Chapter 11:過去


 俺が半年間の自宅療養期間を経て就職活動を始めたのは、どちらかと言えば不安と恐怖に背中を押されたからというほうが正しい。


 新卒で就職した会社ではモラハラ上司に毎日毎日絡まれ罵倒され嫌がらせを受けて、俺は逃げるようにして入社3年目の会社を去った。


 当時の俺は夜布団に入っても眠れなくなり、朝目覚めても布団から出られなくなっていた。


 食事が喉を通らなくなり、口数は極端に減った。


 趣味だったゲームを遊んでも楽しいと思えなくなっていた。


 サイレン音を鳴らしながらバーが降りたばかりの踏切を前にしてふっと良からぬことが頭を過ったこともあった。


 今思えば少しだけ心を病んでいたのだろう。


 暫く何もする気がおきないまま食べて寝るだけの日々を過ごした。


 平日に部屋で自堕落に過ごすことに最初こそ罪悪感を覚えたが、それ以上にあのモラハラ上司のいる会社にもう行かなくてもいいのだという安心感は大きかった。


 そうして半年ほど療養して、そろそろ働かなければと思ったのは貯金の残高が危うくなっていたからだ。


 しかし就職活動はなかなか上手くいかなかった。


 新卒の頃の就職活動は出来るだけ多くの会社の面接を受けて何社か採用通知をもらうような感じだったのが、この時の受けても受けても不採用通知しか届かない。


 原因は何となく理解している。


 無職期間に何をしていたのか、その問いに上手く答えられなかった。


 それに少しでもモラハラ上司に似ていると思える部分を面接官に感じてしまったら、満足に会話することさえできなかった。


 少しでも圧迫面接の気配がするような面接はとにかく質疑応答が上手くいかなかった。


 そんな面接を繰り返して、もう再就職なんて無理なんじゃないかと諦めかけた時。


 俺はある会社の求人広告をみつけた。


 アイディア商品を開発・販売している株式会社『i+f』。


 この会社に出会えなければ、俺はもう失敗続きの就職活動に心が折れていたかもしれない。


 

 株式会社『i+f』は大葉社長を含め従業員は10人にも満たない小さな会社だ。

 

 面接日は天気予報が外れて急に雨が降り出し、俺は濡れて淀んだ気持ちのまま会社のドアを叩いた。


 そんな俺を迎えてくれたのはおっとりした雰囲気の女性社員。


「まぁ、大変。

 濡れたままでは風邪を引いてしまいますよ。

 今、タオル持ってきますね」


「あ…すみません」


 彼女は雨に降られた俺にタオルを貸してくれて…ガチガチに緊張していた俺は礼を言うので精一杯だった。


 彼女が後に俺の新人研修を担当する弥生やよい先輩だったのだが、この時の俺はそんなこと知る由もない。


 小さい会社だけど優しい受付のお姉さんだなとそんなことを頭の片隅で考えただけだった。


 そうこうしているとすぐに奥の個室から壮年の大葉おおば社長が現れた。


 ダンディが小洒落たスーツを着て歩いている、とでも言えばいいのか。


 とにかく落ち着いた様子でタオルを片手に持った俺を面接で使うという社長室へと迎え入れてくれた。


 会社のHPで見かけた通りの姿を目にして緊張したものの、奥の社長室に足を踏み入れた俺は再び驚くことになった。


 社長室は高そうな調度品の代わりに緑の観葉植物が並び、森林を思わせるような香が焚かれ、オーディオ機器からはゆったりとしたイージーリスニングが静かな音量で流されていた。


 驚きはしたがこれから面接をするにあたりオーディオ機器の電源を切ったり換気したりするのだろうと思い直したのだが、社長は来客用のソファに座るように俺に勧め自分はその向かいに腰を下ろした。


 戸惑う俺の心を見透かしたように大葉社長は“生憎と堅苦しいのは苦手でね”と片目を閉じながら悪戯っぽく笑った。


 ダンディという形容詞がとても似合う渋い大葉社長の雰囲気がぐっと柔らかくなって、俺はもっと驚いたのだった。


 それからソファに座っていくつか質問を受け、それに答えた。


 それも今までの経歴とか資格とかの話題ではない。


 例えば“腰の曲がった老人が信号機の前で立ち往生をしていたら君はどうする?”とか、“君は友達と一緒に船に乗っていて遭難した。無人島になんとか辿り着いたが、まず何をする?”とか、筆記試験でならば辛うじて尋ねられるような質問ばかりだった。


 面接らしい質問といえば最後に思い出したように尋ねられた志望動機くらい。


 しかもその問いかけを投げられる前に先程の女性社員…弥生先輩が面接中の社長室にハーブティを二人分運んできていて、俺が志望動機を答える頃にはすっかり肩から余計な力が抜けていたのだった。


 とにかく最初からいろいろと型破りの会社だった。


 大葉社長曰く、“良いアイディアを生む為には適切な情報を冷静に分析し、最高の休息を楽しまなければならない”…らしい。


 言わんとしていることはなんとなく分からないでもないが、まさかそれを面接の時から実践されるとは思わなかった。


 忘年会の時に大葉社長に尋ねてみたら、筆記試験で同じ質問をすることには何の意味もないという独特の持論を展開された。


 なるほど。


 その言葉の意味を芯から理解することはできなかったが、大葉社長は独自の尺度で様々なことを考えているのだなと納得はできた。





 入社後、俺はすぐに弥生先輩について新人研修を受けることになった。


 新人研修とはいってもわずか数人で回している会社なので、弥生先輩の仕事を手伝いながら仕事の仕方を覚える、というのがその実情だった。


 弥生先輩は最初失敗ばかりしていた俺に付き合って根気強く指導してくれた。


 俺の失敗のせいで残業になってしまったこともあり、その日は情けなくしょげる俺を励ましながら弥生先輩も残業に付き合ってくれた。


 仕事が片付く頃には随分夜遅くなってしまっていて、“お疲れ様”と微笑みながらコーヒーを差し入れてくれた弥生先輩は疲労した俺の目には女神のように映った。


 好調な業績に人手が追い付いておらず失敗がなくとも残業続きの毎日ではあったが、俺が一人前になれば弥生先輩が抱えている業務を回してもらって協力して仕事を捌くことができるようになる。


 さらに今後新入社員が増えて人手が足りるようになれば、定時上がりが当たり前になるだろうという噂もあった。


 そう思えば残業続きの日々は決して苦ではなかった。


 何よりあのモラハラ上司がいないだけでこんなにも通勤が苦にならないのだと、『i+f』に入社して初めて実感として理解したのだ。


 むしろ学生時代より通勤するのが楽しかったかもしれない。


 なにせ大葉社長をはじめ、弥生先輩や他の社員の人達がみんな優しかった。


 仕事なので苦しい事や辛いことも当たり前にあった。


 でもあんなに職場を温かく感じたのは、一緒に仕事をする上で職場を居心地のいい場所にしたいという皆のさりげない努力の結果なのだろうと思う。


 渋くダンディな大葉社長、優しくほんわかな弥生先輩。


 話しかけに行くと必ず飴玉をくれる事務の柳さん、メガネ男子のちょっと気難しい開発担当の斎藤さん。


 一人一人の顔が浮かんできて涙がせりあがってくる。


 もっと仕事を覚えて、一人前に仕事を回せるようになって、職場の人達とも話せるようになって。


 まだこれからだったんだ。


 これから頑張って、ちゃんと一人前の社員になって、みんなに恩返ししていくつもりだったんだ。


 こんなところで…こんな訳のわからない所で、俺の人生を終わりになんかされてたまるか…っ!



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