第27章 彼の矜持

「……くん、春来……起……て……」


 誰かの声が、俺の耳に届いた。聞きなれた声……しかし、はるか遠くにいるような、そんな声に聞こえる。

 俺は、どうなったのだろう。確か、会議室で……村田と、宮尾と……それから……


「春来くん! 起きてよ!!」


 先ほどよりも大きく、強い声が俺の耳へ、そして脳内へと伝わっていく。真っ暗闇の空間に、少しだけ光が差し込む。

 そしてその光は、やがて俺を包み込んでいった。




「春来くん!!」

「おい、高島!!」


 強い光に包まれたかと思えば、気が付くとそこには見知った顔が二つ……胡桃と、そして中原の顔が、心配そうな目で俺を覗き込んでいた。


「え……あれ、胡桃……? 中原さんも……」


 まだ頭の中がぼんやりとかすむ中、突然現れたその二人に動揺を隠せない俺。何故、彼女たちはここにいるのか。中原の自宅で過ごしていた、と思っていたのだが……


「ああ、目を覚ました……良かった……」


 そう言うと、胡桃はフッと俺の視界から消えた。それと同時に、へたり込んだような音が聞こえる。


「よし……体に異常はないか? 痛むところは?」


 少しほっとしたような表情を浮かべつつも、中原は冷静に俺の状態を確認してきた。


「痛むところ……いえ、特に……あれ?」


 そう言って、自分の体に異常がないかを確認した時だった。俺が動かした腕が、柔らかい布団に触れたのだ。

 俺は、いつの間にベッドで寝ていたのだろう。会議室にこんな布団があっただろうか。まさか、会話中に寝てしまったのだろうか。

 そんな不安が俺の脳裏によぎる。そんな俺の様子を見て、中原は冷静に状況を説明してくれた。


「いや、大丈夫ならいい……君は、あの会議室で倒れているところを発見されたんだ。目立った外傷はなかったけれど、念のため仮眠室のベッドに寝かせておいたんだ」


 中原の話によれば、午前5時過ぎ、体調の戻ってきた胡桃と一緒に、俺たちに合流しようとしてこの署に戻ってきたのだそうだ。そしてあの爆発音を聞き、騒然とする署内をかき分け、ようやく俺たちの元へ辿りついたのだという。


 本来であれば、警察署内での爆発事故だ、相当な騒ぎになるはずだった。しかし、被害に遭ったのが村田と俺、そして宮尾だった。この署にいる人間であれば、あの事件に関する事案だと瞬時に把握したらしく、どう対処していいのか判断がつかなかったのだそうだ。


 そんな中、唯一あの事件を追っていた中原が戻ってきたのだ。そのため、彼女がその場を仕切ることが出来たのだという。よほど、あの事件に関わることは忌避きひされていたのだろう。


「まぁ、言ってしまえば私に全部丸投げしてきたってことね、二年目の若手に。……でも、仕切って正解だった。先輩は死んじゃったし、宮尾ちゃんがあんなことになっちゃってたら、君は多分倒れてるだろうって思ったから」


 状況は何となく把握できた。そうだ、俺はあの会議室で、村田の……そして宮尾が血塗れになっている様子を見てしまったのだ。

 しかし、それでどうして、俺が倒れてしまうと思ったのだろう。


「そう、ですか……でも、どうして俺が倒れるって……」

「え? ……ああそっか、君は覚えていないかもしれないけど……私と君が最初に会ったのは、あの奥村の事件の聴取の時。村田先輩に言われたでしょ? 倒れたのかって」


 奥村の事件……あの時も奥村の遺体を目にしてしまい、俺は同じように倒れてしまっていた。そうか、彼女は村田と一緒に、あの部屋にいたのだったな。


「そうでしたっけ……でも、ありがとう、ございました。俺、また目を覚ましてもあの部屋にいたら、多分……」


 多分、嘔吐おうと錯乱さくらんを起こしていただろう。あの飛び散った肉片、血溜まり……あれは、俺のトラウマを呼び起こすには充分だった。


「そうでしょうね……ああそれと、宮尾ちゃんは無事だったわ。幸いにも、軽く目の上の辺りを切った程度だったみたい。宮尾ちゃんも少しパニックになっていたけど……目の周りって、皮膚が薄いから出血しやすいの」


