第43章 破戒

「はぁ……はぁ……!」


 どこを見渡しても、黒、黒、黒……真っ暗闇のなか、私は走っている。背後から迫りくる、得体えたいの知れないモノから逃げるために。

 振り返って確かめてはいない。けれど、絶対に見てはいけない。そんな気がするのだ。


「はぁっ……はぁっ……」


 息が上がり、もう走ることもままならなくなる。体中が酸素を欲して呼吸を早め、重労働を強いられた肺が悲鳴を上げる。心臓も血液を送ることに必死となり、ドクン、ドクン、と胸を鳴らす。飛び出してきてしまいそうなほど強い拍動に、私は膝を付きそうになる。


 でも、いけない。ここで膝を付いてしまえば、後ろから来るあの化物に飲まれてしまう……それだけは、絶対にできない。


「くっ……」


 歯を食いしばり、持っている力、その全てを使って前へと足を運ぶ。もう、走れるほどの体力は残っていない。それでも、どうにかして前へ……前へ……!


 不意に、私の目に誰かの後ろ姿が映り込む。痩せているけれど、なぜか大きく見えるその背中には、どうしてか見覚えがあった。でも、思い出せない。

 その人は、私の方へと振り返ることなく、光の差す方向へと歩き始める。今まで、あんな光なんて無かった。ずっと……ずっと、ずっと! 真っ暗な闇の中だった! ……なのに、急に現れたその人は、同じく急に現れたその光へと向かっている。


 何か、知っているのかもしれない。


「待って……待ってよ……!」


 あの人に追い付けば……きっと、この暗闇から逃げられるに違いない。絶対に、逃がすものか。

 私は声の限り叫ぶ。そして、走る。喉が千切れるくらい、足がもげるくらい、必死に。


 それでも、全然追い付かない。どれだけ叫んでも振り向いてくれない。


「あっ……!」


 足がもつれ、その場に転倒する。全身を、強い痛みが襲う。転んでしまった私に、その人は全く気付かないまま、その姿を徐々に小さくしてゆく。


「待って……行かないで! こっちを見てよ、ねぇ! 聞いてよ、××!!」


 必死に叫ぶ。途中で誰かの名前を叫んだが、そんなことはどうでもいい。思いつく限りの手段で、その人を……彼を呼び止めようと、私は足掻あがいた。


「待って! ××! 待っ――――」






 ピピピピッ……ピピピピッ……






「……う、ん……?」


 けたたましい電子音が、私を現実へと引き戻していく。薄明、天井、そして、伸ばされた腕。この目に映るもの全てが偽物だと疑ってしまうほどに、さっき転んで打ったはずの全身も、叫び続けて掠れた喉も、乳酸の溜まった足も……何も感じない。


 ただ、目の前にある私の腕らしきものは、天井へと伸ばされたままだ。肩の関節がきしみ、その痛みは辛うじて感じることが出来た。とはいえ、先ほどまでの痛みと比べれば、痛くないも同然だった。


「……」


 まだ、現実を実感できない。一先ず、この腕を動かしてみる。


 グー、パー、グー、パー……


 特に、問題はない。ただ虚空を握っては開き、開いては握り、を繰り返すこの光景は、はたから見ればおかしなものに違いない。しかし、これでもなお、私は信じられないでいる。

 そして、指を動かしてみる。小指、薬指、中指、人差し指、親指……全て、意のままに操ることができた。わきわきと、それらを動かしてみて、ようやく私はこれが現実であると受け止めることができた。


 と、言うことは。先ほどまで見ていた、あの光景。あれは――――


、かぁ……もー……」


 ピピピピッ……ピピ……


 鳴り続ける目覚まし時計のアラームを、私はため息をきながら切る。午前6時……まだ目覚めるには早かったが、もう眠れる気がしなかったので、そのまま朝支度を始めることにした。





