ディスティネーション

@ame-tachibana

第1話 新井香23歳フリーター

カーテンから溢れる陽光や、携帯アラームのメロディーなどではなく、新井香の目を覚ましたのは、外から聞こえてくるけたたましい工事音だった。

「うるさい〜」

枕元に置いてある充電ケーブルが差し込まれた携帯を手繰り寄せると、ディスプレイに表示されている時間は朝の八時を少し過ぎた頃で、起きる予定の時刻にはまだ一時間も余裕がある。しかし到底二度寝など出来るわけもなく、香は騒音の中ベッドから体を起こした。

  新井香は今年で二十三歳になるフリーターだ。短期大学を卒業後、一度就職したが上司のセクシャルハラスメントを受けて辞めた。今は週五日、都内の食品メーカーで事務のアルバイトをしながら生活している。会社の始業は十時からだが、あまり支度に時間をかけないために、始業の一時間前に起きても、さして問題はなかったし、何より睡眠が多く取れることは、前職がブラック企業でもあったために、香にとっては何よりも幸福を感じていたのだが、ここ三ヶ月は騒音により阻害されていた。


 香が住む築三十年のマンションは、ここ近年で起こった自然災害への影響で住民から不安視する声が上がり、調査会社に依頼したところ、耐震強度が弱くなっているとの調査結果が出たことにより、免震工事を行うことになった。その工事が一ヶ月前から始まったのである。工事にかかる期間は五ヶ月、マンションは役五十世帯が入っているので妥当な日数なのだそうだ。管理会社の決定、更には今後起こりうる災害から身を守るためには頷くしかない。

「仕方ないことだけど……、やっぱり煩いなあ」

 ベランダには足場が出来ており、ブルーの埃除けは差し込む日光を薄暗くさせる。日当たりが良くて決めたマンションだというのに台無しだ。

 仕方なく毎朝一時間早く起き流ようになってからは昼食に食べる弁当を作り始めた。これは節約になっているので、助かる部分はあるのかもしれない。

 午前九時二十分には自宅のマンションを出て、会社へ向かう。一人暮らしなのでちゃんと施錠をしたことを確認してからエレベーターに乗り込んだ。一階のロビーに着き扉が開くと、数人の作業着を着た体格の良い男達が香に朝の挨拶をしてきた。マンションの免震対策の施工をしてくれている作業員だ。香は会釈で返し、その場をそそくさとすり抜ける。皆頭にタオルを巻き、日に焼けた浅黒い肌に白い歯が輝く強面の男たちは香からすると敬遠の対象だった。住む世界が違うと言えばいいのか、いかにもヤンチャな男に縁がない香には会釈するだけでも大きな勇気がいる。男たちの群れを抜けた香は会社への道を急いだ。

「おはようございます」

「おはよう、新井さん」

 デスクに着くと、笑顔で挨拶を返してくれたのは社員の横澤瞳だ。香と違い、綺麗にメイクを施された彼女の笑顔は花が綻ぶように可愛らしく、ミディアムロングの髪は緩く巻かれている。この完璧なヘアメイクを毎朝起きてやっているのだから、その苦労は計り知れない。更に瞳は毎日手作りの弁当なのだ。毎朝何時に起きているのか、香は不思議で仕方なかった。

「まだ工事してるの?」

「そうなんですよ。毎朝騒音で起きます」

 クスクスと笑う瞳は始業前のおやつタイムのようで、チョコレートを頬張っていた。なんでも仕事に集中するために血糖値を上げるのだという。

「新井さんもいる?」

「頂きます」

 ファミリーパックの中身に手を入れて一つ手にとり、セロファンに包まれた四角いチョコレートを剥いて口に入れる。唾液でじわりと溶け出すチョコレートは、出勤で二十分ほど歩いた体を優しく褒めてくれているようだ。

「あ、部長が来たから仕事しなきゃ」

「私も!」

 まだ口の中に残っていたチョコレートを噛み砕き、香と瞳はパソコンへ顔を向けた。

 香が働いている食品メーカーは大手ではないが、スーパーで見かけることもある、そこそこの菓子メーカーだ。売り上げが良いのは米菓類で、社内のそこかしこには従業員用に自社の菓子が置いてある。社員も穏やかな者が多く、アルバイトである香を粗末に扱うこともない。社長も気が良いふくよかな男で、香が前職で受けた境遇も知っている。何故なら社長直々に香を面接したのだから。恵まれた境遇なので香はこの会社が気に入っていた。アルバイトなので長く勤めることは出来ないが、それまではこの会社の従業員以外の仕事に就く気はなかった。

