立ちを煙草の煙を吸うついでに喉の奥に押し込むと、「煙草吸ってると肌くすんじゃうよ~」と間延びした声。


「せっかく可愛いんだからさぁ。てかいくつ? あ、待って当てる……二十七!」


 てめーの生まれた星は年齢当てるのが礼儀かも知れないがここは地球だ殺すぞ――眉間にシワが寄らないよう全神経を集中しながらビールを煽る。でろでろに溶けているのではないかというほど――実際脳は溶けていることが窺える――酔っている男はなおも「ねえ彼氏いるの? 最近エッチした?」と頬杖をついて氷咲を見ている。ビールが容器の底に穴が開いているのかというほど減っていく。氷咲は男を無視して店員におかわりを頼んだ。この辺りで、男の機嫌が悪くなってきたようだった。


「ねえ無視? そういうの良くなくない? イヤならイヤで言ってくれればいいじゃん」


 米神どころか鼻筋にまで血管が浮かび上がりそうなほどだったが、なるほど男の言っていることは真っ当だ。気に入らないからと何もかも遮断することはヘソを曲げた子供のすることだ。氷咲は二十六歳である。ここは大人の対応をし、「一人で食事をしたいから放っておいてほしい」と丁寧に断るべきだ――そう考え、ふうと一つ溜め息。


「……悪いんだけど、今日は時間がないから一人で食べたくて――」

「あっ、引・っ・か・か・っ・た~! 怒ったと思った?」


 くすっと、ブサイクとイケメンのキメラのような顔がかっこつけたように笑って氷咲の肩を抱いた。

 さてここで、氷咲の右手の指に挟んであるのは先端から細い煙が立ち上る煙草である。氷咲は800℃を超える赤き燃焼を、男の口に腕ごと突っ込んだ。


「――ギィヤぁあーーーッ!!!!!」


 凄まじい叫び声と共に男は椅子ごと仰向けに倒れる。成人男性が受身も取れずに床に叩き付けられるけたたましい音が店に響く中氷咲は立ち上がり、男にペッと唾を吐きかける。「キッショ」と捨て台詞も吐き掛け、颯爽と店を去っていった。


 と、ここまで六行が氷咲の脳内で渦巻いた妄想である。


 氷咲は大人で、今人気急上昇中の女優で、なにより治安のよろしくない居酒屋を選択したのは彼女自身だ。もし反射的に言い返して口論にでもなったら、手が出て流血沙汰にでもなったら、警察が駆け付けて困るのはこの勘違いイカレ低能くそ味噌カス男ではない。氷咲だ。

 ――というより、肩触られたくらいで殴ったら私が可笑しいんでしょうね。

 他人に触れさせることが、氷咲にとってどれだけ慎重なことでも。

 氷咲は口元をひくつかせながらさりげなく肩から抜け出すと、トイレに立つふりをした。この男から離れよう。トイレ行って、戻って残っているビールを飲み干したら会計だ。男から顔を背けた瞬間鬼神のような相貌になったので、傍を通った店員が可哀想なくらい身を竦めた。

 そう、この世の怒りを煮詰めた顔になるようなことなのだ。タカシだとかいう男にとって、肩に触れることも、彼氏の有無を聞くことも、最近セックスしたかきくこともどうってことない質問なのだろう。笑って流すか、ふざけて答えるか、ノリ良く語るようなことなのだろう。だが氷咲にとっては違う。――違うのだ。


氷咲は、こういう男や、実家の両親や、パートナーシップを解消した二人について言及したメディア、それから一日中感じている、どうしようもなく気持ちがわーっとする感覚のことも、自分が自分の中に生まれた好意を踏みにじるときと同じように『無意識の恋殺し』と呼んでいる。そうやって名前をつけることで明確にした。何を? ――わからない。分からないが、正体の分からないものには名前を与えると安心する。人間の意識と感情はそうやって出来ているから、氷咲がそうしたことも自然なことだった。


 店の中では、若者からサラリーマン、現場帰りの大工と思しき人たちが仲間と一緒に楽し気に冷えたビールや鮮やかなカクテルを片手につまみを口に運んでいる。急に、彼らが羨ましくなった。多分店内にいる中で氷咲が一番有名で、一番月収があり、一番人生の絶頂だけど、一番寂しい存在だった。逆鱗をしゃぶってくる気色の悪い男から助けてくれと訴えることの出来る友人が一人もいないのは、店の中で氷咲だけだった。

