花を育てる男
とある男が私の町に越してきた。町は時を止めたような景観で、ここ数百年前の姿を保っている。その外観のまま居抜きの真新しい内装があることによって、店がどのくらい続いているのかわかるのだ。街は常にどこかで老朽化に伴う修繕工事がされており、立地に伴う人の往来も含めて端から端まで騒がしい。有り体に言えば流動的で賑わいを見せている。男が越してきたのはそんな町だった。
「見に来たよ。調子はどうかね」
お父様の口利きで店を開いたらしく、男は全くの余所者の様だ。お父様は店に入るなり真っ直ぐ男の元へ進みカウンターに膝を着いて話し始めた。相手の男は当時の私からすると若い大人の人くらいの認識であったが、実際のところは二十歳になったかどうかくらいの若さだった。店を持つのに早すぎるというものだ。
お父様と男の話に興味をなくして、仄暗い店内で私は店の商品を一点一点見ていった。男の店は宝石の原石を販売しており、加工と宝飾品の作成をしていた。薄紫、紅色、深い青色、紅茶色、石は言葉の知らない美しい色彩を持っていった。子供ながらに私は石の見透かせない色彩の虜になっていった。
「おおい、スイバ。欲しいものがあれば買ってやろう。お前ももう少しすれば社交の場への招待もあるだろう。君への開店祝いだ」
お父様は私の方へ体を向けたまま、目線を男へ向けて口を聞いた。男は小さく頭を下げた。線の細い髪が静かに揺れた。
「お安くしますよ」
男の発音や色素の付いた肌の色や線の細い髪質、顔の輪郭などから私は子供ながらに男が別の国の人だと察しがついた。私は知らないものへの異質さに不安を感じてお父様の元へ駆け寄っていった。それを見やったお父様が口を開く。
「人見知りなんだよ。先生」
「......先生?」
私は男が学校の先生には見えずに思わず尋ねていた。
「そう、彼は東の国の研究家の先生なんだ」
「東って危なくないかしら? 東には光る魔がいるのよ。学校の先生が言っていたわ」
私の言葉にお父様が男の方を向いて謝った。
「すまない。なんでも尋ねるのが性分でして......。それに先生方が光を神さまと呼ぶのは存じているよ。他意はないんだ。お気を悪くされないで。娘には後で強く言っておく」
「ええ。ご配慮に感謝します」
男はお父様に微笑んでから私を見やった。顔を動かすと合わせて髪が揺れた。肩ほどの位置に左右で緩く三つ編みにしているから、本当はもう少し髪が長いのだろう。毛先までが静かに男に従って動いていた。後ろから見たら細身で華奢な身体付きも相まって女性のように見えるだろう。その時は男の着ている伝統的な衣装が異質さを一際引き立たせた。裾の長いベストに縁取りは細かい金や紫、緑の刺繍がびっしりと入っている。
「スイバさん。光を見たことは?」
「......まだありませんわ」
「そうだろう。あれを見なければ誰も神さまを認めたりはしないだろう。ボクも同じさ」
「先生はいつ見たの?」
「君よりもずっと小さな頃に。光がボクに力を与えた、とわかったのさ。神さましか持てないような特別な力だよ。この力がなんの意味を成すのかがわからないから、まだ力を信じきれないのだけれど、たしかにあるのだけはわかるんだ」
男は身体の真ん中あたりに手を置いた。そこを中心として、眩く光ることも、風が吹くことも、水が溢れることも、地が揺れることもなかった。
「ボクは与えられた力がどういうものなのかを研究している。その為にここに来た」
「どうして? 光の近くにいた方が光を研究できると思うわ」
「たしかにその通り、賢いね。でもボクは敬虔な人間ではないし、寧ろ君たちの方に興味があるんだよ」
「私?」
その大きな括りを私は自分を名指しされた時のようにさぞ重大なことを言われたように感じた。そして男、先生と私は徹底的に違うのだと信じてしまった。
「君たちの中にも加護を受けた人はいるのにどうして、恐ろしいと形容するんだろうか。ボクが受け取った力は何にでもなれる力だと言うのに」
「先生は何になるの?」
「まだわからない。けれど必ず変わりたいと思っているよ」
私は先生の言葉が羨ましかった。自分の持たない価値観を持っている先生が眩しかったからだ。私はきっとそういうふうになれない。生まれも育ちも違う。そして根本として先生は加護を受けていて、私は加護を受けていないのだ。
「ボクの話はまたいずれ。さてどれにしようか。お好きな石をお選びください」
先生はカウンターの跳ね上げ式の扉から売り場側に出てきて、棚に置かれた石を見やった。カーテンの隙間から覗く光が石にあたりくぐもった灯りとなって店内を照らす。細かな埃がそれにちらちらと光っていた。先生を別の人たらしめるのはそれで充分だった。
「どれが私に似合うかしら?」
私の問いに先生は少し考える素振りをしてから、棚の上段に飾られている石を指さした。多面角の透明な石だった。先生がそれを持ち上げて、私の目の前に差し出した。部屋の光を石が七色に分解している。それが余計に神秘的なものに見せた。
「知りたがりの君にはこれが良い」
それだけで私の心を掴んで見せた。
「......どうして?」
「欲張りは永久普遍だからだよ」
ある日、私は先生の口に中に蔓が生えているのを見つけた。蔓は出て行けと言うように、私の舌を繊毛のような棘で刺す。先生から唇を離して変なものでも食べたのかと問うたけれど、先生は「数日前からこうなんだ」とさもありなんと語った。異変は蔓だけで、体調や顔色は変わったところがない。私は釈然とせず、口内の蔓をナイフで切り落とした。吐き出したものを見ると何の変哲もない蔓植物だった。
「体の中で種が発芽したのですか?」
「ははは、ボクは種を飲み込んだって言うのか」
先生は被さった私の胸元のペンダントに触れた。ダイヤの大きさが種子に見える。
「だってそうではありませんか。これが何の蔓かわかりませんけれど、種を綿毛で空を飛ばす花もありますわ。口の中に入ったって不思議はありません」
私が先生と気さくに話すようになり、先生のお店の手伝いとして働くようになり、先生の側にいるようになったのはとても多くの時間がかかった。頂いた宝石を首から飾り、それが似合うようになる頃には、出会った頃の幼さを私は持っていない。社交場に行ったのも過去のことだ。それでも私は先生を先生と呼んでいた。
「先生、それをどうするおつもりですか」
先生は私を自分の元から退かすと、窓辺から蔓を光に当てた。
「土に植えてみようか。まだ成長するかもしれない」
先生はいつもどこまで本気なのかわからないことを言う。先生が、加護を受けた人が私を置いて行く。それが私にとっては怖いことだった。
あの光がこの世に存在するたった一つの魔だ。魔はトローレントという名前を貰った。そして世界の人間は二つに分ける。魔から力をもらった人、貰えなかった人。その二つ。力は人を別のものに変えてしまう。人の最期を死から変身に変えてみせたのだ。風に、空気に、炎に、生き物に。その力は人智を容易く超える。力を貰った人を無条件に変えてしまう。私は追いかけることも許されない。
「土は裏の庭のを拝借しよう」
「先生は時たまとても変わったことを思いつきますね。私の想像を全くしないことをしますわ」
「植物には水と光と土が必要だ。当然のことだと思うよ」
それが自らの口にあった代物だというのに先生はことさらどうということもない様に言った。
「それとも君ならどうする?」
私にとって先生は先生で、先生にとって私は助手だ。恋人らしい事をしたって将来には繋がらない。そういう結果が見え透いている。だから問いかけるのは助手としての当然の会話だ。でも私は不出来が故に首を横に振る。
「思いもつきません。だから、先生のそばにいます」
「真面目に答えてくれたまえ」
先生は答えて困った様に笑った。私は加護をだから先生の助手をする。そして先生は特別な存在だ。
「......鉢に土を持ってきます。これで先生の考えに答えが出ます」
私はそう言って、店の裏玄関から外へ出た。太陽の日差しと冷たい風が一瞬で私の身体を冷やしていく。先生の家は広場の大通りを一本中に入った通りの十字路に建っている。街は区画ごとに外周を造るように家が並ぶ為、区画ごとに中庭が存在する。裏玄関はその中庭に通じている。しかしこちら側から入ってくる客は多くない。いつも決まって区画に住う住民たちが立ち話をしていた。
「それで人を探しているらしいのよ。確か、誰それ様のご加護をお持ちの方ですって」
「洗礼なんて教会で必ず受けるじゃない。珍しい人たちね」
「それが誰でも受けるわけじゃないらしいのよ」
鉢に土を入れていると立ち話が耳に入った。昼時とは言え、裏は静かで区画に声が反響している。通りの足音は遠い。
「名前をなんて言ったかしら、トるーレント様? だったかしら」
その言葉に私の手が止まる。
「奥様方、少しよろしいかしら」
「あら、宝石屋さんの。どうかしたの?」
「そのトローレント様のお話はどちらで聞いたのですか?」
「そう、トローレント様! 買い物で立ち寄った肉屋よ、坂の下のね。店主の方にお話しているのを偶然立ち会って、そこで知らないかって聞かれたのよ。聞いたこともない宗派だったから何も答えなかったわ。それに旅人にしては怪しい格好をしていたもの」
ご婦人は空を見ながら思い出す様に語った。服装は黒のマントにフードそれぞれ刺繍が施されており、男と少女の二人組らしい。
「おはなしをありがとう。伺ってみます」
「何かご用事?」
「そんなところです」
ご婦人たちは私の返答に不思議そうな顔をした。旅をしている人間に普通は用事などない。ご婦人の話を聞くに、おそらくトローレントがいる国の人々に違いない。昔先生から聞いた容貌に話が似ている。先生が若いころ魔のいる教会に入ろうとしたことがあったらしい。その時に見学した教会の服装の話を聞いた。フード付きのマントに目玉の刺繍だったそうだ。反射的に気味の悪さを感じる柄で見てから何年も経っていたがそれをさらりと紙に描いてくれた。先生はそこでいくつかの伝記を読んだそうだ。そして研究を始めたらしい。
「先生を治せるかもしれない......!」
私は雲間から光が差したような心地だった。先生が加護によって消えなくても済むかも知れない。先生は加護を研究する。そして今、先生は加護の力に蝕まれている。もっと昔から先生は加護を与えられた意味を探している。
勢いよく出て行った私が肉屋を訪れて肩透かしを食らったのは言うまでもない。店主から旅人の名前をイチョウとクコと名前を教えてもらったが、町は貿易港の近くで珍しい名前や見慣れない人相の人など山のようにいる。その後、土を得た蔓は先生の口の中でも葉を青々とさせて自生を始めた。名前を調べれば、近所の花屋が答えられるほどの普通の蔓植物だった。赤色の花をつけるらしい。
その後数日間はなんの音沙汰もなく、日々は続いて、目を離した間にまた先生の蔓は伸びて口元からするりと葉を垂らしていた。
「そういや先生、あんたを探している人を見かけたぜ」
商品の納品でやってきた鍛冶屋の息子のチガヤがそう言った。なぜ私が見つけるのではなくチガヤなのか。そう思ったが、彼は色々な所に納品や仕入れで出入りが激しい。
