第2話 待宵月
「わっ、先輩?」
「ん? ああ、ここ使うのか」
事務所の一室で寝転んでいたら、荷物を抱えた志野が入ってきた。
ダンボール箱を抱えて入り口に立っている志野はどうやら俺の寝ていた辺りに物を置こうとしていた所のようだった。
「悪い、悪い」
「ソファー空いてるのに」
欠伸をして立ち上がると身体を伸ばす。
「そこのソファーだと頭が沈み過ぎてさ」
「だからって、床に寝るのはどうかと」
呆れた様子の志野の頭をわしわしとなでて箱の中身を覗き見た。
「なに?」
「事務所で預かって貰ってた物です」
無造作に詰められていたのは紙細工。未製作のセットや作成途中の中身が入っているらしく潰したくない為、引越しの際に潰さないように別にしておいたらしいのだが、このダンボールだけ忘れてしまっていたらしい。
「持って帰らないのか?」
「これから客先に行って直帰予定なので、また今度にしようかと」
結構な大きさのダンボールだ。これを持ち運ぶのは流石に邪魔だし、客先には勿論の事、電車でも迷惑だろう。かといって荷物自体は軽いので配達を頼むのももったいない。
「部長がこの辺なら置いていいって」
「運んでおいてやろうか?」
「え?」
「家まで運んでやろうか、って」
俺の申し出に目を丸くして驚く姿がやけに可愛く見えるものの、志野の口からは可愛くない言葉が紡がれる。
「いや、いいです。先輩、最近私の事甘やかしすぎ」
「へえ? 言うようになったな」
自分から「甘やかされている」のを認める発言をするとは考えてなかったので、嬉しくもある。だが、ちょっと拗ねたように見える志野の表情が気になった。
「別にこのくらい、甘やかしに入らないだろ」
「いえ、私が帰ってくるまで私の家に居て、ついでとか言ってお風呂とご飯の準備までしてある、状況になるから。絶対」
「まあ、そうかな?」
それが甘やかしてるのだと、志野が顔を反らせながら言う。
意地なのか、それとも距離を取りたがっているのか両方か。とにかく俺にはどちらだとしても面白くないので少し提案を変えた。
「じゃあ、俺の家に取りにくれば? ついでに犬の散歩に行ってくれると犬が凄く喜ぶんだが」
「散歩?」
「運動したいって言ってただろ? 運動になるぞ散歩」
志野は少し迷ったような顔でじっと俺を見る。そして、じゃあそうさせて貰います、と呟いた。
「ありがとうございます」
志野は家に来た際にお礼だと飲料品を差し入れて来た。
そんな志野に微笑みで返し、頭を撫でる。
「気を使うな」
「や、ちゃんとしないとですね」
「ふうん?」
あやふやにしたまま、さっそく犬の散歩に出かける。
飯は、と聞いたのだが予想通りに「食べてきました」との返事が返ってきた。
志野にリードを預け、それを後ろから眺めるようにして近場の公園に向かう。
今日は夕方に雨が降ったお陰で、蒸し暑さも少し消え夜の散歩も清々しかった。
犬にいい様にされながら右往左往している志野を微笑ましく眺めながら夜空の月を見上げると、満月に近づいているのが判るその大きさが眩しかった。
「大丈夫か?」
「わ、わわ! まって…っ」
「きゃん!」
志野は楽しそうに走り回る犬に翻弄されて、公園に着く頃には息を乱れさせていた。
「苦しそうだな」
「……う、運動不足を、実感しました」
休憩と言いながらふらふらとベンチの方へと寄って行くのを見送って、犬のリードを外す。途端に犬が志野を追いかけて行って、その足元にじゃれ付き、志野を休ませようとしない。
「わかった、わかった! 遊ぶから!」
「わん!」
広いところにじゃれ付かれながら移動した志野は、犬と鬼ごっこするように走り回る。犬の細かい動きに翻弄されても、どうにか追い付いて捕まえようとしては逃げられ、暫くそうやって動き回っていた。
「ギ、ギブ。もーだめ!」
「おつかれさん」
どかっとベンチに腰掛けてぐったりしている志野の足元では、犬も満足そうにしていた。
じゃれている間に買ってきた水を志野に渡して、犬にも水を与える。
「すばしっこくて」
「元は猟犬だからな。でも俺と遊ぶより楽しそうだったぞ」
「そうなんですか?」
「俺だとすぐ捕まえられるって思ってるから、窺うようにしてあんま動き回らないんだよ」
「すごく疲れた!」
そうか、と微笑んで志野を見つめる。肩で息をして疲労感が全身から出ているので、相当身体に負担が来たのだろう。
「まあ、筋肉痛にならないといいな」
「それは考えてなかった!!」
嫌そうな顔をしながら顔をしかめる志野は少しだけ子供に戻ったように見えた。
そういう俺も自分の体力を回復する為だけに寝ている事が多くなった時期があった。寝れば肉体はそれなりに回復するのだから当たり前なのだが。
だが、体力のある俺でもその体力だけじゃ乗り切れない事が多いのが実際のところである。
気力、それも重要だと気がついたのは一人で暮らすようになってからだった。
不意打ちで受ける精神的ダメージを回復するための気力、それが歳を重ねる度に重要になる。……志野は、その辺の事に疎いように思う。
これは俺個人が受けた印象であって、本人がそう言っているわけでも、周囲がそう評価しているわけでもない。
