第41章 事件が紡ぐメリークリスマス
同日、18時半。クリスマス・イヴだというのに、岬 千弦は一人、渋谷の街を歩いている。道行く人々は、
そんな
「……ふぅ」
人気のないところまで歩みを進めたのち、岬は小さく息を吐いた。疲労、とはまた異なる、何とも言えない胸に
得も言われぬ苦しさが心臓を刺激し、強く拍動する。その拍動がまた彼女の呼吸を乱し、それにより正常な感覚が損なわれる。痛みすら感じるほどの動悸、呼吸苦、全身の震え……思わず、路地の壁に
「あぁ、まったく……イヤになる」
彼女は、自分の体に起きた異変をまだ受け入れられないままでいた。公共の場に出て、多くの人の目に触れることが、まだ彼女には困難なのだ。
パニック障害……そう、森谷から診断を受けている。日常生活に戻ったところまでは良かったものの、あの事件からすでに三か月以上も経過しようというのに、この有様なのだ。自分の情けなさに、彼女は日々、誰にもぶつけることのできない苛立ちを浮かべていた。
それ故に、彼女はこうしてリハビリを兼ねて、雑踏の中を歩く練習を行なっていた。体調が良く、天気も問題のない日に限り、という条件の下であるが、大きな前進であることは間違いない。
それでも、今までの彼女にとっては当然のように行なえていたことである。故に、強いもどかしさが毎日のように彼女を襲うのだ。
はぁ、とまた一つ大きなため息を吐く。雑居ビルの、お世辞にも清潔とは言えない壁を背に、彼女は空を見上げる。
星一つない、真っ暗闇。そこにたった一つ、月だけがその存在を主張している。広大な空の中、独りぼっちのお月様。その様子はまるで自分のようだ、とでも言うかのように、苦々しい笑みを浮かべる。
「ハル、今頃何してるのかな……」
岬は、9月15日に東京総合国際病院から退院することが決定していた。精神面も安定し、リハビリも順調に進んでおり、この様子であれば、しばらくの間の定期診察でも問題はないだろう、という森谷の判断であった。
退院日を目前とした14日……彼女の病室に、森谷は姿を現した。目的はもちろん、翌日に退院を控えている彼女の
「おっす、元気そうだね! 血液検査も、まぁいつも問題ないからね、バッチリだったよ」
笑顔で吉報を告げる森谷に、岬はほっと胸を
「リハビリも、訓練士さんから聞いているよ。まだ少し起立時にふらつきはあるようだけど……ま、自律神経ってのはそういうものだからね、少しずつ、自分のやれる範囲で無理のないようにやってくれると助かるな」
「ありがとうございます、先生たちのお陰ですよ。それに早く帰らないと、お父さん一人じゃどうも……」
ふと、彼女の脳内に自宅の映像が映し出される。父親である
さすがにいい大人ではあるが、一雪はそういったことに無頓着だということを、岬は良く知っている。想像の域を越えないが、十中八九、彼女の予想通りになっているであろう。
「ああ、恐ろしい……一体、どんな
「ははは……そこは、まぁ、アレだ。俺も人のことは言えないからね、黙っておくよ。……あれ、そう言えば昨日作った味噌汁……大丈夫かな」
「いやぁ、それ怖い!」
そんな他愛のない話を少し続けた後、森谷は改まった様子で、手近にある椅子に腰かける。その真剣な眼差しに、岬は居住まいを正す。あの事件のことだろうと、彼女は直感的に察したのだ。
「さて、こうして落ち着いたころに話すようにと、俺は高……えっと、高……」
「……高島、ですよね」
「そうそう、高島くんから言われていたんですよ。まあ、もちろん主治医としても、そんな話をあの状況で話すわけにはいきませんでしたからね。……でも、もう大丈夫だろうと俺は判断しました。あの事件の真実について、これから話そうと思うのですが……よろしいですか?」
彼女にとって、それはとても待ちわびたものだった。それというのも入院期間中、一向に警察などから話されない事件の経過……見舞いに訪れなくなった高島と宮尾……中原と胡桃は何度か訪れてはいたが、それも数回程度であった。そして、それぞれが事件に対して一切の言及をしていない。
精神的な影響を
「むしろ、今までずっと聞けなくてウズウズしていたところでした。それに良い結果ではない、ということは予想出来ています。だから……お願いします」
「……そう、言うと思っていました。それじゃ、入ってきてもらおうかな。おーい、入って来てくれ!」
森谷は、背後にある病室の外へと軽く呼びかける。そして、軽いノックの後に入ってきたのは、高島だった。
「ハル……!」
「ごめん、岬。長いこと来れなくて……それと森谷さん、なんでこの