 午前の業務を終え、隣に腰掛ける瞳と共に弁当を広げる。瞳の弁当は彼女の見た目に反して古典的な家庭料理が多い。本人はそれを恥ずかしがっているが、香の手作りは玉子焼きだけで、後は冷凍食品を詰めた弁当を見比べれば、どちらの弁当が食べたいかは一目瞭然だった。

「瞳さんのお弁当、今日も美味しそうですね」

「新井さんの玉子焼きも綺麗に巻けてるじゃない」

 日進月歩と言うべきか、最初は焦げていた玉子焼きが、ここ三ヶ月作り続けていたら三分で綺麗な玉子焼きが巻けるようになった。そのことを知っている瞳はクスクス笑みを零しながら「工事も悪いことばかりじゃないかもね」と香に言う。工事が終わっても続けられれば良いが、香は弁当を作る習慣が続くことは想像し難かった。

「瞳さんみたいに仕事も料理も見た目も完璧だったら、彼氏もすぐ出来るんだろうな」

「新井さんったら」

 事実会社のマドンナである瞳に恋心を抱く社員は多い。同じ会社の営業部エースである栗原勉と付き合って既に三年経っていると聞いた。香は一度だけ栗原と話したことがあるが、絵に描いたような好青年で瞳とお似合いだと感動したものだ。

「新井さんにも彼氏が出来るわよ」

「彼氏なんていませんよ」

「好きなタイプとかは?」

 瞳に聞かれ、香は頭を悩ませる。そしてふと高校時代に一度だけ同じクラスになったことがある男子生徒と思い出した。校則で禁止されているワックスで髪をセットした、ややつり目の勝気な男子生徒はクラスカーストで言えば上位の集団にいた。中間位にいる無害を地でいく香と違い、いつも教師に服装を注意され、いつも授業中は寝ていた。そんな彼と接点はなかったが、目立つ集団にいたのでよく見かけた。彼はいつ見ても友人たちと楽しそうに笑い合い、青春を謳歌していた。恋にはならなかったが、彼と一緒にいたら楽しそうだと何度も思ったことがある。結局話すこともなく卒業したが、彼こそが青春という輝かしい時代の一番の思い出だった。

「わかりませんね」

「うそ。ちょっと考えてたじゃない」

「バレましたか?」

 クスクスと笑い合い、それでも香は彼のことを口に出さず、和やかなランチタイムを終えた。


 終業の午後六時に仕事を終わらせた香は瞳に挨拶をしてカバンを持って会社を出た。瞳は今日恋人の栗原と一緒に帰るようで、いつもの笑顔に嬉しさが滲み出ていたことを思い出す。香が仕事帰りに恋人と待ち合わせた思い出は一度か二度しかない。それでもその頃の香は、さっきの瞳のように嬉しそうに笑っていたのだろう。冷え始めた十一月の夜風が頬を掠め、香は独り身の寂しさを漠然と感じた。今は恋人を作る気もないし、そもそも出会いがないのだから仕方ないと言えばそうなのだが、正社員の職に就けずこのままフリーターで一生独り身の未来を想像すると、夜の空気ではない悪寒に体がブルリと震えた。

「恋人か……」

 出会いはないが、望めば機会はいくらでも作れる。事実学生時代の同期から合コンに誘われることだってあるのだ。いくら朝の身支度に時間をかけないからといって、香の見た目は悪くない。肩にかかる焦げ茶色の髪に、大きな目は勝気な印象を与えるが目力があるとも言える。運動部だったので肌は日に焼けて少し浅黒いかもしれないが標準の部類だろう、体も引き締まっていてスレンダーだ。二十三歳でフリーターも昨今珍しくもないことなので、相手は気にしないかもしれない。しかし引け目を感じる香は、出会いの機会を辞退している。対等でいたいと思うのは、プライドが高いのかもしれない。

 物思いに耽っているうちに自宅へ到着した。工事は午後五時までなので、静かになったマンションへ入っていく。自宅へ入るとまずはベッドへ寝転がるのが香の癖だった。布団の柔らかい感触は、一日の疲れを吸い上げるかのように香を包み込み、体に溜め込んだ疲れが大きな溜息となって吐き出される。その後はシャワーを浴び、料理を作る。冷蔵庫にある食材を適当に炒めるだけなので名前はない。不味くなければそれは料理だと思っている香の手料理はいつも適当だ。最後に発泡酒を開けて一口目を多めに飲み込むのが香の毎日のルーティーンだった。