人の生き方にケチをつける気も、口出ししもしたくないが、志野に対してはどうしても構ってしまう俺は、それを認めてからは、事あるごとに「甘やかす」と言われるような行動を取るようになった。
自分の意識では「甘やかす行為」ではなく、どちらかと言うと「ちょっかいを出す」行為に近いのだが、周りの評価は「志野に甘い」となってしまっていた。
「なんか先輩、機嫌良くないですか?」
「そうか?」
志野にそう言われ、自分が嬉しそうに見えるのに気が付いた。
確かに今の気分は良い。それこそ志野を構い倒したい気分だった。
「なんか企んでいるとか」
胡散臭そうに見返されれ、怪訝そうに志野が座りなおして少し距離を取る。
「企んでなんかないぞ」
「どうだか」
ふと雲が流れて、見える範囲全てが月明かりに照らされる。
刺すような鋭い月明かりだ、と思った。
目に見える一面が銀色の薄布を被ったかのように見え、そこを涼しい風が掠めて流れて行く。
「今何時です?」
「ん、九時だな」
「そろそろ、帰ります。また、明日も付き合っていいですか? 運動不足実感した」
「そうか、いつでも付き合ってくれていいけど。無理はするなよ。息もう平気か?」
頷きながら立ち上がった志野は笑って平気だ、と笑っていた。
そのまま、駅まで送ろうと再び犬にリードを繋いで今度はゆっくりと道路を歩く。
「なぁ、志野。登山家の有名な台詞知ってるか?」
「え?」
俺の質問に一瞬戸惑ったようにして答える。
「そこに山があるから、とか?」
ロマン的な発想だよな、と笑う。
「"Because it is there."ってジョージ・マロリー本人は面倒くさくて適当に答えてたっても言われてる。山ってのは日本語に訳した人間がそう訳したそうだ」
「へえ」
「でも、それが登山家の信念を表す名言になってるんだから凄いと思う」
お前はどう思う? と、問いかけると志野の足が止まった。
「山に対して?」
「物事に」
並んで歩きながら、答えない志野を撫でて呟く。
「俺は、魂がそうしろと叫ぶからそうしようとするんだと思うんだ」
俺を見た志野の表情は光の加減ではっきりしない。
「何か強そう」
「心の底から思う事をしねぇと後悔するぞ」
返ってきた志野の声は落ち着いていてはっきり聞こえる。
「先輩は後悔してるんですか?」
色々な事に。と、問われる。
「俺は、してないぞ」
「そうなんですか?」
「うん、お前と出合った事も全部ひっくるめて」
「うわ~口説いてますね?」
「口説かないでどうするよ?」
駅に近づいて俺は悪戯な微笑を志野に向けた。そんな俺に志野は真剣な表情になりじっと見つめてくる。
「考えてみます」
俺と目線を合わせたまま、静かにそう呟いた。
「お前の事は、お前しか決められない」
「はい」
間近でみる志野の瞳は澄んでいて、ひどく深い色をしていた。こんな風に近くで瞳を見つめる事はあまりない。もっとずっと見ていたいと勝手な願いが浮んでくる。
「なんですか?」
言い渋る俺を珍しく思ったのか、志野がゆっくりと問いかけてくる。瞬きをして、一呼吸置いて俺が紡いだ言葉。それは、
「そこに、俺が居ても居なくても、それがお前だ」
風が二人の間を吹きぬけていく。夏の気を含んだ風は何かを吹き飛ばす程の威力はないが、かき回すことは出来る筈だ。
風が去って後に残ったのはじっと見つめ合っている事実だけだった。
「本心だ」
「……」
何も言えなくなってしまった志野の頭をぐしゃぐしゃと強く撫でる。
「痛いです」と声が漏れるが、志野は俺から離れようとへせず、そのままされるがままでいた。
「先輩、」
「ほら、電車くるぞ」
志野の背中を押して促すと、たびたび振り向きながらも志野は駅のホームへと消えて行く。見送った後も俺は暫くの間そのまま、その場所に立っていた。
帰宅したであろう時間に、志野に電話を掛けた。
駅からの戻り際に急な仕事の連絡がきて、どうも明日は散歩に行けなくなりそうだったからだ。
始終、電話での志野は明るい声で元気ないつもの志野のようだったが、その内心はそうでもないのだろうと思う。
今日はだいぶあいつの心を引っかき回した。俺の胸の中にあるのは志野への罪悪感ではなく、ただの愛情。
酷く身勝手なその愛情に、きっと答えが出る。
人はなぜ眠るのか? 睡眠で疲れを取るため。
人はなぜ悩むのか? 物事に納得できないから。
だけれど、人の心は癒しきれない。なのに、人はどうして先を求めるのか?
それはきっと『本当の自分を偽れないから』。
一番難しい生き方を選んだとして、自分自身に正直である生き方を選んだとしても『後悔』は訪れる日がくるのだろう。結局はどの生き方を選んでも同じ、本心では誰もがわかっているそれを隠すか隠さずいるか、ただそれだけの違い。
――後悔するなら盛大に後悔した方がいい。
「まだまだ先はある。全然先が見えないけど」
ふと、志野の声が聞こえた気がした。次に思い浮んだのはその姿で、泣いている姿だった。
「ごめん、俺は我侭だな」
とうに通話を終えた携帯に向かって俺は一言だけ呟いて目を閉じた。
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