「どなただい? それにしても納品が随分早かったね」
「任せてくださいよ」
チガヤは少し自慢げだった。
「それで怪しいやつだったんで、俺ははっきりと言わなかったが、二人組で小さい方はこれ見よがしにヘンテコな装束を着ていたよ。それに金髪の兄ちゃん。手持ちが不安だからって質屋に随分な金品を売りにいってたところだった。旅人だと名乗るくせに高いものを持ってたから泥棒でもしているかもしれないだろう? 何者かよくわからなかったんで答えなかったが、トローレントって言ってやがった」
「チガヤよく覚えているなあ」
先生は仕入れの商品を一点ずつ確認しながら答えた。チガヤに依頼するのは宝石をはめる石座や金具だ。
「そりゃ、先生の言うことは物珍しくて頭から離れないことばかりですよ」
「頭の回転もいい。鍛冶屋にしておくのは勿体ないな」
先生は口元に笑みを浮かべて答えた。先生はいつも楽しそうに人と話す。
「それで詳しく聞いたら、旅をしながら人探しをしているらしい。それでトローレントの加護を持つ人を探して話を聞いて回ってる」
「ふうん。どうやら神出鬼没な人たちみたいだね」
「困りごとなら助けてやって欲しいけれど、先生どうです?」
チガヤはカウンターに肘をついている先生を下から覗き込んだ。背を下げたせいでベストの裾からシャツがのぞいている。
「もしチガヤが次にその二人組を見かけたら、僕のお店について伝えておいておくれよ。僕も話を聞きたいな」
私はそれに心臓が痛んだ。
「ありがとう先生! それから尋ねたいことがあるんですけど」
「なんだい?」
「気を悪くしないで欲しいんですが、先生のその口のやつはなんです? 流行りの煙管?」
切り落とした蔦は翌朝には先生の口元から少し覗く形で成長していた。植物の成長の速さを優に超えている。そして今、先生を苗床に蔓は人差し指程度に伸びていた。そのせいで先生の言葉は時々綺麗な発音ができていない。
「きっと変な植物を食べてしまったのよ、先生は」
「君はとんでもないことを言うなあ」
「事実です」
植物を植える件をすっぽかす建前を手に入れた私は翌朝、先生の口から覗く蔦を見て絶望した。また切って土に植えなければならない。どんな結果があった所で、先生はそれに興味を示すだろう。気味が悪いと拒絶することはしてくれないはずだ。先生はその不思議な加護と共に生きることをとっくの昔に決めている。私はそんな先生の後ろを追うだけだ。
「植物だって? 生きているんですか、そいつ。スイバさんは触ったか?」
「勿論、切り落として育てるつもりよ」
「あはは、すごい。先生を苗床にしている蔦を切り落としてやるか。先生、せいぜい一緒に切り殺されないでくださいよ」
「人聞きの悪いことを言わないで。私、本当に不安なのよ」
必死になって私はチガヤに言い返す。チガヤは「すまない」と断って話を続ける。
「先生のそれがトローレントですか?」
「の加護よ」
「じゃあ旅の人たちは口から蔦が生えてる人間を探しているってのか」
先生はますます嬉しそうな顔をした。この話をするのが好きらしい。私はちっとも楽しくない。同じになれない。
「加護は一つではないよ。チガヤの言う通り、きっとこれも加護だ。ただ僕の望みは今の状態と少し違う。ここからどうなるのか楽しみだ」
先生は先生でなくなることを楽しみにしている。
「先生、俺たちのことをからかってます?」
「いいや、本気だよ」
先生はそういうことをする人ではない。そうではないから、先生が私の前から消える瞬間が目前になっている変化が恐ろしい。魔の力が私から先生を奪い去る。
「それってつまり、先生が花になってしまうってことですかい? そうなったら先生はどこに行ってしまうんだ」
「いずれボクは道端のそれと区別がつかなくなるだろう」
先生はいつの間にか何になるかを決めていた。私はその時を知らない。
「難しい話はよくわかりませんが、俺は花に意識があるように思わないし、そうなったら先生はどこかへ消えてしまうような気になりますよ? ほとんど死ぬのと変わらない」
チガヤは私にとって先生の興味を引く宿敵のような存在だ。一番先生が話していると楽しそうな顔をする。私には思いつかない質問をする。私の思慮が及ばない。
「そうかもしれない。ボクは変身した時に死ぬのと同じになるのかもしれない。けれどそれを誰も知らないのだよ。その為の研究だ。加護はその実を取り上げられてこなかった」
「先生、それはいつか身を結びますか?」
チガヤの問いに先生は淀みなく答える。
「もちろん」
先生はそう確信していた。ただ具体的に研究が進んでいたかと問われると、私は答えられなかった。先生の手伝いでありながら、私は先生の長期出張をともにしたり、理論をまとめた資料に目を通したりはしてこなかった。ただ先生の研究が進んでいるのを知りたくなかったのだ。
「そうだ。スイバ、チガヤが旅人を見たと言っていた質屋に行ってきてくれるかい。それから目星のところも何件か回って情報収集だ。それが良いだろう」
先生は私を見透かす様に言った。数日前に旅人を探しに駆け出したことも察しがついているのだろう。
「見つけて、先生のところにお連れすれば良いのでしょ」
「チガヤ、良ければ案内してあげてくれないか。帰りにスイバに荷物を預けてくれ」
「荷物?」
先生はチガヤに頼んでいたと思われる依頼の一覧表を見せた。
「二枚目の依頼書のものが一切ないよ」
「本当だ! 通りで軽いと思ったんだ!」
私はため息混じりにチガヤと店を出た。どうやら依頼品は一式準備できており、持ってくるのを忘れたらしい。お使いを頼まれてしまった。
「本当にすまない。スイバさんに荷物持ちをさせるなんて!」
「気にしないで。人探しのついでよ」
チガヤは私に微笑んで「ありがとう」と告げる。彼の気のいい態度に私は肩の荷が降りた様な心地になる。皮肉めいた言い方の私にも変わらない。
「それで、どちらの質屋に行ったの? 関所端のところじゃないでしょうね?」
「反対側の方だよ。坂を降りてすぐ」
私達は自然と足をそちらの方へ進める。先日も下った坂を階段に沿って下っていく。そちらは沿岸沿いに大通りが通っており、店が道沿いに絶え間なく並んでいる。質屋はその中一つだ。探す旅人も坂の下の地区一帯の宿屋に泊まっているのかもしれない。
「スイバさんは先生が花になったらどうするんだい?」
質屋に向かうだけの間に他愛もない話でチガヤが振った話題に私は凍りついた。
「明日のことなんて誰も知らないわ」
「そうだね。でも、想像するのは自由じゃないか。俺はよく考えるな。祖父さんに認められて俺の店を持てる様になったら、品評会で称号を貰って......。みたいな」
チガヤは楽しげに語った。
「でも、そうだな。スイバさんにとって先生が居なくなるのは、俺の楽しい話と訳が違うのはわかってる」
「......。先生はいなくなったりしないわ」
「でも話を聞く感じ喋る花になったりする予定はないみたい。どんな姿形でも先生を先生だと思える?」
「先生の決めた道に私が何も言えないわ」
私はこの世の性を理由に自分の気持ちを消すことができた。きちんと諦められるのだ。お父様やお母様から教えてもらったのはそういう物ばかりだった。自分の考えよりも世の中の常識を上から塗りたくりそう言う正しいものに意見を言う無意味さをよくわかっているつもりだ。だから、本人に自分の心持ちを伝えることは無意味で虚しいことだ。自分の思い通りに物事が進むことはない。
「だからって、スイバさんと先生は」
チガヤがそう言って黙った。続きは言わずともしれている。周りにはそういうことになっている。先生と私は婚姻関係にあるのだ。世の常識から外れて、年甲斐もなく男の家に上がり込む女など良いものではない。でも私と先生はそう言う関係にはなれない。先生と私は別の生き物で、先生は根からそういう気がない。何をしたってそうなのだ。
「受け入れるしかないの。先生は何になっても先生よ」
足が重い。一歩がとても小さくなった。チガヤの背を気がつけば追いかけていた。
「そうとも、先生は先生だ。声も身体も格好も性格も先生さ。それが欠けても足り得ない」
「チガヤ、酷い事を言わないで」
「酷いのは先生もじゃないか。花になる? お別れの仕方も俺はわからない」
チガヤが足を止めて私に言った。
「スイバさんは平気かい? そんなに薄情では居られないだろ?」
「......先生を止めようとするのは私のわがままだわ」
どんなものになろうとも、それが先生である。それを受け入れなければ、私はこの世から先生を奪う魔の加護を受け入れられない。先生が受け入れたそれを、憎むものにはしたくない。同じでいたいのだ。
「スイバさんがそこまで言ったら、俺は俺のわがままを通すわけにはいかないじゃないか」
「ごめんね、チガヤ」
チガヤは首を振った。チガヤはとても純粋な人だ。私のように感情を理性で無理矢理押さえつけて、他人に良い体裁を見せつける人とは違う。本当の私は先生がこの世から居なくなることに何一つ納得なんてできない。先生と私の間にある違いがそれを引き起こすなら、私は先生を私の元まで引きずりたい。どこにも行かないで。私の先生は花じゃない。自分の意思で他人を動かすことができない。そうだとしても、本当の私は自分の思いを割り切れないのだ。
「探しに行きましょう。旅人の方々を」
その名をイチョウとクコと言う。
・ ・ ・
街は海に向かって出張った土地に関所を構えて、壁を立ち上げその手前に堀を設けて建っていた。そこは中心部から急勾配の坂を下ると船着場が広がっている。船着場は壁のようにそそり立つ建物が崖に端から端までへばりついており、そこをその場凌ぎの急階段がつけられている。正式な港は街の門を挟んだ外に作られた。実質関所を通らなければ街の中には入れない。関所を入って広場から一直線に大通りが通っており、そのまま港まで出られる計画になっている。そこから左右に分かれる道は全て路地道で正方形に区画を切っている。
「昔の軍隊の駐屯地が街になったらしい。ここが防衛拠点の一つだとか」
イチョウが関所の前で入国手続きの列で退屈しのぎに口を開いた。関所は煉瓦を積み上げ、その上から黄土色の塗壁で固められた外観で、入り口は大きなアーチ型の門だ。堀を渡すための橋が架けられており、3箇所外周と面して設置されている。街の大通りに直結するのが正門でそれ以外からは入国審査ができない。
「どのくらい滞在する予定ですか?」
「手持ちが少ないから、ここら辺で稼ぐつもりだ。かなり栄えているみたいだし、仕事は探せばもらえるだろう。今日はひとまず換金だ」
海が近い為に吹く風にイチョウは楽しげだった。入国手続きが済むと、換金のためにイチョウ達は市街地の繁華街へと向かった。大通りをそのまま進むだけだったので道に迷うことはない。街行く人に質屋を訪ねて、その扉を開いた。
「......いらっしゃいませ、お客さん」
質屋の店主はイチョウとクコの仰々しいマントに気圧されて挨拶を交わした。店には他の客もおり、物珍しげな視線がチラリと交わされた。
「店主、質に入れたいものがありまして」
「ああ、ものと.....、お客さんのソレ外してくれる? 身分証は?」