「聞こえてたのか……いやぁ失敬」
岬の目の前で、あのいつもの気の抜けたようなやり取りが繰り広げられている。以前と変化のない日常が、そこに戻ってきていた。岬には、それがとても心地よく、自然と笑みを浮かべる。
「それはいいとして……改めて、ごめん岬。大変なことがたくさんあったから、あの状態のお前に、こんな真実を告げるわけにはいかなかったんだ。許して、くれるか?」
「ハル……うん、もちろん。だって、
その言葉に、高島は小首を
『お姉さんみたいな存在』……あの言葉を言ったことを、彼は失念しているようだ。……いや、岬が起きているとは知らなかったのだ、まさか岬がその言葉を聞いているとは、夢にも思っていなかったのだろう。それ故に、彼は岬の言葉の真意に気付かずにいる。
「ふふ、冗談。……それで、何が起こったのか、詳しく聞かせてもらえるのかな?」
「あ、ああ。そうだな、ええと、どこから話そうか……そうだ、まずは事件の経緯について、最初から話していこうと思う。それでいいかな?」
「うん、お願い」
こうして、高島は岬へ、事件の全てを話し始めた。発端である、10年前の事件……それに、高島たちの決断の話を。
その話が終わる頃にはすでに日も傾き、いつの間にか森谷の姿もなくなっていた。それだけの長い時間であったにも拘わらず、岬は一切動くことなく、真剣に話を聞いていた。それに応じるように、高島もより真剣に、経緯を話す。
そして、15時を過ぎようという時間……ようやく、事件の全てを話し終わった。俯くことなく、懸命に話を聞いていた岬も、最後……高島たちの決断を聞き、天を見上げる。拒絶するような姿勢ではなかったが、現実として受け入れるには、さすがに重かったようだ。
「それで……事後報告となって本当に申し訳ないと思う。宮尾は、岬にとって大切な友達であり、幼馴染だ。その仲を勝手に引き裂くようなことをして……本当に、ごめん」
岬は、高島の態度が誠意を欠いているなど、
しかし、彼女はそれ以上に強く衝撃を受けていた。高島よりもずっと長く、行動を共にしてきた大事な友人である宮尾の、そんな想いに全く気付かずにいたこと……それに、高島に対する宮尾の想い……これを応援していた身でありながらも、心のどこかで、失敗すればいい、と考えていた自身の浅ましさ。それらが
そんな彼女の心を知ってか知らずか、高島はそっと近づき、優しく頭を
「大丈夫だ、俺も……同じだよ。気付けなかったことは、もう振り返ってもどうにもできない。だから……これからの宮尾の人生を、少しでも幸福なものにしてやりたい。それが、俺たちにできる罪滅ぼし、そう思うんだ」
「ハル……うん、そうだね……後悔しても、もう遅いんだもんね……」
高島の言葉に勇気づけられたのか、岬は少しずつ冷静さを取り戻し、脈拍も呼吸数も、正常なものへと変化していった。
落ち着きを取り戻した彼女に、高島は一つのスマホを手渡す。……このスマホには、彼女も見覚えがあった。宮尾 藤花のスマホだ。
「……これ、は……」
「俺たちの情報が、このスマホの中に入っていたらマズい。一応、解約する手続きは警察の方でやってくれるみたいなんだけど、これ自体は宮尾の所持品だ。勝手に捨てられるものじゃない。……だから一緒に、この中に入っている情報を消して行こうと思う。画像も、動画も……何もかも」
それを高島一人で行なうには、やはり心苦しいものがあった。それに、彼一人では判別のつかないものもある。
データ自体をすべてフォーマットしてしまってもいいが、その場合、宮尾の心に悪い影響を与えかねない。何一つ、過去の記録がない……それは、強い不安感を掻き立てることに繋がるのである。
「……もし、さ。これ、いいなって思うものがあったら、それは移してもいい、かな。私だけが見れるのなら、それでもいいよね?」
「ああ、それは大丈夫だと思う。もし万が一、宮尾の記憶が戻った時には……その画像を移してあげられるし、な」
そして、二人は宮尾のスマホを手に、画像フォルダを開ける。ほとんどが風景の写真であったが、何枚か、高島の寝姿や、岬の変なポーズなどが見つかった。
「……あいつ、こんなものまで撮っていたのか……」
「ウチ、こんなポーズしたっけな……ふふ、なんだか不思議」
一枚、一枚を消去していくたびに、失われていく思い出たち。データが消えても、思い出は消えないという話はあるが、人間の脳には記憶できる限界があることも事実だ。画像を見て思い出す、そんなこともしばしばある。