 宮尾は、無事だった。その言葉は、俺が一番聞きたかったものだった。

 俺は思わず、安堵の息を漏らす。


「まぁ、破片が傷口に入っていないかとか、そういうのはちゃんとやった方が良いから、後で病院に行ってもらう予定だけどね。でも……」


 そう言うと、中原は暗い表情になった。


「彼女の衣服には、おびただしい量の血液と……えっと……肉片が、ね……」

「あ……ああ……」


 そうか、宮尾はあの時、村田に電子タバコの使い方を説明していて、かなり至近距離であの爆発に巻き込まれたんだ。むしろよくその程度の怪我で済んだものだが、返り血などをまともに受けてしまったのか。


「だから、これから彼女の自宅まで行って、着替えを取ってこようかと思ったんだけど……ちょうど今は男連中しかいなくて……」

「そう、なんです……」


 先ほどまで床に座っていたのであろう胡桃が、ようやく立ち上がって、苦々しそうに話を続けた。


「中原さんはここに居てくれないと、春来くんや藤花ちゃんがここにいる経緯を説明できないし……私は……あの記者が……」

「あ、ああそうだった、ね……」


 あの記者……田中、と言っていたか。あいつの存在が今になって効いてくるとは。言葉も態度も嫌な奴だったが、今は嫌を通り越して『障害』と呼ばざるを得ないほどに嫌悪している。

 かといって、宮尾にあの状態のままいてくれ、とも言い難かった。血だけでも嫌なのに、肉片までこびりついてしまった服を長時間着るのは、恐らく警察官でも嫌だろう。

 そんな話をしていると、背後から扉の開く音が聞こえた。




「うぅー……シャワーは浴びたけど、やっぱりこの服は着れないや……あれ、ハル! 目を覚ましたの!?」


 仮眠室に併設されたシャワー室から出てきた宮尾は、飛び跳ねるように俺に近づいてきた。勢い余って俺に抱き着こうとした彼女だったが、タオルしか身に着けていない彼女を、中原は制止した。


「こらこら、そんな状態で抱き着いたらまた高島くん、倒れちゃうでしょ」

「ちょ、ちょっと、人を初心うぶみたいに……でも確かに、これは早く服を着ないと、ですね……」


 宮尾の姿を見慣れている俺ですら、タオルしか身にまとっていない彼女を直視することはできなかった。改めて見ると、彼女の胸はやはり大きいということがよく分かる。

 しかし、こんな姿の宮尾が男性率の圧倒的に高い警察署内を歩けば、妙な混乱を招く恐れがある。無論、中原のいる手前、手を出す人はいないだろうが……


「ええ? 初心うぶっていうか……童貞でしょ、高島くん……あ、そうか宮尾ちゃんとはもう……」

「な……」

「な、なにを言ってるんですか!!」


 罵られた俺より先に、宮尾の方がツッコんだ。

 どうやら、宮尾は未だに、管理人室で『一緒に寝て良い』と言ったことを後悔しているらしい。シャワーを浴びたのとは無関係に、顔を紅潮させている。

 その様子を見て、久しぶりに中原がニマニマと、意地の悪い表情を浮かべた。


「うー、いじわる……。中原さんの服はダメなんですか? ちゃんと洗って返しますので……」

「いや、私はここを離れられないからね……胡桃ちゃんに取ってきて貰えれば、できないことはないけど……」


 そこまで言って、何かを気にする様子の中原。

 身長は、中原の方がかなり高い。確か170cmを超えていたはずだ……とはいえ宮尾も165cmくらいだったと思うので、そこまで差はないはずだ。サイズを考慮しているのだとすれば、それは杞憂きゆうだと思うのだが。