 2020年3月2日。埼玉さいたま県さいたま市浦和うらわ区にあるマンションの一室に、私、宮尾みやお 藤花とうかは住んでいる。首都である東京からは少し離れているが、多くのビルが立ち並ぶ立派な都会だ。少し電車に乗れば、新宿まで簡単に行けてしまうアクセスの良さもあり、埼玉県の中では地価の高い区域だ。


 そんなところに、私は一人きりで住んでいる。現在私が勤めている企業……正確に言えば社員食堂の調理係として勤務しているのだが、その社員寮が、ここ浦和に存在する。ビル群のある中心地からは離れており、やや閑散とした住宅街である。一見すると地味に見えるが、住む分には非常に心地よい。

 同じ職場で働く仲間も寮におり、たまの休日には特に仲の良い二人と出かけることもある。そんな日々が、私にとっては非常に楽しく、有意義であった。一人きりで暮らす、身寄りのない私には、彼女たちの明るさが何よりの救いだった。



 私には、記憶がない。



 正確に言うと、ここ半年くらいからの記憶しか存在しない。最初に見たのは、病室の天井だった、と思う。そう思えるくらい、私の脳には何も残っていなかった。

 主治医の話によれば、強烈なストレス……恐らく死別か何かだと思われるそうだが、それを私の脳内が受け止められず、体を守るために記憶が損なわれたのではないか、ということだった。


 私は当初、そんな話を受け入れられなかった。当然だ、あまりにも現実味のない話をされて、はいそうですか、などと言えるはずもない。一般市民に対するドッキリ番組もある世の中なのだ、そういう類のものだと、勝手に思い込んでいた。


 しかし、現実は残酷だった。時が経つにつれて、記憶がないという事実を突きつけられていく。思い出そうとしても、妙な頭痛が襲うだけで何も浮かんでこない。


 私は焦った。焦るあまり、周囲に当たり散らすこともあった。そんな自分が悲しくて、苦しくて、また焦っていく。無間地獄に囚われ、本気で死を意識するほどに、私の心はどす黒く染まっていたのだ。

 そんな中、主治医は私にある提案を持ち掛けた。


 『働いてみてはどうか』と。


 普通なら有り得ない提案だっただろう。しかし、何もしない時間が長ければ長いほど、焦燥感が心を蝕んでいくのだ。この気持ちから少しでも逃げられるのであれば……そう考え、私は彼の提案を受け入れた。そして派遣された先が、この浦和にある企業の食堂であった。


 最初のうちは、慣れないことも多く仕事も多忙であり、自身の選択を後悔することもあった。しかし、二人の友人との出会いが、黒一色だった私の心を華やかにいろどっていく。

 普通に笑顔で話せるようになり、冗談を言い合ったり、時には喧嘩もしたり……いつしか、記憶を取り戻そうという焦りも、消えてしまっていた。完全に消えたわけではないが、少なくともそんなことを考える暇は無くなっていた。


 そして、今に至る。

 この場を、そして環境を与えてくれた主治医、それに友人たち……いろいろな人の支えがあり、こうして生きている。


 今日は、そんな彼女たちと遊ぶ予定を立てていた。月曜日であるのだが、勤め先はしばらくの間、テレワークとなるらしい。よく分からないが、世間では奇妙な病気が流行っているらしく、そのあおりを受けた形だ。そうなると必然的に、社員食堂の従業員である私たちにはやることが無くなる。


 というわけで、今日は友人二人と東京へ遊びに行くつもりだった。ちょうど定期診察日でもあり、二人に東京を案内しようと思い巡らせていたのだ。渋谷や新宿を、堂々と歩く私の姿を見せつけたい……そんなよこしまな思いもあってのことだ。