その程度の思い出は、大抵くだらない日常を切り取っただけのものなのだが……そんな思い出であっても、彼女と過ごした大切な時間だった。一枚削除するたびに、二人の目からは涙が零れていく。
「あれ、これは……」
高島の目に、一枚の画像が留まる。ニュースサイトのスクリーンショット画像……これは、あの奥村の事件……代々木駅前のビル屋上で、回転する遺体を見つけたとき、高島がチラリと目にしたものだった。
「そうか……あの時、俺が見たのは……このスクリーンショットだったのか。だから、死亡推定時刻と犯行時刻が合わなかったんだな……」
この証拠も、彼女が自白したことでもはや関係のないものとなったが……あの時点ですでに、彼女は壊れてしまっていたことが
画像、動画、そして連絡帳……それらすべてを確認し終えた二人は、しばらくの間、静かに泣き続けた。たくさんの画像と共に消えていった、彼女との思い出……それを
「何で、なんだろうね……何で、トーカだったんだろう……何で、ウチらだったんだろう……」
その答えは、誰にも知り得ることではない。そんなことは当然、彼女も理解している。しかし、どうしようもないことだとはいえ、あまりにも不条理なのも、事実。神に愛されなかった宮尾は、一体どうなってしまうのか。そして、その大切な友人を失った彼らにも、
彼女の言葉には、それが込められていた。
「……先のことを見過ぎて、足元を見ないのはダメだ。それに、振り返ってばかりいてもいけない。……俺たちは、ただ今歩むべき道を、しっかりと踏みしめていくしかないんだ……それがどれだけ荒れた道でも、そうするしかないんだ」
そう言うと、高島はスッと立ち上がる。窓から見える東京の景色を目に、彼は最後の言葉を岬へと
「岬、ここで俺はお別れだ。俺も……いや、俺たちも、宮尾と同じように、新しい人生を始めないといけない。そのためにも……」
「なんで、なんでそこまで……私たちが会うのは、そんな……」
岬にとって、宮尾と高島は大事な親友であった。それ以外に話すことのできる知り合いは数多くいるが、誰も彼も、彼らのように本心を
「ダメなんだ。それじゃあ、いけないんだよ……宮尾が、もし俺たちを目撃してしまったら。そして、その俺たちが楽しそうに会話しているところを見てしまったら……そこで、記憶を取り戻してしまったら……」
「あ……」
宮尾は、高島を愛するあまりに暴走してしまった。そんな記憶が蘇ると同時に、もし岬と二人きりでいる現場を目撃でもされてしまえば、それこそ、取り返しのつかないことになる。今回以上の暴走をし、大量の死者を生む……もしくは、自ら命を絶つだろう。
それだけは、決して避けなければならない。彼女の記憶を取り戻さない、と決めた以上は……この犠牲もやむを得ないのだ。
「……理解、してくれるな?」
「……」
黙りつつも、岬は静かに首を縦に振る。
「それに、俺にはやることが出来たんだ。詳しくは話せないけど……多分、生きて帰れる保証はない。この事件を起こした、
「もう一人って……まさか」
「うん。……ああ、もちろん、俺が手を汚すことはないよ。そんなことをしたら、きっと両親や、村田さん、それに米村さんからも怒られるから。だから、これでお別れなんだ」
優しく
「ん、分かった。気を付けてね……それと」
岬も立ち上がり、高島の手を握る。そして、彼の頬へ口付けた。
「大好きだったよ……今までありがとう、ハル」
驚いたような表情の彼だったが、静かに頷き、そのまま無言で病室を去っていった。その後ろ姿を、また無言で見送った岬は、
病室を後にした高島も、同じように涙を零していたことを、彼女は最後まで知ることはなかった。
そして、しばらくの通院を経て、岬は現在へと至っている。高島の連絡先は全て削除している。そのため、今となっては彼の行方など、
「ま、こうしていても仕方がない、か」
また気合を入れ直し、岬は路地から勢いよく飛び出す。細い路地から人通りの多い道へ飛び出したのだ、案の
「あ、痛っ」
「うわっ」
その衝撃で、車に跳ね飛ばされたように岬は地面へと倒れ込む。一方のぶつかった女性は、多少よろけたものの、平然と立っている。まるで、その女性の方がぶつかって来たかのように見える、不思議な光景であった。
「え……何で倒れてない、の……?」
岬が思わず口にしてしまうのも、頷ける。ただ、その女性は一般的な女性とは大きくかけ離れていた。何を隠そう、彼女の職種は、警察官なのだ。
「あ、あれ!? 岬ちゃんじゃない!?」
「え……」