イチョウはフードを外して顔を出した。それから関所でもらった身分証を提示する。質入れする品はネックレスが大半だった。
「旅人ね、滞在理由は観光......?」
「はい、綺麗な街だと聞いたものですから」
店主は品物より先にイチョウの身なりを見た。マントの下に数点宝飾品を付けているのと、荷物の多さが不釣り合いだった。
「まあ、観光なら中央広場は見ておくべきところだね。通ってきたろ? あそこの敷石と左右に下る階段が建築家の才ある設計らしい。それから旧時代の遺産だけど、ここを出てすぐに壁があるだろう。昔の要塞の名残で内部は通路があって監視や迎撃用の窓があるのさ。帰りに見ていくといい」
「ありがとうございます。ところで、トローレントという名前を聞いたことはございませんか?」
「人探しもしてるのかい。あいにく聞いたことのねえ名前だ」
店主は宝石を虫眼鏡で見極めながら返事をする。
「そうですか。人の集まる場所はありますか? 市場とか」
「......市場はでかいのが広場で毎週あるのと、大通りも見た通りいつも賑わってる。あとは......」
「トローレントって人ですかい?」
質屋に偶然居合わせた客がイチョウに尋ねる。年齢はイチョウより少し年上に見える。厚手のエプロンを着たまま作業場から出てきた職人の風貌だ。
「人ではありません。神さまです」
応えたのはフードを被ったままのクコの方だ。
「あいにくわからないな。でもトローレント、ね。覚えたよ。知り合いがいたら紹介しよう」
「ありがとうございます」
クコは顔をフードの下に隠したままだったが、職人風の男は軽蔑した様子はない。
「お客さん、合計でーー」
店主が金額の話をし出すと、男はイチョウ達に一礼して店を後にした。その後、金額の交渉をしてからイチョウ達は外へ出た。まずは大通りからほど近いところに宿を借り、身なりを軽くしてから人と仕事を探した。公共施設や、日用品店、食品店などを当たったが案の定当たりはなかった。
「トローレントさまから離れていくに連れて、あまりお話を聞かなくなっていきますね。熱心な方でなくともお名前も知らない方が大半だなんて」
「こちらにはこちらの大事なものがあるのだろ。それに、人は何を信じるかを自分で決めていいんだ。ほら、教会はちらほら見える」
丁度よく鐘が鳴り始めた。音の鳴る先には教会と思しき尖塔が建物群から一部が見える。
「......、なんだか楽しそうですね」
クコがぽつりと言う。
「そうか?」
「はい。あなたのそんな顔初めて見ました」
イチョウはクコに視線を下げたが、クコの顔はフードの奥で見て取れない。
「多分海、初めて見たから。文字面だけしか知らなかったけれど、ここに来て初めて見た。地図や挿絵とも違うし、一枚の大きな布みたいだ。青色は空と同じだと思っていたけれど、それも違うみたいだ。匂いもするし、風も湿っている。太陽を照り返す光も眩しい」
イチョウはゆっくり単語を出していった。
「......知らなかったのですか?」
「お前は神子の修練とかでいろんなところをうろうろしていたかもしれないけれど、俺は小さい時からあの場所から出たことがなかったんだ。本で読んで、存在を知っていたって見たことがないものはたくさんあったし、知らない物だらけなんだ」
クコは足を止めたイチョウに並んで海を見た。クコの背丈では塀から頭しか出せない。たしかに潮の香りがして、太陽の反射光が眩しい。同じものを見ているのだと知る。
「何も知らないことをわかっているつもりだ」
だから幼少から図書館で入り浸る目録は辞書と図鑑だった。いつまでもそこから抜け出せない。
「私だって漁師ほど海を知っているわけではありません。行きましょう、早くしないと市場が終わってしまいますよ」
クコが促してイチョウも大通りに歩み始める。その日は結局成果が上がらず、安宿に泊まった。同教の人に会えば泊めてもらえた経験から、人探しをしていたが甘い見込みだったようだ。翌朝、荷物を宿に預けて同じように人と職を探しに朝市に二人は出向いた。市場の顔ぶれは大通りの店を出している町民と違い、概ね行商人が主だった。職を探しは順調で日雇いの荷運びや店の裏方など、半日程度の拘束で稼ぐことができた。翌日も荷運びに朝から出る話をつけてきた。
「トローレント? あんた達、あの辺の出身か。じゃあ俺から助言があるとすればこのまま西に向かうのなら、軽率にその名を言わない方がいい」
イチョウとクコを雇ってくれた男に話を聞けば、そう言われた。商人として東奔西走している身らしい。
「どうしてですか? ここで最も有名な宗教も排斥的教えを持たないはずでしょう」
「まあ、教えはそうだけれどな。トローレントの加護で成り立ってない国にとって、それが不必要な存在であることぐらいわかるだろう。詳しくは知らないが、事情を知らねえ奴っていうのはどこの世界でも好き勝手抜かすものだ」
クコは納得できないような顔をしていたが口を開かなかった。イチョウはそれを視界に入れて、手短に話を切り上げる。
「ご忠告どうも。気をつけるよ」
「加護を持っている方を国が把握していないようでは、手当たり次第に聞いて回るしかないようですね。どうしますか?」
「大通りの店を回って話を聞こうか。まだ客の入りもあるだろうから」
太陽は空に照っている。クコはフードの具合を確かめて目深に被り直し、イチョウはそれを待ってから歩き出した。当たる店のどれもが一様に知らないとの返事しか返ってこなかった。夕刻が近づくとイチョウは食事を取って、昨日と同じ宿に泊まった。
数日後、イチョウは明朝から行商人の仕事を手伝い終えると口から蔓が生えた男の話を聞かされた。
「俺の仲間の宝石商からそいつの話を聞いてな。そんな珍妙な話にトローレントが関わっていないはずないだろう? 広場施設通りの一本奥に入った宝石店を営んでる男の話だ」
イチョウ達は話を聞くと、礼を言って一目散に宝石店へ歩いていった。店は大通りから一本中に入るが看板も大きく出ている。
「見つかってよかったです」
「そうだな。ただどんななりかもう少し話を聞けば良かった」
半ば諦めかけていたクコは喜びに満ちた声色だった。イチョウはそれなりに警戒をしている。
「お店の立地は裕福な人ですよ」
イチョウが店の扉を開ける。
「いらっしゃい。......御用を承りましょう」
店主の男はゆっくりとした話し方だった。まるで老人の様に遅く、滑舌は良いが発音がもどかしいような喋りだ。姿は眉目秀麗な若い男だ。異物である蔓が口から出ていても、見る者に不快感を与えることはなかった。
二人はその身なりに口を閉ざしてしまった。口から蔓が重力に従って下へ向かって伸びていた。若芽の様で黄緑色の若葉もある。
「まさか先にボクが君たちに会うとは思わなかった。スイバやチガヤには会ったかい?」
男は楽しげな様子でイチョウ達に話しかけるが、上がった名前に一切心当たりがない。
「すみません、どなたのことですか?」
「ああ、良いんだよ。広い街ではないからね、どこかで噂が回り回るんだ。君たちのこともね。トローレントの加護を探しているんだろう」
「トローレントさまのご加護です」
クコが言い直す。男はクコの容貌を見て確かめると口を開く。
「君は敬虔な信徒の様だ。隣の君も同教、それで護衛役......、にしては頼りないのかな」
「イチョウと言います。こちらはクコ、俺たちは加護持ちの方を訪ねて旅をしています」
男はイチョウの説明に感嘆の声を漏らした。
「貴方のそれは、トローレントさまの加護ですか」
「ああ、これね」
男は唇の端から覗く蔓を持ち上げた。蔓はそれなりに育っているため、触れて切れてしまいそうな予感はない。男の言葉に二人は黙ったままだった。
「その衣装、君たちの出身はトローレントの国だろう? ボクも君も随分と遠くまで来たものだね。お茶でもどうかな。奥へ入りたまえ、同志をもてなしたい」
「ありがとうございます。俺たちも貴方のお話が聞きたいです」
イチョウ達は招かれるまま、カウンター越しの奥の部屋に入った。相変わらず薄暗い部屋で、北からの静かな光が小窓から入ってくるだけだった。二階への階段と裏口へ下りる階段が見える。部屋は左右の壁に天井まで伸びる本棚と中央に大きな机と椅子が二脚、宝飾品用のチェーンなどが収まった棚や、書類など、とにかく雑多でとても綺麗とは言い難い空間だった。机の上には地図があり、印や記号が書かれている。地図には文字も書かれており、イチョウが読めたのは「トローレント」「旧魔法時代」「王国」と多数の接続語だけだった。その他は蛇の這ったような字で読めるものではない。
「......てっきり宝石店の経営をされているものだと思ったのですが。これは何ですか?」
「宝石屋は金稼ぎさ。ボクの国ではよく取れるからね。ボクがやりたいことはトローレントの研究だよ」
男は二階から下りてくると柄の揃ったポットとカップを持ってきた。室内の様子に似つかわしくない曲線と花柄をあしらったアンティークの盆と茶器に、イチョウの一瞥に男は肩をすくめて「助手がいるのさ」と応えた。そして二人の前にお茶を置き、一息つくのを待つと男は話を続けた。
「研究といってもの大半は過去を遡ることになる。今までどんな事象が存在して、過程と結果を辿る。そこでの知見は何である、というような。ボクはトローレントの加護が存在しているのがわかる。トローレントはたしかに力を持っている。でも誰もトローレントという存在が何であるかを考えない。それでも有り難がって、国の繁栄に使っている」
クコもイチョウも自分の生まれた国を指した言葉だとすぐにわかった。
「トローレントは不思議な存在だ。誰が生み出し、誰が名付けたのかを知らない人達がほとんど。あの光の国では神さまと同じ扱いを受けて、全ての事象はあれを起点としている。そうかと思えば、例えばこの国のように、トローレントは魔と呼ばれることもある。ここまで極端な理由は何かわかるかい?」
「さっぱり」
「ここからがボクの研究だ。もともとトローレントの力はとある人々にのみもたらされるものだったと考えている。今の様に不特定多数ではなく、ごく僅かな人間に授けられるものだ。それを持った人々は魔女、もっと大枠で言うのなら魔法使いと呼ばれていた。一人の人間からは想像もつかないほど大きな力を持っていたからこそ、力の向く先は決まって破壊だ。だからそうでない者は恐れをなす。魔女裁判は魔女の力を怖がる者のしでかしたことさ。魔女の力は小国なら一晩で壊滅できるものだった。魔女たちは隠れて暮らし、捕まえたものならそれを巡る戦争が過去に起こっていた。この勝敗がトローレントを神と呼び、魔と呼ぶ地域に分けることができる」
男は話しながら指先で地図の上をなぞった。世界の広さを知らないイチョウたちは自分たちがどこにいるのかもわからない。四足歩行の動物と蟹の甲羅が一点で重なり合ったような大陸を接点から北に少しずれた位置に縦に線を引いてみせた。地図に記載された年月はイチョウたちも知る大戦の記録の数々だった。
「ちなみに君がいた国はここで、ボクらが今いるのはココ」
男は線を引いたさらに下を指差して、それから少し指を上に動かして沿岸をなぞった。それから話を遮る形でクコが口を挟んだ。
