第2話 俺は彼らを知らなくて、彼らは俺を知っていた

───翌朝、俺は目を覚ますとまず洗面所に向かい、洗顔をしてみた。几帳面に折り畳んであったその辺のタオルを引っ張ってグシグシと濡れた顔を吹き終えると、今度は鏡を見つめていた。


「……これが、俺か」


どうやら失っていたのは、もう一つ。……俺は自分の顔すらロクに覚えてなかったらしい。顔も名前も環境も忘れた俺ではあったが、言語能力まで失ってはいなかったのは不幸中の幸いか───。


「ったく……やり切れねぇな」


零し、一人冷え切った家の二階から階下に降りるのだった。


降りた先では台所が見え、そこにはポツンと一人の少女が立ち尽くしている。


彼女は学校の制服にエプロンを上から着て、手馴れた様子で食事の用意をしていたところだった。


「あ、ようやくお目覚め?いいご身分だこと」


開口一番にディスってくる彼女を一瞥すると、「こっちは体調が優れてねーんだよ」と付け加えておく。


……そういや、コイツ俺の妹なんだよな。


「とりあえず、座っててー。もう出来上がるから」


「……了解」


まだ疲労と痛みの残る体をなんとか椅子に座らせ、俺は頭をさする。


「病弱お兄ちゃん、まだ頭痛なんか持ってんの?」


「……そりゃあ、こんなド冬に森の中で一夜なんて過ごしてたら、そうなるだろ。それに全身打撲してそうだし、骨も痛むし」


「え、じゃあなに、今日も学校休むの?マジで引く」


「引くのはこっちだ。お前冷たすぎんだろ……。妹ならもうちょっと労わってくれ」


「え?痛めつける?」


「もういいです……」


ドS気質な妹はさておき、やがて用意された朝食が並べられた。トーストに苺ジャム、コーヒーに目玉焼きのサラダ……。


「これ、いつも俺とお前で食べてる朝食のメニューなのか?」


「そだよー。てか、やっぱり忘れてんだ」


「まあ、な……。悪い」


「いいよ、謝んなくて。でも、お兄ちゃんはこれが好きだったからね。朝はこのメニューじゃないと始まらないとか言ってたっけ」


「そうなのか。───俺が、ね……」


無論、言った覚えもなかった。ただ、なんだろう。少なくとも今の俺でも、妹と……家族と食べるご飯の時間は、嫌いじゃなかった。


「いただきます」

「いただきます」


二人してそう言ってから、食事を始める。食べているときは会話を好まないのだろうか、それ以降凜音は声を発したりはしなかった。


だから俺もそれに合わせ、静かに朝食に手を付けていた。


妹との食事は、そんな静かな時間だった。




2

───着慣れない制服に、鞄。それらを身にまとい、俺は玄関から外へ出た。


強い日差しを浴びても、やはり外は冷え切っていた。冬だということを頭に無理やり理解させる寒さだ。俺はそれにため息を吐き、踏み出した足で登校する。


結局、学校には向かうことにした。家に居ても退屈だし、なにより進展がない。ここで言う進展とは───無論俺の記憶の更新についてだ。


こうなった以上、なにがなんでも記憶は取り戻したい。何があったのか、なぜ俺は一昨日の夜にあんな場所に居たのか、そして───どうして俺は、すべてを忘れてしまったのかを。