聞き覚えのある声を耳にし、岬はふと、彼女を見上げる。そこには、やはり見覚えのある顔があった。やや髪は伸びたようだが、その職種に似合わず、しっかりと身だしなみが整えられている。
「あー、やっぱり! こんな時間に一人?」
「な、中原さん……? どうしてここに……」
「危ないじゃない、こんなとこから出てきたら。……でも、久しぶりね。元気そうで何よりだわ」
そう言いながら、岬の服に付いた埃を払う。夢を見ているのだろうか、と言わんばかりに瞬きを繰り返す岬に、思わず中原は吹き出した。
「あはは、何その顔! 幻にでも見えた? ……ちょうど追っていた事件が急に解決して、暇になったとこなの。せっかくのイヴだし、どこか行く?」
「あ、ええと……」
岬が返答に窮するのには、一つ理由がある。父親である一雪に、夕飯を用意していないのだ。今回、この渋谷まで出かけたのは買い物のついででもあったのだ。チャットアプリなどダウンロードしていないどころか、メールすらまともに扱えない一雪に、どう連絡すべきかと迷っていた。
「何か先約でもあった? まぁ、岬ちゃん可愛いからね、彼氏の一人や二人……」
「そういうことじゃなく、その……父の食事をどうしようかと考えて……」
「あーなんだ! そんなの勝手に食わせておけばいいの! 大人なんだし最悪、一食抜いたくらいで死なないって!」
妙に高い中原のテンションに困惑する岬だったが、フッと笑みを浮かべ、彼女に同意するように言った。
「そうですよね! たまには自分で作ってもらおうかな! いつも甘えてばっかりなんだから、お父さんは……」
『
「……岬ちゃん、お父さんとうまくやれてるみたいで良かった。ちょっと心配だったんだけど……ああ、それとお母さんはどう? あれから進展はあった?」
『お母さん』……その単語に、岬は表情を曇らせる。明るい調子から一転、声のトーンを落とし、
「……お母さんは、11月に亡くなりました。ずっと危ない状態が続いていましたから、覚悟はできていましたけど……」
「そう、だったの……悪いことを聞いちゃったな。ごめん……」
「いいんです、もう何年も喋れなかったし、これ以上苦しい想いをさせても良くないから……それに……」
そっと中原の手を握り、悪そうな笑顔を向ける。
「いざとなれば、友達が助けてくれるからね。期待してるよ、中原さん!」
「なによそれ……って、私いつの間に友達になったのよ!」
「言葉を交わしたら、もう友達ですよっ! さ、行きましょ!」
そのまま、岬は中原の手を引き、大通りを進んでいく。あれだけ
少し進んだ先で、ふと岬はその歩みを止める。その
「おっとっと……どうしたの、急に……」
岬の目は、横を通り過ぎようとしている一人の女性に向けられていた。この色鮮やかなクリスマスの装飾に負けず劣らず、
「「胡桃ちゃん!」」
中原と岬は、同時にその女性へと声を掛けた。その声に驚き、顔を上げる女性……やはり、胡桃だった。二人の存在に気付き、目を丸くする。
「え……中原さんに、岬ちゃん!? ど、どうしたの、こんな時間に……」
どういう経緯で、この路上をそんな服装で歩いているのか、ということは別として……こんな偶然はあり得ない。あの事件をきっかけに知り合った三人が、こうして一堂に会したのだ。ロクでもない運命を仕掛けた神様からの、ちょっとした贈り物……彼女たちは、そう直感した。
「胡桃ちゃん、ヒマ?」
「なに、
その言葉に、中原と岬は、ニマーっと笑顔を浮かべる。その笑顔に、胡桃は訳も分からず困惑する。
「なーに、今からヒマ女たちでクリスマスパーティよ! 胡桃ちゃんも参加で良いよね!」
そう言って、中原は胡桃の手を強引に取る。そしてそのまま、二人に引っ張られる形で進行方向の逆側へと連れられて行く。
「え、あの、ちょっと!?」
「いいじゃない、せっかく会ったんだし! どこ行く? ウチ、イタリアンがいいな!」
「えー、こういう時はカラオケじゃない? あ、品川さん元気?」
「もー……しょうがないですね、行きましょうか」
こうして、三人は夜の街へと消えていった。事件が繋いだ、一つの絆。事件の結末はあまりにも報われないものであったが、事件がなければ繋がることもなかったもの……それを、彼女たちは手にすることができたのだ。
幸福とは、どこに転がっているのか分からないものである。この先、彼女たちを待っているのは不幸な運命かもしれない。しかし、もう彼女たちは並大抵のことでは悲観しないだろう。不幸が繋いだ、この幸福を忘れない限り、永遠に。
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