第3話 秘密
「野外で、酒盛をしながら終焉を見届ける」という提案に、
「もう閉める予定だったから、好きにしろってさ。春男と俺で貸切だな」
光樹は片頬だけで笑った。
幼馴染の光樹と俺。友達は大勢いたけれど、いつも隣にいたのは無口な光樹だった。還暦を迎えた今も、俺達は変わらない。
光樹はバツイチ独身。俺は女房に先立たれ、一人娘は旦那と単身赴任先の海外にいる。お互い親はもういない。気楽なものだった。
山頂に着いた時には夕暮れで、空一面が赤く染まっていた。久しぶりに夕陽を見たなと思う。
「先に風呂入れ、飯は作っとく」
女房みたいだな、という言葉は飲み込む。
共用の浴槽に湯を張り、熱めの風呂に浸かる。長年の疲れがとれるようだ。顔をぬぐって溜息をつく。
今夜が最後だ。
俺は光樹に、一つの秘密を抱えている。
光樹が風呂から出るのを待ち、夕飯を開始する。無言で缶のまま乾杯し、ビールを喉に流し込む。ひときわ苦い。
「やっぱり野外だと格別だな。生き返る」
「もうすぐ死ぬけどな」
「つべこべ言うな」
光樹が作っていたのは水炊きだった。昆布だしまでとっているのに感心する。鶏の旨味がスープに染みていて、締めの雑炊が楽しみだった。
「鍋なら片付も楽だろ」と光樹は言う。後片付なんてもう考えなくていいのに、と可笑しい。
真夏であっても山の夜は涼しい。虫の鳴き声が響き、空には星が瞬く。贅沢な夜だと思う。
ここは、静かだ。地上の喧騒も、ここまでは届かない。
俺は飲むとすぐ赤くなる
光樹は昔からそうだった。冷静で、頭が切れて、失敗が無い。いつも羨望の的だった。
「…お前には世話になったよな。女房が死んだ時もさ」
ビールから焼酎に切り替え、七輪で炙った烏賊をつまむ。自然昔語りになる俺を、光樹は黙って見ている。
女房は交通事故で突然逝った。毎晩、孤独を埋めるように酒に浸る俺の繰り言を、光樹は黙って聞いてくれた。
「お前は、いい奴だったよ」
「過去形か」
「どうせもうすぐ死ぬんだろ」
光樹は喉の奥で笑う。
時計が午後21時を回った頃、光樹がぽつりと言った。
「春男、俺に言いたいことがあるだろ」
核心を突かれ、見事に狼狽える。
「なんだよ、いきなり」
「さっきから上の空だ。お前は隠し事ができるように出来てないんだよ」
俺はごくりと焼酎を飲む。
中学1年になっても幼かった俺は、大抵の女子を呼び捨てにし、男子と分け隔てなく接していた。
しかし、
中学で初めて会った彼女は、美人というわけではなかったが、澄んだ瞳をしていた。口数は少なかったが、鈴を振るような声だった。
儚げな彼女を俺は遠巻きに見ていた。その気持ちを何と呼ぶかは、まだ知らず。
俺と彼女が言葉を交わしたのは、偶然だった。
下校中、寄道しながら帰っていると、道に
「大丈夫か?」
俺は彼女の鞄を持ち、肩を貸して自宅へ送った。
道中、会話は無かった。そんな余裕は無かった。
彼女の柔らかく、あたたかい体。すぐ傍で感じる息遣い。
彼女の家から出てきた優しげな母親からは引き留められたが、俺は逃げるように去った。
自分の気持ちにつく名前を、やっと知った。
気付くと、柚木さんがこちらを見ていることがあった。
そういえば、俺の隣にはいつも光樹がいた。光樹は秀麗な顔立ちで、成績優秀で、勿論女子からも人気があった。
なんだ、そういうことかと俺は思った。
初めて、いつも隣にいた親友に嫉妬を覚えた。
いつものように光樹の家に寄った時のこと。
光樹の親は不動産経営で、家もでかくて、一人息子に立派な一人部屋を与えていた。
