第28章 子どもは親の知らないうちに育っている

 それから、俺と胡桃は仮眠室でしばらくの間休憩を取ることにした。不可抗力とはいえ、休みを取ることのできた胡桃はともかく、俺の方は今の今まで睡眠というものをとっていなかったのだ。気を失っていた時間はあったが、それを睡眠と呼ぶ者がいるのであれば、むしろ名乗り出て欲しい。


 宮尾はと言うと、胡桃の持ってきた服に着替えてシャワー室から出てきた……そこまでは良かったのだが、一つ大きな問題があった。それは、俺やその他の人間にとっては些細なことであったが、当の宮尾はどうしても我慢が出来ない問題だった。


「……やっぱり、胡桃ちゃん……服のセンスが……」


 胡桃の持ってきた着替え……それは、何も知らない人からすれば、何かの仮装に見えるような、そんな奇抜なものであった。上下のトリコロール。しかも色の被りの一切ない、ある意味おしゃれな取り合わせだった。


「そ、そんなに悪いかな……? 中原さんの家にあったものだから、多分どれでもおしゃれなのかなって……」


 また服のセンスをダメ出しされ、落ち込んだ様子の胡桃。さすがに可哀そうでもあったが、事実として奇抜なのだから、そこは否定しようがない。


「というより、なんで中原さんはこんな服を持ってるんだろう……実は、隠れダサ子さんだったりするのかな……」


 宮尾は、着替えを貸してもらった立場ということを忘れたのか、とても失礼なことを口走っている。

しかし、隠れダサ子さん、か。宮尾にしてはなかなか面白い表現だな。


「しょうがないだろ、一旦それを着て家まで帰るしかないじゃないか」

「ええ~……」


 その後また少しひと悶着あったのだが、結果として宮尾は折れた。というよりも、折れざるを得ない状況なのだから、諦めたというべきだろう。渋々、彼女はその格好のまま自宅へと帰っていった。


「あ、ハル! 二人きりだからって、胡桃ちゃんに手を出したらダメだからね!」


 そんな余計な一言を添えて。


 中原は、と言うと、当然のことだが、村田の遺体の処理……主に村田の家族や上司への説明に追われていた。

 この警察署内で、俺たちの関わっているこの事件に関与しているのは、もう中原だけであった。そのため、彼女が動かなければ誰も彼も、村田の死に関して適切な対応ができないのだ。それを背負ってしまったのが、二年目である彼女なのだから、その心労は計り知れない。


 それゆえに、中原は部屋を出て以降、一度も仮眠室に立ち寄ることはなかった。その他の警察官は、数人が俺たち様子を窺いに来ていたが、彼らも特に俺たちに何も言うことも無く、顔を見ただけで去っていった。

 恐らくだが、中原に様子を見てきてくれ、と頼まれたのだろう。それが、彼らにできる彼女への精いっぱいのサポートなのだから。


 そんなことで、バタバタとしたうちに時間は過ぎ、いつの間にか約束の時間……12時へと、時計の針が進んでいった。









 9月6日 11時45分、代々木警察署前。数時間前まで、おかしな取り合わせの衣服を着ていたはずの宮尾が、ちゃんとおしゃれな格好で現れていた。チラチラとスマホの画面を確認する彼女……見ているのは、もちろん時刻。約束の12時には少し早かったのだが、逸る気持ちが抑えきれなかったのだ。


「……あ、ハル、胡桃ちゃん。ここで良いんだよね?」

「ああ、中原さんは車を取りに行ったよ。早かったな」


 岬の幼馴染で、ほとんど毎日のように一緒にいた宮尾だ、岬の安否については誰よりも気にしていたはず。そうであれば、もちろん矛盾しない行動なのだが、俺には少し気になることがあったのだ。


「……いいのか、やっくんとか、お父さんは」

「え……ああ、うん。大学とは違って、小学校はもう二学期が始まってるから。それに、お父さんはまたしばらく入院になったし」


 そう言えば、もう世間的には夏休みの期間は終わっている時期だった。それに、宮尾の父親は頻繁に入退院を繰り返していると聞いている。だからこそ昨晩、彼女はあんな時間帯でも警察署に来られたのだろう。


