八王子の休日~帰ってクソとセックスして寝ようぜ~

八王子某所大衆酒場~みゆき~

第1話 朗らかでもねえし小さい鶴でもねえアフリカスイギュウ


 ほがらか小鶴こつるは朗らかな性格でもなく小さな鶴のように愛らしい容姿でもない二十二歳の女である。


 確かにバレリーナのように細い首と手足や白く脱色された頭髪は鶴っぽいかもしれないが、二年前にはカッとなって人を殴ったことが原因で大学を退学したし、頬には錨と羅針盤を組み合わせたようなドでかい刺青が鎮座しているし、体中のあちこちにピアス穴をあけまくって、二日前にはバイト先の飲み屋で客として来店した際調子に乗って泥酔した挙句西洋劇に出てくるならず者の如く暴れ回ってクビになった。彼女の人生は鶴の優雅さとはかけ離れていると言えるだろう。親は完全に名付ける名前を間違えている、どちらかと言わなくとも「狂暴アフリカスイギュウ」の方が正解だ――彼女の性格を知る数少ない友人は全員そう思っている。全員だ。

 そんな小鶴でも、冷静になる場面はあった。これは彼女にとっても新たな発見で、彼女は緊急時に自分が一分以上黙っていられることがあるのだと感心し、また、自分の可能性・潜在性の高さに笑みすら浮かべそうだった。しかしそんなことをするには、いささか状況が特殊過ぎた。


――どこのどいつよ、これ。


 『これ』呼ばわりしたもの。小汚い1Kの片隅に置かれた呼吸をする度に軋むほど古いシングルベッドの上、いつも小鶴以外のタンパク質が乗ることのないこの場に、一緒になって違うタンパク質の塊がある。推定百七十センチ後半の結構な高身長、太ももが触れている感触から体温は低めで、おそらく細身である。季節が冬だからしょうがないが頭の天辺付近まで布団をかぶられてしまっては、それ以上の情報は望めない。

 小鶴は一夜限りの関係ワンナイトフェスティバルではしゃぐタイプであるが、今まで自分の家に男を連れ込んだことはない。なんせ十代の女の子のように片付いてもないし無職であることが察せられる有り様だからだ。シンプルに恥ずかしい。だからどんなに酔っ払っていても「イマジッカグラシ」の呪文を唱え忘れたことはない。なのに何故。呪文は不発だったのだろうか。思い出そうとしたが、頭の中でゴリラがドラミングして威嚇してきたため失敗に終わった。酷い痛みだ。何杯飲んだのだろう。

 まあ、どれだけ思考を逡巡させようが答え何てこの布団を剥げば終わる。小鶴はこういうときあまり思い悩まない性格だった。ティッシュペーパーに負けないほどペラペラペーの布団をシルバーの指輪でコーティングされた手で掴むと、あっけなく第二のタンパク質の腰あたりまで引き剥がした。


 さて、そこにいたのは見知らぬ男――

 ではなかった。


「…………あ?」


 思わず小鶴の喉からドスの効いた音が漏れた。

 『見知らぬ』までは合っていた。一瞬ガリガリの男だと思ったが、胸の微かな膨らみと柔らかな曲線を描いた骨格でその印象は直ぐに打ち消された。

 女だ。それもかなりの美人。小鶴よりも少し年上くらいだろうか。大人びた顔立ちと豊かな睫毛、ぽってりとして赤いリップが滲んだ唇に顎の先くらいで切り揃えられた黒髪が散っていた。全体的な骨格こそ女性的だが肩幅や関節に骨太な印象を受け、BoAが歌う『ヴァレンチ』のミュージックビデオに出てくるダンサーのようだった。小さなベッドで窮屈そうに畳まれた身体は爪の切り揃えられた指先から臀部まであますことなくキメ細かく白い肌で構成されていた。この冬の時期にここまで手入れが行き届いていることに小鶴は素直に感心した。なんのボディクリーム使ってんだろ、教えてほしい――。


――いやそこじゃない。


 海外女優のように美しい容姿に驚いたがようは素っ裸の女である。そして小鶴も同様に産まれたままのオギャアな恰好である。頭痛が止まない。ロキソニン飲みたい。またどこかにいきそうになった思考を引き戻して、小鶴は首を左右に振った。


――いや。

――まだ判断を下すには早急だ。

――多分あれだ……あたしがゲボッて、介抱してくれたんでしょ。女なら家に上げるのもわかる。

――洗濯機の使い方がわからなかったから脱がしっぱなしだったんじゃない?

