Chapter2:契約書



《セロトニン濃度の低下を確認。

 一定値を割り込んだため、セロトニン及びノルアドレナリンの投与を開始します》


 相変わらず抑揚のない声が聞こえてくる。


 だがこれは夢なのだから、特に不思議ではない。



 あぁ、そうですか。


 投与でも何でも、勝手にすればいい。


 どうせ夢から覚めれば、綺麗さっぱり全部忘れてしまうんだから。



 その直後、ドクンと心音が耳の奥で響いた様な気がした。


 目の前の風景の輪郭が妙にハッキリしてきて、指一本動かしていないのに全身に熱い血液が巡る様な不思議な感覚を覚える。


 思考が妙にスッキリしていてここ最近…いや、もう何年も忘れていた感覚でもあった。


 開いた両手を見下ろす。


 そしてそれをゆっくりと握りしめたり開いたりしてみる。



 これが本当に夢?


 感覚が妙にリアルだ。


 

 そんな俺の目の前で再び画面が切り替わった。


 “契約書”という文字から始まった文書が画面いっぱいに映し出されている。


 全ての文字を目で追うのも億劫になるほどの活字の海。


 内容は概ね先ほどの理不尽な要求を法的効力のある文書として文章化しました、といったものだった。


 その内容の理不尽さはこれぽっちも薄れていなかったけれども。



 文末のサイン欄まで読み終えた、まさにジャストのタイミングで目の前にペンが現れた。


 何もない空中に手を伸ばしたらそのまま握れそうな角度でペンが浮いている。


 重力や質量保存の法則をまるっと無視したようなデタラメさだ。



 さすが夢、と褒めればいいのだろうか。


 もうここまでくるといちいち突っ込むのも馬鹿らしくなってくる。

 

 そっと指先でペン先に触れてみると“まるで最初からそこに存在していたような”不自然さで俺の手の内にすんなりと収まった。


 もう乾いた笑いしか出ない。


 一瞬でも現実かもしれないと思ったのが馬鹿らしくなる。


 これは紛れもなく夢だ。


 そうでなければありえないことが起こっている。



 再びモニターに視線を戻すと“さぁ、サインしろ”と言わんばかりの圧迫感を与えてくる。


 まるで見えない誰かの敷いたレールの上を歩けと言われているような理不尽な威圧感。


 どうせ夢だとわかってはいても、なんとなく反発したくもなってくる。


 お前の思い通りに動いてなんてやるものか、と誰に向けるでもなく言ってやりたい気分だ。



 けれどそんな脳裏に最初に見た衝撃的な映像が蘇る。


 沢山の機械に囲まれチューブに繋がれた自分にそっくりな誰かの体。


 無機質な電子音が心音を響かせていた、あの映像。


 確かにトリックを前提に考えるのならば、俺が眠っている間にあの映像を撮ったと考えるのが普通だろう。 


 俺とそっくりな誰かを探し出してあんなことをさせるなんて、ただただ面倒なだけだろうから。



 でもこれは夢だ。


 夢ならばその可能性は十分にあり得るんじゃないか。


 でなければあの脅し文句は脅しにはならないから。


 だってわざわざ手間をかけて俺をここに誘拐してくるような思考の持ち主が本当に脅しにならない脅しなど、するだろうか?



 …いや、逆か?


 生命維持装置で生かし続けなければならない俺に似た誰かがいて、その人に似ている俺が攫われた、とか?


 犯人の目的は依然として分からないが、俺が作る動画にこそ何らかの利用価値があるのかもしれない。


 だからこそ俺がここでサインを拒否したらどちらにも利用価値がなくなるから即座に生命維持装置の電源を落とす…そう脅しているのかもしれない。


 俺自身ではなく、俺とそっくりな誰かを殺そうとする悪夢。


 外見こそ似てはいるが俺の知らない赤の他人だと切り捨てることはできるだろう。


 でもその場合、俺にそっくりな誰かはきっと確実に殺される。


「それはさすがに目覚めが悪そうだな…」


 もう笑うことも出来ずに力なく呟くと、じっとりとペンを握りしめた指先が湿った。


 たとえ夢だと分かっていても、ピエロが包丁の先を胸の上に突き立ててきたら嫌なものだ。


 エンジンを唸らせて自動車が自分に向かって突っ込んできたら、全身がすくんで目が覚める。


 今回の悪夢はそれが目に見える凶器ではなく、誰かの悪意ある指先なのだというだけの違いなのかもしれない。


 目視できない誰かの指先は今、俺にそっくりな誰かに繋がれている生命維持装置の電源に触れているのかもしれない。


 もし俺が契約を拒めばすぐにモニターに映っている俺のそっくりさんは俺が観ている前で殺されてしまうのかもしれない。


 俺のせいで誰かが殺される。


 そんなのは嫌だ。


 俺自身が誰かに理不尽に殺される夢より、もっと嫌だ。


「……」


 どうせ夢、だから。



 でも、どうせ夢ならば。


 もう少し良い夢にしてくれないか。


 せめて誰も死なずに、誰も傷つかずにすむような。



 …いや、変えることができるだろうか?


 この夢を作り出しているのが、他でもない俺の頭脳ならば。


 幼い頃に飽きるほど空想した、あの楽しい夢の世界のように。


………。


……。


…。



「…これでよし、と」


《雪見星夜様のサインを確認しました。

 契約書に不備がありませんので、この内容で契約が締結されます。

 本日より二年間、契約書に明記された権利と責務が発生致します》


 夢の中での二年なんて、本当にあっという間だろう。


 動画サイトで超有名人になりたいなんて潜在的な願望があったなんて自分自身でも気づかなかったけど、俺は俺なりに頑張りつつ楽しめればそれでいい。


 俺のせいで誰かが死ぬのは嫌だけど、二年分の猶予期間はあるわけだし。



 うん、そう考えたらそんなに悪い夢というわけでもないのかもしれないな。


 ちょっと長めの長期休暇の夢を見ているのだと思えば。



 異世界に転生してハーレムを作っちゃうようなチートキャラなんて、非凡な俺には似合わない。


 ブレスを吐くドラゴンに剣一本で向かっていたり、核爆弾レベルの魔法をバンバン打ち込んだりなんて、できる度胸はないんだから。


 せいぜいちょっと不思議な夢の世界でのんびり小動物と戯れている方が性に合っている。



「二年か。何をしようかな…。

 いや…どんな動画を作ろうか、かな?」


 動画投稿なんて考えたこともなかったから、ネタなんて何も思いつかない。


 さて、どうしようか。



 新しい未知のゲームを開封するような、不思議なワクワク感。


 久しく忘れていたその感覚に奇妙なほど心が躍り始めていた。





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