第6話「命をいただく」

 斎藤は、火元まで猪をひきづって、二人の前に置いた。

 猪の硬直した体が、赤く照らされる。


「駒王丸様、触られよ」

 斎藤に促され、駒王丸が猪の頭をなでる。

 さっきまで生きていたとは思えない冷たさが、駒王丸の手を引っ込ませた。

「猪とは、冷たいのか」

 驚いて、斎藤にそう尋ねる。


「違います。そのままにしておくと腐るため、沢につけて冷やしております。その前は、生きている間は、某らと同じ温かな赤い血が流れる、同じ命にございまする」

「そうか」

 駒王丸は、再び手を伸ばし、猪の頭をなで、ほほをなで、背中をなでる。


「殺したのか」

 駒王丸の言葉には、悲哀が入り混じっていた。

 駒王丸が武家の御曹司とはいえ、まだ五歳。

 せいぜい木剣をおもちゃのように振り回すのみ。


 肉は調理されてからしか見たことがない。

 明確な存在を持って示された“死”は初めて見た。


「さよう。殺して、命を奪いました」

 斎藤が短くそう答える。

「なにゆえだ」


「某らが生きるためゆえ」

 駒王丸は、涙をこぼした。

「人は、他の命を奪わないと生きていけないのか」

 駒王丸の言葉に、斎藤は駒王丸の慈悲深さを見た。


「人だけではありません。この世に生きとし生けるもの、あらゆるものが、命を奪い生きていまする。この猪はヘビやカエルを食べます。ヘビはネズミを丸のみします。ネズミは草木を食べます。草木は死骸でできた土の上に育ちます。こうして命は循環しているのです」

 斎藤は手を合わせた。


「命に敬意を表しましょうぞ。そして、感謝して生きましょうぞ。それが、生き残ったものの務め」

 斎藤にならい、駒王丸と巴も手を合わせた。


 しばらくの合掌のあと、

「さあ駒王丸様、巴殿、せっかくの命を無駄なくいただくため、某の話を聞いてくださるか?」

 2人は大きく頷く。


「戻りました!」

 小枝も戻ってきた。

 枝を火の中に放り込むと、水分が多かったのか、火花が散った。

 湿気が多い八月。

 それでも火は良く燃え上がった。

 前もって斎藤が猪の脂を入れていたからだ。


「ちょうど良かった。小枝御前もこちらへ。これから猪をさばきますゆえ、見ておいたほうがよかろう」

 斎藤は小枝を呼び寄せる。


 解体は狩猟する者が行うのが基本だが、狩猟に向かない小枝にも知っておいたほうが良いだろうと斎藤は考えた。

 猪のしかばねを前に、小枝は息をのむ。

 料理はしたことがあっても、動物の解体などしたことない。


「まずは冷やすこと、そして血抜きをすること。これは腐らせないために行う。この作業は時間が命。ゆえに、狩猟したものが行うこと。だから、齋藤がいなくなったあとは、お二人にお任せしますぞ」

 齋藤は小枝と巴に言ったつもりだったが、3人が同時にうなづく。


「これは沢が近くにあったゆえ、水にけて冷やしておりますが、木曽は雪が多いゆえ、雪をかけるのも良いでしょう。首元を触り、ぬくもりが消えるまでやれば十分にござる」

 斎藤はそう説明しながら、首筋に手をあてるしぐさをする。


「血抜きは、心の臓か首に刃を入れましょう」

 斎藤はそう言って、猪の胸に匕首あいくちを突き刺す。

 うっと、思わず小枝が顔を背ける。


 だが、駒王丸がすそを引っ張るので、斎藤の説明に目をそむけるのは失礼と思い直すことができた。

 おそるおそう目を開きながら猪の心臓に目を向けた。

 どろっと血があふれる。

 だが、思ったよりも出血しているように見えない。


「死んでいると血液を送り出す心の臓が止まっているので、簡単には血は出てきませぬ。獲物が軽ければ、木の枝にぶら下げておくのも良いでしょう。それがあたわなければ、前足を動かしたり、踏みつけるなどすれば、それなりの血抜きはできます」


 斎藤はそう説明しながら、なぜか袋を取り出す。

 袋の口を心臓にあて、空いた手で猪の前足を握り、心臓のほうにおしやると血があふれ、袋に血が入り始めた。

 袋は、牛の胃袋を干して作られたもので、防水性がしっかりしている。


「生きているうちに、とどめも兼ねて、先に血抜きをしてももちろん構いません。心の臓も動いておりますし、効率が良い。しかし、その際は反撃にはくれぐれもお気をつけるように。手負いの獣は恐ろしいものにござる」