――で、こいつも酔っ払ってたからそのまま寝ちゃったとか……。


 そう結論付ける。そして小鶴は確かめるため、間違えて熊の巣穴に入ってしまった小動物が相手に気取られぬよう後退るようにそっとベッドから抜け出し、脱衣所に向かった。洗面台には鏡がある。そこを覗き込めばすべてわかるはずだ。

 癖というか、小鶴は誰かとセックスすると必ず鎖骨を噛むよう要求する。あとキスを強請る。つまり、鎖骨に噛み跡がなく、唇が腫れておらず、体のどこにもキスマークがなければ致していない確率が格段に上がるのだ。先の方にしかマニキュアが残っていない爪が並んだ足でぺったぺったと数歩歩き、洗面台に到着すると鏡の左下についているスイッチを押して灯りをつけた。冬の呑気な朝のせいで部屋は昏く、灯りは、小鶴にようやく現実が始まることを告げた。

 さてそこに映ったのは、胸元を中心に体に八卦六十四掌を受けたのかというほどキスマークを刻まれ、蛸を生きたまま食ったのかというほど唇を腫らし、そして鎖骨に噛み跡をつけられた女だった。


「……」


 小鶴は次に、真顔で片足の足底を洗面台に乗せ自分の中心部を覗き込んだ。指も突っ込む。そのとき、腰がぎりっと痛んだ。


――……おっけ~。


 それだけ心の中で呟き極めて冷静なままベッドに戻った。腰まで布団を引き下げられた美女が寒そうに体を縮めているのを見て、ペラペラペーな布団を肩までかけ、ついでに目に入りそうな髪もなんとなく避けてやった。朗小鶴二十二歳、気に入らない人間には秒で突っ込むアフリカスイギュウであるが寒さに震える隣人には出来る限りの暖かさを分けてやる純粋な優しさも持っていた。


 それから床に落ちていた衣服――先程は気付かなかった。改めてみると吐瀉物をぶちまけた形跡はない――から自分のスカジャンを探し当てるとそのポケットを漁り煙草ハイライトとライターを取り出す。くしゃくしゃのソフトボックスからシガレットを一本口に咥え、洗い物が溜まりに溜まって若干の異臭を放っている台所の換気扇の下まで移動した。寒さを和らげるためスカジャンを羽織るのも忘れない。

 そして換気扇のスイッチを入れ、火をつけて、一服。目覚めてから二分後。


「――ヤッてんなこれ!」


 ヤニで変色した黄色いフィルターが、煙草の煙と彼女の叫びを吸い取った。


――そうかぁ、女同士のセックスでも腰って痛めるのかぁ。

――そしてこの充足感……かなり最高なセックスだったとわかる。

――新たな発見だわ。おはよう新世界ニュー・ワールド


 じりりりと煙草の先端が削られていく。素っ裸で腰に手を当て煙草を吸う姿はシュールだった。ちなみにこの部屋、台所の対称にある洋室の窓にはカーテンがないためもし向かいのアパート三階の住民がベランダに出てきたら小鶴の姿は丸見えである。そうならないため廊下と洋室を隔てる扉を閉める思考は小鶴の中にはなかった。ただただニコチンだけが消費されてゆく。


――やべ~などうしよう。今までホテルか相手の家だったからなぁ。相手が起きる前に部屋出りゃよかったけど、ここあたしんちだし……。

――叩き起こして混乱してる内に服持たせて追い出す?

――いや最低かよ。可哀想だわ真冬の朝六時に外に出すってお前。


 微妙に常識的な感性に従い、小鶴は女を追い出す案を却下した。次に、起こすか起こさないか問題を考え出す。自然に起きるまで待とうか。でも仕事とかあったら遅刻してしまうのではないだろうか。やっぱり変なところで気を使って気を揉んでいると、


「ねえお風呂借りてもいい?」

「あ、そこのドア」

「ありがと」

「ん」


 どうするかなあ、と悩みながら答える。そして引き戸をかろろと滑らせる音がして三秒。


「ん?」


 低くかすれながらも弦を弾くように耳障りの良い声だった。振り返ると、相手はとっくに浴室に入ったようでシャワーの流れる音がした。随分と早いなと思ったが当然だ、声の主は全裸だったのだから洗面所で服を脱ぐ時間がショートカットされているのだ。

 起こすか起こさないか問題は解決されたようだった。小鶴はあたしもシャワー浴びたいなと思いながらごわついた白髪を撫でて、それから火が指先まで迫った煙草を吸殻だらけでサボテンのようになっている灰皿に押し付けた。



 十五分ほどして女は浴室から出てきた。バスタオルは勝手にそこらにあったのを使ったようで、しっとり濡れた髪を後ろに流していた。やや四白眼気味の目は重たそうだ。その間の小鶴と言えばもう三本煙草を消費し、服を着ただけだった。


「……食べてく?」


 小鶴が訊くと、女はうんと頷いた。食べてくんかい、と心の中で突っ込みながら食パン――奇跡的に消費期限が切れていないが袋が空いていたためカチカチだ――を袋の中から二枚取り出した。ゆで卵をチンして爆発させて以来三カ月放置している電子レンジを使う勇気がなかったのでトーストはせず申し訳程度にマーガリンを添えてベッド脇のローテーブルに並べる。

