第42章 ラスト・ディナーはあなたの死体

「――――故に、人間における鏡像キラルの存在は興味の対象であり、愛を生み出す可能性が示唆しさされました。今回、使用された二つの被検体でありますが、その後もまた継続してフォローしていく予定でございます。眠りについた彼女が、やがて目覚めたとき……そこで、また新たな愛が誕生するのではないかと、私は期待しているのです」


 2020年3月1日。暖冬とはいえ、まだ寒さの厳しいここ東京……その中に存在する大型ホテルの豪華な会議場で、大野おおの 幸貞ゆきさだは百人にも満たない聴衆を相手に研究報告を行なっていた。

 その聴衆の多くは、立派な髭をたくわえた異国の老人であった。そんな彼らは物思いにふけるように、大野の研究報告を傾聴している。無論、被検体となった男女の身の上を案じている訳ではない。大野の研究に対し、正当な評価を与えるための思案だ。


 『世界人類科学創造研究会』……会場の入り口や会場内の横断幕には、そう記されている。人類の未来を、科学により創造するというスローガンを掲げるこの学会は、ホームページすら有さない、全世界でも属する者はごくわずかというものであった。


 そんな弱小学会の学術集会であるというのに、会場の入り口には屈強な男たちが立ち並び、周囲を警戒している。まるでこの会に参加する人間たちが、各国の要人であるかのようなその光景は、まさに異様としか形容できない。


 その物々しさの中、大野は眉一つ動かすことなく、研究報告を行なっている。


「そして、この場を与えてくださった皆様方に、感謝申し上げます」


 大野の研究報告が終わると、会場からは盛大な拍手が巻き起こった。彼の研究は、この聴衆たちに広く支持されたのだ。鳴り止まない拍手を全身に浴び、大野は少し恥ずかしそうにはにかんで見せる。


「素晴らしい研究報告でした、ミスター大野。座長の私から一つ質問ですが、その後のフォローを行なう上での懸念材料などはありますでしょうか?」


 立派な白髪の白人男性は、大野へ笑顔を向けながら質問を投げかける。


「ええ、まずは情報の漏洩ろうえいを最も注意しなければなりません。この研究を行なうに際して、細心の注意を施したつもりではございましたが――――」


 ふと、大野は会場へと目を向ける。聴衆の多くは、大野と研究を競い合った戦友である。そんな彼らの顔を見ても、通常であれば動揺などするはずもない。しかし、大野は聴衆を見渡した際、言葉を詰まらせた。そこにあるはずのない顔を、彼は目撃してしまったのだ。


 幽霊でも見たかのように硬直する大野を、怪訝けげんそうに座長の男性は見つめ、声を掛ける。


「……ミスター大野? どうされましたか?」


 彼の声を受け、大野は我に返ったかのように表情を変える。


「……ああ、失礼。どうも、年を取ると言葉が出てこなくてね。……どうでしょう、私に不老不死の薬を使いたいという方がいらっしゃれば、ぜひお願いしたいところですが」


 大野の返しに、会場は笑いに包まれる。平静を装いジョークを飛ばす一方で、彼の額にはじわりと汗が滲み出ていた。






 大野の研究報告が終わり、また次の研究者が報告を始める。まだ汗が止まらない様子の彼に、ホテルの従業員と思わしき女性が声を掛けた。


「あ、大野様。ぜひお話ししたいという方がいらっしゃるのですが……いかがいたしましょう」

「……」


 その言葉を受け、大野はかすかに笑みを浮かべる。先ほどまでの焦りなど微塵みじんも感じさせないほど落ち着き払った様子で、彼は静かに口を開いた。


「ええ、いいでしょう……それで、どちらに?」

「よ、よろしいの、ですか? ええと、その……」


 大野の態度に疑問を抱いたのか、その女性は狼狽ろうばいする。得体の知れない人物からのアポイントメントであるのだ、この女性の狼狽ろうばいは正しいものである。しかし、大野はそれを受け入れたのだ。しかも、あまりにもすんなりと。


