第4話 悪夢はこうして始まりました。
俺の悪夢は音もなく始まった。
いや、停車していた。
その日の朝も俺はいつものように会社に向かおうと、都心でも有名なタワーマンションの入り口を出た。
風は良好、頭上を見上げると天まで突き抜けそうな晴天が広がっていて、今日も俺が勝者になることを神が啓示しているかのようだった。
俺こそが真の成功者だ。
そんなことを思いながら大理石の階段を力強く降り始めた時、ふと目の前に、見たことがない高級車が止まっていることに気づいた。ブランドは知っている。ロールスロイスだ。
俺自身もちろん何度も乗ったことはある。だが車に詳しい俺でさえ、目の前で停車しているモデルは見たことのないものだった。
おそらくまだ未発売の最新モデルだろう。
名のある有名人や著名人が数多く住むタワーマンションなので、ロールスロイスを持っている人間ぐらいもちろんいるだろうが、この持ち主は別格だ。
階段を降りきった俺は、数メートル先に止まっている車を見つめながらそんなことを考えていた。すると俺がやってきたことに気づいたかのように、突然運転席の扉がゆっくりと開いた。そして中からスーツを着たごま塩頭の紳士が現れて、こちらへと向かってくるではないか。
なるほど、おそらくどこかの社長か著名人が俺との繋がりを求めてきたのか。
連日のように自分とのコネを作りたがっている連中は山ほどいる。もちろん多忙な俺はその一つひとつにバカ丁寧に構っている暇はないが、今回はかなりの大物。これは愛想を振りまいておいて、利用できるだけ利用してやろう。
そう思った俺は内心でほくそ笑みながら顔にはピッタリと爽やかな笑顔を張り付けて、自分の方から挨拶をした。すると同じように笑顔で会釈してきた相手が、「こういう者ですが……」と胸ポケットから一枚の名刺を取り出した。その様子を見て、俺はますます心の中でほくそ笑んだ。
ほら見ろ、やっぱりこの俺との繋がりがほしくて――
「……え?」
名刺を両手で受け取った時、そこに記されている名前を見て、思わず呼吸が止まった。そしてぱちぱちと何度も瞬きを繰り返すと、小さく深呼吸をしてもう一度見た。
そこに刻まれいる三文字を。
『本城寺』
見間違いなどではないと確信した俺は、再びゆっくりと目を瞑った。
……なぜだ?
なぜ、本城寺の人間がこの俺に?
さっきまで自信たっぷりにほくそ笑んでいた胸の中いた俺が、まるで街中で野生のライオンに出会ったかのように急激に怯え始める。直後、脳裏にはかつて父親から刻み込まれたあの言葉が蘇る。
命欲しくば、本城寺家には逆らうべからずーー
両親、または祖父母が言霊のように唱えていたその言葉が、頭の中で激しくリフレインした。
我が龍崎家は本城寺家と古くから関わりがあった一族だ。
とは言ってもそれは父親の代までの話しで、俺自身は本城寺家の人間とは幼い頃に何度かあったくらいでそこまで関わりがない。
それでも物心つく前から血相を変えて叩き込まれた教えは、どれだけ時間が経っても、心にできた痣のように残っているもの。
俺はごま塩頭の紳士が本城寺家の人間だとわかった瞬間、何もかも素直に従おうと思った。だから3秒後には、ロールスロイスの後部座席に素直に座っていた。
本城寺家の人間が、今頃なぜ俺に?
行き先も告げられず、黒塗り窓で視界を遮られた密室の中で、俺はただただそのことばかり考えていた。
龍崎家は古来より家来として本城寺家に仕えていた。実際、俺が生まれた時に比較的裕福な環境だったのは、先人たちが血と涙を流して本城寺家に支えてきた名残だった。
武士の時代ならいざしらず、今は日本刀の代わりにテクノロジーとお金が力を持つ時代。
このまま見知らぬところに連れて行かれたからといって、いきなり鋭利な刃先を喉元に突きつけられることはないだろう。というより、俺は本城寺家に対して何もやらかしてないし、関わりも薄い。
じゃあ一体、今頃なぜ俺に?