「ぷはあ!」

 口内を刺激する発泡の感触と舌をひりつかせる苦味に、香はソファーの背もたれに背中を預けて息を吐いた。

「今日も終わったなあ」

 傍に置いてある携帯の着信履歴は母親の名前ばかりで、後は思い出したように同級生だった友人の名前が並ぶ。前の職場で同期だった仲間たちは、香が退職してからただの一度も連絡は来ない。毎日ランチを一緒に食べたり、待遇の悪さに泣きながらも頑張ろうと慰め合ったというのに。悲しいものだと思いながら、激務の中で互いのことを話した出来事など皆無に等しく、厳しい境遇の中で生まれる絆というのは無いのだと実感する。退職する時は勇気が入ったし、現状に満足しているとは言い難いが、あのまま激務を続けて人の生活を捨てるよりは正しい選択をしたはずだと香は頷く。

 友人から来たメッセージを開けば、一ヶ月後に開催される高校の同窓会の知らせだった。どうやら友人の彼女は幹事のようだ。

 同窓会の文字に、昼間頭をよぎった思い出がまた振り返す。もしかしたらあの男子生徒も来るかもしれないと、特に話したいこともないのに期待が募った。彼は香にとっての青春を表す人物なのだ。遠目から彼がどんな大人になったのか興味があった。

「瞳さんから、メイク教えてもらおうかな」

 まだ出欠の返事もしていないというのに、香はすでに当日の服装やメイクを悩み始めていた。


 翌朝、やはり香を起こしたのは、けたまましい工事音だった。目をきつく瞑り頭まで布団を掛けても、騒音はちっとも小さくはなってはくれず、香は仕方なく今朝も一時間早い起床に顔をゲンナリとさせる。

 歯を磨いて顔を洗い、薄いメイクを施す。動きやすいパンツスタイルのオフィスカジュアルを着れば、あとは玉子焼きを作って弁当箱に詰め込むだけで身支度は終わりだ。余った時間はコーヒーを飲んで体を温める。随分と優雅な朝だが、香はやはり寝ていたいと思うのだった。

 施錠を確認して自宅マンションの廊下からエレベーターに乗り込む。部屋は最上階の五階なので、途中で停まることもあるのだか、今日はロビーまで貸し切りだった。エレベーターの扉が開くと、昨日と同じように作業員がロビーで工事の作業をしている。しかし昨日とは違い、今朝は一人だった。

「おはようございます」

 香は相手に聞こえるように挨拶をして通り過ぎようとしたが、作業員の男と目が合い足を止めてしまう。相手も同じようで、香の顔をまじまじと不躾に見つめると、思い出したようにハッとさせた。

「違ってたら悪いんだけど、確か同じ高校の……?」

 記憶に自信がないのか、少しオドオドとした様子で香に問いかける作業員の男に、香は言葉なく頷く。驚いているのだ、目の前にいる作業員の男は間違いなく、香の思い出の男子生徒なのだから。

 香の反応に安心したのか、幾分か気を楽にした作業員の男は、けれど香の名前を思い出せないのか視線を彷徨わせる。

「新井、新井香」

「あ! そうだ新井さん! 確か一回だけ同じクラスになったよな?」

 彼の思い出の中に自分の名前はないのだと、予想していたことだが香を落胆させた。

「えっと、俺は……」

「三橋くん。三橋京太郎くん」

 彼が名乗る前に香は男の名前をハッキリと口にした。三橋京太郎。その名を香が口にしたのは初めてだった。

「覚えててくれたんだ?」

「三橋くんは目立ってたから」

 まさか自宅マンションの施工を行う会社に三橋がいるとは思わず、この三ヶ月気付かなかったことに呆れそうになる。

「ほんと偶然だな! あ、これから出社?」

「うん、そうなの」

「呼び止めてごめんな」

 三橋はロビーでの仕事を終えたのか香と一緒にマンションの出入り口まで歩く。こうやって肩を並べることも初めてで、香は状況についていけない。気の利いた言葉も思いつかず、自動扉はすぐに開いてしまった。