「おや、何かいけませんか? ……さぁ、私も時間が惜しい。出来ることなら、早く済ませておきたいのですが」

「……はい、承知いたしました。こちらへ」


 コツ、コツ


 女性に案内され、人気のない通路へと歩みを進める。周囲の景色は、豪華な装飾を施された回廊から、徐々に質素な通路へと移り変わってゆく。


 コツ、コツ


 二人を包むのは、靴の鳴る音だけ。先ほどまでの華やかさはどこへ行ったのかと疑うほどに、暗く、無機質な通路。


「……」


 さすがの大野も、その異様な空気に閉口する。嫌な緊張感が彼の神経を研ぎ澄まさせ、てつく空気が針のように彼の全身を貫く。


「到着、いたしました。こちらの奥でございます」

「……」


 やがて、二人は通路の角へと差し掛かった。この先には、避難通路……普段は施錠された扉だけが存在している。つまり、大野を待つ人物は袋小路にいるのだ。誰がどう考えても、明らかな罠であることは間違いがない。


 しかし大野は、そのことを知ってか知らずか、先ほどまで浮かべていた笑みを作り直した。この先に待つ者への興味の方が、恐怖よりまさったのだ。


「……あの方でございます」


 女性が指し示した先に、一人の男性がたたずんでいた。その姿を見るや、大野はまなじりを下げる。想像通りだ、と言わんばかりの表情に、女性は恐怖にも似た眼差しを向ける。


「ありがとうございます。……ああ、あなたはすぐにここから去るように。そして、誰にもこのことは口外しないこと。いいですね?」


 穏やかな表情でその女性を追い払った大野は、静かに、しかし興奮を隠しきれない様子で振り返る。そして、同じく穏やかな表情を浮かべる男へと声を掛けた。


「やあ、まさかこんなところで会うとは思いませんでしたよ。誰にも言っていなかったはずなんですけどね……この会のこと、どうやって知ったんです?」


 一歩、また一歩と彼の元へ歩みを進める。お互いに微笑ほほえみを崩さず、しかし油断することもないまま、一瞬の静寂が周囲を包み込む。鼓膜こまくを突くような、重い静寂。

 そんな静寂を打ち破るように、拍手の音が響き渡る。それは、彼が会場で浴びたような盛大なものではなく、小雨が地面を打つかの如くかすかな音色……それほどまでに、この通路は会場から遠く離れていた。


「……終わってしまいましたか、あの研究報告は聞きたかったのですが……まぁ、いいでしょう。話を戻しますが、どうしてここに君がいるんですか?」


 彼は同じ質問を繰り返す。焦燥と好奇心を込め、急かすように問いただす。しかし、その男は穏やかな表情を保ち、黙している。


「……答えない、ですか。賢明な判断です。……まぁ、私には分かっていることですがね?」


 一向に口を開かない男にしびれを切らした大野は、マジックの種明かしをするような口調で話を続けた。


「このホテルの従業員……先ほどの女性ですが、あの方に案内されたのでしょう? 知っていますとも! なぜなら、あの狗米村に連れ去られた男の子の母親なのですからね!」


 高らかに、声を上げて笑う大野。とても人間の出す声とは思えないほど、冷酷で無慈悲な笑いだった。


 米村により連れ去られ、あの家で遺体となって発見された男の子。その母親こそ、このホテルの従業員である、あの女性だ。


 大野は、意図してあの男の子を選択した訳ではなかった。そもそも、あの男の子を誘拐したのは米村の独断であり、大野の指示ではない。本当に、偶然の出来事であった。


 だとしても、男の子が……最愛の子どもが殺害されたことには変わりない。しかも、自身の吐瀉物としゃぶつで窒息して死亡するという、無惨な死を遂げさせられたのだ。彼女の怒りは、それこそ烈火の如く凄まじいものであったに違いない。


「ああ、事前にホテルの従業員全員を洗っておいて正解でした。やはり、油断大敵と言いますからね……」


 大野は、その事実を察知していた。否……常に全てを疑う彼の習慣が、その事実を見つけ出したと言えよう。用意周到、冷静沈着……彼が、組織で現在の地位を築くのには、それなりの理由があったのだ。


