厭世の音色

宮瀧トモ菌

えんせいのねいろ

 ゆいはベーシストである。歳は二十歳はたち。去年から地元を離れ、平凡な大学校に通い、一人暮らしをしている。注意深く眺めると美人なのだが、恋人はおろか友人もろく出来できたことがない。人とほとんど言葉を交わさない、会話の仕方を思い出さねば出来ないような無口なむすめであった。

 ベーシストといえども、何処どこのバンドに属す訳でも、軽音サークルに籍を置く訳でもなく、ただ一人ワンルームのアパートでヘッドホンをして、近隣の迷惑にならない程度に水色のジャズベースをボンボン弾くのみである。無論、演奏は三流である。しかし低音へのこだわりだけは一流を自負していた。

 中学生の時、唯は合唱でアルトを歌うのが楽しかった。学級には、合唱は恥である上に面倒だとけんする者がた。特にアルトは、ソプラノのように華やかな旋律を奏でる訳でもなく、主旋律と男声に挟まれて音程を取り逃がしやすい、単純に難儀なパートである。彼女の学級はアルトの三分の一がやる気を見せなかった。唯はそれが不満だった。合唱部にでもれば、随分こころちが良かったのかも知れない。しかし前述の通り、唯はまじらいが苦手な子である。生涯、帰宅部を通し抜いた。

 次第に、ジャズやボサノヴァなどの喫茶店で流れていそうな大人薫る音楽を好むようになった。にもかくにも、ウッドベースの音色に恋をした。音楽全体を温かく抱擁する、仮令たとえ赤子にぶつかろうとも怪我一つさせないような柔らかな音の丸みは、唯にとって至高の一言であった。あの優しい音が鼓膜を揺らす時、絡み付くぞくるいから放たれて、凍えきった胸がぜん融かされてゆく。

 そして、何時いつしか彼女はベース女子と称される者の一端になった。

 加えて、唯は悪運強く退治を逃れた天邪鬼あまのじゃく末裔まつえいである。例えば、人からすすめられると必ず見聞きするのが嫌になった。大勢が絶賛する作品は、きっ陳腐でつまらないだろうと予想した。誰かが断言したのなら、十中八九疑った。

 唯も自身を偏屈な女だと思うことがある。だが、人を見下しているつもりはない。人の意見を軽んじている訳でもない。一言で表すなら、感性の相違である。人が夢中になっていることの大半は、唯の琴線に触れずに過ぎていった。彼女が素晴らしいと思うことは、大概人に理解されなかった。

 音楽にいても、級友と趣味が合ったことがない。唯の好む柔らかな音楽は、どうやら思春期のお子様には刺激が足りないらしい。高校生の時分、音楽好きを誇るやからは大抵激しい曲を好むものだと知った。彼はクラシックギターの優しい響きより、エフェクトのかったエレキギターの歪みを選んだ。スラップをしなければベースと認めないと言った者も居た。

 人の意見を耳にすると腹が立つことばかりだ。彼女は何時いつの間にか外界から耳を塞ぎ、考えを口にしないようになった。唯は生真面目な天邪鬼である。どうせ真心の疎通が出来ないのなら、いっ誰とも交際せずにいようと考えた。虚偽の自分を演じてまで、友人を得ようとはしなかった。それは彼我ひがに対して無礼だと感じられた。彼女は今でも、友を求めない人生を歩むつもりでいる。


 唯の通う学科は、女子が非常に希少なところである。一つの講義に四、五人しか勘定できない。そして、女子は講義中、無意味に一箇所にすだく生き物である。唯は三度の徹夜より軋轢あつれきいとう女なので、会話は無くともその集団の近傍に座っていた。また、唯にはノートや過去問を見せてくれる友人が居ないので、出席を欠かす訳にはいかなかった。初めての一人暮らしもあいまって昨年度は特に体調に気遣い、人生で初の皆勤を果たした。今年度の開講期間は残り二箇月程度。唯の大学生活は今の所順調である。

 そんなる日の講義終了後、突如として女が声を掛けてきた。見覚えがあるから同級生で間違いないだろう。短髪の唯と対照的に背まで髪を垂らした所謂いわゆる清楚系である。素顔では恐らく唯に劣るが、化粧の魔力で幾分いくぶんか唯より美人に見えた。唯はわずらわしいと化粧を雑裁ぞんざいに扱う女である。そして、自他の容姿をさほどかえりみない性分でもあった。

 清楚系の用件は、明日もよおされるカラオケコンパに欠員が出たため補欠してくれないかとのお願いだった。交際場外園ほかぞので生まれ育った唯は、少なからずコンパの実在に感動を覚えた。無意識の内に、架空の生物と同じ分類に放り込んでしまっていたからである。しかしそんな勝手の知れない所に飄然ひょうぜんと赴くのはあまりにも危険だ。唯はかく断ろうと思った。

