第44章 冷雨と蕾

 東京総合国際病院、外来診察室の一室。そこから、若い男の高らかな笑い声が漏れ伝わる。一般外来とは異なり、やや陰鬱いんうつな空間であったが、その空気を吹き飛ばすような明るいものだった。


「ははは、そりゃ宮尾ちゃんが悪いよ。時計、買い直した方が良いんじゃないかな?」


 診察室にいるのは、笑い声を上げた、主治医の森谷と私。友人二人……ミカとナオには、病院内のカフェで待ってもらっている。


 外来とはいえ、精神神経関連の疾患を抱えた患者たちが待つスペースに、あの二人を待たせておくのは何となく気が進まない。それに、待ち合わせに遅れてしまった謝罪も込めて、カフェの代金はおごると約束したのだ。

 もちろん、ドリンクなら一杯まで、と念を押したのだが……彼女たち、特にミカは遠慮がない。最悪、今晩からの食事はもやしがメインとなるかもしれない。


 森谷へは、朝、と言っても9時過ぎであったが、診察に遅れることを連絡しておいた。私は彼の電話番号を知っていたので、病院の電話窓口の人から怒られることなく、スムーズに時間変更が出来たのだ。

 森谷の方も、実は10時だと都合が悪かったというので、双方の利害が一致した、という訳だ。だからこうして、和気藹々わきあいあいと会話することが出来ている。


「うぅー、お洒落だったんですよ……でも最初、確かに分かりにくいかなって思ったんですけどね……やっぱり、買い直した方が良いかも」

「うんうん……さてと、最近はどうだい? 何か思い出すようなことは?」


 雑談もそこそこに、森谷は少し真剣な眼差しで私を見つめる。気の良いお兄さんから一転、真面目な医者へと変貌する辺りは、やはりさすがと言うべきか。


「思い出すこと……ないですね……こうして代々木駅から病院に歩いてきてみても、ピンと来るものはなくて。でも……」


 ふと、最近のことを思い返してみる。すると、ミカやナオ……それに職場の人たちの笑顔が思い浮かんでくる。仕事はもちろん大変だし、一人暮らしは寂しいものだ。でも、こんな生活も、全然悪いものではないと思えてきたのだ。


「前みたいに、記憶を取り戻さないと、っていう、何て言うのかな……気概? そんなものが、少しずつ薄れているような気もしたんです。……あ、先生にこんなこと言うのは失礼なんですけど……」

「……ふーむ。つまり、記憶を取り戻すよりも、今を生きることの方が楽しい……そういう解釈でいいのかな?」


 簡単に、話をまとめるとそうなる。記憶を取り戻そうとする度、私はひどい頭痛に襲われるのだ。思い出すな、と言わんばかりに、脳が私を痛めつける。

 それと比べれば、今こうして楽しい日々を送れている……もしかしたら、思い出さない方が良いのかもしれない、そう思っていた。


 そう、


「……でも、今朝……また夢を見ました。前にもお話しした、あの真っ暗な夢……でも、今朝見たのは、少し違っていました」

「違う、とは?」


 食い入るように、森谷はさらに真剣な表情となる。私の視線の動き、所作……あらゆるものを見逃すまいと、目を凝らしている。


「ええと……誰かの、背中が見えました。それと、光が差し込んでいて……その人は、その光に向かって歩いていました」

「……それは、男性? それとも女性かな?」

「えっと……男性、かなぁ……痩せていて、背は私より少し高いかな。……必死に叫んだんですけど、その人は振り返らず、そのまま歩いて行ったんです……」


 ペンを走らせた後、森谷は少し考え込むように天を仰ぎながら目をつむる。悪い予兆なのだろうか、と思ってしまうくらい、彼の思考は長く及んだ。その間、私はただ不安で居た堪れない気持ちでいっぱいだった。


 数分後、ふぅ、と息を吐き、森谷は私に笑顔を向ける。


「……ま、大丈夫でしょう。また同じ夢を見るようなことがあれば、遠慮なく電話してくれて構いませんから。それで、と。今回も薬はなし、で……また画像だけ撮らせてください。何かあったら、こちらから電話しますので」


 あれだけ思案したというのに、特に異常なし……腑に落ちないところであるが、所詮は夢の出来事なのだ。疲れとか、そういうものも影響しているのかもしれない、のかな。


「そう、ですか……では、よろしくお願いします」

「うん、お大事に」


 立ち上がり、診察室を出ていこうとする私だったが、一つ確認しておきたかったことを思い出した。遅刻とか、ナオへの謝罪ですっかり忘れそうになっていたが……念のため、森谷にも聞いておく必要がある。