「それじゃ、新井さん行ってらっしゃい」

「あ、三橋くんも頑張って!」

「おー! 今度飲もうぜ」

 三橋の言葉に何度も頷き、背中を見せて去っていく姿をいつまでも見つめてしまう。三橋の姿がマンションの裏手へ消えるとハッと我に帰り、腕時計を見れば走らなければ始業に間に合わない時間になっていた。運動部で鍛えた足はフル回転させ、なんとか五分前にデスクにつくことが出来て、ホッと胸を撫で下ろす。隣では瞳が心配そうに香を見ていた。

「新井さん、大丈夫?」

「はぁ、はぁ、だい、大丈夫です……!」

 振り乱した髪を手櫛で整え、瞳には笑顔で応えたがその表情は歪だろう。なんとか息を整えた香は姿勢を正し、パソコンへ向かった。

 その日の香は出勤こそ慌ただしかったが、その後の業務ではミスは一度もなく機嫌も良かった。しかし昼休みに瞳と話していて、重要なことに気が付く。三橋は香を誘ったが、一体どうやって日程を決めるのだろう? 香も三橋も互いの存在に驚き、連絡先を交換しなかった。共通の友人も記憶の中ではいないに等しく、やはり誘いは三橋のリップサービスだったのだと思い、それまで浮かれていた自分に自己嫌悪した。所詮は住む世界が違うのだ、元同級生と偶然にも再会し、食事に行くなど物語の中の話なのだと落胆した。香の沈み具合といえば、午前の業務の時とは雲泥の差で、仕事にミスはなかったが瞳には心配をかけてしまい、終始心は沈んで浮かんでくることはなかった。次に会った時に連絡先を聞くことなど香には出来ないし、もし本当に社交辞令だったとしたら工事が終わる二ヶ月後まで外に出たくないと思うほどだ。

 仕事を終えてもその心が晴れることはなく、香は自分を恥りながら帰宅の道につく。太陽はとうに西のビル群へ姿を消したが、クリスマス近くのため街中はイルミネーションで明るい。吐き出す息は白く、寒さで縮こまる体は、街に居場所がないというように小さかった。

 近くの商店街を早足で過ぎ、気分を入れ替えるために今夜は発泡酒ではなく缶ビールを飲もうと心に決める。いつもシャワーで済ますがお湯を溜めて心身ともに温まろうと自宅へ帰る間に、いつもと違うことをしようと考え、思考を三橋から逸らした。

 自宅まで数メートルというところで、マンションの玄関口に人影が見える。街頭に照らされたシルエットは男のもので、香は不審者かと怪しんだが、向けられた視線にドキリとした。三橋だ。

「新井さん!」

「み、三橋くん? どうしたの? 今日の仕事はもう終わりじゃなかった?」

 時刻は午後六時半を過ぎたところだ、いつもなら一時間半前には三橋の仕事は終わっているはずだ。困惑する香とは対照的に三橋は笑うと、香に駆け寄ってきた。

「今朝連絡先聞くの忘れたから、待ってた」

「え……」

 三橋は少なくとも一時間半はこの寒空の下で香を待っていたことになる。気温の低さで白なった顔は頬だけが赤らんでいた。

「あ、もしかして嫌だったか? まあ俺たち同じクラスでも話したことなかったもんな」

 眉を八の字に歪める三橋に、香は首を振った。そんなことはないと伝わるように。

「良かった!」

 香の気持ちは伝わったようで、三橋は赤い頬を上げて笑う。その仕草は高校時代の頃よく見たもので、まさか香は自分にその笑顔が向けられるとはと驚いた。

「じゃあ、連絡先聞いてもいいか?」

「も、もちろん」

 香は三橋のように顔には出ないが、心のうちは戸惑いと喜びと驚き、様々な感情が綯交ぜになり混乱している。携帯を取り出す手は僅かに緊張で震えていた。三橋はダウンジャケットのポケットから携帯を取り出すと、二人の携帯は距離を縮めていく。赤外線機能はスマートフォンが出来てから聞かなくなったが、連絡先を交換するために近づけるのは、互いの距離を埋めたいという深層心理の現れなのかもしれない。

「よし、じゃあ連絡するわ」

「ありがとう」

「今度マジで飯行こうぜ!」

「うん」

 三橋は高校卒業後も背が伸び続けたのか、身長は一八〇センチメートル近くある上に、仕事柄かダウンジャケットで隠れていても分かる体つきの良さは、香が知っている三橋ではなかったが、向けられる笑顔は屈託なく、少年の頃の三橋のままだ。それが香には懐かしく、けれどやはり大人の男なのだと意識せずにはいられなかった。

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