 唯にとってカラオケボックスは、家族か一人で訪れる場所である。友人と行ったことなど一度も無い。抑々そもそもゆうを結び得た者が一人も居ないのだ。

 唯が断る戦略を黙念と思案していると、清楚系は先約があるのかといてきた。ここでバイトでもあると嘘をけば、それで済む話である。唯はそれを理解していた。理解していたが、生真面目な唯は嘘がけないたちである。問いには「ない」と答えてしまった。そして到頭とうとう、唯はそのコンパとやらに参戦せねばならなくなったのだ。

 唯は約束は必ず遂行せねばならぬと考える。唯の心中に目もれないような成り行きで結んでしまったとはいえ、契りに違いはない。彼女は今、不本意ながらそのコンパに臨席していた。男女三対三の集会である。日が地平線の底に沈んだ頃を見計らって、会の火蓋は切られた。

 案内された黒い部屋は暑いほどに暖房が掛かっている。一同はこぞって上着を脱いで壁掛けに吊るす。唯だけは淡い灰色のダッフルコートを丸めて、だいだい色のソファの隅に寝かした。席は出入口から見てコの字に配置され、男女が向き合う形でカラオケ画面と垂直に二列をなす。唯は出口に近い席を所望したが、気付いた時には最奥部に座っていた。

 隣は、この怪しげな会に唯を引きり込んだ黒髪の清楚系である。唯の望んだ席を占有しているのは、初めて顔を合わせる鼻の低い女で、茶に染めた髪の先がわずかに螺旋を描いていた。外套がいとうを脱いだ女達は季節を春と勘違いした様な色合いをまとっている。清楚系はひらひらしたロングスカート、茶髪は黒ストッキングに短めのタイトスカートというで立ちで、そうしょくの長袖に黒いパンツ姿の唯は彼女と並ぶと一層いっそう地味に見える。

 唯の真向かいは綺麗な金髪のやさおとこで終始にゅうおもちだった。その隣は背の高い眼鏡の男。最後の男は、何一つ記憶に無い。実在していたかさえ疑わしい。いや、実際この男に限らず唯は人に第一印象をあまりいだかない女である。これまでこの会につどった人物の外見とうを述べてきたが、唯はこれつゆほども気に留めていない。

 ずは自己紹介である。線の細い金髪の美形から反時計回りに一人ずつ、二言、こと何か口にした。一人終わるごとに拍手が広がった。

 唯は自己紹介が苦手である。ただし、過度に緊張して噛みやすくなったり、酷く赤面したりすることはない。ただ漠然と嫌なのだ。

 流れから察するに、唯はトリを務めることになる。拍手の度に心音はれつさを増した。自分の番で、唯は何を発したか覚えていないが、かく無難なことを言ったのは確かだ。わいしょうな苦行を難無く済ませた後、唯はこの場に居る誰一人の名前も頭に入っていないことに気が付いた。

 飲み物を注文する段階に入って、「みんな、かっこいいね」と女子は仲間内で騒いだ。唯はそれを耳にして初めて、そうなのかも知れないと感じた。金髪の女顔が「いやぁ、そっちもみんなかわいいよ」と調子のいことを言う。二人の女が黄色い声を上げた。

 人を容姿のみで判断するのは愚かな人間のやることだ。老成した唯は既にそれを心得ている。当然、顔の話をたらする人をけんえんした。唯はこの時点で、全てが馬鹿々々しく思われた。始まって早々、無性に帰郷したくなった。実家のろうびょうを撫でてやりたい心持ちがした。

 唯を除いて一同が酒を頼んだ後は、誰から歌おうと構わないのに、順決めジャンケン大会が開催された。連中は輸贏しゅえい逐一ちくいち騒いだ。唯は五番手である。カラオケは乾杯の後、ようやく始まった。

 ず、茶髪が何処どこかで一度は耳にしたアイドルの曲を、その低い鼻から声を飛ばして歌う。割と音程は正確に合っていた。しかし酷く単調である。単純に言えばりょうだ。歌詞はなんだか薄膜はくまくほうふつさせた。言葉に意味を感じなかった。

 出番を終えた茶髪は清楚系とハイタッチをして、男達は「上手うまい上手い」と言った。唯はそうだろうかといぶかしみながら、濃縮還元果汁100%のオレンジジュースをきっする。何が無しに酸味を強く感じた。