店の奥、トイレに近いボックス席では若い男女数名がいた。一等騒がしくガラも悪いが、そこにいる人は誰一人不快な思いをしている様子はなかった。氷咲は視線を意識して外すと、黄ばんだ壁に囲まれた細い通路に入り、トイレのドアノブを開こうとして――失敗した。

 開かなかったのだ。理由は単純、まだ中に人が入っていたからだ。苛立ちからつい強くノックしたところで、タイミング計ったようにドアが開いた。


「あ。すみません」


 狭い通路の、息も降りかかるような間隔で――ほとんど体が密着するような空間で――トイレから出てきた彼女は申し訳なさそうに首を傾げた。

真っ先に目に付いたのは脱色された刈り上げ一歩手前の短髪。酔っているのだろう、頬は真っ赤で、そこから少し汗ばんだ細い首と形の良い耳にかけて桃色に変わっていくグラデーションがかかっていた。身長が低いわけではなさそうなのに――氷咲よりは低いが、おそらく一六〇センチはある――体のパーツが細くて小さいものばかりだから儚い印象がある。そのくせ、服装は背中にでかい鶴の刺繍がされたスカジャンにダメージジーンズ、厚手のハイカットスニーカー、加えて眉やら唇やら耳やら首やらに八つ当たりのようにピアスをしており非常にパンチ力が高い。

 好みのタイプかと言えばそうではない。氷咲は自分より強くて怖そうな人が好きだ。なのに思わずまじまじと見つめてしまったのは、見上げてきたその顔の、その頬に、大きなタトゥーが鎮座していたから。

 ――……方位磁針?

 の、ように見えた。

装飾されているが、基本となっている『十』の字があり、四つの先端それぞれは矢印の形をしている。上方向の矢印には『N』、下方向の矢印には『S』、左方向の矢印には『W』、そして右方向の矢印には『E』とくれば、やはり羅針盤とか方位磁針をモデルにしていると考えていいだろう。残った装飾の意味はよくわからないが、それを解明するまで見詰めては不躾だと思った氷咲は、ぱっと視線を剥がすと、会釈してトイレに入った。背後で、タトゥーの彼女がトイレ近くのボックスに帰っていったのが、盛り上がる男女の声でわかった。


 トイレから出てカウンター席に戻ると、男はまだいた。「あっおかえり~」とさも知り合いでストでも言うように手を振ってる。


「メイク直してきたの?」


 席について、残っているビールを飲んでしまおうとグラスの取っ手に手をかけた。

 やはり慣れないことはしない方が良い。部屋に閉じこもって台本を読み込み適当な映画を見ながら缶ビールを飲んでいればよかった――。男の視線の粘着性が増したような気がしたが、スルーしてビールを煽ろうとした、


 その瞬間だった。


「――あたしが『これ』を入れた理由わかっか?」


 頭上から声が降ってきた。あまりにも気さくで、大学時代の友人が現れたのかと思った。しかしそんな偶然が簡単に起こるはずなく、グラスに唇が触れかけている状態のまま三重ゲルト、先程の白髪の女が顔を赤らめたまま立っていた。薄い唇には煙草が咥えられていて、『これ』と指を差した先にはあのタトゥー。


「……、……」


 古びたスカジャンに包まれた細い腕が、氷咲のグラスの口に伸ばされ、やっぱり細い指先を飲み口に引っ掻けて口元から離した。どういうつもりなのか――視線で問いかけたが、彼女は応えない。少し童顔気味な顔に神様が懇切丁寧に黄金比を考えて設置したような二つの双眸は、男の方を見ていた。

 ――知り合い?

 にしては声のかけ方が独特過ぎる。

 ――逆ナン?

 にしては――殺気立っている。

 そう、彼女は殺気立っていた。眉間にシワが刻まれているとか、体中が緊張しているとか、そういうわかりやすい表現はなかったが、氷咲にはわかった。表情は飲み屋の空気のまま笑ってはいたが、グラスを押し下げた力の強さが――必死さとも――が伝わった。

 「えーと?」男はへらりと笑って氷咲を見遣る。「友達?」

 氷咲はゆっくりと首を横に振ったが、それを遮るように女が「や、てかあたしが話してんだけど」と続ける。


「この、入れるときにクソ痛くて顔すげえ腫れたタトゥー、なんで入れたか答えろってんだよ」


 口の悪い子だと思うと同時に無茶な質問だと思った。八王子中、いや東京中の人に「ねえみてタトゥー入れちゃった可愛くない? 彼とおそろで~でもこれ入れるときすっごい痛くて~」と腕に小さい『Love for you』を入れた女のように見せびらかしているのであればまだしも、初対面の人間にごついタトゥーの思い入れなんてわかりっこない。