「そうなの……大変だよね、藤花ちゃんも」

「いやぁ、出来た弟を持つと楽で良いよ。洗濯も出来るようになったし、今は料理を勉強してるの」


 そう、誇らしく胸を張る宮尾。彼女の服のボタンが、また悲鳴を上げている。


「あはは、そうなんだ……私も負けてられないなぁ」

「……本当にな」


 俺は小さく、胡桃の言葉に毒づいた。胡桃には聞こえていないようだったが、宮尾には聞こえていたようで、クス、と小さく笑っていた。


「ああ、待たせちゃったね。この裏に車を停めたから……って、何だか和やかな雰囲気だね、まだ気を抜けないというのに、まったく気楽な仲間たちだな」


 不意に背後から現れた中原は、少し不機嫌そうに俺たちを見まわした。

 彼女からすれば、ほとんど不眠不休で、しかも二年目の若手のやることではない仕事をこなした上に、これから人質となっていた被害者と会うのだ。それにも関わらず、俺たちが呑気な様子を見せているものだから、彼女にとっては腹立たしいことこの上なかった。


「あ、いや……そうでしたね、すみません。まだ、岬は生きているというだけで、状態は分からないんですもんね……」


 中原の剣幕により、俺たちは気を引き締めなおした。

 そうだ、すっかり安心しきっていたが、森谷の話では、岬の脳波に乱れが生じていたのだという。医学的なことは分からないが、それが健常であるとは言えない、ということくらいは分かっていたはずなのに。


「いや、良いんだ。私も少しイラついてて……ごめん。……さぁ、そろそろ行こう」


 そう言うと、中原はきびすを返し、彼女の停めたという車へと歩いていく。俺たちは、無言で彼女の後に続いて歩き始めた。









 12時20分、東京総合国際病院の受付前に、俺たちは到着していた。森谷との約束の時間は、13時頃……少々早く到着してしまった俺たちは、念のために森谷へと連絡を試みた。しかし、彼は電話に出ず、受付でも彼への取次は出来ないと断られてしまった。

 途方に暮れた俺たちは、仕方がなく受付のそばにあるソファに座り、時間を潰すことになったのだ。


「仕方がないさ、森谷は医者でもあるから……多分、他の患者の対応とか、研究で忙しいんだよ」

「それは分かりますが……あれ?」


 宮尾は、中原への返答の途中で言葉を詰まらせた。何かが、彼女の意識を話から遠ざけたように。


「え、どうした……あ……」


 宮尾の不審な態度に、俺は思わず彼女の目線を追う。すると、その先にはスーツ姿の男性がいた。眼鏡越しでも分かるほどに冷たい目つきで、スラッとした体型。俺の記憶の中にいる彼は、もっと若い印象だったが、最後に会ったのが五年近く前だったことを考えると、多少は老けてしまっていても不思議ではなかった。


「岬の、お父さん……」


 そう、岬の父……みさき 一雪かずゆきが、この病院へ訪れていたのだ。


「岬ちゃんのお父さん……って、あの人が?」


 中原は、驚いたような声を上げて彼を眺めている。胡桃も、無言ではあるが、彼の挙動を凝視しているようだった。


「なんで、あの人がここに……」

「え、なんでって……村田先輩、お父さんにも連絡を入れたんでしょ? だったら……」

「そうですけど……」


 確かに、村田は一雪に連絡を入れていた。しかし、村田は彼の態度に憤慨していた。『ああ、そうですか、と言われた』と……そんな彼が、一般企業においては就業時間中であるこの昼時に、娘である千弦への見舞いに来たというのか。俺には、にわかに理解できないことだった。


「……仕事を抜け出すくらいだったら、そもそも昨日電話した時点で警察署にくるべきだった。なのに、なんで今さら……」


 そして、困惑する俺たちをよそに、一雪は、ある男性と会い、話をしていた。その男性は、これから俺たちが会う予定だった、脳神経内科医……。


「あ、森谷さんだ……ということは、岬ちゃんのお父さんが先に面会予定だったのかな。……どうしようか? 一緒に聞けるなら、それはそれでいいのかもしれないけど……」

「どうかな……家族とか以外に病状を説明するのは、本人の同意がないと良くないことだし……」


 俺たちが少し躊躇ちゅうちょしていると、森谷の方がこちらに気付いた様子で、駆け足で向かってきた。このテンションは、恐らく胡桃を発見したからだろう。相変わらずではあったが、今はこうして気づいてくれたことには感謝するしかない。


「おぅい、随分と早く着いていたんですね! ちょうどよかった、岬さんのお父さんが話を聞きたいと言ってきていたのでね、みんなも一緒にどうだい?」


 思いもよらず、森谷の態度は軽いものだった。まるで、昼食を食べに誘うようなノリに、俺たちは少し唖然あぜんとしてしまった。


「え、あの……いいんですか、その……」

「うん? ……ああそうか、守秘義務とか気にしているんだね? 大丈夫さ、岬さん本人から同意は得ているよ。それに、君たちが揃って来たんだ、やっぱりあの事件に関わることなんだろう? だったら、拒否する理由はないよ」