「魔女はその昔人々を戦争へ駆り立てる原動力のような曖昧な表現の一つではありませんか?」
「それなら魔女という表現はいささか良いものとは思えない。君の国が歴史上大きく広がっていったのは魔女のおかげで、史実には一名の魔女の名前が載っている。君たちの国ができるもっと昔の王政の王が残した記録だから間違いないだろう。大国相手に勝利を収めるのはこれがないと正直なところ無謀な話だ。多くの歴史研究家も勝因がわかっていない。トローレント、引いては魔女がいれば話がつく。トローレントは力の祖だったわけだ」
「トローレントさまが魔女たちを生み出していたと?」
「そうあったのではないかと考えるよ。例えば、一人に一つ、一対の組み合わせだとかね」
先生は両手の人差し指を伸ばして、お互いを結び合わせた。
「戦勝国は小さな国々を飲み込み巨大化していった。その後、時が経ち価値観の違う人間が揃えば、トローレントの力は畏怖へと変わっていった。時代と共に魔女という存在は風化し、力を巡った争いは減っていった。だから魔女は一般人の中に溶け込み次第に記録から姿を消した。これが今の状態だ。ボクの見立てでは、トローレントが魔女に執着することをやめたんだ。魔女という神格化された存在が消えて、トローレントは多くの人の目に触れて信仰は大きくなる、存在があるからね。そしてトローレントは閉じられた力の伝達をやめて、門を開き多くの人間に力を与えた。ボクがトローレントなら、誤算だったのは魔女ほどの力を与えられなかったことと人がそれを使役できなかったこと」
男は自分の胸に指先を乗せて胸を張った。男の説明にイチョウは辻褄合わせがよくできている話程度にしか思わなかったが、一概に否定も出来なかった。
イチョウとクコの国は広い国土に民族も幅が広い。系統は似ていても、イチョウとクコがその様に肌や瞳の色、地域によって言葉の訛りが激しい。地域差が大きく歴史は旧体制の期間がとても長く、その初期に魔女も出てくる。魔女は戦いの勝利の女神であり、戦況を引っ張ったことで神格化されていた。そしてその魔女がトローレントに導かれたとされている。
「ボクの研究はトローレントは何の為に力を多くの人に与えているのか。何を求めているのか」
「私たちに価値を与えてくれています。何にでもなれる力を持って私たちは存在する価値が与えられます」
「君の国ではそうだね。制約もなく姿形を変えられる。でももともとはあれは力だった」
「武器を作りたいと言うのですか」
クコの問いに男は首を横に振った。
「そんな乱暴者ではないよ。ただ、その時ボクがなりたいものになれているのか不安なんだ。だからボクは君たちにお願いがあるのさ。ボクの中にあるトローレントの力を使って、ボクを変えてくれないか?」
男の顔つきは冗談を言っているとおもえない。真っ直ぐした目で視線を逸らすことを許さない双眼がイチョウを見ていた。
「残念ですがお力になれないと思いますよ」
その時不意に扉の呼び鈴が鳴った。イチョウは張り詰めた意識を静かに解く。男は柔和な面持ちを取り戻して口を開いた。
「君たちなら何か秘密の力があるかと思ったけれど。研究は前途多難だね」
「先生、どなたかいらっしゃっているのですか?」
裏口の階段を上る足音で先生は女の声に応えた。
「おかえり、スイバ。人探しはもういいよ。二人に挨拶を。こちらクコさんとイチョウさんだ」
男はスイバの姿が見えると手招きをした。
「初めまして、クコと言います。こちらの先生の噂を街で聞きまして、お話を聞きにきました」
「イチョウです。クコと一緒に旅をしています」
スイバは目を丸くした。先生の研究の関係者が目の前に現れたのはこれが初めてだからだ。
「先生の研究にご興味がありますの?」
「ええ。もっともトローレントさまの研究をなさっているのを知ったのは今しがたです。加護を持つ人を探してるのです」
「......どうして?」
スイバの問いにイチョウは口吃った。その様子を見て、スイバはすぐに話題を変える。
「それで先生、その口元の謎は解けたのですか? いつまでも口に咥えたままではないでしょう」
「まあまあ、焦らないで。まだそんな話をしてもいないよ」
「その服装はトローレントの国でしょう。長旅のところに先生のお話なんて聞いていたら参ってしまいますわ。大事はなくて?」
「そんなことありません。私たちが押しかけたのです。苦ではありません」
クコが首を振った。スイバは少し曇った表情をする。
「加護はどなたが?」
「私です」
クコがフードを外す。フードの影をはずす瞬きにちかりと光が輝いたように見えた。覗いた顔はあどけなさが残る街行く子供と変わらない野暮ったくて純粋な顔だった。
「あなたもいつか何かになりたいと思うの?」
「きっと。そうだと良いと思います」
「......とても素敵ね」
ここではそう答えることが正しいこととされる。挨拶と同じだ。スイバが別のことを考えていても口に出すことはない。今の延長に変化を求める人ばかりではないのだ。
「さて、何の話から始めようか。君たちはなにをしているのか」
「トローレントさまの加護を持つ人たちに会って、その人たちがどんなふうに生きているのかを知りたかったのです。始まりはそんなことでした。私たちは教会の教えで暮らしていたので、それ以外の加護を授かった人たちを知りませんでした」
「どんな人たちと出会った?」
それから二人は自分達の出会った人々を先生に伝えた。荒廃した街で鳥と暮らしている半分鳥になっている男の話。加護の畏怖を持つ国で生きる腕が生えてくる女の話。涙を流し続ける男とトローレントを全く気にしない国での話。伝聞の詰まった森と詩人の話。全てを丁寧に話した。
「どれも興味深い。君たちはなぜそんなことを始めたんだい?」
クコとイチョウは先生の問いに視線を交わした。それからイチョウは口を開いた。初めて自分の事情を突かれたので話し出すのに頭で整理をする。
「俺たちはもともとトローレントさまの教会にいました。加護持ちは教会に集められて皆で教えを学び、国の繁栄の役に立てるような変身を目指していました。中でもクコは神子と言って、加護持ちの中でも最高の立場です。それを放棄して旅をしています」
「ほう。地位は申し分ないだろうが放棄した? 教会に居られなくなったのかな」
「ええ。俺は加護なしのまま教会にいたので」
「そうか、君の秘密が明るみになって教会に居られなくなったわけだ。そして、神子を連れ出した? 人質みたいに?」
先生はクコへ顔を向けた。クコは何かを言い出そうとしたがイチョウがそれに被せるように話し出した。
「そんなところです」
神子がいなくなったところで国の制度はなにも変わらない。別の神子が現れるだけだ。イチョウにしてみればこの場で事実はどうでもよく、道筋の通った話が語れれば何でもよかった。先生たちに誤解されてもそれを解く必要性はない。
「君は逃げる途中というわけだ。ならば君はこのあとどうするつもりなんだい」
先生は穏やかな口調で、それでも重たいものを乗せたように言った。イチョウとスイバの顔が強張った。二人とも未来の話が好きではないのだろう。問われてもいないスイバはよっぽどだ。
「決めていません。あの国から遠くまでやってくるのが精一杯です」
「逃げた先に何かあると思うかい?」
「......わかりません」
「君は国で嘘つきの罪人かもしれない。けれどここまできて仕舞えば、加護は別の価値観で図られる。つまり君はもうとっくに逃げ切っているんだよ。それでも君は歩みを止める術を知らない。旅には目的地が必要だ。君たちはただ闇雲に歩き回り、路頭に迷っているのだよ。どうだろう、ここを旅の終着点にするのは」
先生は意地悪だ。そして拍子を打つ。
「ボクは君に許しを与えよう。人の心は法や規約ではないから君に正しい罰を与えられないかもしれないけれど、君の罪はもうないことにしよう。この土地に君を咎める者はいない。大丈夫、もともとそんなものはない。旅は苦痛だろう。善良な人ばかりではないし、安全な町や満足いく食事はいつもとは言えない。そして何より全て背負うのは疲れるだろう」
イチョウの顔色は変わらない。
「それは、まだ......」
「どうして?」
先生はイチョウの表情を窺っている。イチョウは見られているという自覚もないまま視線を遠くの床に下げている。部屋は窮屈に四人も揃っているが静かだ。先生は椅子から立ち上がると本棚から一冊の本を持ってきた。その中身を先生はパラパラと確認して暇を使う。本は深緑の装丁でタイトルは書いていなかった。イチョウは沈んだ顔をしたままだ。思うところがあったのだろう。
「............。冗談だよ。ボクは君たちの旅を非常に有意義だと思っているよ。文字は書けるかい? それをボクの為に貸す気があればこれから君たちが出会うトローレントの力の記録を残してくれないか。日記でもメモでも構わない。それでイチョウはいつかボクのところまで見せにきてくれよ。旅の中継地点で構わないから」
本は細い先生の指で三本分の分厚さだった。
「研究には事例が必要だ。人の往来があるとは言え小さな街で情報を集め続けるのは難しい。君たちが協力してくれれば、ボクはとても助かるな。勿論、謝礼も用意しよう。どうだろう?」
「特に何を書き留めればいいですか」
「最低でも、本人の性別や年齢、所在。何になりたいと考えて、何をしているか。天気なんかも含めて加護についての変化をまとめてくれるとありがたいな。そのほかは日記でも、逸話でも、なんでも構わないが、出来る限り詳細な事実を記載すること」
イチョウは少し考えた後に先生を見た。
「俺の偏った見方になるかもしれないです」
「ああ。君は加護を良く思っていない節があるけれど、加護と離れて生きる気はないんだろう。構わないよ」
加護は常に隣にあり、消える存在ではないのだ。その場にいる全員がそれをよく知っている。
「わかりました。あなたの研究の手伝いをします」
「ありがとう。先ほどの無礼を許しておくれ。手始めにボクとクコ、二人分は必ず書き留めること。約束できるかい」
「......ハイ」
イチョウの悪い癖は思慮の及ばないところだ。迫られるとすぐに相手の求める嘘をつく。そして残りの時間でその嘘をうやむやにする為に生きるのだ。馬鹿げている。
「助かるよ」
「あの! 先生、私も書きたいです! 一緒でもいいでしょうか?」
クコが勢いよく声を上げた。その高揚感を含んだ声を合図に空気が変わる。先生は「是非」と微笑んだ。安心したような顔つきだった。
「先生の研究の資料を読んでもいいですか? その、本の書き方も知りたいですし」
クコは努めたような明るい声音でイチョウの裾を引っ張った。先生はそれに応えると資料をしまっている本棚を指差した。クコとイチョウは本棚から紙束を引っ張り出してあれこれと話をし始めた。
「先生が弟子を欲しがっていたなんてちっとも知りませんでしたわ」
スイバが冷めたお茶を淹れ直しつつ先生に言った。
「彼らは同じ道を歩んでいけないんだ。いつかイチョウはクコを置いていく。でも旅の目的を見出せない。答えが出ないのはクコがいるからだ。彼女が答えを出さなければ彼の旅は終わらないけれど。そのあとに彼から目的がなくならないように」
