第2話 ゲロ寒くて死ぬ
小鶴が生まれ育った場所は東京のスラムである。その名も『八王子』。
東京都多摩地域西南部に腰を下ろす、大きな街。東京都の市町村では第一位の人口を誇り、面積も奥多摩町に次いで第二位と広大なものになっている。古くは絹織物産業や養蚕業が盛んであったため、今でも市内の高校では生物の授業で蚕を育て解剖や絹糸の作成をする授業が行われているところもあり、高尾山を始めとした山地や丘陵が織りなす雄大な自然と駅を中心とした多彩な商業施設が同居している。東京都都心から近いこともありベッドタウンとしても人気であり、また、大学・短期大学・高等学校の多さから学園都市としても名を馳せている。
そんな八王子市は標高がやや高いこともあり年間平均気温が十四度と低く、また昼と夜で寒暖差も激しい。降雪量も都心部に比べ多いためか東京で雪が降ると普段は渋谷駅前を映す報道陣もそのときだけはこぞって八王子駅北口のマルベリーブリッジに集結する。
つまり。
「ゲロ寒い」
八王子駅から徒歩五分、西放射線ユーロードにある通りを一本入ったところにあるイングリッシュパブ『Super Sleuth』。艶のある黒と金の外壁とその半分を覆っている青々とした蔦は主な営業時間である夕方五時以降橙の照明で照らされ美しく静かな佇まいを成しているが、昼間もカフェとして営業している。
昼を回り一時になった頃、小鶴はここに訪れた。カウンター席につくなり発した言葉に、制服姿の若き店主は溜め息をつく。
「『ゲロ』とか言わない。君、ほんとに口が悪いな」
小鶴とは昔からの友人である彼は野暮ったい銀縁の眼鏡を指で押し上げた。
「暖房のある部屋でぬくぬくしてる奴にはわからねーよ……肌が……あたしの二十代の肌が悲鳴を上げてるのが聞こえる……」
「あのさあ、そもそも薄着過ぎるんだよ。十二月にスカジャン一枚て。普通親が人質に取られたってそんな恰好しないぜ?」
「ごわつくのがヤなんだよ」
はーっと手の平に息を吹きかけた小鶴は、店主にカフェオレを頼んだ。平日の昼間、店内には穏やかな雰囲気で向かい合って座る老夫婦一組しかいなかった。間も無く提供されたカフェオレを両手でくるんで指先を温め、一口飲んでから小鶴は改めて店主に声をかけた。
「な、
「真司って君のセフ……」言いかけて、店主は老人にちらりと視線を送ってから声を潜めて「君の『友達』の?」と訊き直す。
「そうそう、金髪の……LINEの既読つかなくって」
「さあ。来るのは明け方か夜だし。店には?」
「まだ行ってない」
「じゃあそっちじゃない? なに、急ぎの用?」
「まあそんなとこ」
詳細をぼかした言い方に店主は面倒臭いものを感じ取ったようで、眉を顰めた。
「男遊びも程々にしないとまた刺されるぜ」
「あれなあ。痛かったな。彼女はいねーって言ってたのにな、あいつ」
「結局大丈夫だったの? 救急車で運ばれたって聞いたけど」
「内臓までいってなかったから全然。その後男の方とは連絡とってねーけど刺した女の子の方と仲良くなってLINE交換した」
「ええ……」
「一緒に八王子祭り行ってさあ、おわびにってイカ焼き買って貰っちった」
へへ、と小鶴は嬉しそうに笑った。店主は呆れたように肩を竦める。
小鶴はもう一口カップを傾けると、「じゃあさ」と話題を変えた。
「この辺で超美人の女の人見かけなかった?」
「今日?」
「昨日とか? こう、黒髪をこの辺でぱっさり切った感じで、目付き悪いけど顔小さくて鼻が高くてモデルみたいな……唇は……唇~……、は、厚かったり厚くなかったりするかもだけど……で、背がかなり高くて……」
ううん、と店主は顎に手を当て悩む素振りをしたが、しばらくして首を横に振った。
「ないと思うな。
「み……誰?」
「女優」
「知らん」
「えー。今すごいドラマ出てんのに」言いながら、店主は店の天井近くに取り付けられたテレビをリモコンで操作し出した。
「うち今テレビと契約してる場合じゃないんだよ。バイトも首になったし」
まいったなァ――小鶴は首の後ろを掻いて、眉を下げた。
――LINEにも電話帳にも連絡先登録してなかったんだよな。
彼女は隣の椅子に置いた自分のトートバックに視線を転じさせる。
鞄の中には、財布と携帯端末といういつものメンバーの他に、通常入れることのないもの――一冊の薄い本があった。小鶴に見覚えが無いということはあの女のものということになる。中をパラパラとめくってみたところ何かの本であることには間違いないのだが、ないと困るものかもしれない。気付けば小鶴のアパートに取りに帰ってくるかもしれないが、もしまだこの辺りにいるのならこちらから返しに行った方がいいと思ったのだ。
――焦って出てきちまったけど、よく考えたら待ってた方がよかったかな。
――けどなんの本だろ。あんま表紙とか見ねえで引っ掴んで鞄に突っ込んだけど……。
小鶴はトートバックから本を取り出す。サイズはB5で、厚さは指が二、三本分。表紙には『深夜零時の傀儡師』と書かれていた。一ページ目には『登場人物』と書かかれた横に人名がずらりと並んでいる。
――……台本?
保育園生時代のお遊戯会の記憶からそう判断する。
と、二ページ目に移行する前に、店主が「あっちょうどやってる」と声を上げた。テレビに目をやると、昼の情報番組の司会者が番組のマスコットキャラと一緒に何かを喋っていた。
「ほら、このゲストの人。今やってるミステリードラマの主演でさ、新人なんだけど凄い美人て話題なんだよ。こういう感じの人でしょ?」
カメラが切り替わり、ゲスト席に座る数人の男女が映し出される。
その中心に座っていたのは、顎の下で切り揃えられた黒髪と四白眼気味の黒曜石のような目、百合の花弁のように白い肌に、長い足を斜めに揃えて座る背の高い女だった。青いアイシャドウが彼女の鋭い雰囲気に怜悧さを咥えており、町外れの湖の近くに一人で住み子供から魔女と呼ばれるような謎めいた雰囲気を放っていた。
唇はそこまで厚くはなかった。完璧に作られた微笑みで、彼女は、
「月曜夜九時『深夜零時の傀儡師』第五話、よろしくお願いします」
と、頭を下げた。黒い髪がカーテンを引くように、するすると耳を撫でながら垂れていく。
「ね、こんな人でしょ? 違う?」
「あー、うん……」
小鶴は、そっと鞄に本を仕舞う。
――こんな人っつーか。
本人だなこれ。と呟きかけて、小鶴はそれを舌の根本に押し留めた。
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