石板の街

鵜川 龍史

石板の街

 フィールドワークに訪れた先では、つい骨董屋を探してしまう。研究のため、というのはできの悪い言い訳で、そこに眠るロマンに抗えないというだけの話だ。

 その日訪れた骨董屋で目を惹いたのは、一枚の石板だった。両手を合わせたぐらいの大きさで、表面は小さな矩形が整列したパターンで埋め尽くされている。個々の矩形には濃淡の差があり、ものによっては角が欠けている。近づいて見てみると、その色味の差は細密な線条の描き出す複雑な模様によって表現されていた。

「気になりますか」

 薄くなった白髪をきれいに撫でつけ、ネクタイを締めた紳士が、カウンターの向こうから笑顔を見せる。店の雰囲気に溶け込む居心地のいい声だ。

「不思議な模様ですね」

「それ、文字なんです」

 それを聞いた僕は、思わず手袋を取り出していた。

「もしかして、研究者の方?」店主は眉一つ動かさず、落ち着いた声はますます穏やかだ。僕のような手合いには慣れているのだろう。

「そうなんです」興奮が抑えられず、声が上ずる。「手に取って見ても構いませんか?」

 店主の答えを待って石板を手に取ると、見た目の印象よりもずっと軽い。模様のせいで重厚に見えていただけで、空気を多く含む構造なのだろう。うなずきつつ、文字の形態を確かめる。矩形のパターンで表現できる文字を持つ文化はそれほど多くはない。

「だいぶ昔の文字なので、読めないと思いますよ」

「もしかして、〈漢字仮名混じり文〉ですか」

「どうして知ってるんですか。お客さん、空の方ですよね?」店主は驚いた目で僕の頭を見る。僕の頭髪は粒状通信用のケーブルをネット状に編んだもので、宙域の人間であることが一目でわかる。この国は低宙域からの竜箱ゴンドラの乗り入れが禁じられていて、入国には隣国を経由する必要がある。そのせいで、宙域からの来訪者はほとんどいない。物好きな観光客か、気の毒な労働者か、あとは僕みたいなニッチな領域の研究者ぐらいのものだ。

「ご専門は何か、旧本国と関係が?」

「古アジア文献――中でも、東アジア古文字が専門なんです」

「それはまた、珍しい」

「心の赴くままに研究していて、気が付いたら周りには誰もいませんでした」頭を掻く。

「ロマンですね」店主が目を細めた。この店が彼にとってのロマンなのだろう。

「まさしく」

「でしたら、ルーペ、お貸ししましょうか」店主が嬉しそうに手元の引き出しに手を掛ける。

「ああ……実は埋め込みエンベデッドなので」

「……そうですよね。空の方ですし」開いた引き出しを、音を立てないように閉める。残念さを隠すようにうつむく仕草に胸が痛んだ。店の壁面には、年代物の眼鏡やルーペが並んでいる。今世紀初頭に技術が途絶えたガラス製品は骨董の花形だ。

「研究のため、仕方なく」申し訳なくて頭を下げる。古物への愛情はよくわかる。

 下を向いたまま、右目を素早く三回まばたきした。埋め込まれたスコープが起動し、瞼と眼球の動きでマクロからミクロに切り替える。ズームインとズームアウトを二、三度繰り返すと、方解石の結晶構造がはっきり見えてきた。この石板は石灰岩らしいが、今は不要な情報だ。右目の力を抜いて倍率を下げる。六方晶系の輝きが遠ざかり、フズリナの殻壁の螺旋構造を通り過ぎ、やがて美しいブルーブラックの線条が見えてきた。

「もしかして、読めるんですか? 何かの記録でしょうか、それとも……」

 店主の声は弾んでいたが、程なく水の中で聞く音のように遠ざかっていった。鼓膜に埋め込んだエンベデッドしたノイズキャンセラを立ち上げたわけではない。石板の言葉の方に心を躍らせたせいで、外部入力を許容する閾値を超えてしまったのだ。

 その時の僕の心を掴んでいたのは、力強い物語の言葉だった。


 町を抱えるように広がる山地の裏側には、捨て置かれた古い都市がある。骨董屋によると、似た材質の石板がその都市から持ち込まれたことがある、とのことだった。行ってみれば何か面白いものが見つかるかもしれない。