「お優しいのですね」
「お節介だよ」
加護は人から死を奪い取る。それがどういうことかを先生は考えている。スイバはそれを知っている。
「先生、お茶を飲みますか」
「......。君はとても強いから頼もしいなあ」
「なんのお話です?」
「君がいてくれてありがたいということだよ」
スイバは目を丸くしてから「こちらこそ」と恥ずかしげに答えた。先生は曖昧な微睡んだような表情が消えないままだった。何かを考えているのか、思っているのか、感情の片鱗はどこかへ溶けてしまったようで、スイバにとって先生は少しずつ異質なものに変わっていた。神さまが先生を奪っていくとして、そんなふうに先生を奪っていくのは死を待つのとは違う心地だ。
「また明日、話の続きを聞かせてくれるかな。日が傾いてきたから、君たちは早く宿に向かうといい」
随分と長い間、イチョウとクコは先生の研究について資料や本を読んでいた。本の半分は先生がまとめた伝承や御伽噺じみた逸話だった。そもそも研究と呼べるほどの学問として成立していないものだ。研究もどきくらいが正しい表現であろう。
「道案内を頼むよ、スイバ」
先生が椅子から立ち上がると口元の蔓が揺れる。それにスイバは不意に視線を取られた。たったそれだけ。
「はい、先生。お二人はどちらの宿にお泊まりですか」
「大丈夫です、道はわかります」
イチョウは首を振ったが、スイバが「せめて大通りまでは」と二人に押し通す。外は陽が傾いており、陰った街を通り抜ける風は海からの冷たい風だった。
「ありがとうございます。宿は海側の大通りから裏に入ったところで、住宅街のそばです」
「ああ、あちらですか。ではこのまま大通りを通るのが良いですわ」
近道も案内できるがスイバは時間が欲しかったこともあり大通りを案内し、そして口を開いた。
「お二人ともトローレントのお膝元の教会にいらっしゃったのでしょう。先生の研究ってどう見えるのかしら? 間違いだとかでたらめだとかって思うもの?」
「真の意味で加護を使うのであればあの研究はとても意味のあることだと思います。俺たちにとって加護は使役されるもの、ですから。自らで使いこなそうなどと考えたこともなかったです」
研究を前向きに捉えていたのはスイバにとっては意外だった。教えと異なることを俄かに納得するのは難しい。現に自分がそうだからだ。
「加護は本人が望まなければ、変身することはないのよね」
「ええ。だからこそ言い換えれば、加護持ちは願えば何にでもなれるのです」
スイバと先生は別物だ。それはこの世界の決定的なもので、それに争うことは愚かなことだ。
「ねえ、お二人にお願いがあるの。どうか、先生の加護を消してくださらないかしら。そこまでではなくても、先生の蔓を無くすだけでもいいわ」
「どうしてですか......?」
クコはスイバの願いに口をついて問いかけた。イチョウは黙ったまま無意識なのか表情が険しくなった。歩みが少しずつ遅れ、スイバと距離を空けるように進みを止めた。
「トローレントの教会で加護の扱いを勉強なさっていたのでしょう? それで先生を少しだけでも長く、加護から離れた状態にできないかしら」
「加護の変身は名誉なことです。それに我々は加護の変身する術を学んでいても、加護を解く術は学んでいないです」
「教会は小さな頃からの教育で加護の変身を確実なものに変えてきました。だから、お二人に話した通り、他の国では教育を受けていない高年齢の加護持ちが存在します。しかし加護がなくなったわけではありません。先生が明日にでも変身してしまうことはないかもしれない」
スイバは自らよりも歳のいかない二人に諭された。自分でも願いを口にするのが馬鹿らしいとわかっている。
「加護を持っていないのならわかるでしょう。どうしてトローレントの加護が魔の力と呼ばれているか。先生は戦争だとか破壊の力とか難しいことを仰ったと思うけれど、私はそんな難しい話だと思わないわ。大切な人を無条件でこの世界から奪い去ってしまうから、その力は魔なのよ。誰を幸せにするのかは知らないわ。でも私たちは大切な人が消えてまで与えられた幸福ににこにこしていられるほど無感情じゃないのよ」
自分では何かを変えられるとも思っていない世界を、誰かが変えてくれると願いたい。その最後の望みがスイバの目の前に現れたのだ。
「ええ、よくわかります。俺はまだたくさんの人を失う途中だ」
「ならどうして、あなたは争う事をしないの?」
「いつもいつも泣いたり憂いたりでは疲れてしまうだけだから。出会った人を加護で失くすのは、誰も抗えないこの世の摂理です。仕方のない事を考えるのはもう嫌です」
スイバはイチョウのことを知らない。逆もまた然りだ。だから噛み合わないし、スイバの言葉にイチョウは動かない。抗わないイチョウは受け入れることができないから逃げたのだ。
「......」
クコが黙ったまま一歩退いた。その様子を見てイチョウはスイバへ切り出す。
「ご案内ありがとうございます。こちらでいいです。明日もまたよろしくお願いします」
イチョウはスイバに丁寧に伝えて、人混みの中に消えていった。乱暴な振る舞いも批判的な表情もせずにスイバをあしらう、残されたスイバは一人で肩が重たいものを背負ったような心地に見舞われる。
「......言わなければよかった」
他人に自分の感情を伝えることは難しい。思ったように伝わらないし、思ったような反応もない。例えば、今みたいに。
「素敵ですね」
スイバと別れてしばらくしてからクコが口を開いた。大通りの喧騒が離れて、あと曲がり角を一つで宿に着くというところだった。イチョウは黙って歩みを進めたが、クコの意図するところに同意した。加護に対抗するというその姿勢こそが、彼らにはないものだからだ。
「先生は少しでも早く加護の変身を望んで、助手のスイバさんはその反対を望んでいる。どちらのお手伝いもできないのが救いですね」
「......そうかもな」
「あなたはスイバさんの味方ですか」
遠くの雑踏を立ち並ぶ家々が消しかけ残りが上から聞こえる中、クコのその言葉は嫌にはっきりと聞こえた。聞こえなかったふうにしたいけれど、クコの消え入りそうな声がイチョウには耳に残る。味方や敵などいないが、自分と対峙するものが現れたように感じた。
「お前がしたい方にしていいよ」
それが目の前を立ち塞がないようにイチョウは言葉を選んだ。
「......そうしたら、私とあなたは対立しますか」
それにイチョウは言葉がついて出なかった。それが現れたからだ。自分の向き合いたくないものをクコがひっぱり出してきた。そして答えを出したのはクコで自分がどうしたいかではなく、自分はどうしなければならないかをクコに求めていた。
「俺とお前は同じものではないだろ」
自分で自分に言い聞かせた。対峙するのは仕方ないのだ。目の前に現れたものは自分の意に反するものだ。
「前に言いましたね、道先の人にまで心を向けるべきではないと。あの二人を案じるべきではないと思いますか」
「それは俺たちのものではないだろ? それに俺たちは何もできない。でしゃばるのはおかしい」
それとは二人の中の結末だ。
「何を恐れているのですか? 私たちは変身するのです。しなければーー」
クコが言いかけて口をつぐんだ。
「お前はそれを誰かに向かって言うのかよ。意味や価値をトローレントさまが定めてそれに従うなよ。トローレントさまはお前じゃない。お前はトローレントさまじゃない。わかるだろ、そしてトローレントさまはお前に何も定めたりなんかしない」
「私は、私はどうしたらいいのですか」
どこへ行けば良いのかわからない衝動的なクコを引っ張り出したのはイチョウだ。
「どうして何かしようとするんだよ。静かに黙って行く末を見たっていいだろ」
「...... あなたはどうしようもなく人はひとりだと思っているのですね」
クコはそれ以上なにも言わなかった。
翌朝二人は市場での仕事を終えてから先生のところへ赴いた。
「......驚いた、まさか本当に先生を見つけているなんて」
宝石店表入り口から入ると、カウンターには先生ではなく青年が立っていた。見なりが整っていたので俄には印象が結び付かなかったが、先日質屋で話した男だった。何故か店番をしていた。
「ああ、あの時はどうも」
「先生なら今出ているよ、スイバさんも」
店内で宝飾品を扱っているというのに不用心だとイチョウは思った。それを任せるくらいなのだから目の前の男はよほど二人から信用されているのだとも。
「俺は体よく留守番だ。俺はチガヤ。鍛冶屋をしていてね、主に細工を担当しているけれど、入り用なら雑貨なんかも造れるよ。料理器具なんかも手直しする品が有ればご贔屓に。 南西区画が技術者界隈の住処でその中で一番でかい煙突が俺の鍛冶場だよ。鉄鍋とか壊れてないかい?」
「機会があれば是非。俺はイチョウ。旅をしています、こちらは同行者のクコです」
チガヤは快活な様子で話を続けた。
「そうそう旅をしているんだったな! ここは中継地だから奉公や行商の人はよく会うんだが、旅っていうのはなかなか出会わない。どこへ行くつもりなんだい? 目的とかさ」
チガヤとイチョウは年齢も近しいように見えた。チガヤにとっては同じ年頃のイチョウが珍しく映っただろう。
「......こちらの先生に会いに来たのです」
イチョウは少しく口どもった。
「へえ! やっぱり先生はすごいお人なのかい? 俺は頭が悪いから先生の話を聞いてもさっぱりさ。トローレントっていうのが関係するかい?」
「はい。ご加護をお持ちだと伺いました」
「ご加護、それっていかほどのものなんだい? 先生を植物に変えてしまうそれだろう。正直、現実味が欠けていて俺は理解できていない」
チガヤは自分の唇に指を当て、それから空をなぞった。先生の蔓を表しているのだろう。口元をへの字に曲げながら不満げな顔をしている。
「先生も植物になるのに前向きだったろ。そう遠くないうちに先生は植物になるのかい?」
「......貴方は先生が変わることをどう思うんですか」
ちらりとクコのフードの中が瞬いた。
「俺は悲しいさ。でも先生が望む事を否定するのは嫌だ。それに俺はこの状況をずるずる引きずるのが一番嫌なのさ。だってスイバさんがあまりにも哀れだろ。婚約する気のない恋人に若さを奪われてしまう。......俺はどんなスイバさんも良いけれど」
チガヤの言葉にイチョウは頭が追いつかないようにきょとんとした。チガヤが気恥ずかしそうに笑うので、ようやくイチョウは察しがいった。それをクコが見上げていた。
「あんたも大変だな」
「まあ。......果たされない想いは消えないだろ。上塗りしたいけど、スイバさんはきっとそうしてくれないだろうなあ」
チガヤの整えた髪型も服も何もかもが不釣り合いに輝いて見える。スイバは向けられているもののどこまでみえているのだろうか。そう考えるのは余計な事なんだとわかっていたけれど、イチョウの頭はそういうどうしようも無いことばかりを考えてしまうのだ。
