第2話 会いたい人
区役所に着くと空席は少なく、大半の職員は出勤していた。机上には大量の書類。今日1日で処理できないことは分かっているけれど、待っている人達のために、最後までやり遂げたい。僕は、パソコンを立ち上げる。
沙紀に、もう一度会いたい。
空中にあれが現れた日から、その思いは強くなった。
沙紀は、今日を誰かと一緒に過ごしているのだろうか?
***
目覚まし時計に起こされない平日の朝。これ以上は眠れない、というところまでベッドで過ごし、もそもそと起き上がる。
会社は休んだ。でも、とりたててやりたいことは無い。相変わらず、無為な日々。
世界が終わるというなら、あの日既に私の世界は終わっている。
三年前、啓太を失った日から。
***
沙紀には大学で出会った。
いつも張り詰めた横顔が気になっていた。
彼女は、強い人だった。
高校生で両親を亡くし、叔父夫婦に引き取られ、大学入学を機に一人暮らしを始めたという生い立ちもあったのかもしれない。
けれど、僕の腕の中で、沙紀はいつも静かに泣いた。
華奢な小さな肩。僕は沙紀を抱く腕に、力を込めた。
彼女を、守りたかった。
***
啓太は私にとって、初めて心を許せた相手だった。今まで心に蓋をしてやり過ごしてきたけど、啓太の前では取り繕わずにいられた。
それが、仇になったのかもしれない。
大学入学後、叔父達は家から通学するよう勧めてくれたが、一人暮らしを始め、バイトに明け暮れた。永遠に揺るぎ無いと思っていた家族の喪失は、私をさらに頑なにした。常に、自立せねばという気負があった。
念願の就職を果たし、やっと一人でやっていけると安堵したものの、たどり着いたその場所の寒々しさに、私は愕然とした。
一人で部屋にいると、発狂しそうな孤独に襲われた。
ちょうど周囲が結婚し始めた時期で、啓太に結婚を仄めかしたこともあったけど、彼は戸惑うばかりだった。訳も無く、そんな彼に苛立った。
これ以上、自分の弱さに彼を巻き込みたくない。
私は携帯を変え、彼との関わりを絶った。
それでも、啓太は家を訪ねてきてくれた。
居留守を使う私に諦め、彼が帰った後、手紙が残されていた。
書かれていたのは、一言だけ。
「会いたい」
手紙を握り締め、私は泣いた。
***
定時を迎え、いつもと違い一斉に帰り支度を始める。奇妙な達成感が漂う。
「お疲れ様。最後まで、ありがとう」
課長が一人一人に声をかける。僕も丁寧に会釈を返した。
今夜は、実家に帰る予定だ。最終電車は19時。僕は、足早に駅に向かう。
***
私は駅のホームにいた。もう何本もの電車が、目の前を通りすぎている。
結局、一人で生きられると思っていたのが、傲慢だったのかもしれない。これまで取り繕ってきた鎧の弱さが露呈したのだ。
なぜ、傍にいると言ってくれた彼を信じられなかったのだろう。いつも、私をまっすぐ見つめていた瞳。
今なら、言えるだろうか。
あなたにすがりついてしまいそうだった。そんな自分が嫌で、嫌われたくなくて、自分から手を離したのだと。
本当は、ずっと一緒にいたかったと。
***
電車はそこそこ混んでいた。吊革に捕まり、窓の外を眺める。
通過駅の一つが、沙紀が住んでいた駅だ。
もう、本当に最後なのだと、胸が疼く。
***
最後に啓太に会いたかった。
けれど、私の足は頑として動かないまま。
切符を握り締めて、立ち上がる。
さようなら。
そっと呟いて、ホームを後にした。
***
見るともなしに窓の外を眺めていた僕の瞳に、信じられない光景が飛び込んできた。
沙紀がいた。
張り詰めた横顔は、なぜかあの頃より幼く見えた。
反射的に降りようとした僕の目前で、ドアが閉じられる。
「沙紀!」
僕には気付かないまま、ホームの階段を降りていくのが見えた。僕は歯噛みする。
次の駅に着くや否や、外に飛び出した。
もし、沙紀が別の誰かと今日を過ごすのなら、それでも構わない。
僕は最後まで、君を想っていたい。
***
時計は20時を回った。私は宛もなく街を彷徨う。
この街は、啓太との思い出に溢れている。
この苦しみとも、あと少しでさよならだ。
胸が疼く。
本当に、これで世界は終わるのだろうか?
***
沙紀の部屋は、真っ暗だった。ドアにメモを張り付ける。
「会いたい。 080×××××××× 啓太」
僕は街を駆け抜ける。君を探して。
***
不意に、思い出が甦った。
何故そんな話になったかは忘れたけれど、ある時啓太が言った。
「僕の家系、男は早死にだから、将来禿げるかどうか分からないんだ」
「何それ」と私は笑い、冗談めかせて、でも本気で言った。
「うちだってガン家系だよ。私、一人になるのは嫌。啓太より先に死にたい」
そうかぁ、と啓太は間抜けな声で言った。
「じゃあ沙紀が死んだら、僕も死のうかな」
私は笑った。笑いながら涙が込み上げてきて、啓太に気づかれぬよう堪えた。
一人で生きたいと願っていた。
でも、一人では生きられなかった。
一人になったと思っていた。
でも、本当に一人になるのは、心の中からもその人を失った時だ。
今日、私と啓太は、死ぬ。
でもこんなにすれ違ったままじゃ、きっと私達は空の上でも会えない。
私は駆け出す。
時計は、午後20時半。
もう会いに行くことは叶わないけれど、せめて最後に声が聞きたい。想いを、伝えたい。
啓太のアドレスも番号も削除したけれど、家に大学の同窓会名簿があったはず。電話番号が載っているかもしれない。
まだ、世界は終わっていない。
***
僕は公園のベンチに座り込んだ。運動不足の足が、限界を告げている。
沙紀との、いつもの待ち合わせ場所。
僕たちの物語が、始まった場所。
***
ドアに懐かしい走り書きのメモを見つけた時、私は心臓が止まったと思った。
もどかしくダイヤルを押したが、混雑しているらしくなかなか繋がらない。
夜空を飛び交う、無数のメッセージ。
皆、誰かと繋がっている。
私も、繋がってるんだ。
私は、もう一度駆け出す。
***
背後で、懐かしい気配がした。
振り返るより早く、彼女の腕がしっかりと僕を抱き締める。
「…会いたかった」
沙紀の涙に濡れた瞳。僕は、力を込めて沙紀を抱き寄せた。
午後21時34分42秒。
世界は、終わりを迎える。
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