「私は、その……ないから……」

「え? 何がですか?」


 思わず聞き返してしまった俺に、強烈な視線を向ける中原。

 その様子に、胡桃の方は何かを察したようで、苦い顔をしている。


「……仕方がない、か……胡桃ちゃん、ちょっと大きめのやつ……あの引き出しのところに入ってるから、適当に持ってきてくれるかな?」

「え、はい……なるべくゆとりのあるやつ、ですね……」


 胡桃は、小さく頷いて部屋を出ていった。

 状況の把握に時間がかかっているのか、宮尾はキョトンとして首を傾げている。その一方で俺は、ようやく彼女たちの言っている意味が分かったのだ。


「あ、ああ! そういうサイズ……ごふっ!?」

「黙れ」


 顔を上げ、閃いたぞ、という活き活きとした表情を浮かべた俺の腹部に、中原の右ストレートが直撃した。無論、手加減はしているようだったが……そのパンチは、色々な思いが詰まっているようで、果てしなく重く感じるものであった……。


「な、なん、で……」

「……」


 理不尽極まりない暴力に、俺はただ痛みに堪えるしかなかった。


「でもよかった、というべきなのかな、宮尾ちゃんは」

「……え?」


 よかった、とは一体どういうことなのか。軽度ではあるが、宮尾も被害者の一人だ、それに対してよかった、というのは、適切な言葉ではないような気がしたのだ。


「ああ、いえ、巻き込まれたことは可哀そうなことだし、服も残念なことになってるけど……高島くんとは違って、宮尾ちゃんは見てないの」

「見てない?」

「そう、見てない……というか、目が開けられる状態じゃなかったの」


 そうか、至近距離で爆発に巻き込まれた宮尾だったが、返り血を浴びて、しかも目の近くを負傷したことで、目が開けられなくなったのだ。俺の記憶では、確かに何も見えていないように、空を掴むような動作をしていた。


「だから、こんなに元気でいられたんですね……」

「元気、かどうかは知らないけどね。少なくとも、直接あれを見なかった、ということは大きく関係しているでしょう。私の同僚の品川先輩、まだトイレから出てこないもの」


 つまり、警察官でも人によってはトイレから出られなくなる……それは、俺に勇気を与えてくれる言葉だった。失神をした俺の不甲斐なさを、少しだけ緩和してくれるような気がしたのだ。


「……すみません、ありがとうございます、中原さん」

「……え? 何のお礼か分かんないけど、そんなのは良いのよ、別に」


俺の言葉に中原は小さく首を傾げながら、近くにあった椅子に腰かけた。


「それはいいとして……一つだけ確認したいんだけど、村田先輩は……知っていたのかな」

「知っていた? 何をですか?」


 唐突な質問に、答えにきゅうする俺。知っていた、とはそもそも何を指しているのか。そして、その質問の意図とはなにか。


「いや、タバコ……あれに爆薬のようなものが仕掛けられていた、ということはもう判明している。何が仕掛けられていたのかは、調べてもらっているけれど……あんなものに、村田先輩が気づかないなんて……」


 今の話からすると、恐らく中原は、なぜ爆薬の入ったタバコを吸ってしまったのか、ということに疑問を持っているようだ。

 村田は、警察官としてかなり多くの現場に出ていた。それこそ、硝煙の臭い漂う緊迫した現場なんてものは、何度も経験していたはずなのだ。そうであれば、爆薬の臭いに気付かないというのは少し違和感がある。


「それはそうかもしれませんが……無臭な爆薬なんて、結構あるんじゃないですか?」

「あの硝煙の臭いは、どう考えても黒色火薬のものだと思うんだよ。だとすれば、先輩が気づかないわけがない。それに、タバコくらいの量の火薬であんなになるのは、ちょっと考えにくいんだよね……」


 確かに中原の言う通り、タバコに火薬が仕込まれていたとしても臭いで気付きそうなものだ。それに、村田の顔面が飛び散るほどの威力を考えると、花火に使うような比較的弱めの火薬なのだから、あのサイズでどうにかなるものなのか?


