第2話 木曜日なのに全校集会。
「えー……マイクテスト、マイクテスト」
体育館の舞台上、普段は絶対マイクテストなんて言わない校長が、額に汗を滲ませながら何度も同じ言葉を呟いている。激しく目が泳いでいるところを見ると、おそらく話す言葉がまだ整理できていないのかもしれない。
一体、何の話しなのだろう?
私はいつも通り2年2組の列の真ん中に並びながら、その様子を冷静に見つめていた。そう言えば、今日は英語の小テストがある日だ。もちろん満点を取る自信はあるけれど、教室に戻ったら念のために復習しておこう。
そんなことを考えていた時、ふと視線を感じて私は顔を上げた。すると、まだマイクテストと連発している校長と目が合った。その顔は、怯えたようにも、珍しいものを見つけたようにも見える。
私はニコリと小さく微笑むと、礼儀正しく頭を下げて挨拶をする。
自分よりも目上の人に挨拶する時は、礼儀正しさと愛嬌が何よりも大切なのだとお母様が言っていた。
顔を上げると、何故か校長はさらに驚いた表情を浮かべてすぐに目を逸らした。なぜそんなに私のことを見て動揺するのか理解できないけれど、もしかしたら校長は、ちょっとシャイなのかもしれない。
目が合う、といえば私はよく人と目が合う。特に男性とは。
別に私が意識して見ているわけではないのだが、気がつくと相手が見ているのだ。
その理由を追求しようと思い一度仲の良い友人に話してみたら、「そりゃ
そんなことを考えていたら、マイクテストの六文字しか喋っていなかった校長の口から、新しい言葉が聞こえてきた。
「えー……みなさん……」
おかしい。
どうして今日の校長先生の声はこんなにもたどたどしく、不安定なのだろう。
いや、たどたどしいのはいつものことなのだけれど、それにしてもあまりにも不安定だ。まるで、これから話すことが道理に反しているかのように、その声と表情からは恐怖と後ろめたさが滲んでいる。
もしかして、何か弱みでも握られているのかもしれない。
ふとそんなことを思い、私はそっと瞼を伏せた。そして、心の中で手を合わせて祈る。
どうか校長先生に、災いや苦悩を与える人間が現れませんように。
私は再び瞼を上げると、表情には出さずに胸の中でそっと微笑む。たとえ赤の他人でも、怯えて傷ついているものには慈悲を与えよとお母様は言っていた。
お母様からの教えをひとつ守った私は、大切な仕事を終えてふうと息を吐き出す。これできっと校長も落ち着きと冷静さを少しは取り戻すだろう。
そう思っていた私の考えとは裏腹に、さらにマイクがハウリングしそうなほどの裏返った声が館内に響いた。
「わ、我が校の生徒の中で……とても重大な出来事を起こしてしまった生徒がいます」
校長の言葉に、体育館の空気がざわつき始める。木曜日なのに、急遽行われた全校集会。私が入学してから、そして聞けばこの学校が開校して以来初めてだというこの事態に、ことの重要さが伺える。
一体、誰だろう。
私は考える。
以前この高校の生徒がオリンピックの日本代表に選ばれた時でさえ、その発表は翌週月曜日にいつも通り行われた全校集会の時だった。つまり今回の出来事は、日本代表に選ばれることよりも重大なこと。あるいは名誉あることなのかもしれない。けれど……
私はもう一度瞼を閉じると、真っ暗になった世界の中で静かに息を整える。そして、知っている限りの生徒の顔を思い浮かべてみた。
全校生徒800人以上いる日本屈指の名門私立高校、この
いや、もしかしたら私の交友関係以外のところで偉大な才能を持つ生徒がいるのかもしれないけれど、残念ながら、私の耳にはまだ入ってきてはいない。
今度機会があれば、是非ともお近づきにならなければ。
己の品格と心を磨いていくには、常に自分よりも優れた人と一緒にいること。これもまた、お母様の教えだ。
そんなことを思っていると、再びスピーカーからたどたどしい声が聞こえてきた。私はその言葉にそっと耳を澄ます。
「一部の生徒はすでに知っているかもしれませんが……これは今後我が校のモラルと信頼にも関わることなので、あえてこの場を借りて伝えたいと思います」
モラルと信頼。
どうやらこの二つの言葉から察するに、今回の話しは才能や名誉といったものとは関係がないらしい。
だとしたら何だろう?