 山頂でマクロのスコープを立ち上げ、都市の組成を確認する。扇状地でもないのに、扇形に広がった街並みは、狭小三階建ての住宅と、屋上部分を繋いで展開する広場によって構成されていて、パン・アジア・アヴァンギャルドとシュル・シュルレアリスムのあいのこのようなデザインの街頭や装飾を見る限り、二十一世紀末に建造された街区らしい。

 ポーチから取り出したホワイト・マップをその場に広げる。スコープが景観からはじき出した時代と場所の概算データを口の中で攪拌して、マップに向けて勢いよく吹きかけた。真っ白な感応紙の上に砂絵のように絵柄が広がる……かと思いきや、なぜだか大図書館ヨハネスが反応しない。

 辺りを見回すが、背丈の低い広葉樹林が広がっているだけで、障害となりそうなものは見当たらない。粒状通信用の頭髪網ケーブル・ネットは今日もしっかりセットされている。それなら、自然衛星と人工衛星の位置関係から来る障害だろうか。あまり聞いたことがないが。

 待つ時間が惜しい僕は、白いマップを半分に畳んで引っ掴むと、大股に山を下った。途中で見つけた遊歩道も、その先の街路も、低腐食性と柔性を高めた素材を用いていて、ゴーストタウンのわりに建物も道もきれいな状態が維持されている。植物の侵食を防ぐ処理も施されているのだろう。もちろん、骨董屋で手に入れた石板とは全く別の材質だ。

 街に入ると、通りの両側に並ぶ住宅にはどれも古びた感じはなく、先程の街路と同じ素材で作られているようだ。玄関と二、三階の窓枠には、家ごとに異なる意匠が施されているものの、外観の印象はほとんど変わらない。それよりも気になったのが、玄関扉の脇に表札のように掲げられた石板の存在だ。ミクロスコープを立ち上げて確認すると、骨董屋の石板と同じ石灰岩、同じブルーブラックの文字。しかし、ここにあるものはどれも壊れていて、ひどいものでは七割以上が欠損している。散文も韻文も、ミステリアスな探偵物語も、幻想的な古体詩編も、肝心の部分が破壊されいて、要旨を把握できるだけの情報量が残存しているものは、残念ながら一つもなかった。

 通りはすぐに右に折れていた。両側に並ぶ住宅は変わらず、ただ今度は所々に路地がある。このまままっすぐ行った先には、再び右に折れるL字路が見えるだけなので、僕は路地を抜けることにした。

 複雑な街並みだ。L字路があまりにも多い。路地裏も多く、抜けた先の風景にも変化がないので、住宅の上を繋いでいる広場を目印にしないと、元来た道に戻ってしまいそうになる。

 マップが震えた。大図書館ヨハネスがデータ書き出しを完了したのだ。しかし、マップを広げた瞬間、僕は自分の犯したミスに気付いて、頭を叩いた。通信障害などではなかった。

 マップは真っ黒になっていた。

 フィルター設定のミスだ。ザル同然になっていた濾過布ネルのせいで、街の各所に付けられていた大量の拡張付箋スリッパーの書き込みは、漏れなく引き揚げらサルベージされた。結果、大図書館ヨハネスのサルベージは財宝をたんまり拾い上げ、大量の付箋スリップに埋め尽くされたマップは、ブラックダウンしてしまったというわけだ。

 拡張付箋スリッパーは、A空間である現実か、V空間である電脳かにかかわらず、情報環境への直接書き込みを可能にするサービスだった。二十一世紀の前半に流行したARタグとSNSを繋ぐサービスとして2085年にリリース。しかし、生活視界に増え続ける情報は、健康被害や学習障害、さらには交通事故に通行事故の急増につながり、世界規模で規制への要求が高まった。一方で、拡張付箋スリッパーの利用者数と投稿数は増加の一途をたどり、最終的には、国連によって情報排出に関する規制が採択されることとなった。現在もその規制はアップデートを重ねながら運用されており、拡張付箋スリッパーに限らず、デジタルデータのネットワーク書き込みにはすべて量的制限と税金が課せられることとなった。

 正直、この石板を見た時から、ある可能性にとらわれてしまっていたのだ。つまり、データ排出量規制を受けて、物理的現実に直接記号を書き込んだのではないか、と。事実、二十一世紀前半までは、紙と呼ばれる物理媒体にデータをプリントする行為が普通に行われていた。

 しかし、時代的な整合性を考えればおかしなことだと気づけたはずだ。データ排出量規制は2110年以降、段階を追って適用の範囲を広げていった。この街の建築が二十一世紀末だという見立てが正しいとするなら、石板とスリッパーは時代的に同居していたはずなのだ。