「いや忘れてくれ。先生の加護と俺の想いは関係ないんだ。そもそもスイバさんが先生から離れたって俺に向くわけじゃない」
乾いたため息にチガヤは掠れた笑い声を足す。
「......」
イチョウがただ黙ってそれを見ていた。きっと頭の中は感情が暴れている。それを治めるのに必死で言葉は出てこない。人の気を聞くのは疲れる。何かを求められているようで、それでいて何も返せないことがわかっているからだ。何もできない自分を思い知る。
「ただいま。留守番ありがとうチガヤ君」
「まったく先生ったら広場で眠るなんて。不用心にも程がありますわ」
「うん、起こしてくれたのがスイバで助かったよ」
イチョウたちがしばらく本を読んで待機していると、スイバたちが揃って戻ってきた。
「先生、スイバさん、おかえり。お客さんが来てますぜ」
「待たせて悪かったよ。広場でうたた寝してしまっていた。最近煮詰まると外に出かけるようになったんだけれど、太陽の日や風が心地よいから気分が良くてね。眠っていたよ」
先生は相変わらず穏やかな抑揚の少ない言い草で喋った。隣のスイバは呆れた様子で部屋の奥へ向かった。
「以前はこんな事なかったのに。最近の先生はおかしいですわ」
茶器同士が鳴る音と共にスイバの声がする。
「でも、眠ったおかげで、とても晴れやかだよ」
口元から伸びた蔓の若葉が大きく広がっていた。蔓は自らの居場所に疑問などないようで、少しずつ大きくなっている。
「先生、この前より口のそれでかくなってないかい?」
「ああ、特にここ数日は随分と、成長が早い気がするよ」
「......先生、大丈夫ですか?」
イチョウの頭の奥から湧き上がる感覚は、先生を失った後の助手と男への同情だった。だからこんなにも無意味なことを聞いていた。良い返事を貰って二人がこのまま何にも気づかずに終わりが来たら良いと思った。
「大丈夫というか、体調とか」
当の本人は微睡んだ瞳と蔓を吐き出す唇が弧を描き、全て悟ったような全てを曖昧にしていく表情で答える。
「ああ、とても良いよ」
蔓が皮肉めいていた。
「素晴らしいことです」
クコが応えた。それにチガヤが問いかける。
「先生が植物になることが素晴らしいこと? どうして君はそう思うんだい?」
「それこそトローレントさまに与えられた力を忠実に発揮できるからです。そうしなければ、私たちは無かーーッ、うぐぅ!」
クコが言い終わる前にイチョウがクコのマントを強く引っ張った。喉が締まったのかクコが呻く。
「何をするんです!」
喉元を抑えながら、クコはじっとりとイチョウの方を向いた。イチョウは見向きもしない。
「大丈夫かい? 君たちは思いの外乱暴だなあ」
「動物に言うことを聞かせたい時はこうしなさいと教会で教わりましたので」
イチョウはクコへは応えずに先生へため息混じりに言った。
「それじゃあ奥へ行こう。昨日の続きだ。チガヤ君、お礼と言ってはなんだけれどお茶を飲んでいきなさい。スイバ、頼むよ。店は閉めて構わない」
スイバがそれに短く答えると、先生はクコとイチョウを連れて店の裏にある研究室へ入っていった。クコの小言が分厚いカーテン越しにくぐもって聞こえた。
「チガヤ、どうぞ」
「ありがとう。店を閉めるなら手伝うよ?」
「大丈夫よ。チガヤが帰った後にするわ」
「えーっと、お時間が許せば、気晴らしに出掛けない? その、お茶でも」
「揶揄わないで、チガヤ」
「まさか」
スイバは少しだけ悩んで「先生に聞いてくるわ」と答えた。カーテン越しに聞こえる言葉の端々にチガヤは一喜一憂する。思いは色々なものから駆け巡ってくる。上手に受け止めていない自覚だけはあった。
「チガヤ、スイバをお願いできるかな」
しばらくすると先生がカーテンから顔を出した。柔和な顔つきに口から蔓を零し、それでも不思議と違和感を感じさせないほどに整った顔。スイバと並んでも高い背に、少し抜けている性格も丁寧で几帳面な性格のスイバと上手に噛み合っている。チガヤから見るとそう見える。なぜスイバをしっかりと捕まえておいてくれないのだろうかと思うけれど、チガヤの思う先生はそうしない人だった。
「ほんの少しで戻ります!」
「ああ、スイバを頼むよ。スイバ、いいね?」
子供をあやすような言い草にスイバは静かに息をついた。欲しいものは皆違うのだ。スイバは内心落胆しつつ、チガヤに店の締め作業を手伝ってもらってから裏口へ出て行った。
「先生?」
二人が出て行ってからクコが裏口の扉を見やる先生へ呼びかけた。
「すまない、ぼんやりとしてしまって」
「......いいのですか?」
イチョウが先生へ問い直した。
「自分のことを知るのがいつも遅すぎるんだ。ボクの場合は何もかも知るのが遅い。気づいた時にはもう遅いんだ。そういうことは誰しも必ず持ち合わせているけれども、ボクはそういうことをしないようにと努めているのに同じまま」
先生は肩を上げて困ったように笑った。遅すぎるとは誰のどの時間軸で言っているのだろうか。自分は未来という未知の中で若く、過去という経験の中で最も老いている。
「そういうときは自分を必ず顧みる。ボクはとりわけ未来がないだろう? いずれ消えてなくなるボクはいつまで無意味なことをしているのだろうと思うよ」
「お言葉ですが、無価値だなんてそんなことを言えないです」
「そうかい? ボクは自分の心一つ満足に従えない。無駄なことをして、女の時間を奪い、青年の純心を蔑ろにしているだろう」
先生は人をよく見ている。
「宙ぶらりんはただの振りに過ぎない。本当は矛盾したことばかり。それを投げ捨てたくて、何も無い振りをしたただの無知。無価値を何処かで納得させようとしている」
「先生はこんなにも研究熱心にトローレントを研究したではありませんか。それも無価値だと言うのですか?」
イチョウの言葉の端々に焦りを感じる。
「ボクは一貫性に欠ける。生き続けることがないとわかっているのに手放せないものばかりで、後悔せずにと思うけれど過ちを犯して後悔する。自らの望んでいるものには近づけない。この蔓がボクの命を奪うのはボクがこの加護を受けたときから決まっていて、ボクはそこに向けて生きてきたのに、研究をしてきたのに、ボクは失いたくないものばかりを持ってしまった。これではボクは全て失うために生きてきたみたいでうんざりする。ボクはどうすべきだったのだとずっと、答えの出ないことを考える」
先生の話はその根幹に関わるのだが、どうも覇気の無い口調だった。単調で緩やかで穏やかで、眠たそうな曖昧で掴みどころがない。人を軽んじるような平坦な喋り方で、厚く上からのしかかるような音程。
「だから答えを出していただいたのですね、先生」
クコの言葉にイチョウは凍りついた。イチョウの感情がクコへ向く。歯止めを効かせなければならない自分の中の怒りの感情。
「何をきいていたんだよ」
「そうではありませんか。先生は矛盾だらけだということでしょう。先生はずっと生きてはいられない。スイバさんはきっと先生のそばを離れない。チガヤさんはスイバさんを想ってる。そして何より、先生はその自分の思いが移ろい行くのが嫌なのでしょう。研究はずっと加護のためにやってきたのに、未来を思うならそれは無価値なことになるのだと言うのはそういうことでしょう。だからトローレントさまが答えを与えたのです」
「君には、そう見えるのかい」
「先生が欲しいものが今の状態だったら、きっと一生トローレントさまの加護は何もなかったのかもしれません。先生は加護の発揮を望んでいます。どんな答えでもいい、と。それがたまたま先生の終わりが目に見える形になったのです。私はそう考えます。加護は人を幸せにするはずです」
クコの言葉に先生は音もなく笑った。
「......どうして、そんなことが言えるんだよ。何の証明もないだろ。なんでお前が」
「なぜあなたが」
クコの瞳が瞬いた。イチョウは尖った瞳に涙を湛えていた。
「うるさい」
「これが最も素晴らしいことです」
「そうじゃなくて! なぜそんなことをお前が平然と言えるんだよ。そうだったとしても、どうして他人のお前がそこまで言及するんだよ」
立場が逆転したようにクコはイチョウへ口を開いた。どちらが幼いと言えるのだろうか。
「もうとっくに私たちはそこまで他人ではないはずです」
「でもそれを決めるのはお前じゃない! もちろんトローレントでもない。良いはずがない」
「それなら先生は、どうして私たちに加護のことを願ったんですか」
いつの間にかイチョウとクコが口論を始めている状態を見かねて先生が音を立てて茶器に触れた。その音に我に返るイチョウは居心地悪そうにつぶやく。
「......すみません。少し席を外します」
「ーーっ」
イチョウがため息混じりに店の裏口から外へ出た。早歩きでゴトゴトと床を鳴らして出ていったが、扉は力なく惰力でしまった。
「私が間違っていたのでしょうか」
その姿を見送った後クコは顔を下げて、先生へ問いかけた。
「あの人と私は違うのでいつもこうなってしまいます。どちらが正しいかわかりません」
「クコ。どうしてイチョウと共にいるんだい?」
「それは私があの人を一人にしたくないのです」
クコは顔をゆっくり持ち上げて先生を見た。その双眼は真っ直ぐにクコを見つめていた。クコは誰かに何かを求めている。自分にないものを探している。
「私はあの人のそばにいたくて、なぜかはうまく言えないです。でも、一人にしてはいけないと思ったのです」
クコはどもって上手く喋れないようで、眉尻を下げた。クコの持っている言葉では上手く表せない。
「大丈夫、君の言いたいことはわかるよ。クコは優しいね」
クコの目が揺らいだ。一瞬だけ水面を照らす光が瞳に映ったようになった。クコは首を小さく横に振った。
「私はあの人が羨ましい。たくさんの人のためになら私たちはその為に変身するべきです。でもあの人は目の前にいる兄弟や私や、先生のことそして自分のことを考えて、言葉を選んで、時に静かにしています」
先生はクコの言葉を聞いて少し驚いた後に微笑んだ。唇が薄く弧を描いた。そして声を発することはなく、クコの心に言葉を与えなかった。そしてまた、微睡んだような顔つきに戻る。
「ボクは昔から加護を怖がっていたんだ。とりわけ未来がないことが怖かった。実を結ぶことがない自分に人が何かを与えるたびに自分は何もできない無力感を味わうから。それなのに皆はボクにたくさんのものをくれた。それは未来や過去のためのものではなくて今のためにボク自身に注がれていた。期待だと思っていたもので、今思えば少し違う。スイバやボクの家族もそうだ。消えるボクに向かっていずれ無意味になってしまうものをたくさんくれる。食事、教育、衣装、住居、言葉、笑顔、思い、言葉にすれば数えきれない。だからわかるよ。君が望むものをボクはあげられそうにない。君はボクからではなく、彼からのを望んでいるみたいだ。そして、君がそうやって思い悩むのならば、いずれ君はそうなれるはずだ」
「そう、とはどういうことですか」
「思うままにいれば、思うままにいられるということだよ。クコ、君は何になりたい?」
その時のクコは初めてその問いにためらった。嘘を吐くような心地の悪さとそれを突き通す覚悟を持てなかった。そしてなぜそんな問いかけを自らにするのかと、先生に苛立ちすら感じる。