 先ほどまでの軽い雰囲気から、少しだけ神妙な表情に変わった森谷。彼も間接的にとはいえ、この事件に関与している。それに、岬に対しては井上 翔也の件もある。彼にとっても、少しでも借りを返すいい機会であるのだろう。


「そう、ですか。では、お願いします……」


 その言葉を聞くや否や、森谷は、こっちにきて、と言わんばかりに小走りで移動を始めた。そんな彼に置いて行かれないよう、俺たちも小走りで彼を追いかけていった。









 病院の地下、森谷の研究室内には俺たち四人と、岬の父である一雪がいた。森谷は、飲み物を用意しようと席を外している。


「あの……すみません、同席させていただきます」


 中原は、一雪に向かって頭を下げた。彼は、そんな彼女の様子を気に留めることも無く、ただつくろうような笑顔で言った。


「いえ、お構いなく」


 一雪は、ここへの移動途中に森谷から事情を聞いていたのだという。それにしても、警察関係者はともかくとして、友人が三人も同席するのには、普通は反対するだろう。

 しかし、一雪は世間体を重視する人間だ。彼自身のことならばさておき、娘の話であれば、彼自身の評価に影響はしないとでも考えたのだろう。

 むしろ、こうして優しい人間だという認識を植え付けること。これこそが彼の狙いだと、俺は勘繰かんぐってしまうのだ。


「いやぁ、お待たせしました。コーヒーしかなくて申し訳ないです……さて、と。ではまず容態ようだいの方からお話ししますね」


 俺たちの前にコーヒーの入った紙コップを配置した森谷は、PCの画面を指し示した。

 岬 千弦のカルテ……よく分からない用語や数字が並べられている。辛うじて、身長と体重については分かったが、そこは今、重要な情報ではない。


「単刀直入に申し上げますと、彼女の体には特に異常はありません。バイタルも比較的安定していますし、多少の栄養失調はありますが、数日点滴を受けて、あとは食事を開始すれば問題ないでしょう」


 森谷は、採血のデータと、レントゲンやCTなどの画像を示し、問題ないと言い切った。そこで、改めて俺たちは安堵できた。電話で聞く情報とは、やはり信頼度が違う。

 しかし、森谷は厳しい表情へと、その顔を変化させた。


「ですが……電話でも申し上げていた通り、脳波が乱れているんですよ。身体機能が問題なくとも、この感じですと……そうですね、しばらくはまっすぐに歩けないでしょう。また、精神面への影響はもっと大きいはずです。ちょっとしたことで急に泣き出したりとか……言わば、情緒不安定な状態が続く可能性が高いと思われます」


 先ほどまでの緩んだ空気が一転、悲痛なものへと変わっていく。脳波の乱れ……そう聞いていたが、まさかそこまで生活に影響するものだとは、ここにいる誰もが思ってもみなかったのだ。恐らくは、表情を特に変えていない一雪も、少なからず衝撃を受けていることだろう。


「それで……俺個人としては、どうしてこんなことになったのか、それを知りたいんです。こんな若い女性が、急にここまで脳波を乱すことなんて、早々無いはずなんです。一体、彼女に何があったんですか?」


 そう言って、森谷は俺たちの返答を待った。


「……事件に関することなので、岬さんのお父さんの耳に入れて良いものかどうかは難しいところですが……あなたも、さすがに知りたいことですよね」


 中原は、苦い顔をしながら一雪に問いかける。一緒に事件を追っていたはずが、被害者となってしまった岬だ、警察としては大きな落ち度がある。そうであれば、彼女の父親に、ことの経緯を説明しないわけにはいかないのだ。

 しかし、一雪は特に表情を変えず、答えた。


「いえ、私はどちらでも構いません。聞くなというのであれば、席を外します」

「……は?」


 予想外の反応に、中原は強い口調で聞き返した。


「あの、娘さんが巻き込まれてしまった事件のお話しですよ? 差し出がましいですが、親の立場であれば無理にでも聞きたい、そう思うものではないのですか?」


 一雪を非難するような目を向ける中原。そんな彼女に対し、彼は努めて冷静に、淡々と答えた。


「……社会に反してまで、聞くべきことかどうかは私には判断できかねます。しかし、警察の方がそうおっしゃるのであれば、私に断る理由もありません。どうぞ、続けてください」


 また、つくろうような笑顔を浮かべる一雪。それに対し、顔を赤くして拳を握りしめる中原。そう、岬の父親はこういう人間なのだ。理論的に正しいことを言っているということは、理解できないことも無い。しかし、そこには愛情の欠片も感じない。彼には、娘を愛する感情は無いらしい。