「うーん……宮尾はどう思う? あのタバコ……いつもと違う感じはしたか?」

「う? うーん……別に私も、普段からタバコを吸う訳じゃないけど……そうだねぇ、あんまりタバコには変わった様子はなかったかな。でも、電子タバコなんて触ったの初めてだったよ、あんな風にできてるんだねぇ」


 吸う直前まで至近距離にいた宮尾でさえ、タバコの違和感には気づいていなかった。とすれば、原因はタバコではないのかもしれない。例えば、電子タバコの本体……あれに、爆薬が仕込まれていたのであれば……。


「そうか……電子タバコの本体……あれに爆薬が仕込まれていれば……」


 電子タバコ本体ならば、特に臭いを発せずに爆薬を詰めることができる。それが果たして、充分な威力を示すかどうかは別としても、理論上は可能なのだ。

 それに、散乱した電子タバコの破片。あれは、本体に爆薬が仕込まれていたから、あそこまで砕け散ったのだろう。


「なるほどね……であれば、あれだけの威力の爆薬も仕込めるかも……」


 少し納得をした様子の中原だったが、まだ腑に落ちないような表情をしている。

 一瞬の静寂が訪れたその時――――



 ヴーン、ヴーン



 俺のポケットから振動と、その音が響いてきた。ポケットには、いつの間にか俺のスマホが入っていた。そのスマホから、振動……着信だ。そして、発信先は……


 岬 千弦の表記。それはつまり、米村からの電話だということを意味している。


「……」


 スマホの画面を見て、固唾を飲む俺。その様子で、誰からの着信なのか把握した中原と宮尾は、また同じように俺の動きを注視している。


「……で、出るぞ……」

「うん……」


 少し息を吐き、精神を落ち着かせながら、俺はゆっくりと電話を受けた。



「……もしもし、米村さん、ですか?」

「おお、ようやく分かってきたようだな。ここでまた狼狽うろたえたりしたら、どうしようかと思ったんだが。……村田先輩は結局、死を選んだようだな」


 電話の向こうで、楽しげに……しかし、どこか切ないような声が聞こえた。彼も、いくら殺したい相手だったとはいえ、長い付き合いの中で何か感じることもあったのだろう。


「村田さん自身が死を選んだかどうかは分かりません。でも、彼は死にました。それは確かです」

「……いや、先輩は気づいただろうさ、あんな仕込みくらい、余裕で。でもあえて受けたのは、そういうことだと俺は感じたぞ」


 米村の言葉に、動揺を隠せない俺。

 気付いていた? 自分があんなもので死ぬというのに、それを受け入れたというのか?


「ど、どういうことですか……」


「君の近くにいる、宮尾さん。彼女がどうして軽い傷で済んでいるのか、疑問に思うべきだろう。先輩が身を挺して守ったから、そうは思わないか?」


 ハッとした俺は、思わず宮尾の方を見た。

 衣服は血塗れになってしまい、今はタオルを身にまとっている彼女だが、傷自体は右目の上あたりのガーゼが固定されている部分、ただそれだけで済んでいた。それが偶然ではないとすれば、考えられることは一つしかない。

 村田は、タバコの爆薬に気付いていた、ということだ。


「さすが先輩だよ。自分がそうやって死ぬことで、結果的に二人の女性を助けたんだからな」

「二人……そ、そうだ、岬! 岬はどうしたんですか!?」


 立て続けに起きた、村田の死、俺の昏倒……それへの対応で、今まで連絡できていなかった。その間にも、岬はあの感覚遮断しゃだん実験を受けていたのだとすれば……もっと早く連絡すれば……。

 ふと時計を見ると、時計の針は午前9時を指している。村田が死んだのは午前5時過ぎ……俺が倒れてさえいなければ、もっと早く連絡が出来ていたはずだった。自分の心の弱さに、ほとほと呆れ返ってしまう