「私は光になりたいです」
頭をよぎったのはイチョウの嘘だった。
「そう。君はもっと忠誠的なことを言うものだと思っていたよ。.....そうだな、たとえば雨とか」
先生は窓の外を見て言った。澄んだ青空が小窓の向こうに見える。影を四角く切り取った陽光の中に先生は座っていた。
「少し前はそうでした」
自分に嘘を吐いてはいけない。そうしたらトローレントが力をくれた意味がない。ただ本当のところを思うことに勇気がなかった。光は曖昧で、本当のところがわからなくなっていた。
「トローレントさまが私に与えた力の本当の意味を探しています。その答えを手に入れた時に、私は力を使うのです」
「......、トローレントはそんなことをしていない。トローレントは力を与えるだけで従わせたりしない」
先生は首を小さく横に振った。
「君はずっと教会に言われたことに従っていたんだ。そしてそれはトローレントの意の解さないと気づいた。だから、君はトローレントの答えを探している。でもそもそもそんなものは無いんだよ。トローレントは力を使役するけれど、意志も意図も感情もない存在だ。あれ自身こそただの光だろう」
「そんなことはありません。この世には力を受けた私たちのような者と、そうではないあの人たちのような人がいます。必ず意味があるのです」
「意味なんてないんだよ。ありふれた偶然なんだ。君も彼もトローレントが神さまだと思うから固執している。あの国に生まれた意味も、君が力をもらった意味も、今君がここにいる意味も、全部トローレントがくれたのかい? 偶然だ。生まれる場所は選べない。力はもっと偶然に施される。そして、君たちは当てもなく歩いて僕の前に現れた。意味付けを欲しがるのは君自身で、それをトローレントからもらおうとしている。そんなものありはしない。君も彼と同じで答えが出ないやり方で答えを探している」
彼とはイチョウのことだろう。
「君はトローレントの結論に従う、それは無理だよ」
「それなら先生はどうして変わることを選んだのですか。私は、大切な人のそばから離れようとする理由がわかりません。これは、私がこどもだからですか」
クコは息継ぎを早く捲し立てるように言った。声はすぐに小さな部屋のあらゆるものに吸い込まれていく。本、地図、メモだらけの紙束、宝飾品の金具、カーテン、家具、そして先生自身にも。
「......気がついたんだ」
クコはその時の先生の目色を知っていた。目の前の自分を見つめているのに、自分に向いていない目色だった。思い出したそれになにかを思ったのだ。それをクコは知っている。
「ボクは消えると知っている。だから全ての行為は何の意味もないと思っていた。家族からの施しを怖がって、こんなところまでやってきた。なぜ家族がボクに何の結果もうまない施しをし続けたのかがわからなかったから、ボクは怖くなってしまった。けれど、今ならわかるよ。もう恐ることも無い。ボクはトローレントの与えた力と向き合える」
「トローレントさまに従うこととと何が違うというのですか」
「ボクは初めて思うままにして良いと思えたんだ。ボクはやっと居場所を見つけたんだ」
クコは黙ったままだった。先生はクコを促して席を立たせた。
「君がどうするか、それは君が決めるべきだ。トローレントや他人ではなく、力に君の意志がなくては。指し示すのは簡単だが退屈になってしまう。だから、君は探すんだ。君は何になるのかを」
それはイチョウからわかっていなければいけないことと言われたものだった。自分の中で揺らいでしまった心を恥じているクコには、もう一度作り上げることが難しい。
「私は見つけられるでしょうか」
「急いでないよ。だから、君は彼と一緒にいられる」
先生は裏口を指差した。クコは唇を強く結ぶと扉を開けて外へ出た。フードを外していたせいで眩しい日差しを浴びて、頬にひんやりとした風が当たる。線の細い髪の毛を風が撫でていく。クコはそれに気がつくとフードを目深に被った。自分の信じる、自分を守る存在を身体に纏う。
「......どこへ」
まだ見慣れない街は広く感じる。表通りですら記憶は曖昧でいつも隣を歩く人がいなければ、人の往来で景色は様変わりして見えた。人々の視線はクコの黒いフード姿を異質な様子でちらちらと降りてくる。小さなクコにはそれがどうにも怖かった。
「おいおいそこの黒い小さいの、一人かい?」
不意に耳慣れない声で呼び止められた。クコはそれにかぶりをふって振り向いた。声の主は大柄の男だった。日焼けと髭面で髪を後ろで縛っている。典型的な海の男のように突き抜ける声をしている。大通りでの積荷の作業中だったようで両手には箱を抱えている。
「物珍しい格好して何してんな、動きにくいだろう」
クコの頭を凝視してから男はこう続けた。
「お前の被ってるマーク見たことあるな。......そうだ、トローレントだ! まじないの国の!」
通りによく響く声で男は言った。通行人の視線が二人を横目に捉えている。男はクコのフードのトローレント信仰のマークを覗き込んだ。トローレントの光を表す八方へと伸びる線と円を描く光輪がガラス性のビーズで描かれており光を細かく反射していた。中心は人間に眼を模している。見る人によれば気味悪いのか、男は口元をへの字に曲げた。
「おまじない?」
「そうそう。俺の国じゃあ、お前らの国の因習をそう呼ぶんだよ」
クコは因習と言われすぐにでも反論しようと大きく息を吸った。空気を吸い込む音を聞いてクコは我に帰る。
「失礼、旦那」
二人の間に体ごとイチョウが割って入ってきた。同じ黒いマントに太陽に反射した金髪。いつもクコが見上げた背中が映る
「俺の連れに何かご用でも?」
イチョウの淡々とした口調に男はわずかに驚いた顔をしたが、すぐに大きく笑い声を上げた。
「ははっ。悪いことをしたね、兄ちゃん。そっちを取って食ったりしないから安心しな。迷子かと思ったんだ」
クコはイチョウの表情が見えない。平坦な声色は何を考えているかわからない。
「あ、......ああ。そうですか。早とちりだった、すみません」
「いやいや! こんな成りだから当然だ! すまない。それに口の悪いことを言ったなあ、許してくれ。因習なんて俺たちのものの見方だ。あんたたちにとっては大事なお導きだろう。それじゃあな! この町は人の出入りが激しいからな、逸れない方がいいぜ」
「そうですね。......そうします」
男は積荷を持ち直すとすぐに人混みの中に入っていった。イチョウはそれを見やっている。
「あの......」
「先生がなぜ加護を願ったのかなんて、そんなことわからない。先生が何を思っていても、トローレントの力の本意がわからなくても、他の人間がお前はこういうものなんだと言ってはいけないんだ。それはとても酷くて歪んで自由ではない」
「......他人の言葉に縛られる必要なんてありません」
クコはまた言わなくて良いことを言ったと、言葉が声になってから気がついた。
「俺はそうだった」
イチョウはひどく疲れた様子で振り向いてそう言った。
「みんなどこかでそうなんだ」
そう言われた瞬間にクコはイチョウと初めて出会った時のことを思い出した。そして自分が何と言ったのかを鮮明に反芻できた。そしてトローレントの神子として周囲から常に言葉を貰っていた自分を知る。
「......私はトローレントさまの力がなくても、わたしには何かあるのでしょうか。私は私自身のために何かがあるのでしょうか」
クコは神さまをもとめている。全知全能で自らの拠り所。全てはかの者によって定められた全て。誰も抗えない必須のこと。それだけでクコは全てを受け入れられる。
「俺とお前は同じだ。何も変わらないし、お前の答えは持ってないけれど、それでもお前とここまで来たし、これからも歩いていくから」
それからイチョウは閉口した。続きの言葉をクコは知っている気がした。
「......。......私も連れて行ってください」
クコはイチョウの服の裾を掴んだ。それが今できる精一杯だった。知らない地に一人でいるのは孤独が過ぎるだろうと、目の前にいる人がどんな存在かを知ったような心地。
こんなことすら簡単に言えないちっぽけな人。
「ああ」
その手をとってくれたのなら。クコはそれに神さまを見たかもしれない。
・ ・ ・
欲張りは永久普遍だ。
先生が言った言葉は幼い私に心を秘密にすることが増やした。それが美徳なのだと思っている。きっと先生の前でだけ。欲張りではないふりをしている。今なら先生の他意のない言葉だと思えただろう。
「天気が良いね、こんな心地いい日は出かけるのに丁度いいな。先生がうたた寝してしまう気持ちもわかるよ」
海から吹き上がる冷えた風が太陽で熱る体に心地いい。喫茶の窓ガラスのない開口から風が抜けてそして裏口へ抜けていく。どちらも人通りが多く雑踏の声がした。目の前で砂糖なしの甘くないお茶を啜るチガヤを他所に私は何も言えずにいた。
「先生にどこにも行ってほしくない?」
あれこれと他愛のない話に上手く相槌が打てない私に痺れを切らしたようにチガヤが言った。
「先生に自分の気持ちを言ったことある?」
「チガヤ。お願い」
チガヤの言葉が私を駆り立てるのを抑える。私は充分に欲張りだ。先生が変わらない日々を誰よりもそばで見ていて、毎日変化のないことに静かに安堵していた。そのようなことはトローレントが許さないのだ。
「ごめんなさい。それはできないよ。俺はスイバさんのことが好きだから先生から離れて欲しい」
チガヤの声が騒がしい店内でもはっきりと聞こえた。私が言えない言葉を言えたチガヤが羨ましい。
「チガヤは欲張りね」
少し怖いくらいにこわばったチガヤの表情がすぐに変わる。唇が少し震えていたのを私は見てしまった。
「まさか。俺の望みは小さいくらい、こんなの当たり前さ」
それからチガヤがおどけたふうに笑った。
「俺はそれだけ。さようなら、スイバ嬢」
それを私に向かってつける意味は行き遅れということになる。言いたいことを言われても私は黙ったまま、今までとこれからはずっと同じ。求めたってしょうがない。トローレントの加護はそういうもの。人から人を奪うもの。魔の力。
チガヤは席を立って席にチップ分を含めても多めに硬貨を置いて行った。
「......」
出て行く時にチガヤは少しだけ立ち止まった。私だけが目で追っていたからわかるだけのほんの少しだけ。呼応するのを待つ一瞬に見えた。感情が沸騰する。チガヤの思いが私に伝わった気がしたからだ。私が先生に言えないことを、彼は言わないで私に伝えた。どうして私はできないのだろう。なぜ先生はわからないのだろう。
「勝手だわ!」
席を立ち上がって出て行ったチガヤのその腕掴んだ。職人の無骨で筋肉質な腕。先生と違うそれに強い力で手は払われる。心を落ち着かせてはいけない気がした。思うままに言うということがどう言うことか、チガヤに伝えなくてはならない気がした。私のことも知っていなくてはこの理不尽に耐えられない。
「私は先生のことをずっと知っているのよ! 先生が何を研究していて、先生がどうしてそうするのかも知ってるの! それなのにどうして先生の意に反することができるっていうの」
