痴れ者野を行く

白川津 中々

 ペイブの通りに出てきたのは九時前だったと思う。

 電車を降りてから蕎麦を手繰ったものだから胃が重く、冷たい空気が過度に沁みていた。

 余暇にわざわざ外へ出てきたのはなにも好きだからではない。ただ、部屋にいられなかったのだ。しかし、朝目が覚めて、お茶を淹れて啜り、やることもなく窓の外を見ていると、途端に不安となって居ても立っても居られず、脅迫されたように外行きに着替えて駆け出してみると、そこには空虚な不安と白い溜息があるだけだった。

 何をしているのかと問われれば何もしていないと答えるしかないが、幸か不幸か、俺には話し相手などおらず、心中で『馬鹿者め』と自責するにとどまる。ペイブに落ち積もった黄葉を見ながら、「あれは何という木から落ちた葉だろうか」と、益体もない疑問を浮かべ、「俺は街路樹の名前も分からないのか」と落ち込むくらいには孤独であった。初冬の寒が、より際立つ。


 果たして寒いのは肌身だけではない。先ほど蕎麦屋で財布の中身を見た際には、あぁ蕎麦など頼むのではなかったと痛感するくらいに懐具合が心細かった。金の行方が知れず、震える。

 僅かな日銭を稼ぐ生活に悦楽などない。あるのは先の暗闇と恐怖。俺はいつだって心休まらず心臓を縮めている。とはいえ、それを他人にどうにかしてくれと言えるほど図太くもなく、また立派でもない。俺の落伍は俺の自堕落により生じた必然であり、避けられぬ結果なのである。


 しばらく歩き、途中、ベンチに座る。往来の人々は忙しそうであったり暇そうであったりしていたが、皆例外なく生の充足感に溢れていて、俺だけが死人のように静かで、異質で、気持ちの悪い存在のように思えた。


 実に惨めで恥ずかしかった。人に非ずと、言われている気がした。


 俺は不安に駆られ酒を買おうと思ったがぐっと堪えて立ち上がり、間抜けな散歩を続けた。もしかしたら、金に幾らばかりの余裕があれば酩酊し恥を上塗っていたかもしれないが、貧しさがそれを阻止したのだ。善いか悪いかは決めかねるが、少なくとも日々衰えていく肉体にとっては悪くないだろう。いっそ病気にでもなって死んでしまった方が気楽とも思わなくはない。

 しかし、そうして簡単に浮世のしがらみから逃れられると考えれば社会不適合者も捨てたものではないような気がする。真面目で一所懸命に生きている人間は中々死ねないのだ。手軽に逝ける俺のような人間は、実に気が楽だ。この先どうなるかも分からん世の中、長く生きねばならぬのは、随分な地獄である。


 少し面白くなってきた俺はその場で万歳三唱をしたくなったが素面故にやめた。狂人の真似事ができるほど、もう若くはない。

 されど胸の奥では確かに、俺は名一杯の賛辞を込めて叫んでいたのだ。「非正規万歳! 貧乏万歳!」と、声高らかに……!

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