「そうだ、先生。一つだけ、聞いていいですか?」

「うん? 何だい?」


 先ほどの真剣な表情を崩していた森谷に、私は尋ねた。あの人間の名前を。


って人……知っていますか?」

「っ……!?」


 瞬間冷凍されたように、森谷は全身を、そして表情までも固まらせる。プラプラと遊ばせていた聴診器が、虚しく揺れている。

 その反応を見た私は、一瞬にして悟った。やはり、高島という人間は、私の過去に関わっている。そして……この森谷は、それを隠そうとしているということも。


「……そう、ですか。やっぱり……」

「ど、どうして高島くんを……」


 高島『』……殺人事件の容疑者に、『くん』と付けることはまず考えにくい。大抵は、呼び捨てか容疑者と呼ぶのだ。『くん』などと呼ぶのは、以前から親交のある人間でなければ、まず有り得ない。

 つまり、森谷は殺人犯と繋がっている。そして、その殺人犯と私は、失った過去で繋がっている。


「……先生を信頼することは出来ません。そもそも、記憶を取り戻すような訓練とか、そういうものを一切してくれなかった。そして、そんな隠し事までしていた……もう、私は信じない。ここにはもう来ません。さようなら」


 呆然とする森谷を背に、私は診察室のドアを閉める。力任せに、この感情のおもむくままに閉めたかったが、そんなことをしても何も解決しない。

 まずは……高島 春来について調べるしかない。私一人で……いや、ミカやナオにも相談してみよう。三人で力を合わせれば、何か見つかるかもしれない。


 時刻は、11時20分。画像を撮る話になっていたが、そんなものに構っている時間はない。ようやく掴んだ手掛かりだ……絶対に、失うものか。









 一方、重苦しい空気の漂う診察室。そこで森谷は一人、頭を抱え込んでいた。


「はぁ……何で彼女は、彼の名前を知っていたんだろう……」


 最近は仕事に追われ、ニュース番組を観ることも、新聞を読むことも、ネットニュースを閲覧することも出来ていなかった彼は、高島の起こした事件を知らずにいた。それ故に、突然彼女の口から飛び出した、『高島 春来』という言葉に面食らい、要らぬ情報を与えてしまったのだ。

そのことに全く気付いていない彼は、彼女の態度の変化に戸惑い、ただ思い悩むことしかできずにいた。


 そして、しくもこのタイミングで、彼のスマホが鳴動する。着信……相手は、中原であった。


「もしもし、中原さん? どうした――――」

「どうしたもなにもないですよ! ニュース見ましたか?」

「え、いや……何かあったんですか?」


 電話口から、はぁ、とため息が聞こえてくる。非常に失礼な態度であるが、この森谷はそんなことでは動じることはない。せいぜい、息苦しかったのかな、と思う程度にしか感じないのだ。


「……いいですか、高島くんの身柄が確保されました。容疑としては、あのカフェのマスター、大野の殺人への関与です」

「……はぁ?」


 先ほどの笑い声とは異なり、驚嘆きょうたんの声が待合室まで響き渡る。一瞬にして彼の額には脂汗が滲み、唇はわなわなと震え出す。


「ど、どういう……まさか、彼は……」

「……ああ、やっぱりあなたは知っていたんですね。大野 幸貞……彼が、あの組織の一員であると。そして、あの事件……いや、それだけじゃない。帝都大学での事件や、『エンドラーゼ』の事件にも関与していたということを」


 顔面を蒼白に変え、床の一点を見つめる。死の絶望に飲み込まれたように、全身を震わせる。


 その様子を、看護師がチラチラと不安げに眺めている。仕事中はほとんど感情的になることのない森谷が、ここまでの変貌を遂げたのだ。興味よりも恐怖の方が勝り、彼を遠巻きに見ることしかできずにいた。


「……森谷さん、私はそれをとがめる気はありません。その話をちょうど今、高島くんから聞いたところでしたから。……それで、私が確認したいのは……」

「宮尾さんの、様子……そうですね?」

「……ええ」


 高島と中原が会っているというのは、別段驚くべきことではない。高島は、あの事件に関与していた人物であると、警察全員に周知されているはずだ。

 そうであれば、不用意に彼を取り調べることは難しい。何故なら、警察上層部から揉み消すように、と暗に指示された事件の詳細を聞かされる可能性が高いのだ。そんなものは、出世を目論もくろむ人物からすれば、ただの巨大で劣悪な爆弾でしかない。