私は先生をわかっている。わかっているから先生の残り時間の限り隣にいた。誰よりも私が先生を慕っているとわかってもらう為に言うことを聞いてそばにいた。本当のことを言えないのは、先生との未来がないから、それは無意味なことだから。
「わかってるさ。あんたは俺のことなんて考えたことないんだろ。先生、先生って良い子ぶってるのを知ってる。俺はあんたのそんなところが好きだ。甲斐甲斐しくて目に余るくらい真っ直ぐなのを知ってる。先生の為に先生のことを、って一番に考えてるなら、先生があんたを拒まない理由もわかんないのかよ? 先生の本意や真意をあんたが決めんなよ。見えてないものまで、わかったふりするなよ」
チガヤの早口でぶっきらぼうで荒々しい口調を聞いたことがなかった。ましてそんなふうに私に呼びかけたのに私は思わず身構えてしまった。チガヤは吐き出した後に振り返って、全部取り消すみたいにいつもの調子を取り戻した。
「ほらスイバさんになら引き留められるんだよ。行かないで、なんて簡単だろう」
そのときのチガヤの顔は忘れられない。私を捉えた瞳の目色にチガヤが私に本当の姿を見せたのだとわかった。それから辻褄合わせが頭の中でぱちぱちとできていく。チガヤの深いところに落ちていく感覚に指先が震えていた。
それからチガヤは私に謝らせてくれないまま、私を先生の店の前まで送ってくれた。そして彼はそれ以上はついてきてはくれなかった。店の入り口の扉を引くと先生がカウンター越しにいた。店内は外の明るさとは裏腹に厚手のカーテンで締め切られ、古い照明器具がくぐもったガラス越しに炎の光で照らしていた。赤みのある光に宝石の原石がちらちらと光っている。
「おかえり。どうだったかな?」
先生の口元から伸びる蔦。先端が白く色づき出した蕾。若葉は艶めいて大きな傘が重なり合わないように互い違いに生えていた。
「ただいま戻りました。先生、彼らは.....?」
「仲直りの最中かな」
「まあ、どうして?」
私は先生とどんなふうに話していたのかわからなくなった。それでも努めて冷静を装う。
「どうしてだろうね。きっとお互いに譲れないものがあったのかもね」
先生の曖昧な口元から溢れる笑み。カウンター越しに先生の前へ立つと何を言えば良いのかわからない。
「......先生、行かないでください」
脈絡がわからない。本心を無駄と思って告げたことがなかったから、どんな瞬間にもその場に合った言葉を選んでいた。トローレントの力をわかっている自分を演じていた。何もかも仕方なく、残った有限の時を有意義に使おうと振る舞う自分になっていた。力は私程度のものではどうしようもなく、定めとして受け入れる他にないと思っていたからだ。
「トローレントの力なんて、そんなもので先生にどこかに行ってほしくありません。お願いです。先生、私は先生とこれからもずっと一緒にいたいです」
この世の規則に逆らうのは愚かで、そんな自分を見たのはこれが初めてだった。感情的で理性的でない自分は惨めだった。無意味なことをするのは心がすり減るだけで何の意味もない。
「先生、私は」
「スイバは欲張りだね」
先生がそう言って私はようやく我に帰った。
「そしてボクも欲張りになったよ。君のように色々なものが欲しくなった」
言葉尻がゆっくりとくぐもって聞こえる。
「研究と店は家から逃げる口実だったけれど、君の手助けでかなり充実してきた。研究を続けていきたいと思うようになった。イチョウやクコを得て、もっとトローレントを研究して行くべきだと思う」
瞬きはゆっくりと視線は虚で指先はカウンターをゆったりとなぞって行く。
「店もチガヤの細工品は良いものばかりだし、君の手伝い無しじゃあ店は回らない。ボクには何もないと思っていたけれど、ボクは君たちが施してくれる意味を知ったんだ」
唇が開いてから、実際に声が発せられまでは時間が要った。
「君のおかげだ」
先生の言葉は今にも眠ってしまいそうに消えかけている。
「君たちに出会えてよかった」
そんなことを思っているなんて私は知らなくて、ただ驚いた。先生の世界に私たちは存在しないと思っていた。
「あの」
不意に店の扉が開いて、イチョウくんとクコちゃんが戻ってきた。私は泣きそうなのを堪えて振り返る。
「おかえりなさい。用事は済んだかしら? 先生、今日もお話は長くなりそうなんですか?」
「......いや、もう終わりにするよ。僕は変わるよ」
何が始まっていたというのだろうか。何もかもが中途半端だ。私と先生の終わりを先生だけで決めないで。先生は誰も届かない。私を落胆させないで。
「先生? 私にとって先生は人間です。まだ、だめです。いやです。お願いします。私の、先生、あなたは人間ですわ。お願い」
振り返ると先生が私を見つめていた。私を見つめて微笑むような兆しのある柔らかくて優しくて言葉以上に意味を持ったそんな淡い緩んだ視線。
「ありがとう、スイバ」
先生はそういうと音を立ててカウンターに倒れ込んだ。私は慌てて先生の元へ駆け寄った。見やった先生はその秀麗な顔立ちから血の気がなくなっていた。髪の毛には正気がなく渇いたようで早急に生きているものの感覚がなくなっていった。
「......」
二人はそれを黙って見ていた。
「お願い、先生が! 手伝ってちょうだい」
そう頼んだのと同時に先生が触れたところから崩れていった。土塊になっていきボロボロになって床に広がる。そしてその土の合間に四方八方へ伸びた蔓の白い根が見えた。先生を形造ったように四肢の先まで伸びている。
「どうして」
「本当にあったんだ......」
先生が一瞬にして何もかも残さずに消え去った。口から伸びた蔓だけが、先ほどと同じような色と形をしている。夢心地で何も考えられない。
「トローレントさまの力......」
そう言ってクコちゃんが膝から崩れ落ちた。それに手を差し出すこともなくイチョウくんも棒立ちのままだった。まるでこの事象を初めて見たようだった。
「......なんで......?」
その声が頭にじわりと広がって行く。さっきまで先生と私は話していた。私は先生に本当のことを伝えて、先生はなんと言ったのだったか。
先生はここにいたくなかったというの?
先生は何を思って、私に何を伝えたの?
「なんで......、どうして、こんな」
「これが先生の選んだこと」
先生が選んだのは植物になること。何もかも私が空回っていたのだろうか。虚しい思いをするのなら、私は何もかもを隠して先生の前にいればよかった。
「先生は、消えることを知っていました。いずれ何かにならなければならないことをわかっていました。だけれどずっと先生はそれができなかった」
クコちゃんが震えながら答えを出す。
「でも、それなら、あなたたちが来たから......、あなたたちが先生をけしかけたの? ねえ、だって! そうじゃないと......、そうじゃないと」
私は自分の最後の言葉を思い出す。私と先生は何もかも伝わらなかった、言葉すら。
「まるで私が先生を消したみたいだわ」
答えはどうか私にとって最悪なものにしないで欲しい。違うと言って欲しい。言葉を尽くしたって足りないばかりだ。
「......どうして」
視線を上げた先のイチョウくんは黙ったまま語った。たしかにそうだった。彼に私が見たのは同じ背景だ。だから彼は争うことをしなかったのだ。終わりをみるのは悲しいことだ。ただ受け入れるしかない。
「今ばかりは悲しいわ」
人前で泣くのは初めてだった。嗚咽殺すのこともできない。湿気った土の匂いと青臭い草の匂い。どこにも先生を感じられない。黒くて冷たい土が手の上からサラサラとこぼれて行く。私の先生はこんなものではなかったはずだ。そこに感情の機微はない。影も形もないものに私は何かを思えるほど情緒が豊かではなくて、置いていった全てのものには残り香も残っていない。先生の触れた全てのものは先生ではない。何をなぞったって先生は帰ってこない。
「こんなものを受け取らないで」
トローレントという魔物から力を。
「こんなものを残さないで」
先生ではない別の存在を。
・ ・ ・
「手を繋いでもいいですか」
クコがイチョウに問いかけた。イチョウはそんなクコに少し驚いていた。イチョウがマントの裾から手を出すと、クコの小さな手が縋り付いてきた。その瞬間からイチョウは自分の荒ぶる感情が鋭くなっていくのを感じた。それは安心ではなく、ただクコの前で感情的になってはいけないと冷静な自分が感情を制したのだ。頭の奥を強く支配する感情の糸が張っていく。
「どうした」
「なんだかとても寂しいのです。先生のことなのに、自分のことのように感じるんです」
「そういうことは、増えて行くと思う」
「そうなんですか。こんな寂しいがいっぱい、いっぱいになって行くのですね」
イチョウは目線だけをちらりとクコに下げた。前髪が掛かって顔は覗けない。
「私もいつかこうなるのでしょうか」
それはどういう意味なのだろうか。こうやって誰かを悲しませるのかということか。自分が跡形もなく消えるということか。その両方か、また別か。
「なりたいものになれる」
それが良いことだと言ったのは誰なんだ。どうして人は自らの幸せだけを望んでいないのだろうか。そして君の幸せを望んでしまうのだろうか。
「でも、違うのです。何もかも違うんです」
それはその場にいた誰もが思うことだろう。こうなるというのは理想的ではない。
「あ、ああ」
「うまく言えないです。先生が望んだのはきっと違うと思うのです。あなたはそれが違うというかもしれないです。でも、先生が思うことが少しわかった気がします」
「うん」
「そのために私は先生の研究の続きをしたいです」
「うん」
イチョウは嗚咽を押し殺すとそれしか言えない。絞り出して喉から鳴らす声というよりもただの音。イチョウは全身に力を込めて、理性が感情を押し殺すのをただ待った。ただもうそれをクコは指先からわかっていただろう。
「だから泣かないでください」
先生は何を残したのかは誰もわからない。答えを知っている人はここから居なくなってしまった。だから、それを考えることができるのは今いる人だけだ。イチョウはそのことを知るのに時間がかかりすぎで、クコはそれをすぐに見つけた。
二人は初めてトローレントの加護を目の前で見たのだ。自らの国では決して見ることができなかったそれはあまりに唐突なこと。存外世界はそういうことに満ちているという世間知らずな二人だった。
「先生はきっとスイバさんやチガヤさんやあなたがいるから変わったのです」
「......、うん」
ならばスイバやチガヤやクコや自分はどうなのだ。寂しさからきっと決別できないだろうとイチョウは考えていた。兄弟にだってそうなのだ。変わっていく様を見送っていくだけ存在はどうやって別れを受け入れればいいのだろう。そう思うと自分が抱えるものを見せつけられた心地がして、言葉にならずに思いが溢れる。
いつの間にか繋いだ手を強く握り返しているイチョウだった。
クコとイチョウの物語 @higashigawa
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