 ブラックダウンしたマップデータから剥ぎ取った濾過布ネルの網目を調整しながら、付箋スリップの内容に目を通す。

 かつて、データ量規制の直接の引き金になったのは、大量の企業広告と、大量の悪口雑言だった。そして、その内容を見れば、当時の人々の生活態度や価値観がわかる。紙の時代を調査研究する時でも、その公式は変わらない。極度に公的なものと極度に私的なもの、それぞれから社会の姿は見えてくる。

 ところが、マップに山盛りになったスリップの一つひとつをめくっていっても、広告も悪口も見つからない。書かれていたのは石板のテクストに対する感想や批評だった。それらの書き込みにもまたスリップが貼り付けられている。そのうちいくつかは、スリップにスリップが連なる形で論争が繰り広げられている。ここには、テクストをめぐって議論が行われる土壌が存在していたのだ。

 宙域では死滅した文化――

 それは、僕がこの研究に身を投じるきっかけでもあった。

 そう思って再び周囲の街並みを見回すと、家々の掲げた石板の物語をめぐって、激しくしかし楽し気に言葉を交わす人々の姿が虚体ホロウグラフィになって見えるような気がする。骨董屋に並んでいた眼鏡を掛けて、情報量に気兼ねすることなく。

 調整が済んだネルを真っ黒な地図の下に敷き、その下にもう一枚ホワイト・マップを広げる。ネルは必要な情報だけをドリップし、情報に満たされた七色のしずくが、都市の姿を描き出していく。

 情報は、その密度とパターンによって固有の色が付く。情報成像インフォグラフィは旧時代のテクノロジーだが、情報の積み藁の中に潜って、あるかないかもわからない針探しをしていた人々にとっては福音だった。何しろ、探す前に針の有無が分かるのだ。情報の価値判断に内容理解が必須だった時代、その価値判断を外部化できるテクノロジーは、さぞかし歓迎されたことだろう。

 ところが、マップの中にブラックダウンした状態のまま転写されていく箇所がある。あわててネルの状態を見直すが、公益性の高い一部の情報を除いて、全てのスリップを濾過する設定にしてある。ネルの不具合だろうか。いや、それにしては、場所が限定されすぎている。あるいは、ここにだけ特別な情報が集められているのだろうか。

 ネルが描き出す古代都市の奇妙な形――扇形のかなめの部分に向けて、何本もの道がL字を描きながら集中していく様――を見ながら、まさにその要の部分に穴のように広がる黒い円を目指して僕は歩き出した。


 そこは、まるで古代ギリシアの神殿だった。二十一世紀末らしい放埓なデザインの街並みの一角にありながら、どこまでもシンプルなドーリア式の柱列は、時代錯誤アナクロというよりも、かえって強烈なデザイン上の意図を感じさせる。

 正面の石段を上り、柱の内側の巨大な門を抜けた瞬間、耳の奥に違和感を覚えた。気圧の関係だろうか、ホワイトノイズのような耳鳴りが消えない。耳たぶを触ってノイズキャンセラを起動する。

 寒々しいはずの石の室内は、大きくくり抜かれた天井から南中を迎えつつある太陽の白い光が降り注ぎ、温かい空気で満たされている。中央の通路をまっすぐ進んだ先には、ひときわ明るく輝く空間が用意されており、優に五十メートルは離れているというのに、巨大な石板の姿が目視できた。

 もしかして、あの石板にもテクストが刻まれているのだろうか。スコープをマクロに切り替え、表面に現れたテクスチャが材質なのか装飾なのか見極めようとした。しかし、ピントが合わない。目を細めたり、眼輪筋の力を少しずつ変化させたりするが、石板の表面を捉えることができない。

 埋め込みエンベデッドシステムに不具合が出ることは、まれだ。ほとんどない、と言ってもいい。埋め込みエンベデッドの名称のせいで誤解されやすいが、この拡張システムはすべて宿主の細胞の組成を変質させることで得られる。だから、不具合はそのまま体の不調が原因のはずだが、残念ながら今の僕は健康そのものだ。

 何か、おかしなことが起きている。

 周りに視線を転じる。外郭部分よりも細い柱が列を為し、十メートル近い高さの天井を支えている。柱列の裏には何もない。壁面にも床にも、遺跡らしいアーティファクトもなければ、記号的な装飾もない。考古学者泣かせだ。