 そして二人であぐらをかいて座り、食事を開始した。


「でさぁ」


 切り出したのは小鶴だった。女がパンの端を齧りながら黒々とした瞳を小鶴の方に向ける。


「ほんっと~に申し訳ないんだけど、名前教えてくんない?」


 小鶴の問いに、女は水分が消え失せたパンをしばらく口の中でもごもごさせて――多分乾燥しすぎていて食べ辛いのだろう――ゆっくり嚥下してから口を開いた。


「……昨日ベッドの中であんだけ呼んでたのに?」


 揶揄うようににんまり笑われて放たれた言葉に、小鶴は頭を抱えて「ぎゃーっ!!」と叫んだ。放り出されたパンは女が伸ばした手の内でキャッチされる。大した動体視力と運動神経であるが、小鶴には感心する余裕はない。


「ははうるさ」

「待っ……! いや、あのー一個、確かめたいんだけど、ヤッ……?」

「たよ。むしろその見た目でヤッてないとか無茶あるでしょ。あんたの口も相当だけど、私の口だってダイソンと正面衝突したみたくなってるでしょうが」


 言われてみれば女のぽってりとした印象の唇は生来のものではい気がした。地球上にはたくさんの人間がいて多彩な愛情表現がありその中でも多く共通しているのが接吻という古来より伝わる方法であるが、そんな吸引力の変わらないただ一つの掃除機になりきって行うようなものではない。でも小鶴が寝た相手は翌日だいたい唇が腫れてる。つまるところ、やっぱりどう考えても、小鶴は眼前の女と存分に祭りを楽しんだというわけだ。


「……どういう流れで……?」

「え、マジなにも覚えてないの?」

「十時半ごろにトイレ行ったくらいまでは……そもそもあんたに会った記憶がない」


 片手で頭を押さえながら言うと、女は同情するような心配するような顔で「人の飲み方に口出す気はないけどさあ、ちょっとはセーブしないと」と言って溜め息を吐く。それから少し考えて、


「まあ流れっても、フツーだったよ。あのー、店の名前なんだっけ……東急スクエアの後ろあたりの飲み屋で一緒に飲んで、あんたが潰れて、なんでか私が送ってって、部屋着いたらあんたが起きて一番搾り飲み始めて、エッチな雰囲気になったからセックスした」

「なんで???」

「可愛かったから」

「そこじゃないんですけど??? 一番搾りとセックスの間が飛び過ぎだろ! なにがあったんだよ!」

「あんたが酔ってオナり出して……」

「やべ訊かない方がよかった今のナシで」


 記憶が銀河の彼方までバイバイするほど酔っていたとは言え初対面の人間の前で自慰を開始した自分にも死にたくなったが、それを見て可愛いと思ったこいつもやべーな――小鶴は返却されたパンで顔を覆った。


――多分ゲラゲラ笑いながらヤッたんだろな。

――こいつノリ良さそうだし。


 想像できてしまうのが始末に負えないが、今までもそんなことがよくあった。女同士はさすがに初めてだが。


「名前はさ」


 小鶴が自分のだらしなさにあちゃあ、と思っていると、女が半分以上減ったパンを口から離しながら呟くように言った。


「あんたがこれからも私に会うんなら、もう一回教えてあげる」

「……それはどういう意味で?」

「どうとでも。セフレでもただの友達でも、なんなら恋人でも?」


 揶揄するように片眉が跳ね上がった。それに対して小鶴は、


「ふうん。ハイタッチしよーぜ、、、、、、、、、

「は?」

「ハイタッチ。いえ~い」


 唐突で意味不明な言動だった。女は戸惑ったように目を丸くしたが、振り上げられた小鶴の手を一回りサイズの大きい自分の手の平で言われるがままにパチンと打った。

 「名前は――」今の謎の行為の説明をせず、小鶴は返した。「教えないでいい」

 女は一瞬、路傍で誰かに踏みつけられた花を一瞥するように目を細めたが、直ぐに「わかった」と微笑んだ。


 二人は無言で乾いたパンを食べきった。小鶴が皿を台所に持っていくと、女は床に落ちていた上等な黒いコートを掴んで、「私、仕事があるから」と小鶴の後ろを通って玄関に向かった。


「ん。じゃあな」

「ええ、じゃあ」


 それだけ言って、女は玄関を開ける。途端に裂くように冷たい冷風が彼女の黒髪を広げられた扇のように持ち上げる。腕のある写真家の代表作のような画だったが、それはなんの余韻も残すことなく、外に消えていった。

 窓の外は長い夜を抜け出し、雑多な背の低いビルの間から白い太陽が躍り出ていた。

 小鶴はそれを見るともなしに見ながら、砂糖入れの上に乗っけていたケースからもう一本煙草を取り出した。歯の間に咥えながら洋室に移動し、ローテーブルの上にあった自分の携帯端末を見付けると再び換気扇の下に移動しながら電話帳アプリを起動させ目当ての人物の名前を探す。それを発見するやいなや直ぐに電話をかけた。

 コール音の最中に換気扇のスイッチをつけ、煙草に火をつける。最初の一口を口の中で転がしているとコール音が切れ、相手が眠そうな声色で応答した。


雄一ゆういち? 今からお前ん家いっていい?」


 雄一――小鶴のセフレは、少し驚きながらもイエスと答えた。


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