またこの問いかけに戻ってくる。
頭の中がクエスチョンマークで飽和寸前になった時、不気味なほど滑らかな動きでロールスロイスが停車した。
そして先ほどのごま塩頭の紳士が車から降りたかと思うと、後部座席の扉を開けて俺をエスコートした。この対応を見る限り、俺は家来としてではなく、『客人』として迎えられているのだろう。
きっとそうだ。だから、大丈夫だ。
一向に落ち着かない心臓の音を鎮めるために、俺はいつもよりスローモーションな動きで後部座席から降りた。貫禄を放つ人間というのは、岩のごとく動きが落ち着いているからだ。
革靴が着地した場所は、これまた見たことのないほど立派な日本庭園だった。本当に立派だった。
国の重要文化財か、あるいは世界遺産にノミネートされてもおかしくないような、和の精神が精巧に詰まった庭。そして、無駄に馬鹿でかい。だいたいロールスロイスを停車できる日本庭園って何だ?
呆気に取られて右眉をピクピクと動かしていた俺に、ごま塩男はさらに衝撃的なことを告げる。
「ここが本城寺家のご自宅です」
「は?」
思わず素直な反応が口から飛び出してしまい、俺は慌てて「申し訳ありません」と頭を下げた。
相手は気を悪くする様子もなく、愉快そうに喉を鳴らすと、「私はただの運転手ですよ」と立場と名前を明かしてくれた。ごま塩頭で俺と同じディオールのスーツを着ている彼の名は、佐藤太郎という名前らしい。
なんだ、お付きの運転手か。と一瞬安堵の息を漏らすも、相手は本城寺家に仕えている人間。油断は禁物だ。
そのまま俺は佐藤に案内されて、日本庭園のど真ん中を貫く立派な一本道を歩いた。
その先に見えてきたのは、日本好きの石油王が建てたんじゃないかと思うぐらいのどデカい和風宮殿。巨人もくぐれそうな大きな玄関扉を抜けると、今度は和装をした召使いと思われる女性が俺を出迎えてくれた。
この雰囲気に、決して飲まれてはいけない。
そう思った俺は、「お待ちしておりました」と深々と頭を下げてきた相手に軽く会釈をすると、ぴんと背筋を伸ばして自信があることをアピールする。
だが、正直なところ胸中は、産後すぐに母親を失ったバンビのように怯えていた。
それでも冷静な自分を取り繕って上がり框で靴を脱ぐと、俺は未知の世界へと一歩足を踏み入れた。
純和風のこの住まいは、もはや家というより巨大な寺院か城だった。
長い廊下を歩いている途中で通り過ぎる部屋はどれもありえないほど広く、狭い2LDKの家ならすっぽりと入ってしまいそうなほど畳が敷き詰めらえていた。
何もかもスケールが違う。これこそが本城寺家が代々畏れられてきた理由か……
随所に見られる権力者の象徴を目の当たりにしながら、俺はゴクリと唾を飲み込んだ。俺も間違いなく金持ちの一人だが、次元の違うその光景に思わずめまいがしそうだった。
「輝夜様、龍崎竜雄様がお見えになりました」
金粉なのかそれとも本物の金が塗られているのかわからないが、黄金色の襖の前で召使いはそう言った。その言葉を聞いて、俺は一瞬息を止める。
この先に、本城寺家のトップがいる……
名だたる大物と互角に渡り合ってきた自分でさえ、そのあまりの緊張感に鳥肌が立った。
「ご苦労」と品のある声が中から聞こえてきたと同時に、召使いは一度こちらを振り向くと優しく微笑み、洗練された動きでゆっくりと金の襖を開いていく。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます