■第三信②
問題を回避するには第三勢力——と呼ぶにはあまりに非力ですが——の日和見グループが積極的に動く必要がありました。僕らが働きかける以前に、自発的に……です。僕らがやきもきしていると、意外にも矩が勇気を振り絞って、全員の前で、少し震える声で鍵を預かると宣言したのです。日頃言動に出さないものの、彼も秘かに凪を崇拝しているのだと、そのとき僕は察しました。嚴たちは、おとなしい矩が突然、有無を言わさぬ毅然とした態度を示したので、たじろぎました。ヤツらが虚を衝かれて意思統一も出来ずにいるうち、矩が鍵を握り締めましたが、それは日和見グループの手に鍵が渡ったのではなく 、あくまで矩一人が独立した管理者になったということなのでした。反・凪派以外が一斉に立ち上がって拍手し、承認の意を表して素早く多数決を取った形に持ち込み、この件は落着しました。以後、徹じい着任まで、陸海兄弟を中心に、凪チームがさりげなく矩をガードしました。徹じいが去った後、荘がやって来るまでも同様だったのです。寝室は通常、二人から四人で一部屋と決まっていますが、その間、矩については買収の誘惑を遠ざけ、同時に身の安全を図るため、単身での一室利用が認められました。が、元来神経が細いのでしょう。気の毒に、不眠症になってしまったのです。矩は僕らと一緒に耕作に従事したいらしいのですが、そんな訳で昼間はほとんどぼんやり、うつらうつらしていて、図書室にいても机に突っ伏している時間が長いのでした。荘が現れたので鍵を返却し、気が楽になったでしょうけれど、だからといって簡単には復調しそうもないようです。
「結局、食事の問題かぁ」
「まぁね。本を読んでも腹は膨れないし」
そう言いながら、矩は昆虫図鑑に頬を押し当てて瞼を閉じました。この
「『人間不平等起源論』」
矩の間抜けな寝顔を見ていた卓が、パッと僕に視線を向けました。本はどこにあるかというのです。僕は
図書室は吹き抜けになっていて、蔵書の多くは段ボール箱に詰め込まれ、螺旋階段の上のロフトに放置されています。台風によって元の
「ほい」
「かたじけない」
ルソーの著作はいくらか固まっていたので、すぐわかりました。ただ、その位置にあったはずの別の書籍が一、二冊、見当たらなくなっていました。僕の勘違いか、メモを取り損ねたのか、それとも、知らないうちに誰かが動かしたのか……。
……はあ。記憶力が鈍ったと言いながら、よくわかるじゃないかと仰る。ええ、既に書いたとおり、まだ
実は、物覚えが悪くなっているのは、僕だけではないのです。卓だって矩だって、独学を続けている特定のジャンル以外については、いい加減なんです。でも、他の人間の不得手な部分を、逆にそれを得意とする者がカバーしてやれば、全体としては上手く行くんじゃないかと思っています。
卓はロフトへ視線を上向けて、
「余分な部屋っていうか、滅多に覗き込まない場所には、何かいるような気がする……」
「ああ。誰もいないはずなのに、夜中にヒソヒソ声がするとか」
「あそこにいるとしたら、なんだろう。図書室の
「闇の司書……なんてね」
すると、図鑑を枕にした矩がムニャムニャと、
「名前をつけてやる。
「はあ?」
「ホンノムシオ。ちなみにムシは酔生夢死のムシ」
本の虫と掛けて人名めかしたようです。本ばかり読み耽って他事を顧みず、虚しく一生を終える者——といったところでしょうか。
「寝てたくせに」
卓に小突かれても、矩は目を瞑って、寝言のように、
「……眠ってない。話は全部聞いてたよ」
「ハハハ」
眠り鼠そのままのセリフがおかしくて、僕は笑ってしまいました。
詠より
敬具
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