「しかし、そんなことに私が気づかないとでも思っているのでしたら、残念でしたね。私とすれば、どんな甘言かんげんを使って彼女を口説き落としたのか、そちらの方が気になりますけどねぇ……」


 見下すように、下卑た目を男に向ける。しかし、男は依然として微笑ほほえみを崩そうとしない。緩んだ口元を引き締め直し、大野は一つ息を吐く。


「……つまらないですね、これでも反応しませんか。……それでは、質問を変えるとしましょう。君は、ここに来たのですか?」


 一見、同じ質問のように思えるが、意図はまるで異なる。『』ここへ来たのかではなく、『』ここへ来たのか。それを意味しているのだ。大野には、彼がここに来た目的……それが知りたかったのだ。


を付けるため、です」

「決着?」


 ようやく口を開いた男は、決着、と言った。その言葉を耳にし、大野はいぶかし気に彼を見つめる。


「……まさか、私を殺そうと? 君はそんな短慮な人間でしたかね……買い被り過ぎていたのでしょうか。私を殺す……それがどういう意味をもたらすのか、考えていない訳ではないでしょうに」


 品定めするように、大野は男の目を見る。


「私の身に何かあれば、この研究に関わった人間たち全てが消えることになります。無論、この研究自体も消えるでしょう」


 大野の鋭い眼光は、それが単なる脅しではないということを意味している。そして、それを誰よりも、彼の目の前にいるこの男は知っている。そのはずであった。


「この研究に関わった人間が私を殺すなど、あってはならない。私は……いや、組織はそれを断じて許すことはない……全く無関係であるのに誘拐された、あの可哀そうな男の子の母親であっても、それは例外ではありません」


 嘲笑から憤怒ふんぬへと表情を変え、徐々に語気を強めていく。それほどまでに、大野は彼に期待を寄せていた。しかし言うまでもなく、研究材料として。


「研究の関係者に反発されたのであれば、組織が黙っていません。この研究を危険だと判断された場合、何もかも無かったことになる。そうなってしまえば、私も、そして君たちも無に帰するのです。そんなことを……」

「ええ、もちろん」


 大野の話を遮るように、男は明るく言い放つ。遊びに誘われ、返事をするかのようなその明るさに、大野は戸惑う。眉間に皺を寄せる大野へ向け、また軽く笑いながら男は話を続ける。


「俺は、あなたを殺しません。そこまで落ちぶれてはいませんから」

「ほう……」


 ピク、と大野の眉が吊り上がる。挑発行為であると、大野は即座に理解した。しかし、この期に及んで挑発することに全く意義はない。むしろ大野の機嫌を損ねて、組織を敵に回すことになれば、それこそ自殺行為だ。


「見えてきませんね……私を殺さず、一体何の決着を付けようと――――」


 ドン


 唐突に、大野の背中へと一人の人間が追突してきたのだ。タックルでも食らったかのように、彼は体勢を崩し、床に倒れ込む。何が起きたのか、理解できないまま表情を失う彼に、激しい痛みが襲い掛かる。


「グ……!?」


 あまりの苦痛に、強く顔をゆがませる。瞬時に脂汗が噴出し、彼の額を湿らせて行く。整えられた髪も乱され、一張羅いっちょうらは濃い赤に染められる。


「どういう、ことだ……まさか……そんなまさか……」


 大野は、先ほど強く念を押したのだ。この研究に関わる人間が彼に危害を加えた場合、組織はこの研究自体を無かったことにする、と。であれば、そう簡単に彼へと攻撃を仕掛けることは出来ないはずなのだ。


 この場にいるのは、大野と目の前の男、そしてあの従業員の女性……それ以外に、誰もいない。状況だけ考えれば、彼に攻撃を仕掛けられるのはあの従業員の女性、ということになる。しかしそれでは、自らを……いや、かなり多くの人間を犠牲にすることとなる。それは、短慮以外に形容しがたい。


 つまり、この場にはそれ以外の、ということになる。そうでなければ、説明がつかない。


 普段の冷静な大野であれば、それを察知することも可能だっただろう。彼の精神面を乱させたのは、他でもない、目の前の男……彼の存在が、そして言動が大野を刺激し、冷静さを損なわせた。


