世界の終わりに

プラナリア

第1話 終わりの始まり

朝。私は店の厨房に立ち、蝉の声をBGMに、ランチの仕込みを始める。

常に食材が詰まっていた冷蔵庫は、空白が目立つ。今夜で使いきってしまう予定。

遂に、この日がきたなと思う。

いつもと同じようで、まるで違う朝。


青空に、肉眼でも確認できる小さな黒い星が生れた時。

一斉に、この惑星に近づく多数の、正体不明の物体が報じられた。

形は例えるならば、巨大なスイカの種。隕石にしては奇抜な、宇宙船にしては奇妙なそれは、一定の速度でこの惑星に近づいているという。

各国がその存在を発見してから極秘に調査を重ね、対策を講じてきたけれど、解決策は見いだせず、逃げ場も無いまま。

それはいずれも世界各地の海を目指しており、この近くの海にも墜ちるはずだ。

突然、ディープ・インパクトを迎えるまでのカウントダウンが始まった。


今日の、午後21時34分42秒。


世界は、終わりを迎える。



ランチは、思ったより賑わった。

商店街のお店の大半は、シャッターが閉まっているという事情もあるかもしれない。

「あなたが作るハンバーグ、大好きだったわ。肉汁がぎゅっと閉じ込められてて、柔らかくて。自分で作っても、こんな風にならないのよね」

初老の女性が、微笑む。

「またのお越しを」と声かけしそうになるのを、飲み込んだ。

私のお店は、家庭料理が中心だ。馴染み深い料理を丁寧に届けたい、その積み重ねが根底でその人を支える力になれば、と願っている。目新しさは無いし、特別感も無い。そんな料理を、今日の食卓に選んでくれたことが、有難い。

「お越し頂き、本当にありがとうございました」

私は、深々と頭を下げた。


混乱と焦燥の日々が過ぎ去ると、意外なことに、すとんと平穏が戻ってきた。

刹那的な生き方に走る人もいたけれど、大半の人々は、淡々と日常を送ることに決めたようだ。

犯罪も減った。

街ですれ違う誰もが、期限付きの日々を生きている。

そんな諦念にも似た優しさが、満ちていた。


昔、残業に次ぐ残業を重ねていた頃。

突然、胸から出血した。

乳腺外来に精密検査の予約を入れ、受診を待つまでの間、悪夢を生きているようだった。

不意にあたたかい食事が食べたくなり、普段なら入らない居酒屋兼食堂に立ち寄ったのは、そんな時だった。

店に立つおばさんの、あたたかな笑顔。一日の仕事を終え、くつろぐ人々。

そこで食べたカレイの煮付定食は、ファーストフードとは違う、てらいの無い美味しさだった。

優しい出汁のお味噌汁。つやつやしたご飯。とろりとした煮汁、ふっくらしたカレイの身。

あぁ、これが生きているということだと、私はしみじみ思った。

店を出た後、目に映る全ての景色が、きらきらと優しかった。


結局見つかったのは良性の腫瘍で、手術も必要なく経過観察となったのだが。

まもなく、私は仕事を辞めた。

自分が本当に望むことは何なのか考えた時、浮かんだのはあのお店だった。

もともと、料理は好きだった。30台後半まで仕事一筋だったので、貯金もあった。ツテを辿って商店街の空き店舗に店を構えたのは、去年のこと。

最初は赤字続きだったが、ぽつぽつとお客さんが来るようになり、少しは軌道に乗り始めたかと思った矢先。

それが、現れたのだった。


ランチ終了後、ディナータイムに移行する隙間時間に、馴染みの主婦が訪ねてきた。

「暑いわね。夕飯前に、一杯だけ飲みに来たの」

心をこめて、黄金色のビールをゆっくりと注ぐ。喉を鳴らして飲み干す様に、惚れ惚れした。

「今日の夕飯、何ですか?」

「すき焼き。思いっきり上等のお肉、買っちゃった。最後まで、ご飯作るなんてね。でも、家族が家で食べたいって言うから」

「素敵です。…お疲れ様でした」

ありがとう、と微笑んだ後、主婦は視線を移す。

「夜も、お店開けるの?」

「はい。最後までこの店にいたいんです。お客さん、来るか分からないけど」

頷いて、主婦は笑う。

「何かあったら、家においで。近所なんだし。ひなちゃん、いつもご馳走さまだったね」

「…ありがとうございます」

私も笑みを返す。


帰らないと伝えた時、母は泣いた。

店に行くと言われたけれど、断った。施設に入所した祖母が帰宅し、近所に住む弟一家も一緒に最後を過ごすのを知っていたからだ。祖母はもう、長距離の移動はできない。私が実家を出て何年も経つ。彼らには彼らの日常を、大事にしてほしかった。

「親不孝な娘でごめん」

約束の電話を架けると、母が泣きながらも微笑んだのが分かった。

「ひなたは、言い出したら聞かんけん。…やっと開いた店やもんね。最後まで、しっかりやるとよ」

「ありがとう、お母さん」

今までずっと、ありがとう。

胸の中で呟いて、電話を切った。


「帰らなくて良かったのかい」

カウンターのお客さんと目が合う。田崎さんは、お祖父ちゃんと呼びたくなる、人好きのする男性。奥さんに先立たれ、一人暮らし。常連客の一人だ。

「…結局、花嫁姿は見せてあげられなかったな」

呟くと、田崎さんは「いいんだよ、そんなの。ひなちゃんが笑ってれば十分」と笑った。

今夜初めてのお客さんもいて、和やかに談笑している。みんな、この夜を一人で過ごしたくはないのだろう。

暗い夜の中で、お店の灯りは星みたいに瞬いているんだろうか。

私は、そんな場所を作れたんだろうか。


「私も、ご相伴していいですか」

一通り料理を出し終えた後で、私は自分のために最後の晩餐を作った。

ご飯、お味噌汁、カレイの煮付。

田崎さんの隣に座ると、「お疲れ様」とビールを注がれた。

夜の静寂しじまの中を、救急車のサイレンが通りすぎていく。

「最後まで、働いてくれてる人がいるんだよな。ありがたいよな」

田崎さんが呟く。

警察、消防。電気、ガス、水道。今も見守ってくれている誰かがいる。最後の瞬間まで、私たちの命を支えてくれている、名も無き人々。


時計は21時半を回った。

テレビは刻々と近づく、例の空中浮遊物を写し出している。

「さようなら、皆さん。ありがとう」

ニュースキャスターの声が震えている。

私はそっと、テレビを消した。

「乾杯。この世界に。皆さんに」

サラリーマン風の男性が、高々とグラスを掲げた。私たちは、みんな笑ってそれに続く。


この店は、私の生きた証だ。


時計の秒針が動く。

午後21時34分42秒。


世界は、終わりを迎える。









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