 次は金髪のなんである。旋律がいたずらちんするやかましい曲を、器用に裏声を交えて朗唱する。サビでは透き通った高周波数を披露した。しかし、唯は高音が出せることよりも、低音を美しく響かせられる方が格好良いと考える。最近のこうしょう至上主義者の多さには辟易へきえきしていた。

 今流れてくるのは人気バンドにありがちな楽曲である。イントロは滑らかな聞き心地なのに歌い出しが難解だったり、終わりが唐突だったり、単純に歌詞が優美でなかったり、全体的にメロディーがつたなかったり。ただ、ヴォーカルを除けば非常に格好良い音を奏でていることに、唯は今日初めて気が付いた。

 曲が終幕を迎えると拍手が起こった。女達は、金髪の二枚目に「すごぉい、かっこいいー」と言ってしきりにはやすが、唯の心にある四本の剛弦ごうげんごうれない。また、ジュースがかさを減らした。

 演歌を奉唱するような骨の有る奴は居ないのかと唯は思った。これでは軟体動物とコンパをしているも同然である。連中の歌を聞いても面白くない。唯はカラオケ独特の少々安っぽい爆音ベースラインを耳で追うことにした。あまり聞かないジャンルの曲ばかりである。ベースを学ぶい機会だと、己を説得した。

 男達は声高こわだかに歌うのがじょうせきとでも履き違えているのか、酷似した歌手ばかりを選択した。古雅こがな唯には全て同じ歌の様な印象を受けた。また、連中は原キーにこだわった。多少無理があってもキーを下げなかった。キーを変えずに歌える者を賛美した。唯は、自分の適音域でわだかまり無く歌う方が、ずっと素晴らしい歌唱になると知っている。

 輓近ばんきんの歌手は、歌はとがり声を出すものだと、音域は広いほどたくみなのだと世間に誤解させた点をもって罪深い。もっとメロディーやリズム、歌詞のうるわしさと真摯にたいすべきである。彼女は日本の音楽に関するあらゆる未来を不安視した。

 唯は、ならば自分が本当の歌を連中に教えてやろうという気を起こした。近年稀にみる唯のだいえんである。

 しょうていでおなかを抑え、立ち上がって両足を肩幅程度に開いた。そして一巡目で『悲しみにさよなら』を歌った。これは母の趣味である。唯も大好きな曲だ。

 唯は歌に自信があった。本日の調子はすこぶい。腹から声を放ち、目が涙で潤うほど言葉に感情を込める。この場に居る者を魅了するつもりで、歌いきるまで手を抜くことはない。これを聴いた彼が心を入れ替えるのを期待した。

 唯が歌い終わると、茶髪が「えー、こんな歌知らなぁい。だれの歌?」となかば笑いながら言う。唯は短く「玉置浩二さん」と答えた。正しくは安全地帯である。

「いやぁ、随分と古いな。それじゃあ知らなくても当然か」

 背の高い眼鏡が、画面に表示されている曲のリリース年を見て笑いながら言った。茶髪は「まだ生まれてもないじゃん」と言って矢張やはり笑った。清楚系が「みんなが知ってる歌歌おうよ」といささとす様に言った。唯は同年代が好む歌を多くは知らない。完走できるほど熟知している曲は皆無だった。

 唯は立ったまま、黙ってジュースを疲れた喉に流し込む。グラスはじきに空になりそうだ。

 次を担当する清楚系の曲が流れてくる。一同の関心は唯を離れた。唯は奥の硬いソファに腰掛け、グラスを手に持ち、ジュースを口にする訳でもなく、ただストローをくわえて呆然としていた。

 すると、甘い顔した金髪の男が近づいてきて横に座り、笑顔で話し掛けてきた。

「オレ爪占いできるんだ、ゆいちゃんもちょっと占わせてよ」

 名を覚えられていることに僅かな恐怖を感じる。唯は他人から興味を持たれることが嫌だった。

 それに、占いなど下らない。どうせたら言うに決まっている。とみに趣旨のかいせないことを言う奴だと唯はげんに思ったが、話を合わせなければのちわずらわしそうで、仕方なしに占わせてやった。

 唯がグラスをテーブルに置くと、伊達男はさも当然の様に唯の両手を取る。唯は熟々つくづく無遠慮な奴だと見做みなした。

「おやぁ? 右手のひとさし指と中指の爪だけが短いですねぇ、ふむむ、なるほどなるほど」

 色男は巫山戯ふざけた口調で占い始めた。多少アルコールを摂取しているものの、酔っている様には見えない。唯は人をなみするにも程があると感じた。

 端麗な男はしばらく悩んだ素振りをして、はっと顔を上げて、極めてにこやかにこう言った。

「出ました。ゆいちゃんはズバリ、むっつりスケベです!」

 他の連中はカラオケに夢中である。男の声は唯にしか届かなかった。目の前の男はニヤニヤしている。

 虚を突かれた唯がぜんとしていると、口角が重力に逆らっている男は「なんでか知りたい?」と訊いてきた。訊いてきたが、答えも聞かない内に「それはね」と続けて、やっと手を離したかと思うと耳元でこうささやいた。