「はぁ、分かりました。では、話します」


 固く握った拳を解き、中原は大きく息を吐いて冷静さを取り戻した。そして、彼女が受けたこと……感覚遮断しゃだん実験について語り始めた。









「まさか、そんなことが……」


 中原の話を聞き、顔面から血の気を引かせていく森谷。それは、彼にとって当たり前の反応だった。彼は、帝都大学での感覚遮断しゃだん実験に関与していた。そして、その実験の結果として、中原の兄と、岬の最愛の人間を失わせたのだ。


「私は、あなたを責めるつもりはありません。でも、結果として岬ちゃんは……翔也くんと同じ実験をされた。それも、彼よりももっと酷いレベルの実験を」


 思わず、顔を覆って俯いてしまった森谷。小さく断続的に震えているところを見ると、強い自責の念に駆られているのだろう。


「……千弦は、どうしてそんな目に遭ったのでしょう」


 重い空気が立ち込める中、一雪は一層の無表情で、中原に問いかけた。

 正直に言って、意外な反応だった。娘が人質になっている、と聞いても特に無反応だった彼が、感覚遮断しゃだん実験……そのことで、彼女に興味を持っているように思えたのだ。


「えっと……詳しくは分かりません。なぜ彼女が人質になってしまったのか、推測は出来ますが……」

「推測でも構いません。お願いいたします」

「……」


 今までの態度とは打って変わって、彼は前のめりになってまで俺たちの推測を聞こうとしている。彼に、一体どういう心境の変化があったというのだろう。


「……お話ししましょう。もう、隠しておけることではないですから」

「高島くん……そう、ね。もう、岬ちゃんのお父さんも無関係ではないんだからね」


 一瞬だけ、複雑な表情を見せた中原だったが、意を決したように、一雪に俺たちの推測を語り始めた。









「……」


 俺たちの推測を、じっと無言のまま聞いた一雪は、静かに目を閉じた。自分の中の感情を、抑え込もうとしているような表情……それは、彼の内にいる親としての感情なのだろうか。


「……この推測が正しければ、岬ちゃんはお母さんの研究データが盗まれたことで、今回の事件が起きた、そう考えているのだと思います。そして、真犯人である米村に利用された。彼女を殺すためではなく、村田先輩を殺すための人質として」


 考えてみれば、岬は俺たちに内緒で捜査をしていたのかもしれない。あの『エンドラーゼ』開発途中で作られた毒物……あの話題をグループチャットに流した時、岬は何の返答もしなかった。そして、用があると言って、翌日から姿を見せなくなっていたのだ。


「……言いにくいことですが、この推測が正しい場合、米村は岬ちゃんを真犯人に仕立て上げる可能性があります。動機は充分に揃っていて、そして研究データを保持していたことにすれば……」

「……あの組織にとっては、できないことではない。そういうことですか……」

「えっ……!?」


 あの組織、と一雪ははっきりと口にした。いくら自分の妻が殺されかけ、今は生きるだけのかばねとなってしまったとはいえ、あの組織のことを耳にするとは到底思えない。胡桃のように、自分の積み重ねてきたものを全て投げうってまで捜査をしたとは、普段の彼からはまるで考えられないことだ。


「な、何であの組織を……警察も、誰も情報は漏らしていない。それどころか、警察の中でも知っている人は少ないはずなのに、どうして……」


 中原も、彼の言葉に驚き、戸惑っている。

 一雪は、少し躊躇ためらいつつも口を開いた。その時――――



 ピリリリリ……



 森谷の白衣から、着信音が聞こえる。


「おっと……切っておくべきだったね。……はいはい、今IC中……何?」


 院内のPHSを取り出した森谷は、すぐに切ろうとした着信をなかなか切ろうとしなかった。むしろ、より話を聞こうとしている。


「はい、そうですか……すぐに向かいます」


 そう言って森谷はPHSの通話を切った。急患、という訳ではなさそうだ。なぜならば、彼の表情は、非常に明るいのだ。こんな彼の表情は、胡桃にサインを貰った時以来だ。


「えっと、何かあったんですか?」


 そんな彼の様子に、思わず宮尾は尋ねてしまったようだ。


「ちょ、ちょっと……仕事の電話なんだから、ダメだよ」

「あ、そっか……すみません」

「いや、これは君たちに関係のあることだ」


 俺たちに関係のあること……そう言うと、森谷は満面の笑みを浮かべて言った。


「喜んでくれ。岬ちゃんの意識が戻ったそうだ」

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