「フ……安心してくれ。何度も言うようだが、俺は約束を守る。そして、あの会議室の様子も、ちゃんと聞いていたさ。その頃には、もう彼女は解放済みだったよ」

「え……?」


 それだけ告げて、米村は電話を一方的に切ってしまった。


 彼女は解放済み、彼は確かにそう言った。しかし、肝心の岬の居場所が分からないのだ。これでは、解放されたとしてもあの実験が続いているのかどうか、全く分からない。


「ど、どうしたの、ハル……怖い顔になってる……」

「また、何か要求があったのか……?」


 宮尾と中原は、心配そうにこちらを見つめている。こんなことになるなら、最初からスピーカーホンにしておけばよかったと後悔したが、もう遅かった。


「……どうやら、岬はすでに解放されているらしい。でも……」


 その先は分からない。果たして、岬は今どこにいて、どうしているのか……。

 すると、仮眠室のドアをノックする音が聞こえてきた。中原の話では、宮尾のことがあるため、入室時には必ずノックをするように、と伝達されていたらしい。


「あ……宮尾、大丈夫か?」

「う、うん。ちょっと隠れてるね」


 いそいそと、シャワー室の方へ身を隠す宮尾。その様子を見て、中原は来訪者の入室を許可した。


「……入っていいぞ」

「し、失礼します……」



 ガチャリ、キィー……



 古めかしいドアノブの回る音と、調整されていない蝶番ちょうつがいの軋む音が部屋に響いた。そして、おずおずと入ってきたのは、胡桃だった。額に汗を光らせた胡桃、その右手には大きな紙袋……恐らく、宮尾の替えの服が入っているのだろう。


「ああ、なんだ胡桃ちゃん……着替え、持ってきてくれた?」

「は、はい……これなら多分、大丈夫かな……藤花ちゃんは?」

「こっちこっち!」


 胡桃は、シャワー室のドアの影に潜む宮尾に手招きされ、手に持った紙袋を手渡した。


「できれば、右下の服の方が新しかったんだけど……」

「ああ、そんな気はしましたけど……新しい服はどうなのかな、って思って」


 胡桃は少しだけ、ふぅ、と一息いた。彼女なりに急いで戻ってきたのだろう、まだ汗が次々に流れ出ている。


「でも、ありがとう。あのままだとちょっと、ね」

「いえ……そ、それより、聞きましたか?」


 胡桃が、珍しく慌てた様子でこちらに尋ねてきた。顔を上げた拍子に、数滴の汗が飛沫となって飛んでいった。


「ど、どうしたんだ? 聞いた……って、何を?」

「うん、何も聞いてはいないけど……」


 俺と中原は、口を揃えて胡桃に返答をした。この仮眠室に入ってから得た情報は、岬が解放された、ということだけだった。それ以外の情報は、まだこの部屋には伝わっていない。


「そう、なんだ……さっき、森谷さんから電話があったの」

「森谷……って、あの医者の?」


 森谷が電話をしてきた、ということは少し意外だった。

 森谷は、胡桃がアイドル時代、彼女を熱烈に応援していたような輩だ。その熱意は今でも変わらず、彼女を前にすると、彼はいつもおかしな行動を取るのだ。そんな彼が、胡桃に電話を掛ける……それなりの勇気をもって行った行動、ということになる。


「そう、あの森谷さんがね、その……岬ちゃんが来たんだって」

「来た……って、どういうことだ、歩いてきたということか?」

「い、いえそうじゃなくて……」


 胡桃は、また少し言葉を選んでいるかのように、口をもごもごと動かした。その様子からは、彼女が何を伝えたいのか、恐らく彼女自身もはっきり把握できていないのだろう。しかし、重要なことであるということは、その態度でよく分かる。


「森谷さんの病院に、森谷さん宛てに送られてきた患者……それが、岬ちゃんだったんだって……」

「そ、それって……」


 森谷の病院に送られてきた、それはつまり、岬は東京総合国際病院に搬送された、ということになる。ということは、彼女の容態ようだいはかなり悪いのかもしれないのだ。

 米村は、岬を解放した、とは言った。しかし、生きている、とも、元気だ、とも言っていなかった。これは紛れもない事実で、どうにもできない真実だった。


「い、急いで病院に向かおう! えっと、場所は……」

「私が運転する。早く用意して、すぐに向かうぞ。宮尾ちゃんは……」

「わ、私も行ける!」


 シャワー室の奥から、宮尾の声が聞こえてきた。着替えにしては随分と手間取っていたが、用意は出来るようだ。


「よし、それじゃ……」

「ま、待って、そうじゃないの!」


 俺がドアに手を掛けた瞬間、胡桃は大声で俺たちを制止した。


「な、なんだよ、これは一刻も争う……」

「そうじゃないの、森谷さんのいる病院に運ばれたけど……無事、なんだって」

「無事……無事って、つまり……」


 切迫した状況の中、飛び込んできた単語に対する処理がうまくいかなかった。俺と中原は、胸に手を当て、ふー、と深呼吸をする。


「それは……岬は……」

「そうだよ、岬ちゃんは……生きてる!」


 生きている……岬が……


「生きてる……」


 岬は生きている。その情報は、ずっと聞きたかったもので、それは俺の足の筋肉から、力を奪うのに充分な威力を持っていた。俺はドアにもたれかかるようにしながら、ズルズルと崩れていった。