 となれば、当然のことながら中原に白羽の矢が立つ。あの事件に関与した唯一の人物であり、丸く収めることのできた若手だ。最悪、二階級特進殉職させれば後腐れがない。

 全く身勝手ではあるが、組織とはそういうものだ。


 問題は、高島の逮捕がニュースとして取り沙汰されてしまったということだ。先ほどの彼女の様子からして、そのニュース映像を観てしまったのだろう。そして、記憶の中にある彼が、少しだけ顔を覗かせてしまったのだ。そうなってしまえば彼女は、記憶を取り戻そうと暴走してしまう可能性が高い。それが絶望とは知らず、必死になって。

 中原からの電話はそれを確認するためのものだと、森谷は直感したのだ。そして、それがもう手遅れであるということも、彼は知っていた。


「申し訳ない。ちゃんとニュースをチェックしておけば良かったんですが……今しがた、彼女から高島くんの話を切り出されました。そして、怒ったような口ぶりで『さようなら』と言い残して去っていったばかりです」

「……それは、考え得る限り最悪のプランですね。とはいえ、すぐに彼の元へ辿りつくことは無いと思いますが……彼女は今、どこに?」


 森谷は、チラリと時計を見る。先ほど、彼女がこの診察室を出てから、まだ10分も経っていない。画像を撮影するように指示を出していたこともあり、まだ放射線科にいる可能性を考えた森谷は、近くの看護師を呼び寄せる。


「君、さっきの患者さん、放射線科にいるか確認してくれ。いたらすぐに戻るように……」

「え? さっきの女の子なら、撮影があるって伝えたのに帰りましたよ。先生は信用ならないって……」


 森谷の顔色が、一層悪くなる。冷静に考えれば、あれだけの啖呵たんかを切っておいて、彼女が素直に画像検査を受ける訳がない。そもそも彼女は、記憶が戻らない以外に悪いところはないのだ。そして恐らく、支払いも自動会計で済ませただろう。だとすれば、もうこの病院内にはいない可能性が高い。


「……すみません、中原さん。10分ほど前にこの病院から出たようです。聞いた話では、東京をお友達とぶらぶらする、と言っていましたので……もしかすると、まだ代々木、もしくは渋谷、新宿辺りにいるかもしれません」

「不幸中の幸い、というやつですね。……分かりました、適当な理由を付けて、彼女の監視に向かいます。容姿に変化は?」

「ええ、と……やや髪は伸びましたが、顔つきなどは変わりありません。服装は……すみません、分かりません」

「そこは期待していません。ありがとうございます、それでは」


 そこで、中原との通話は途切れた。ビジートーンが鳴り響く診察室で、また森谷は頭を抱え込む。

 高島が大野を殺害する……動機は充分だが、そもそもどうしてそれを知ることが出来たのか。少なくとも、森谷の口から告げられた訳ではない。そんなことをすれば、森谷はもちろん、高島、それ以外の人間もすべて排除されるのだ。


 森谷の体内には、。生体埋め込み型盗聴器……これの開発は大野の功績であり、彼があの組織で『耳』としての役割を担うようになった一つの大きな理由でもある。

 大野はあの組織に関わった、特に末端の人間……米村や、森谷、そして奥村などの人間に対し、その盗聴器を体内へと埋め込む手術を行なっていた。これを埋め込む目的はただ一つ。機密情報の保持……これを徹底させるためである。


 これのため、森谷の口から高島に大野の情報を伝えることは出来ない。万が一、情報漏洩が発覚した際は容赦なく、大野の子飼いのいぬ共により始末される仕組みとなっている。


 あのカフェ・レストリアは、表向きは普通のレトロなカフェであるが、地下には多くの機器が設置され、あらゆる盗聴器の音声を録音、解析するようになっている。それに聞き耳を立てながら、大野はマスターとして振舞っていたのだ。その性質故、大野は大きな物音に弱いのが玉にきずであったが……気弱、という愛らしい側面として認知されたことも事実である。


 そうである以上、少なくとも組織の人間から高島へ情報が渡ることは考えにくい。組織外の人間が大野の存在を知ることは、まず有り得ない……だとすれば、一体いつ、彼は大野の存在に気付き、そして殺害を企てたのか。


「……こればっかりは、聞きに行くしかない、かぁ……」


 ふぅ、と一息吐き、重たい腰を上げる。予定していた研究はあるが、今はそれどころではない。宮尾の方は中原が監視するとして、高島については、彼自身、聞きたいことがあったのだ。

 本当に、殺人犯なのか。そして、どうやって大野へと辿り着いたのか。


「雨、か……止むと良いんだけどな」


 窓の外、灰色に染まる都市へ一瞥し、森谷は足早に病院を後にした。高島のいる、代々木警察署へ向かうために。

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