第3話 悪夢のJK

JK。


正式名称、女子高校生。


俺にとってこれほど理解し難く、そして、関わりたくない生き物はこの世に存在しないだろう。


地上60メートルのビルの最上階。まるまるワンフロアが社長室となった部屋で、俺は大都会を見下ろしながらそんなことを思った。


腹立たしいぐらい澄み切った青空が、先日起こった悪夢を鮮明に映し出そうとしてきたので、慌てて首を振る。


大丈夫。俺はまだ、冷静だ。


若干28歳にしてタイムズ紙の『次の時代を担う100人』の一人に選ばれた俺は、今日も心身共に正常運転。


そうだ、何も問題なんて存在しない。


俺は何も間違ったことなど、犯していない。


タバコを取り出しお気に入りのジッポで火をつけると、その味を確かめるようにゆっくりと息を吸う。


瞼を閉じ、血流に乗って流れるニコチンと一緒に己の自信と存在価値を全身で感じ取れば、生まれ変わった気持ちで再び目を開けた。


目の前の窓に映っているのは、モデルのような体形でディオールのスーツを着こなす男。


今や日本中の誰もが憧れるカリスマ社長といえばこの俺、龍崎りゅうざき竜雄たつお


大学在学中に立ち上げたネットビジネスが大ヒットし、若くして日本のビルゲイツと称されるほどの成功を収め、今では世界中のIT業界を牽引する大企業アースエージェントの創立者。


そんな俺の輝かしい人生に、過ち一つ、いや、シミひとつ付けてはいけないのだ。


力を込めずきたのか、握っていたタバコが無残にも『く』の字に折れ曲がった。その瞬間、俺の怒りと同じように熱を持った灰がアルティオリの革靴にかかりそうになり、俺は慌てて右足を動かす。おかけで、国内最高級のカーペットに焦げ目がついてしまった。


「最悪だ……」


足元にできた小さな汚点を睨みながら俺は呟く。まるで自分自身の汚点のように深く焼かれたパイル生地を隠すかのように、靴底で強く踏みつけた。


どんな時も冷静沈着、そして、究極の利己主義。いかなる状況でも先手を打っては思い通りに人生の船を漕いできたこの俺が、ここ数日間、何故か漕ぐためのパドルが行方不明だ。


「これも何もかも奴らのせいだ……」


力を込め過ぎたのか、再び取り出したタバコは火をつける前にくの字に折れ曲がった。


これ以上のストレスは危険だ。


そう思った俺は、山火事状態の心を落ち着かせるために、ゆっくりと深呼吸を始める。


大きく息を吸って、止めて、そして吐き……

 

出す前に、胸ポケットに入れていたスマホがぶるりと振動した。その瞬間、思わず背筋に強烈な悪寒が走る。


焦るな俺。これは誰かからただのメッセージが届いただけだ。

 

きっと先日買収交渉を行っていた相手の会社からの吉報だろう。そうだ。そうに違いない。

 

俺は一つ咳ばらいをして落ち着きを少し取り戻すと、ゆっくりと右手でスマホをポケットから抜き出す。画面には、新着メッセージのアイコン。ほら見ろ、これは絶対にあの会社からの……

 

指先で画面をタップした瞬間、メッセージの送り主の名前を見て俺は硬直した。何もかも俺の勘違いで悪い幻想だと思い込もうとしていた最近の出来事が、悪魔のように鮮明に脳裏に蘇ってくる。

 

本城寺天華。


「…………」


嘘だ。


嘘であってほしい。

 

先週までは登録されていなかったはずの新たな名前を見て、俺の身体が小刻みに震える。


成功を前にした武者震いなんかじゃない。


これは完全に、ただの『恐れ』だ。


俺はメッセージの内容をあえて見ず、一度心を落ち着かせるためにスマホを胸ポケットの中へとそっと戻した。


ポケットよりもさらに内側にある心臓は、まるでSOSを発しているかのように激しく脈動している。


カエルには蛇がいるように、そして、蛇には鷲がいるように。どんな強者と呼ばれるものにも、さらにその上の強者が存在する。


タイムズ紙の100人に選ばれ、時代の風雲児と呼ばれているこの俺でさえ、あがらうことができない風雷神が存在する。


本城寺家。


日本の数ある財閥の中でも別格の存在感を放ち、俺が専門とするIT業界はじめ、医療、教育、小売に福祉など、ありとあらゆる業界に精通し、事業を展開している化け物一族。


その歴史は古く、日本にちょんまげの文化が誕生するよりも前から富豪として活躍していたとか、かつては時の将軍と肩を組んでお茶を飲むほどの力を持っていたとか……


真意のほどは定かではないが、ようはそんな噂が生まれるほどの権力一族なのだ。


現在の日本でも、分野に関わらず石をひっくり返せば、何かと本城寺家がその裏に関わっていると断言しても過言ではない。まさに、『日本=本城寺家』とどんな数学者も編み出すことができないような図式が完成しているのだ。