「ほ、本当……なのか?」


 半信半疑、といった目を胡桃に向けながらも、中原の口には少し緩みが見られた。


「何だったら、中原さんも電話で確認してみてください。そうすれば、多分……」


 そう言って胡桃は、スマホの画面を中原に見せた。そこに何が表示されているのかは、俺の角度からは見えなかった。しかし、中原がすぐに電話を掛けている様子からかんがみれば、あそこには恐らく、森谷の電話番号が表示されていたのだろう。

 そして、通話が確認されたのと同時に、中原はスマホをスピーカーホンへ切り替え、机の上に置いた。



「もしもーし、どなたですか? 今、少し忙しいので……」


 電波が少し悪いようだが、この声は聞き覚えがある。間の抜けたような、しかし油断のならない男の声……これは、森谷の声だ。


「私です、中原です。代々木警察署の」

「あ、あー、中原さん……アパートでの件以来、ですか。ご無沙汰しています。それで、何のご用件でしょう。……ああ、もしかして」

「そうです、岬 千弦さんという方が、そちらに搬送されたと伺いまして。胡桃ちゃんから」

「……ええ、そうです。本当は、こんなことを口外してはいけないんですが、彼女のご両親とは連絡が付かなかったので……それで代わりに、花南ちゃんに相談したんですよ」


 岬の両親……母親のことはともかくとして、父親はどうして、そんな状態になっていても電話にすら出ないのか。安堵しながらも、小さな怒りが俺の中に湧き出てきた。


「そう、ですか。それで、彼女は、どうなんですか?」


 一瞬の沈黙が、俺たちを包み込んだ。彼の言葉が聞こえてくるまでの時間は、実際には一秒も無かったはずだった。しかし、俺にとっては、十秒以上かかっていたように感じたのだ。


「どうも何も、健康体でした。外傷は、何か点滴でも受けたようでしたが……目立った傷はありませんでした」


 健康体……ということは、岬はやはり生きている。それが聞こえた瞬間、俺はまた全身の力が抜けていく感覚を味わった。


「そ、それじゃ……」

「しかし、脳波に乱れがありました。体は健康ですが……今、少し検査をしているところです。……一体何があったのか、俺としては是非聞いてみたいんですけど、どうでしょうか」


 脳波の乱れ……それは、恐らくあの実験の影響だろう。肉体的な影響は少ないものだったが、精神的なストレスの大きい実験だ、やはり少なからず脳への影響があったに違いない。


「……無論、そのつもりで電話しています。直接お会いできますか?」

「もちろん。……そうですね、13時頃、研究室に来ていただければ、と」

「分かりました。それでは、後程また」



 そう聞くや否や、森谷は通話を切った様子だった。スマホから流れるビジートーンが、仮眠室内に響き渡る。


はぁ、と一息、大きなため息を吐いた中原は、俺たちに向かって話し始めた。


「……ということで、12時頃にこの警察署前で待ち合わせましょう。その間……高島くんと胡桃ちゃんは、できればここか、私の部屋にいて。宮尾ちゃんは……着替えてきたらいいと思う。私は、村田先輩の件を上司に話してくるから」


 そう言って仮眠室を出ていく中原の表情にも、軽い笑みのようなものが見えた。それにつられて、思わず俺と胡桃は顔を見合わせて、小さく笑みを浮かべた。


 岬は生きていて、健康体だった。脳波に乱れがあった、という懸念材料はあるものの、少なくとも彼女に生命の危機はなくなったのだ。


 村田は、こうなることを予期していたのだろうか。まだ彼にも、この世に未練はたくさんあっただろうに。しかし、彼の行動によって岬の命が救われた。これは村田の、警察官としての矜持きょうじだったのだろう。


「村田さん……助かりましたよ、岬は……」


 俺は、小さくポツリと呟き、天井を見上げた。彼がよく見ていたであろう、この天井を見つめていると、どうしてか、彼にこの声が届きそうな気がした。

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