月が見てる。

かんのあかね

第1話 十三夜

 夕方に降った雨のおかげで空が澄んでいて、夜空に浮ぶ月はとても綺麗に大きく見える。

 日中の蒸すような気温も、夜になるとなりを潜めて開け放した窓からはいくぶん涼しい風が入ってきていた。

 時間は夜中を過ぎて街の喧騒もなく、静かな落ち着きが広がっていた。

 やはり、就寝前の運動はぐったりする。今日は自宅に帰る前に先輩の家に寄って犬の散歩に付き合った。

 そんなに無理に運動しなくてもいいと、先輩は言うものの、いつになっても入社当時の今よりも痩せている私の写真を大事に持っているのがとても悔しくて仕方ない。

「あの人、スマホ潰したくせにデータのバックアップとかはしっかりしてるんだもの」

 先日、ちょっとした出来心で置いてあったスマホをのぞいたのが間違いだった。

 前々からたまになにか見て嬉しそうに笑ってるな、と思っていたのだが、どうやらそれは自分の写真であったようで、まさか消去できないようにパスワードが掛けられているなんて思わなかった。

「ふう」

 風呂から上がったばかりで、まだ熱を持っている疲れた身体には夜風が気持ちいい。せっかくの静かな空間を壊すのが惜しくて、足音が立てないようにそっと窓を離れる。

 ソファーに寝転ぶと、まだ乾かない髪から水分がソファーへ移るのがわかったが動くのがおっくうで、そのままぼんやりと宙を眺めた。

 開けっぱなしの窓からは外の月明かりが差し込んで窓枠のシルエットを浮かび上がらせている。見つめる天井は光の加減で真っ白だった。

 この部屋には私の呼吸と電気製品の小さなモーター音だけが聞こえていた。

「疲れた」

 両腕で顔を覆うと、私に襲い掛かるのは小さな不安だった。

 その不安を見透かしたかのように、急にテーブルに置いた携帯が静けさを破る。起き上がらず手を伸ばしてそれを取ると、ディスプレイには「二宮先輩」と文字が浮かび上がっていた。

「はい」

『志野?』

 さっき、別れた時と同じ声。――優しい声。

『もう寝てたか?』

「今、お風呂上がった所ですよ」

 同じだけ歩いたはずなのに少しも疲れを感じさせない先輩の声に、少し対抗心が出てしまう。勢いよく起き上がってわざわざ声のトーンを上げる。

「どうかしたんですか?」

『ああ、明日も散歩付き合うって言ってただろ?』

「はい」

 正直、散歩なら、と高をくくって付き合ったそれは以外に疲れるものだった。

 運動不足が身に染みてすぐに息を上がらせてへばる私に先輩は苦笑いしていて、それが悔しくて明日も付き合うと言ったのだが、別れ際まで苦笑いで「無理はするなよ」と言われてしまった。

『ちょっと、明日の夜に用事が入って遅くなるから、悪いが散歩は中止にしてくれ』

「いいですよ。謝らないで下さいって、くっ付いて行ってるのは私なんですし」

『そうか。今度は日中に行こう。のんびりと』

 そんな話をしながら、しばらくたわいのない話をした。

 だが、私にはその「たわいない話」すらどこか遠くから聞こえ、受け答えも差し支えのない返事しか出来なかった。

 通話を終えてまた窓辺に立つ。そこからうかがうに見上げた月は満月には少し足りていない。

 それと自分の心中が重なって見える。

「……っ、」

 その感覚は唐突に訪れる。そのままその場にしゃがみ込んで、壁に背を付けた。足を床に投げ出すと、部屋を冷たく照らす十三夜月の光が私の身体を包んでその輪郭がぼやけて見える。

 あの人の願い、私の逃げ。決定的に足りない何か。

「こんなに遠いって感じるのは私のせいなのかな」

 私の問いに返事などあるわけがない。だが、勝手に想いが口から溢れ出て止められない。その訳を私は知っていた。

 いつも優しくて、私の事を考えてくれていて。今日のように苦笑いしながらも付き合ってくれて、それでいて私を甘やかす。

 どうして、この人は私の事を好きでいるんだろう。

 どちらかと言えば無愛想で可愛げのない人間だと自分では思う。

 先輩とは長くもないが、短い付き合いでもない。頑張って愛想よくしてる時だって、先輩は私の悪い面を垣間見ているはずだ。

 なのに、あの優しさや思いやりは何処から来るのだろう。

 私は先輩に自分自身の全て見せようとはしないのに。

「理由なんていらないの。ただ好きなだけなんだし」

 そうは呟くが、それでは足りないと私は思うのだ。優しくされる度、甘やかされる度に、そんな状況を冷静に見ている自分が現れる。

「私は全部を曝け出す程、強い意思とか無いんですよ、先輩」

 そう呟きながら、瞬きすれば床に透明な滴が三つ落ちた。

 音もなく落ちたその滴の縁に月の光が当って小さな輝きを作った。

 綺麗なのに、とても綺麗なのに。

「こんなに気持ちになるなんて、どうしたらいいんだろう」

 こんなの初めてだ。自分がどうするべきか、それが判らない。

 目を閉じると浮ぶのは先輩の姿。微笑みながら優しい声で、仕草で、私の名を呼ぶ。

 何気ないやり取りに、紡がれる言葉に安らぎを感じては、それがすぐ消えてしまうかもしれないという思いが不安を掻き立ててくる。

 再び目を開ければ、月明かりがその寂しさに拍車をかけるように冷たい光を相変わらず降り注いでいた。

「どうしよう……なんて返せばいいのかわからない」

 別れ際に言われた言葉に返す言葉が見つからない。「好き」という言葉も、抱きしめてくれるその腕も全て私に向けられてる。

 だけれども先輩の本心が私を悩ませていた。

 思うのはただ一つの事。

 どうして、そんなに私の事好きなんですか? 私、切なくて、怖い。

 呟きは月の光にゆっくり静かに溶け込んだ。

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