私は再び考えた。
これといってまったく心当たりが思い浮かばず少し首を傾げたタイミングで、おずおずとした校長の声がスピーカーから聞こえてきた。
「えー、我が校の……我が校の生徒の中で……」
どんどんと声が小さくなっていく校長。それが逆に効果的だったのか、体育館がかつてない静けさと緊張感に包まれていく。
「我が校の生徒の中でなんと……け、け、けっ」
ん?
突如喋り方がおかしくなった校長に、私はきゅっと眉間に皺を寄せた。
どうしたのだろう?
それとももしかして……、「けけけ」と笑っているのだろうか?
これはもしかすると楽しい話しなのかもしれない。そんなことを思った瞬間、今度は空を切るような凄まじい声が突然スピーカーから響く。
「けっ、『結婚』をしてしまった生徒がいますぅう!!」
まるで、爆撃機のような奇声。
一瞬スピーカーが故障してしまったのではないかと思うほどのハウリングが起こった後、すぐに深海のような沈黙が辺りを包み込んだ。
その直後、今度は反動のように館内が突然ライブ会場と化す。
ある者は黄色い声をあげ、またある者は絶叫を。中には下品な男子たちが、雄叫びにも近い声を発している。
「し、静かに! お静かにして下さい!」
額から大量の冷や汗を吹き出している校長が、音頭をとるような動きで両手をマイクの真横でリズムよく上下に振っている。これは空気を読んで、私も手拍子ぐらいはした方が良いのだろうか?
そんなことを思い、私が真剣な表情で最初の手拍子を刻もうと腕を上げた時、再び校長が大声で言った。
「これは我が校始まって以来、前代未聞の問題です! 盛り上がるところではないんです! だから静かにして下さい!!」
シャーラップ! っと英語のクリストファー先生の援護もあって、館内はロックンロールよりかはクラシックが似合うほどには落ち着きを取り戻した。その再び訪れた静けさの中で、私の頭の奥で何かが引っかかる。
先ほど校長先生は、『前代未聞』という言葉を使っていた。
その言葉が意味することはつまり、この高校で在学中に結婚したことがある生徒は、今のところたった一人しかいないということ……それは、つまり……
私は思わずハッと顔を上げた。
やっと気づいたからだ。
校長が話している生徒とは、この全校集会の議題となっている人物とは、何を隠そう、この『私自身』のことなのだと。
なんだ、それなら事前に話しをしてくれればいいのに。
謎が一つ解けて、私は安堵するように小さく息を吐き出す。
私自身、まさかこんなことで全校集会が行われるなんて思ってもいなかったけれど、わざわざお忙しい先生方や生徒たちみなさんの時間を頂戴したのであれば、感謝の気持ちを込めて何かしらの謝辞は述べておいたほうがいいのかもしれない。
さて、どうしたものか?
コクンと首を傾げた時、再び校長と目が合った。今日はよく目が合うなと思っていたけれど、そういう理由だったのか。
ここは一族代表として恥をかかないように、凛とした態度で臨まなければ。
そう思い、私は静かに息を吸うと、自分はどうするべきかを考えた。
そして……
「ここではあえて名前は伏せますが……」
マイクから聞こえていた校長の声が、突然止まった。顔を見ると、その目はまるで化け物でも見たかのように見開かれ、ある一点を見つめている。
その視線が示す先と、私の視線の先が一致する。
そこにあるのは、天に向かって高らかに伸ばされた私の右腕。
どんな時も姿勢を正しくすることをモットーにしている私は、指先一つ美しく見えるように真っ直ぐに、そして誇らしく伸ばす。
直後、体育館が再びざわつき始めた。周りにいる同級生たちからは 「え? 嘘だよね?」とか「冗談だろ」と戸惑いと動揺を隠し切れない言葉が飛んでいる。
その一つひとつに静かに耳を傾けながら、私は心の中でそっと呟く。
皆さま、ご心配なく。
私自身、このようなことが我が身に起こるなんて夢にも思っていませんでしたが、これはまぎれもない真実です。
わたくし
この度、『結婚』致しました。
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