 それにしても、明るい。自然採光の効果とはいえ、リアルの視覚の方にまで白飛びのような眩しさを与えるのは尋常ではない。

 いや、何かが違う。この白さは、太陽光の眩しさだけではない。

 スコープをマクロからミクロに切り替え、強い光の部分に目を向けた。

 やはり、思った通りだ。

 そこには、あの石板と同じ成分の粉塵が舞っていた。粒子はかなり荒い。強い力で石板同士をぶつけ合ったかのような、そんな砕け方をしている。倍率を更に上げ、粒子の表面を確認すると、そのほとんどに、ブルーブラックの線が入っているのがはっきり見えた。

 間違いない。ここに舞っているのは、テクストの書き込まれた石板が破砕されたものだ。

 それにしても、なぜ……。

 すると突然、通路の先にある巨大な石板から、胸の奥を掴むような強い力を感じた。拒まれた感じではない。呼ばれた……のだろうか。廃墟や古い遺跡を訪れると、そんな感覚に陥ることがよくある。その場所に生きた人々の思いは、その時代ごとのテクノロジーで空間に繋ぎ留められている。墓や書籍、建築やデータといった形で。それを復元デコードするのも僕の仕事だ。この街に生きた人々もまた、何らかの形で思いを残したのかもしれない。

 もどかしさを覚えた僕は、思わず走り出した。

 しかし、すぐにそれが間違いだったことに気づいた。走るには余計に酸素が必要だ。そうすると、大量に空気を取り込む必要がある。空気の中には、粉となって舞う石灰岩が大量に含まれている。粉塵を一気に吸い込んでしまった僕は、咳が止まらなくなった。タオルに吐き出した痰は、生のコンクリートみたいに固まりかけている。

 それでも、足を止めることはできない。石板が呼んでいる。

 左の肉眼が捉える白い粒子は幾重にも折り重なって光のカーテンとなり、波を打つドレープは僕の道を示しながら同時に閉ざしている。右目のミクロスコープが捉えるブルーブラックの傷は、決して繋がり合うことはなく、それでもかつて文字であった痕跡をどこかにとどめながら、所在なく漂い続ける。

 破壊された石板の主は、どうなってしまったのだろう。テクストに貼られていた付箋スリップの群れは、V空間の海に、藻屑となって沈んでいるのだろうか。

 二十二世紀初頭、個人情報満載のまま所有者が亡くなり廃棄不能となったデータデブリが、データ排出量規制の最大の争点となった。最終的に採択されたのは、階層化されたアドレスごとの段階的一斉消去。企業体や自治体が研究機関と協力し、書籍や雑誌等の刊行物、資料的価値や公益性の観点から選別されたデータを保護し、デブリと認定されたデータは細切れにされ、情報環境の大気になった。

 この都市の情報環境には、スリップのデータが残っていた。おそらく、一斉廃棄が行われる前にこの都市そのものが放棄されたのだろう。データの存在は書き出しと読み込みによって認識される。電脳であるV空間が現実であるA空間と紐づけられている以上、人のいない場所を漂泊するデータは、存在しないのと同じである。

 それにしても息が苦しい。喉と鼻を漆喰で塗り固められたみたいだ。見上げると、頭上に石板が覆いかぶさってきている。近づく速度よりずっと速いスピードで石板は巨大化していた。遠近感が狂っているのかと思ったが、石板はこちらに向かって緩やかにオーバーハングしていたようだ。石板を透かして光が見える。強い太陽の光だ。

 ――そんなはずはない。どうして石板の向こうの空が見えるんだ。

 ミクロのままのスコープの照準を合わせて、頭上の石板を捉える。

 フズリナに六方晶系の輝き――しかし、それは一枚の石板ではなかった。堂内を飛び回る石板の破片と同じものが、隙間だらけのまま繋がり合っている。見ていると、それらはのたりのたりと動き蠢き、絶えず結びつきを変化させている。

 まるで、天体衝突や大規模な地殻変動によって流体化した地盤のような挙動だ。

 僕は直感に動かされるまま濾過布ネルを大きく広げ、虫取り網のようにして巨大な石板状の塊の上を引っ掻いた。ネルはもともと、ごみ取りデデブリによる保護データ抽出のために開発された道具だが、情報成像インフォグラフィが参照する特性値を読み込ませることで、汎用のドリップ式フィルタリングツールとして使えるようになる。僕は、ネルの参照値を相互依存性に極振りした。対話的な内容のスリップはすべて、この網に引っ掛かる。