男も同様のことを思ったのだろう、首を捻って苦笑いした――その時。


 女の体から、稲妻のようなオーラが発せられ、皮膚が切り裂かれたかのように氷咲は錯覚した。


本能的な危機感で体がびくりと跳ねて、息を凍りつかせる。

緩んでいたはずの口元が歯を剥き出しにし目をカッと見開いた女の手が、カウンターに伸びる。ガラス製のそこそこ重量があってそこそこ強硬な灰皿を掴んで、彼女は、躊躇なく、午後のサスペンスドラマよろしくそれを男の指に振り下ろした。

鐘でも突いたのかという轟音。なんとか脳が処理した映像によれば指の下でテーブルが凹んでいる。完璧に骨は折れただろう、男は、先程氷咲が想像したのとは比べ物にならない、肺から空気が四方八方に噴射したような生々しい悲鳴を上げ、指を抱えて背中を丸めた。


「ぎッ、いい――ッ!! あ、あっ、指、指っいっ、ぃッうぅ~~ッ!!!」


 女は灰皿を元の位置に戻すと、氷咲のグラスに持ち替えて、男の頬に叩き付けるように押し付けた。


「呑めよ」


 男が動揺する気配。氷咲はわけのわからない事態を見守るしかない。女は、もう一度「呑め」と言って、男の髪を掴んで顔を上げさせた。


「呑めねえの? おうなんでだ? 誰かが口をつけたもんだから飲みたくねえなんてお上品な理由じゃねえよな!? あ!? これに言ってみろクズ!」

「い、いや、オレは――」

「聞こえねンだよもっとでけー声で喋れ!!」


 ヤクザの事務所で行われているようなことが平凡な居酒屋で行われているのに、店員は女を見ると溜め息を吐いて放置した。後ろのボックス席では、「小鶴か?」「あー、馬鹿だなあの男」「ここ八王子だぞ」という小さな声が聞こえる。氷咲は頭の片隅で女を止めようとも思ったが、それよりも、男が自分の飲み物に――おそらく、自分が席を立っている間に――何か入れた、という言葉の方が重大だった。

 やがて男は小さな声で、指を押さえたままなにか言った。女が髪を掴む指に力を籠めると、ようやく聞き取れる声量で「薬……」と呟いた。

 薬。睡眠薬だろうか。それとももっと危険なものか。何にしても、下衆のすることだ。氷咲は唖然として、驚く声も責める言葉も選べず、ただ微かに息を吐き出した。

 女はグラスを置くと、男の髪を引っ張って自分の顔に引き寄せた。


「いいか!? あたしがタトゥーを入れたのはなァ――!! 理解したらとっとと失せて公衆便所にでも顔突っ込んで一生出てくるんじゃねえ!!」


 女は男の髪を投げ捨てるように話すと、氷咲に向き直る。つい身を竦ませると――女は首をクイッとさせて外を差した。


「――よし! 出るよ!」

「……えっ?」


 唐突に提案され、氷咲は困惑する。男と傍にいた店員に視線を反復横跳びさせた後もう一度女を見て、ようやく「け、警察……」と言葉が出た。


「店長がもう呼んでると思う。でもごめん、この状況どっちかってーと捕まるのあたしなんだわ! 傷害で!」


 ――そこら辺の冷静さはあるんだ。妙な強かさに感心してしまいながら、氷咲は強引とも思える言葉のまま、鞄とコートを持って立ち上がる。女はズボンのポケットから三万円取り出すとカウンターに置く。

 それから彼女は、怒りの滲んだ顔を解いた。真っ赤な頬。


「飲み直そうぜ、お姉さん。あたし小鶴。東急スクエアの近くにさア、もっといい店あるんよ。一緒にいこ」


 まるで友達みたいに誘った笑顔は無邪気だった。指を灰皿で叩き潰してヤクザみたいに怒鳴り散らかした人間とは思えない、愛らしい少女性があった。


 氷咲は、自分より強くて怖い女の人が好きだ。

 トイレで擦れ違っただけの他人のために行動した強さ。男を完膚なきまでに攻撃した数秒前と、その気配を一切感じさせない今の二面性という怖さ。氷咲はアルコールが原因ではない頬の熱さを自覚した。細い背中が出口に向かうのを、追いかける。夏休み初日のようなワクワクと、初恋を自覚した日のようなドキドキで、外の寒さは一切気にならなかった。


 まあ、端的に言えば。

 どうにかしてセックスに持ち込みたい――と氷咲は思ったのだった。



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