第3話 愛合月
明かりも点けない部屋の中にいた。
ここに住んでいる、と言葉に出して言えば実感が少しはあるもののねぐらにしていると言った方がしっくりとくるような気がする。引っ越したばかり、とはいえ一ヶ月も経つと、部屋はそれなりに埋まりはじめていた。
生活感が無いわけでもないのに、不思議と気配のない部屋なのは夜しかここにいないせいだろう。
横に飲みかけの水とスマホを放り出してぼんやりとしていた。
遠くに聞こえる木々のざわめきで外には風が吹いているのは知っている。室内は蒸し暑いのに窓を開け放つ気はなく、エアコンもつける気にはならない。
それを今は夜中だからといい訳する。今は真夜中。みんな、寝静まっているからと。
「満月……かぁ」
部屋に月明かりが差し込んで顔を上げた。月を見ていると嫌な感覚を思い出す。
「もう、半月」
最後に先輩とまともな会話をしてから、半月は経つ。
事務所で会えば挨拶はする。だが、会話らしい会話は一切してない。
メールを貰ったものの返事を考えている内に返しそびれてしまった。
先輩に半月前に言われた言葉、それに対しての答えをまだ見つけられないせいだ。
そう言えば理由として正当化されるのだろうか? それとも単なる逃げなのか。それすら判断できなかった。
「預けっぱなしなんだよね、荷物」
結果的に、先輩に預けたままになってしまっている紙細工入りの段ボール箱。
何度も思い出して、取りに行かなければと思っても行動に移せない。
二人で会って、またあんな話になるのが怖かった。
誰かと一緒に取りに行けばあんな状況には思ったが、私の周りにいる人はどうも空気を読む人間が多いのでそれも怖かった。
しかし、このまま取りに行かない訳にもいかず、気がつけばその事と先輩自身の事ばかり考えてしまうようになっていた。
そして、ぐるぐる回り巡って煮詰まった。
「……頭の中から離れない」
常に頭のどこかにその姿が存在して、目を閉じても瞼の裏にちらつく。挨拶しか出来ないくせに同じ空間にいれば目で追っている。
その目線に向こうはとっくに気が付いているようで、目線が会えばどんなに遠い位置にいても私に向かって微笑む。
「何してるんだ?」
急に声が掛かる。ぼーっと、微笑んだ先輩の顔を思い出していた時に、その声を思わず聞いてついに幻聴まで聞こえるようになったのかと思った。
だが、すぐ幻聴でないと判ったのは部屋の灯りが突然点けられたからだ。
音も無く部屋に入ってきた人物は間違いなく先輩本人で、不思議そうな表情のままこちらを窺っていた。
「……あ、あれ?」
「鳴らしても出ないし、玄関の鍵開いてたぞ。不用心だ、気をつけろよ?」
先輩は見覚えのある段ボールを抱えて立っていた。
「それ」
「預かり物。半月も忘れてたか?」
床にそれを置いて、笑いながらネクタイを緩めた先輩はくるり、と方向を変えた。
「じゃ、お休み。戸締まりはしっかり……」
「――!」
言葉より先に体が動いた。立ち上がるとすぐに向けられた背中に向かって手を伸ばすと、先輩の上着の裾をどうにか掴めた。
「どうかしたか?」
「……」
先輩がため息をつく。足止めしてしまった事に罪悪感を感じて手を放そうとする。
「志野?」
「て、手が開けな……い」
「うん?」
ゆっくりと、私に向き直った先輩を傾きかけた月が照らす。月明かりに照らされたその表情は穏やかで優しげで、その空間が少し暖かくなったように感じてしまった。
「ほら、落ち着け」
「は……はい」
「少し歩こう」
私は頷いて促されるままに外へと出て行く。先輩はその間もずっと服の裾を掴ませていてくれていた。もう目に見えて皺になってしまったスーツの上着に、放さなければと思えば思うほど放せず手が硬くなってしまう。
「座れるか?」
気が付かないうちに近所の公園まで来ていた事に少し驚く。
「大丈夫か?」
「はい」
はい、と返事はしても行動は伴わない。視界がふらつくのは自分の目が泳いでいるからだと気が付いてしまえば、体が震え始めてしまった。
「あの、平気です。大丈夫」
「じゃないだろ。どう見ても」
なぜ、自分はこんなに動揺しているんだろうか。先輩はただ荷物を届けて帰ろうとしただけ。それだけなのに。
「顔上げろ」
「……」
言われてゆっくり顔を上げると、困った顔をした先輩がいた。
夜中にわざわざ届け物して、帰り際にこんな風にされれば困るのは当たり前だ、と頭の中では思い浮かぶがどうも行動の方にそれが届いていかない。
自分が今、ひどい顔してるんだという事を考えて、目の前の視界がみるみるうちに歪んでいく。
「……っ、あれ」
「泣いていいぞ」