 ざらついた石板の表面とネルの網が擦れ合い、スリップが可視化されながらこそぎ取られていく。それに応じて、石板の表面からは薄片と化した石板が剥がれ落ちる。浸食された岸壁のようにするりと滑る石板は、床に落ちて音もなく砕けた。

 巨大石板は、相互参照によって結合したスリップの流体に溶かし込まれた破砕石板の塊だった。

 床で砕け散った石板は、空気中の破片と混じり合い、白い光をいっそう複雑に揺らがせる。かつて、思い思いのテクストを刻みつけた石板で殴り合った人々――彼らの背後で、スリップにスリップを重ねながら、石板以上のテクストを編み上げた人々の虚体ホロウが見えるようだ。

 僕の頭の学者の部分が、頭髪代わりのケーブル・ネットを徴発して、周囲を分析し始める。この神殿は彼らの墓標なのだろうか。ロマンより事実、観賞より研究――それでも、ネルの中に採集された言葉スリップを拾い上げた僕の頭は、見えるはずのない幽霊ホロウの姿を捉え続ける。

 そして僕は、この神殿の意味を、この街の目的を知った。

 言葉で戦う者たちと、彼らを言葉のストールで包み込む者たち。彼らにとって、データ排出量規制は文字通り死刑宣告だった。だから、最後に祭りを開いたのだ。言葉と言葉で競い合う、文芸の祭典――

 祭りを終えた人々は、この街を放棄した。データを読み込む人間がいなければ、データの存在は認識されない。戦いの記憶を消去させないために、彼らは自らこの地を去り、データ暗室を作り上げたのだ。

 この街並みは戦いの痕跡そのものだった。複雑に入り組んだ街路はすべて神殿を目指している。敗れた者は街の中に置き去りにされ、勝者は神殿に向けて道を曲がる。しかし、壊れた石板にもたくさんのスリップが貼り付けられていた。あたかも、力尽きた者が安らかに眠るための敷布を用意するかのように。

 そして……

 巨大な石板を見上げる。ここには一体いくつの石板が集まっているのだろう。ここには一体どれだけの物語が書き込まれていたのだろう。今の僕がそれを知ることはできない。互いのスリップを織り合わせながら、物語をめぐって歓声を上げた人々の、批評と議論を繰り広げた人々の、尽きることのない熱狂が、死して後も巨大な石板の形となって残り続ける様子から推し量るしかないのだ。

 それなら、この石板は一体何なのだろう。

 僕は胸のポケットから骨董屋で手に入れた石板を取り出した。

 その時、巨大な石板が震えるのを感じた。鳥の羽ばたきのような、心臓の鼓動のような、力強く生きる者の震えだ。

 僕は見た。壊れた石板の群れから染み出した無数のスリップが、僕の手の中めがけて集まり、この石板を奪い去るのを。たった一つだけ、戦いの祝祭を生き延びた石板――その意味するところは、初めから明確だったのだ。

 この街に君臨する勝者を取り戻した巨大石板は、急激に流動性を低下させ、見る見るうちに真っ黒な石の塊になっていった。もう光を通すこともない。スリップをサルベージすることもかなわないだろう。

 僕はノイズキャンセラを止めた。神殿は本来の静けさを取り戻していた。


 僕は神殿を出て、大図書館ヨハネスの個人領域に残された記録をすべて消去した。大図書館ヨハネスは世界記述をアップデートするため、公費で働く研究者の探索記録ローグを吸い上げる。しかし、この街の記録は空白のままにしておくべきだ。図書館に収められない戦いの歴史があってもいいじゃないか。それが、この街を去る決断をした戦士と観衆に対する敬意だと僕は思った。

 喉の奥で漆喰のように固形化した塊をタオルの上に吐き出す。そのまま唾液を拭ってポケットに入れた。

 今回の調査は論文にはできないが、このぐらいのわがままは許してほしい。小説ロマンを追ってきた僕の、ちょっとした戦利品だ。

 宵闇の迫る空の姿は、さながらブラックダウンしていくマップが重ねられているかのようだ。そのあちらこちらで、拳を振り上げた虚体ホロウが操作する無数の拡張付箋スリッパーが、小さな翼を広げるのが見えた気がした。

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石板の街 鵜川 龍史 @julie_hanekawa

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