「……それに、」


もう一つ、思い出す目的があるとすれば、


「───凜音が可哀想だしな」


母親は遠い昔に病死していて、父親は海外に出張していて居なくて、そして今度は……俺が記憶喪失。


笑えねぇんだよ、全然。


そんなことになったら、誰が、家族の誰が、凜音の傍に居てやれる?誰もいないだろ、


「さっさと記憶取り戻して、あいつを安心させてやらねぇと」


強い意志を胸に刻み、俺は登校を済ませるのだった。


───公立高波高校。ここが俺の通う学校だった。昨日も訪れたが、やはり見慣れない。そしてなにより昨日と決定的に違ったのは、圧倒的な人間の数だ。


昨日の早朝とは違い、正門からは大勢の人間が流れ、校舎へと続いていた。俺もその有象無象に入り込み、下駄箱で靴を履き替えた。


そこで不意に肩を軽く叩かれ、俺は少し驚き背後に振り返る。……誰だ?と思ってその顔を覗くと、それはやはり見知らぬ生徒の顔であった。


「───おはよう、夏樹くん。今日は来たんだね」


爽やかな笑顔でそう口にする女子生徒は、終始無言だった俺に違和感を覚えて首を傾げた。


「……?どうしたの?」


「あ、ああいや。……ごめん、こんなこと言ったら怒るかもしれないけど───誰、かな」


「え?どういうこと?」


いよいよ訝しんだ表情が差し込む彼女。……そりゃあ、そうだろうな。なんせ相手は俺を知っているだろうが、こっちは向こうを知らない───否、覚えていないのだから。


「あ、あはは……。凄い演技だね、夏樹くん。ドッキリなんてしないキャラだと思ってたよ」


だが、向こうはやはり鵜呑みにはしなかった。その反応は至極当然なので、彼女に落ち度はない。……落ち度だらけなのは、俺の方だ。


「───」


なんだか気まずくなってきたので、俺は彼女に向かい軽く頭を下げ、そのまま廊下に進んだ。とりあえず、教室に向かおう。


俺は鞄から一枚のメモを取り出し、もう一度再確認をする。そこには、シャーペンで書き殴られた文字。


───2年2組。


どうやらここが俺の教室らしい。これは今朝登校する直前、凜音から受け取ったものだ。


あいつは俺が自分のクラスを忘れていることを看破し、事前にこうしてメモにしてくれた。……つくづく、デキる妹だった。


覚束無い足取りで、階段を昇る。人混みに紛れて、転びかけて、それでも。


その足元で、俺の教室を───。


やがて到着した2年2組。その目の前で俺は、ゆっくりと深呼吸をする。


「すぅ───」


そうして覚悟を決め、俺は教室に足を踏み込む。


喧騒、話し声、笑い声、手を叩く音、誰かが机に鞄を置いた音、どれもこれもが耳を劈く効果音となる。俺はその渦の中、必死に自分の席を探した。すると、


「あれー!?芳野!お前昨日はどうしたんだよ、心配したんだぞ!」


その渦の中、一人の男子生徒が俺の顔を見てやってきた。そいつは金髪の、見た目だけでわかるチャラい奴だった。……言う必要はもはやないと思うが、当然覚えてなどいない。


「……お、おう」


そんな曖昧な返事しかできず、俺はしどろもどろになる。そんな様子を見て、彼は笑っていた。


「んだよ、どーした?一日休んで悟りでも開いたのかよ」


「……」


「ま、いいや。今日は一緒に帰ろーぜ!」


「……ああ」


名前すら聞けずに、そいつはまた集団の群れに溶け込んで消えた。───そういえば、さっきの女子にも名前、聞けなかったな。


と、そんなことを思い出していると、今度は別の方向から視線を感じ、そちらを見てみる。


それは教室の外、廊下から放たれる視線だった。射抜かれるほどの強い視線。それを放っていたのは、また別の女子生徒であった。


白みがかった長い髪は滝のように流れ、背丈は少し低い。童顔の特徴な彼女は、そのままの姿勢で立ち止まり、ただこちらを見つめて───見据えている。


「───」


「……っ、」


沈黙が二人を繋ぐ。互いの目線が交差する。……正直、気まずい。だが、そんな複雑な空気もすぐに打ち破られた。



「……ふ、」



笑った。確かに、彼女はハッキリと───。


その笑みは冷え切っていた。硬直させられるほど、慄くほど。だからなのか、俺は思わず背中を震わせた。


「……だ、れ───だ」


そんなことが口から流れ出る。が、無論誰にも聞こえないくらいに小さい声。世界で自分だけが聞いた、脆弱な声だった。



───異物感。それだけが体に染み付いた。



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記憶ゼロ系男子と再開の学園生活 抹茶ネコ @mattyaneko

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