 まさに、奇襲。そう呼ぶのが相応しい。


「グウウウ……!」


 また強い疼痛とうつうが彼を襲う。損傷を受けた背部に手をやり、息を乱しながら大野は背後へと振り返る。彼が気付かなかった第三者、その顔を確認しないことには始まらない。

 大野への強い殺意を抱く、そしてこの研究……いや、事件とは無関係な人物。その顔を目にした大野は、静かに目を閉じ、苦笑する。


「……あぁ、くだらない……本当に、くだらない……」


 店を荒らされたことに腹を立て、短絡的に破滅へと追い込んでしまった人物がそこにいた。くだらない正義感が復讐者を生み、そして自らを破滅させたのだと、大野は理解した。あまりにもくだらない結末に、苦笑を通り越し、もはや言葉も出ない様子であった。


 そんな大野を目にしたその復讐者は、高らかに笑い声を上げた。品や知性といったものが一切ない、獣のような雄叫び……それが、その通路を包み込む。


「どうだ、ざまあみろ!! はっはっは!! この時を待ってたんだ……俺を地獄に叩き落したお前に、同じ地獄を見せる瞬間をな!!」


 ボロボロの衣服、禿げ散らかった頭部、薬物に染まっているかのような醜い人相の男は、手にした凶器を大野へと投げつけ、狂気に飲まれたまま走り去っていく。遠ざかる笑い声を出迎えるが如く、拍手の音が小さく響き渡る。


「……はぁ、まったく……君も、あの男を利用するなんて不本意だったでしょうに……」


 口から血を滴らせ、苦虫を食い潰したように彼へと目を向ける。すると彼も、同じような表情を浮かべていることに気付く。

 はぁ、と一つ嘆息たんそくを漏らし、男はポツリと呟く。


「……仕方がなかったんです。純然たる悪意をあなたに向けられる人間は、そう多くない。あなたに対する私怨だけで、彼は生きていました。そんな人間に殺されたとなれば、研究が危険かどうかではなく、あなた自身に問題があったのだ、と理解されるでしょう。それが、俺の狙いでしたから」


 そして彼は、走り去っていった男の投げ捨てた凶器を手に取る。その刃をじっと見つめながら、さらに言葉を続ける。


「あの時のあなたは、とても人間らしくてカッコよかったですよ。それをくだらない、だなんて言わないでください。……あの子も、それで救われたんですから」

「……それは、まぁいいです。大きな失敗だったのは、変わりありませんから。それより……君は一体、何をしようとしているんですか? そんなものを拾って……私の反撃を阻止しようとでも?」


 血の付いた凶器を、あえて素手で触る。それが何を意味するのか、彼に分からないはずがない。状況的には、彼が大野を殺したのだと疑われることは明白だ。その上、こうして凶器まで手にしてしまっていては、反論の余地がない。


「……まさか、君……そこまで……」


 大野は、ギョッとしたように目を剥き、彼を見上げる。また多量の血液を吹き零しながら、それでもなお、目の前に広がる狂気へと興味を寄せる。


「……さすが、ですね。……そうです。これが、俺の本当の目的。……ああ、別に止めなんて刺しませんよ。あなたは、こうして床に這いつくばりながら、徐々に迫りくる死に怯えてください。それが、あなたにできる唯一の贖罪しょくざいです」


 冷徹な眼差しを、吐血し今にも息絶えそうな大野へと向ける。その頃になり、ようやく彼は人間らしい感情をむき出しにした。怒りに震え、その手に持つ刃はチラチラと光を反射させる。


「散々、俺たちを利用してきたんです。最期くらい、役に立って見せてください」

「君は……そうか……そう、だったのか……」


 ボタボタ、と血を噴き出し、大野は完全に床へと突っ伏す。蝋人形のように蒼白となった彼は、かすれて聞き取れないほどの小さな声で囁いた。


「君は……壊れて……」


 そして動かなくなった彼を、男はただ無言で見つめる。それが、無念のなか果てていった知人たちへの弔いとなるとは思えない。しかし、それでもなお……彼はじっと、事切れる瞬間まで、目を逸らさずに佇んでいた。

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