第三楽章 お人形の夢

 進むべき道が決まっている悲劇がある。

 進むべき道が決められない悲劇もある。

 私は後者。


「パパとママは、私に、どうなってほしい?」

 夕食の席で、仲睦まじい両親にたずねたことがある。


「そうねぇ。ママ、まわたちゃんには幸せになってほしいわよ」

「パパも同感だ。まわたの泣き顔は見たくない。幸せな笑顔で、いてほしいんだ」


 なんだか、おめでたい回答だ。もしかして、私って過保護?


 どうなったらいいのか、

 どう生きたらいいのか、

 分からないからいているのに。


 学校は教えてくれない。

 何が幸せなの? パパとママは何が幸せ? 教えてほしい。


 ♪♪♪


 LINEにもアプリのゲームにも飽き果てて、諦め悪く通うピアノ・レッスンからの帰り道、一軒のカフェが目に付いた。緑青色ろくしょういろの看板の文字は、かろうじて『メロディードール』と読み取れる。辺りは白い靄がかかったような天気だ。視界が、ぼんやりとする。


 おかしな天気に負けて、カフェの引き戸を開けた。

 びた鈴の音が鳴る。澄んだ鈴の声を聞く。


「いらっしゃいませ」


 おかえりなさいませ、お嬢様、と言われたわけではない。挨拶は普通だ。しかし、私を迎える店員が着ている衣装は、メイド服。白い襟と白いエプロンの付いた、黒いワンピース姿。


 店員は小柄で幼くて、働くには不相応な少女に見えた。

 彼女に通された奥の席で、黒いベルベットの椅子に掛けて、メニューを読む。


 メニュー

 お人形の夢と目覚め

 荒野の薔薇

 トルコ風ロンド


 何処かのフランス料理店の真似かな。私がピアノを習っていなければ、そう思うだろう。メニューに綴られた題目は、すべて初級者向けのピアノ曲のタイトルだ。作曲者は、オースティン、ランゲ、ブルグミュラー。


「お人形の夢と目覚めをください」

 よく分からないけれど、注文してみた。私って良い子。こんな風変わりな、値段も分からないメニューに文句を言わず、相手に合わせてあげるのだから。


 メイド服の少女は、夢を咲かせるように微笑んだ。私は謎のオーダーをキャンセルすることなく、待っている。


 相変わらず視界は、うっすらとした靄に包まれていた。タブレットを見詰めすぎたのかな。だとしたら、目を閉じて休ませよう。


 私の姿は、瞑想めいそうしているように映ったのだろうか。少女は

「精神統一中、失礼します」

 と妙な声掛けをして、テーブルに何かを並べ始める。


 目を開けて見ると、何の変哲もない、パンケーキと紅茶がテーブルに並んでいた。これが、お人形の夢と目覚め?


 一礼した少女は、すたすたと、或る楽器の前に歩み寄る。

 靄の向こうにピアノが見えた。私の家にあるものと同型の、アプライトピアノ。


 少女は、ぎこちなく一礼して、数十秒の瞑想後、ピアノを弾き始めた。曲名は、オースティンの『お人形の夢と目覚め』だ。わざわざ注文をとって弾き始めたわりに、そのピアノは、お世辞にも上手いと言えない。


 簡単な曲に指が転んで、つまずくなんて、かわいそう。原曲を知っているぶん、彼女のピアノの未熟さが伝わってしまう。


 だけど、なんて一生懸命、弾くのだろう。決して、投げ出さない。私なら、お人形の夢と呼ばれる中間部で派手に指が転んだ途端、終わったと思う。投げ出してしまう。


 スムーズに弾くと三分あまりの小曲に、倍の時間を費やした。それでも弾き終えて、喜色満面な少女が訊ねる。


「いかがだったでしょう?」


 いかがもなにも、錆び付いたみたいに、つっかえてばかりの練習ですね、なんて絶対に言えない。私って優しい。残酷なほど。本当の心を発することに、ためらう。だから親友が、いないんだ。


「良かった、と思います」


 またもや、無難な感想しか言えない自分がイヤになる。少女は、ピアノ椅子から立ち上がり、恭しく一礼した。頬が紅潮して、嬉しそうな様子だ。

 そう言えば、この子は店員だっけ。よくよく見ると、まだ中学生、ともすると小学生にも見えてしまう。


「店員さんは、何歳なの?」

「享年十二歳です」


 声が小さくて、十二歳しか聞き取れなかった。義務教育の年代。こどもを雇うなんて労働基準法違反だ。


 十八歳の私だって、社会で働くには未熟過ぎる。実際、アルバイトは許されているけれど、働いたことはない。おとなと同じ仕事をこなしても、時給は安く抑えられると、同級生が言っていた。少女に時給を払うのは、どんな人だろう。


「店員さんの雇い主って、誰ですか?」

「私の雇い主は、ママです」

「お母さんがオーナーなんだ。だから……」


 幼いけれど、親の裁量で店員として労働している? 問題じゃない。

 客が心優しい人ばかりと思ったら、大間違いなんだから。


 私は、テーブルの向かい側に、空いた椅子を示した。座ってほしくて、少女の手を引く。心臓の奥を凍らせるような、冷たい手。


「危ないから。辞めたほうが、いいよ。椅子に座ったら、どう? なんだか顔色が悪いし、手も冷た過ぎる。ママに言って、休ませてもらったら」


「ママに頼んで出て来たの。私、はたらくことが夢だった。ご協力ありがとうございます」


 少女は意外なことを言って、私を戸惑わせた。働くことが夢? 十二歳の、こどもだから言えるのかな。私が、十二歳のときは、どうだっただろう。


「はたらくって、はたラクにすることでしょう? かたわらをラクにするって書くの。誰かの力に、なりたいって、ずっと夢見ていた……お姉さん、ありがとう」


『働く』ではなく『傍楽はたラク』と、変換することが、できた途端に、

 誰かの助けに、なりたい。夢見る少女の感謝の心が、私をおおう。

 靄が濃くなる。少女の姿が遠ざかっていく。

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