「オナニーするから爪短いんでしょ? 一本で満足できないなんて、ゆいちゃんはずいぶんエッチな子なんだね」

 血潮が引いた。唯には、血液が全てさんされたかの様に思われた。そうかと思うとさま一転し、今度はたぎった血が肉の内側からあふれて、迅速じんそくに五体を駆け巡った。唯のそうはみるみる紅潮してゆき、仕舞いには頭から煮え湯を浴びた様に熱くなった。心の弦が厭世えんせいを奏で、呪いとして脳裏に反響した。その時、唯の一弦いちげんは音を立てて千切れた。

 次の刹那せつな、拳は金髪の猿目掛めがけて放たれていた。猿はけ反って後壁こうへきに無様に後頭部をつける。テーブルが揺れて、グラスが二、三傾いた。冷たい液が唯の左足に掛かり、自由を得た氷が床で散り散りになった。

 猿の鼻孔から鮮血がしたたってこない。鼻を打擲ちょうちゃくしたつもりが、興奮の余り照準を外してほほに当たったとみえる。

 猿につかみ掛かろうとした唯は、事態をよく知らぬ他の男に取り押さえられた。唯は放せと叫んだ。先刻せんこくのは脇が等閑なおざりだった。脇を締め直して、何発でも殴ってやりたかった。その綺麗な顔面がゐの字を体現するまで、存分にひん曲げてやりたかった。

 猿はたれたほほに手を当て、驚いた表情を唯に向ける。唯は体が燃える様だった。滾々こんこんと涙がほうつたった。彼女は言葉にならぬ言葉を叫んだ。この場で、唯は急にちがった女にされたのだ。

 唯はウッドベースに憧れていた。しかし、あの楽器は低音好きの一介の小娘に買えるような品物ではない。唯が持っているのは安価なジャズベースである。ツーフィンガー奏法で爪が弦に当たると、気持ち音がとがってしまう。唯はそれをみ嫌った。ウッドベースという理想に近づけたかった。丸くて優しいあの音に。

 爪は毎日磨かれた。それはベースの基礎練習と共に唯の日課であり、努力だった。それほどに神聖なものを、この猿は愚弄したのだ。唯が激昂げっこうするのも不道理ではない。彼女は今までの努力をGIFアニメーションの様に繰り返し想起していた。言いたい文句が山積さんせきされて、言語化しようにも冷静さに欠けた頭脳ではその処理は難しかったとみえる。


 結局、追放されたのは唯の方だった。彼女は冬空のもとてのひらで涙をぬぐながら帰路をしょうぜんと歩いた。上着はカラオケボックスで丸まったままである。しかし、取りに戻る気などしなかった。濡れた左足は凍る様だ。体は震えている。心の芯まで寒かった。

 見上げると、悠然たる夜空に昇る偃月えんげつこころもとなかろうとただ唯を見下ろしている。冬の風は、唯にもっと凍えろと言った。帰路はまでも長く、永く感じられた。

 社会は、あの猿みたようななまぐさい男であふれているのだろうかと考えた。それは実際、如何どうなのか知れない。ただ、他人を己の価値観でしか測れない人間は大勢居るに違いない。この先ずっと、自分は誰かの色眼鏡にる誤解を受け続けるのだろうと悟った。唯にはそれが悔しくて堪らなかった。

 唯は独りだった。ベースは音楽のいしずえを担うパートである。礎は物を支える為にあるのだ。そうせねばベースの真の喜びや意義を知ることは出来ない。でも、唯にはセッションできる友達が居ない。本当は、彼女も誰かと音楽をしたいのである。共感し合える誰かと、音楽を語り合いたいのである。だけれども、それは唯が珍しい人間であるゆえに叶わないのだ。

 唯はただ純粋に死のうと思った。これまでの二十年間で、死をこいねがったことは何度もある。しかし、具体的な手段や日程が判然はんぜんと決まる前に、必ず家族を思い出した。こんな偏屈な女でも、消えると涙を流す人が居る。唯はその都度つど踏みとどまった。彼女は家族を不幸に出来るほど勇敢ではない。

 唯は生真面目な天邪鬼である。彼女の未来に幸福が待っているのか。それは誰にも分らない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

厭世の音色 宮瀧トモ菌 @Tomkin2525

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