そんな巨大財閥を統べる人物が、本城寺家47代目現当主、本城寺ほんじょうじ輝夜かぐや


女性でありながらその手腕は確かなもので、現代における本城寺家の飛躍はほとんど彼女の手柄といっても間違いないだろう。


そして彼女の一人娘であり、本城寺家の未来を背負っているのが、本城寺天華なのだ。


つまり輝夜の愛娘は、名誉もお金も成功も、生まれた時からすでに手にしているという誰もがお近づきになりたいと思うような人間なのだ。なのだが……


ぐるぐると頭の中に回り始めた悪夢に意識が飲み込まれていると、突然部屋にノックの音が響いた。


ビクリと必要以上に肩を震わせてしまった俺は、冷静さを演出するために「入れ」といつもより2トーン低い声で返事をする。すると、「失礼します」と凛と芯の通った声と共に、秘書の篠原しのはら莉奈りなが現れた。


「社長、先日買収交渉を進めていたクラリネット社より、先ほど買収合意の連絡が入りました」


「……そうか」


俺は一切表情を変えず、返事を返した。


おかしい。


二週間前の時はあれほど心待ちしていた結果がついに手に入ったというのに、なんだこの味気のない虚無感は?


いつもなら全身で喜びを感じるはずが、今は暖簾に腕押しと言わんばかりに、どんな刺激も心には響かない。表向きは普段と変わらない自分を演出して過ごしてきたつもりだったが、中身はだいぶ毒気にやられてしまっているようだ。


そんなことを思い一人感傷に浸っていると、目の前にいる篠原が綺麗に整った眉端を少し下げた。


「社長、なにかお悩み事ですか?」


頭一つ低いところから、大きな猫目に少し不安げな色を滲ませて見つめてくる篠原。そんな彼女の姿を見て、俺の心はますます虚無感に襲われていく。


やめてくれ……そんな上目遣いで俺のことを見ないでくれ。


俺は動揺を隠すように目をそらすと、「何もない」と端的に答える。すると、「そうですか」と答えた篠原が、頭を僅かに伏せた。その拍子に彼女の艶のある黒髪が、はらりとその胸元にかかる。


誰が見ても豊満だとわかる身体を、グレーのパンツスーツで品良く見せているところは、さすが俺の秘書だ。だからこそ……


俺はそこまで考えてまた一つため息をついた。


この一週間で生活どころか人生が激変して失ってしまったものは多々あるが、そのうちの一つが彼女との関係だ。


ビジネスだけでなく、この容姿で恋愛でも百戦錬磨の結果を出してきた俺は、たとえ相手がどれだけ難攻不落の女と呼ばれていても攻め落としてきた。


モデルやレースクイーン、時には芸能人や女優など、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いで狙った獲物は手に入れてきたのだ。


そんな敵なしの俺の前に現れたのが、篠原だ。


彼女が俺の秘書としてやってきたのは一年前。某大手企業から我が社に引き抜きされて、その力量からすぐに俺直属の秘書になったのだが、最初出会った時は本当に驚いた。


ドンピシャだったのだ。


容姿、性格、そして仕草一つとっても、何もかもが俺好み。今まで数ある女性を見てきたが、ここまでハイスペックに全てを兼ね揃えた女性と出会ったのは初めてだった。


もちろん俺はハンターのごとく、そしてスマートに彼女にアプローチを仕掛けた。ディナーに、デートに、プレゼント。今まで培ってきたスキルを総結集させて、俺は彼女にありとあらゆる龍崎ワールドを披露した。


だがしかし、驚いたことに彼女は、その申し出をことごとく断ってきたのだ!


これは無敗の男と呼ばれてきた俺にとって、まさに下克上。


今までならどんなに遅くとも一か月以内にはどんな女性も手中におさめてきた俺が、彼女との平行線は一年近くも続いてきたのだ。


だが、それも必ずやいつかゴールインする。


微々たる変化とはいえ、日増し少しずつ縮まっていくような気がする彼女との関係の中で、俺はそんなことを確信していた。順調良く進んでいる買収交渉も含めて、ビジネスにしろプライベートにしろ、俺はまさに大きな成功を手にしようとしていたのだ。


そう。


間違いなく自分なら手にできると思っていたのだ。



あの、悪夢の朝を迎えるまでは……



込み上げてくる胸の奥のわだかまりを少しでも楽にしようと、俺は再びため息を吐き出す。目の前では相変わらず綺麗な顔で、秘書が宝石のような瞳をまっすぐに向けてくる。


星空を閉じ込めたようなその美しく黒い瞳に映っているのは、あの悪夢の日と同じく、まるで死刑判決でも下されたような絶望感を丸出しにした情けない男の顔。


そんな見たくもない自分の姿を見てしまい、俺の頭の中では、あの日の悪夢が勝手に蘇っていた……


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