 しかし、そんな浮かれ気分だった私は、あの夢によってどこかへ消し去られてしまった。鮮やかな絵を、黒く塗りつぶされてしまったような気分だ。

 しかも……


「むぅ……雨、かぁ……」


 最悪の展開だ。激しく降ってはいないものの、雨天ではテンションが上がらないし、街中を闊歩かっぽし辛くなる。それどころか、このままでは私一人で東京まで診察を受けに行くことになってしまう可能性だってある。友人のうちの一人は気分屋なのだ、天気が悪いと知れば彼女はドタキャンすることも考えられる。


とはいえ、まだ朝の6時だ。午後……もしかしたら、それよりももっと早くに、この雨は止んでくれるかもしれない。一縷いちるの望みを賭け、テレビの電源を点ける。天気予報の確認、まずそれをしておくべきだ。


「可愛いウサギでしたね。……さて、次のニュースです。昨夜、都内のホテルおいて男性の刺殺体が発見された事件の続報です。新たな容疑者とみられる男性の身柄が確保されました。確保されたのは、都内に住む大学生の、『高島たかしま 春来はるき』容疑者です。警視庁によれば……」


 派手な化粧のアナウンサーが、神妙な面持ちでニュースを読んでいる。

 しまった、もう少し早く点けていたら、可愛いウサギが観られたのかもしれないのに。今日はとことん、ツイてないらしい。しかし……


「この犯人、同い年なのかぁ……信じられないな、殺人だなん……て……?」


 都内での殺人事件の報道……普段なら全く気にも留めない。所詮は他人事なのだ、可愛いウサギの方がよっぽど興味がある。

 しかし、テレビに映るその名前に、違和感を覚えた。高島、春来……どこかで聞いたことがあるような……モヤモヤとした渦巻く何かが、私の頭を、胸の中を、もてあそぶ。あまりの不快感に、軽い胸焼けのような痛みが襲ってくる。


「……高島容疑者は取調べに対し、俺がやりました、と繰り返しており、警察は昨夜逮捕した男との関係性も視野に、捜査を進めているとのことです。さて、次はお天気です」


 待ちかねていた天気予報の時間が来たというのに、私の意識は別の方向へと向いていた。高島 春来という名前……やはり、聞き覚えがある。それと、この胸のざわめき、違和感……これが意味することは分からないが、恐らく私の記憶に何か関係がある。そうとしか考えられない。


 先ほどのニュース……確か、有名なホテルで殺人事件が起きたのだと記憶している。鋭利な刃物で一突きされ、被害男性は失血死したのだという。被害者の名前など憶えているはずもないが、有名なホテルでのそんな物騒な事件なので、何となく覚えていた。


 しかし、昨日にその犯人は捕まっていたはずだ。その被害男性に強い恨みを持った、40代くらいの、鈴木だか田中だか、そんな平凡な名前だったと思うのだが……新たなる容疑者、とニュースでは言っていた。その男と共犯である可能性は否定できない。


 そんな共犯者の名前に、私は引っかかっている。どこかで見たはずなのだが……それがどうしても思い出せない。


「……うん、やっぱり気になる。診察が終わったら、少し調べてみよう。私のこと、だもん。知らないなんて、おかしいもん……」


 自分に言い聞かせるように、何度も繰り返す。知らないままで良いはずがない。誰からも教えてもらえないのなら、自分で探し出すしかない。


「……ようし!」


 パチン、と頬を叩く。少し強く叩きすぎて痛むが、それくらいがちょうどいい。これから、封印された自分の記憶を取り戻しに行くのだ。最悪、先ほどの男と会うことも考えておかなければならない。これくらいでへこたれては……



 ヴーン、ヴーン



「ひゃっ!?」


 気を引き締めていた矢先、不意に振動するスマホ。机の上に置いたのがあだとなり、大きな振動音が部屋中に響く。その音に、心臓が飛び出そうなほど驚き、血の気が引く。


「び、びっくりしたぁ……な、なんだろ……?」


 恐る恐る、スマホへと近づく。着信、のようだ。それも、友人の内の一人、『ミカ』……今日、まさにこれから一緒に東京へ向かおうとしていた、気分屋の彼女からの着信だった。彼女にしては起きるのが早い。もしかして、彼女も悪い夢でも見たのかもしれない……そんな軽い気持ちで、私は電話に出る。