 そう言って、斎藤は血入りの袋を小枝に渡す。

「今回はこれが必要であったため、あえて血抜きをしませんでした」


「斎藤殿、これは……?」

 小枝は口元を抑える。

「もちろん、猪の血にござる」


「そのようなおぞましいもの、早く捨ててくださいませ!」

「何をもったいないことをおっしゃる。これを飲むのです」

「飲む! そんな!」

 小枝は、うっとうめく。


「生き物の血は、活力を生み出す最高の薬にござる。小枝御前には申し訳ないが、これも生きるため嫌でも飲んでいただく」

「その獣に、さっきまで流れていた血を飲めというのですか」

「さよう」


 小枝は猪に目を向ける。

 猪のぎょろっとした目に、すでにハエがたかり始めている。


 斎藤の言う通り。

 血には、ブドウ糖のほかに、貴重な塩分とミネラルが入っている

 山菜などでは補えない、貴重な栄養素が血の中にはある。


「斎藤殿、違う」

 駒王丸がそう斎藤に言う。

「違う、とは?」

 斎藤が駒王丸にそう聞き返す。


「斎藤殿はこう言った。“命に敬意を表せ”と」

 そう言って、小枝に向きなおる。

「母君。この猪は我らが生きるために、命を奪われた。“感謝”していただきましょう」


 自分の息子にこう言われて、小枝の嗚咽はおさまった。

 口元を抑えていた手が離れる。


「そうね。駒王丸の言う通り」

 小枝は地面に正座し、手をついた。

「斎藤殿、失礼いたしました」


「そのような。おもてをあげなされ。野に慣れない御前にとっては当然のこと。謝る必要はござらん。分かっていただけて何よりでござる」

 斎藤が小枝の手を取る。

 そして、血が入った袋を渡した。


「言い方が不躾ぶしつけになってしまったのは、某の至らなさゆえ。女人には、より血が必要であったため、強い口調になってしまった。許されよ」


 成人女性はより、鉄分が必要となる。

 その意味を理解した小枝は赤くなる。

 この時代の武士に、女性に対するデリカシーは存在しない。


「斎藤殿、なぜ女人には血が必要なのだ?」

「まだ知らなくても良い!」

 駒王丸の質問を、小枝が遮る。


「いざ」

 小枝は袋を開く。

 辺りの暗さゆえに、袋の中は良く見えない。

 臭いは、思ったよりなかった。

 むしろ、無臭だ。


 小枝の脳裏に、凶暴な猪の想像と、先ほどの猪の生々しい屍が思い起こされる。


「血は鮮度が命ゆえ。一分も経たないうちに、腐敗し、血なまぐさくなってしまいます。あの子らのためにも、早く飲まれるよう」


 斎藤にそう急かされ、小枝は思いっきり飲み込んだ。

 どろっとしたものが舌の上を通り、のどに流れ込んだ。


「甘い!」

 小枝は思わずそう口にする。

「なんと甘美な。果物のような甘さがします」

 驚きを隠せない様子で、小枝はそう言う。


小枝から、斎藤はすぐ血の袋をとり、駒王丸に渡す。

「さ、駒王丸様。お飲みなされ」


 駒王丸は受け取りうなづいたあと、ぐっと血を飲み、巴に渡す。

 巴もそれにならった。


「甘い」「甘い」

 2人も同じようにそう言った。


「血は、外に出ればあっという間に、固まり、血なまぐさくなりますが、それが本来の性質ではござらん。血は体に活力を届けるもの。それが美味なのは当然というもの」


「言われればそのような気がしますが、不思議です。血が甘いとは」

 小枝がそう言う。


「さ、次は内臓を取り出しますぞ」

 斎藤は匕首で、腹の皮にすっと切れ目を入れる。

 皮をはぐと、内臓が露わになった。

 内臓は、脂でてかてかと月の光を反射している。


「斎藤殿。まさかこれも……」

 小枝が震える手で内臓に指をさす。

「もちろん、美味でござる。特に腸は焼くと最高ですぞ」

 斎藤の言葉に、小枝は目まいを覚えた。




「美味しかった……」

 小枝はそうつぶやいた。

 その目に涙がたまっていたが、それは美味しかったからなのか、それとも別の理由か。


「残りの内臓は捨てましょう」

「え、捨ててしまうのですか?」

 あれほど嫌がっていた内臓を名残惜しそうに見る。


「内臓も腐敗が早いゆえ」


「斎藤、“命に敬意を示す”のではないか?」

 駒王丸がそう聞く。

 斎藤は、人の言葉を大切にされる御方だと思った。


「その通りにござる」

「捨てるのは敬意を示すことなのか」

「さよう」


 斎藤は太めの木の枝を切り落とす。

 それで土を掘り始めた。


「自然から頂いたものは、自然に返すのが道理。それがまた命をはぐくむのです。それを人がすべて腹に入れようとするから、歪みが起こる」


 穴に余った内臓と、骨を投げ入れ、土をかぶせる。


「猪は、某らの血肉となり、自然に還りました」


 斎藤は手を合わせる。

 三人も倣って手を合わせる。

 

「父上もそうであればいいな」

 駒王丸はそうつぶやいた。

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巴御前 脇役C @wakic

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