第四楽章 お人形の目覚め

「お客様、恐れ入りますが、閉店時間です」


 ウェイトレスに声を掛けられた。私を起こすのは、少女の鈴のような声ではなく、おとなの落ち着いた声。

 私は、緑青色ろくしょういろの看板のカフェで、すっかり眠っていたらしい。


「すみません。すぐに、お会計を」

 私は注文したはず。お人形の夢と目覚めを。だが、テーブルの上は水滴ひとつ、こぼれることなく美しい。


「お代は頂いています。ありがとうございました」

 手渡されたのは、印字が薄れて値段の読み取れないレシート。私は、それを財布の中に忍ばせる。


 夢と現実の境が、ぼやける夜だった。

 すっきりしない頭のまま、帰宅する。

 両親が揃って夕食を待っていた。娘の帰りが遅くなったぐらいでは怒らない、優しい両親だ。


「はたらくって、はたラクにすることでしょう? かたわらをラクにするって書くの」


 十二歳の店員の声が、リアルに頭に残っていた。

 妙に響いて止まないセリフに動かされるのも変だけど、私は夕食の後片付けを手伝う。ママは大袈裟に喜んで、パパは大袈裟に感心していた。


 ♪♪♪


 翌日、学校の帰りに、緑青色の看板を探す。片仮名で『メロディードール』と書かれた看板だ。

 店に入ったことは現実。私はカフェで、はしたなくも昼寝をしていて、おとなの店員に起こされた。財布には、かろうじて『メロディードール』とだけ読み取れるレシートが確かに、ある。


 通りを何度も往復した。傍目には、少女のたどたどしいピアノ演奏のように、ぎこちない姿だったのかもしれない。


「なにか、探しものですか?」

 冬装束を着込んだ老婦人にたずねられた。


「カフェ『メロディードール』を探しています」

 私の答えを受けて、老婦人は微笑んだ。

「昔はカフェで、今はベーカリーの『メロディードール』でしたら、この近くに、ありますわ」


 親切な老婦人の道案内で、私はベーカリー『メロディードール』に入店した。

 まるで別世界。

 入店と同時に鳴るのは、コンビニエンスストアの入り口と同じ電子音。


「いらっしゃいませ」


 店員の大きい声は、頭に響くフォルティッシモ。私が求めているのは、ピアニッシモな小さい鈴の音色なのに。


 焼きたてデニッシュの到着と、客人の話し声でにぎわう店内に、アプライトピアノは無い。

 メイド服の少女を探して、視線を一周させる。お人形の夢と目覚めの、ワンフレーズが流れた。


「お風呂が沸いた時の音だね」

「あのお人形さんが、歌っているみたいよ」

「可愛い歌だね。あのお人形さんも可愛いね」


 真新しいランドセルを背負った男の子と、母親らしき女性の、何処か詩的な会話を聴いていた。


「昔、天使に好きですと告白されて旅立った娘さんが、モデルなんですって。モデルって分かるかな」

「うん。お手本ってことでしょう」

「そうね。たった十二歳の女の子。お母さんの、お手伝いをすることが夢だったなんて、泣けちゃうわ」


 トングでデニッシュをふたつ挟んだ女性と、財布からお金を出すのが楽しくて仕方ない年頃の男の子が、レジで精算している。私は、お人形に一歩、近付く。懐かしいフレーズが流れた。


『お人形の夢と目覚め』を弾いていたころ、私は十二歳の少女だった。

 あなたのように崇高じゃないけれど、今よりも熱い想いを持っていた。


 今の私は中身が空洞のお人形みたい。

 おとなに近付いて現実が見えるほどに、心が冷えていく虚しいお人形。

 そんな私に救いの手を差し伸べることが出来るのは、最終的に、自分自身。


 あなたは、きっかけを与えてくれたのね。


「ありがとう」


 たどたどしくも懸命なピアノを弾いていた、あの子と同じ姿の、お人形に話し掛ける。等身大にこしらえられた、まさに看板娘。


 ねぇ、聴こえる? 今、あなたはエプロンドレス姿で、ベーカリーの可愛かわいい店員さんとして、立派に、はたらいているよ。


 毛先に白いリボンを結わえられた二本の長い三つ編みを、そっとでる。

 今度は『荒野の薔薇』のワンフレーズが鳴った。

 荒れた心に、薔薇が咲くような音が、凛と響く。


 からっぽの心に、栄養が充ちる音だった。


 私は、あたたかい心を抱いて、淡氷うすらいの張った舗道をひとり、未来に向かって歩き始める。


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