「あ、もしもし? どうしたの――――」

「どうしたの、じゃないわよ! 今何時だと思ってるの!」


 電話の向こうで、憤慨している様子のミカ。今何時だと思っているのか、などと母親のような口ぶりに、思わず私は笑いそうになる。こんな朝早くから、そんなごっこ遊びでもしようとでも言うのだろうか。


「ええ? だって――――」


 チラリ、と時計を見る。目覚まし時計の方ではなく、壁掛け時計の方へと目を移す。時計の針は、9時を示していた。

……9


「え、嘘……」

「なーにが嘘、よ! 寝坊助にもほどがあるわよ! 予約時間には間に合うんでしょうね!?」


 嫌な汗が、どっと噴き出してくる。通話中のスマホを滑り落してしまいかねないほどに、おびただしい量の手汗も出てきている。

 まさか、と思い目覚まし時計の方へと目を凝らす。アラームを止めた拍子に時計は倒れてしまっていたが、その針が指し示す数字ははっきりと見えた。

 ……9、だ。


 困惑する私だが、ここで一つ思い出したことがあった。この目覚まし時計は、少し変わった文字盤をしている。中央から放射状に数字が配置されているせいで、見る角度によっては時間が分かりにくい。購入当時は、それがオシャレだと思っていたが……寝ぼけた眼では、6と9を見間違える可能性があるのだ。

 そして、実際にそれは起きてしまった。

 その上、雨のせいで日光は届かず、まだ暗い時間帯なのだと錯覚してしまっていたのだ。そんな状況で、テレビの時刻表示など目に留めるはずもない。

 これらの情報を総合的に判断すると、一つの答えが導き出される。


 ……そう、


「やっばい! 診察予約、10時からだよ! まずいまずい!」


 ここ浦和から代々木までは、駅から駅までの移動でも30分はかかる。そして浦和駅までは、この寮からだと10分程度は歩かなければならない。現在の時刻は9時10分……診察予約の10時には、どうやっても間に合うことはない。これは、素直に謝る以外に選択肢は残されていない。


「ごめんミカ、すぐ支度したくする! ……ナオもそこにいるの?」

「私はいいから、早く病院に電話しなよ! ナオも一緒にいるけど、怒ってるからね。それだけは言っておく」

「げっ……」


 もう一人の友人、ナオは大人しくてマイペースな子だ。基本的には私やミカの後を付いてくるタイプなのだが、真面目で融通ゆうずうが利かないところもある。時間を守らなかったりすると、彼女はものすごく怒る。

 もちろん、時間を守らない方が悪いことは百も承知だが、それを感じさせないほど、烈火の如く怒り狂うのだ。彼女いわく、その性格は母親譲りなのだそうだ。


「……ミカ、あとでおごるから……」

「ダメ。いいから早くしな」



  プツッ、ツー、ツー……



 無情にも、ミカからの電話はそこで途絶えてしまった。病院への電話、そして友人の怒り……それがこれから待っているかと思うと、絶望感と虚無感が全身を襲う。そんな私をあざ笑うかのように、テレビでは十二星座占いが始まっていた。


「そして、今日の最下位は……ふたご座のあなた! やることがうまくいかず、踏んだり蹴ったりな一日に――――」

「もう、分かったよう!」


 八つ当たりをするように、勢いよくテレビの電源を切る。何も映さなくなった画面は、鏡のように私の姿を投影する。そこに映る私は、私を笑っているような気がした。


「……はぁ、もう……どうなるんだろ、今日……」


 こうして、私は一日の始まりを最悪な気分で迎えることとなった。この先に待ち受ける出来事など知る由もなく、この時はただ、ナオにどう謝るべきかと途方に暮れるだけであった。


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