ぎゅう、と腕の中に抱き込まれて力一杯抱きしめられた。背中を撫でる手が温かい、と思った瞬間に私はすべてが飛んだかのように泣き出してしまった。
「ごめんな」
「……っく」
「ごめん」
柔らかい声色が一つの言葉だけを繰り返す。『誰かに見られるかもしれない』とか『自分は何で泣いてるんだ』とか『また甘えしまっている』とか、考えは浮かんでも声には出せず縋るようにただ泣いていた。
「ん?」
「……ま、頭撫でてくだ、さい」
しゃくり上げながら出た言葉は、それだけだった。いいよ、と囁くように先輩が呟いて、頭をゆっくりと撫でてくれる。
あんなに固まっていた手は気づいたら離れていたのに、今度は先輩の背中に腕を回してスーツの背を握りしめていた。
「混乱させたな、悪かった」
「でも、あれが……」
偽らない本心からの言葉。
そうだよ、と真っ直ぐな返事が返ってくる。私にはその返事が迷いのないように聞こえてまた悲しくなった。
「私は迷ってばっかりで、答えが出せなくて」
「うん」
「優しくされたり、甘やかされてるって思う度、苦しくて」
「うん」
好きなんです、でも切なくて辛い。
だから私は、はぐらかして逃げた。先輩からも自分自身からも。心の出入り口を閉めて流れを止めてしまえば、時間も止まって全て停止してくれるんじゃないかと思った。
あの日、一緒に見た青白い月が怖かった。
先輩の言葉が迷いの無く、凛として全てを貫くようなものに聞こえて辛くなった。
「反省してるんだ。いくら自分が本心で思っててもあれは伝えるべきじゃなかった」
「本心なのに?」
「あれは俺の我が侭でしかない」
だから忘れて構わない、と先輩は呟く。
やっぱりその言葉に揺らぎを感じたりする事がないのは、今も本心だからなのだろうか。
「本当の気持ちだからって、伝えた相手を傷つけていいわけじゃない」
「でも、嬉しいと思ってるのは間違じゃないです」
「俺の気持ちを嬉しいと思っても、お前は傷ついただろう? 自分では理解できない事をいきなり突きつけられても戸惑うだけだ」
だから、ごめんと呟いてこめかみに口付けてくる。
触れるだけのくすぐったい感触に、また一つ心が溶け出したかのように涙が溢れてくる。
「好きだ」
それが、こんなにも心を締め付けられる言葉だったなんて知らなかった。
「俺が居ても居なくても、それがお前だ。だけど、お前の側に俺は居たいと思ってる。出来れば、この先ずっと」
「最初から、そう言ってください」
意地悪だと、背中を抓れば先輩がお返しにと私の目元を舐めてくる。
そのまましばらくじゃれ合うようにくっついていると、私の気分は落ち着いてきて自然と笑えるようになってきた。
「先輩」
「何だ?」
「答え、じゃないけど聞いてくれますか?」
「返事とか別に要らないんだぞ」
「返事でもないんです。ただ……今の気持ち」
少し体を離して先輩が頷いた。
「どうして、そんなに私の事好きなのか教えて下さい」
「わかった」
また、ぎゅっと抱き寄せられて、私の耳に先輩の唇が触れると囁くように言葉を紡がれる。
私の名前を呼ぶ声は頭の中へと静かに響く。
目を閉じて、囁かれたまじっとしていると先輩の心音が伝わってくるようで穏やかな気持ちが広がって行く。
「志野?」
「ちゃんと、聞いてます」
瞬きをすると涙は零れていくがそれに構わず、続けてくれと促す。聞きながら、やっぱり私には何かが足りていないと思った。
それは届きそうで届かなくて、自分で取りに行かなければならいものなのだと、わかっただけ少し先に進んだのだろうか。
先輩の肩に寄り掛かると、安堵感が増してまた次々と出てくる涙を優しく拭うその手のひらを掴んで胸に引き寄せた。
過ぎて行く夜と共に吹く風に流された事にしてしまえばいい、まだ、悪足掻きのように理屈を探し出すのをこの人は「意地っ張り」と笑ってくれるだろうか。
でも今はこの気持ちを、誤魔化さない、はぐらかさないでおこう。
ゆっくりと顔を上げて、まっすぐに見つめれば、先輩がどれだけ自分を好きなのかなんてすぐに判ってしまうような表情で私に微笑みかけてくる。
「意地っ張りな所とかも好きだ」
「そうなんだ」
先輩は、私が欲しい言葉をくれる。嬉しくなる言葉も辛い言葉も真っ直ぐに伝えてくれる。
私は先輩に何を返せるのだろうか? でもまずは、自分の気持ちに偽らない所から始めて行けばいい気がする。
顔を見て言えないのは許して欲しいと思いながら、先輩に抱きついた。
「この腕の中に居たい」
私は小さな声でそう呟いた。
それが今答えられる精一杯の、私の答えだった。
月が見てる。 かんのあかね @kanno_akane
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