光樹が席を外した時、机上に転がる万年筆が目に止まった。
洗練されたフォルム、見るからに高級感漂うそれは、まるで光樹のようだと思った。
対して、俺は鉛筆だ。どこにでもあって、ポキリと折れて、容易く捨てられていく。
俺は、自分の手が美しく光る万年筆を握るのを、ぼんやりと見ていた。
その時ドアが開いて、振り向いた俺は反射的に、万年筆を握った手ごと制服のポケットに隠した。
入ってきた光樹に、用事を思い出したと告げ、俺はその部屋を飛び出した。
まだ間に合う、戻れと叫ぶ心の声から耳を塞いで。早鐘のように打つ心臓に怯えながら。
翌日、事件は起きた。
一晩悶々とし、万年筆と共に登校したものの、返すタイミングを逸していた俺。
その背後で、鈴を振る声がした。
「あの、これ…」
振り向くと、あろうことか、柚木さんが万年筆を手に持ち、俺に向かって差し出していた。
どこかで落としたのか。彼女に見られたのか。
返事ができずにいる俺の隣で、光樹が「それ、俺の」と、彼女の手から万年筆を受けとるのが見えた。
柚木さんは、何か言いた気に見えたが、俺は彼女に背を向けた。
その澄んだ瞳に映る、自分を見たくなかった。
光樹は俺の長い語りを、黙って聞いていた。
「すまんかったな…」
ずっと言えなかった言葉を、吐き出す。
黙って盗って、すまなかった。
勝手に羨んで、妬んで、すまなかった。
ずっと謝れなくて、すまなかった。
今なら分かる。
万年筆でも、鉛筆でもよかったのだ。俺たちはそれぞれに、違う。違うからこそ、それぞれに描き出す世界が美しいのだ。
他と比べることはない。最後の瞬間まで、自分の世界を描き出せばいい。
ふと見ると、俯いた光樹の肩が震えている。遂には堪えかねて、大声で笑い出した。
「お前、何が可笑しいんだ!」
「いや、すまん…」
光樹は笑いながら、焼酎を傾ける。
「柚木さん。いたな。大人しい子だった。男子と話してるのを見たこと無い。…柚木さんは、なんで春男に声をかけたんだと思う?」
「は?落とし物に気付いたからだろ?」
俺は光樹の意図が分からない。光樹は笑う。
「あの時きっと、勇気を振り絞ってお前に声をかけたんだ。話すきっかけが欲しかったんだよ」
「は?」
「お前が盗ったなんて思ってないよ。俺から借りた物だと思ったんじゃないか。お前がどんな奴かなんて、柚木さんも知ってたさ」
グラスの中で、水割の氷が、ゆっくりと溶けてゆく。
「あの子は確かに俺達を見てた。でも俺を見てたんじゃない。いつもお前を見てたんだよ」
俺は思わずグラスを落としそうになる。
「なんだよ、それ!…お前、気付いてたのか。気付いてて、黙ってたのかよ!!」
俺の初恋、と天を仰ぐと、光樹の小さな呟きが聞こえた。
「言えば、お前が隣からいなくなる気がしたんだ。…
俺は、鉛筆の気安さが好きだった。
気軽に書けて、折れても削ればすぐ使えて、誰の手にも馴染む。
お高い万年筆なんて、子供は手にとらない。
お前は昔から皆の輪の中にいて、俺のことも容易く、その中に引き入れてくれた。
俺はお前といられて楽しかったよ」
光樹が珍しく多弁なのは、この世の終わりに、感傷に浸っているのか。それとも実は、酔っているのか。
俺は地面に大の字に寝転がる。満天の星の中に落ちていくようだ。普段より大きな月を見上げる。
これで、悔いは無い。
女房に呟く。もうすぐ、会えるな。
午後21時34分42秒。
世界は、終わりを迎える。
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