第22章 事件の回想と記憶
中原の運転で、彼女の住まいへと向かう俺と胡桃。窓の外には、大きな積乱雲が立ち込めている。黒雲は地響きを
そして、とある住宅の前で停車し、彼女は足早に車を降りた。
「ああ、雨が降る前に着けて良かった。さ、入って!」
ここは、警察の社宅だろうか。一般人は通常、入ることのない集合住宅のようだった。こういった施設は本来、部外者の立ち入りを制限しているはずだ。しかし、村田の口利きも有ったのだろう、俺と胡桃は、特に何事もなく敷地内へと通された。
中原の部屋は、この集合住宅の二階にあるという。何となくだが、俺は少しだけ彼女に親近感がわいた。俺自身がアパートの二階に住んでいる、というだけで外観も、そして中身も全く違う。それでも、地上からの距離と言うのか、それが同じということは少し安堵するものがあった。
部屋の前に辿りついた俺たちは、まず中原が中に入り、少しの間、玄関前で待たされることになった。彼女も年頃の女性であるし、胡桃はともかく、男性を招くのだから少しは片付けようと思ったのだろう。
そして、しばらくして中原から入室の許可を得た俺たちは、静かに彼女の待つ部屋へと入っていった。
中原の部屋、というので少し荒れているかと思いきや、存外、彼女はきれい好きなようだ。とても片付いた部屋、そう思った俺だったが、ある一点のみ、この部屋から異様なものが見えていた。
部屋の真ん中付近に、ドン、と
「ごめんね、さっき大分片付けたから……どうしたの?」
中原は、俺と胡桃が硬直した理由が分からなかったようだ。そして、俺たちの視線の先にあるものに目を移した彼女は、また俺たちと同じように硬直したのだった。
「あ、ええと……事件を常に忘れないようにする心がけ……ということでしょうか」
「え、ああそうそう! 個人情報は持ち出してないから、見ても大丈夫だとは思うんだけど……しまったなぁ……」
そう言って中原は頭を抱え込んだ。警察の内部事情を知らない俺たちからすれば、自宅でも事件のことを考えているということは、仕事熱心なのだな、という評価に繋がる。個人情報を持ち出していたのなら話は別だが、そこまで頭を抱えるようなことなのだろうか。
「胡桃の部屋も、こんな風に事件の記録とかをまとめているのか?」
「いや……ノートにまとめたりとか、なるべくコンパクトにするようにしてるかな……これだと、ちょっと……」
ああ、それはその通りなのだろう。ホワイトボードは、誰かと共有するような情報を書き込むものだと、普通は考える。こんな風に、住居に置くようなものではない。伝言板のような、小さなものならば理解できるが、大学の講義室にあるような大きさのものは、まず必要ない。
「あの、もうそれについては触れなくて良いから……ん? いやでも、ちょうどいいかも」
先ほどまで頭を抱えていた中原は、思い立ったように、そのホワイトボードの前へと移動した。そして、書かれている事件……よく見れば、個人名などは無いが、恐らく今回の事件に関する記述だ。それを見て、こちらに向き直った。
「私の、村田先輩や米村先輩から聞いた情報が正しいかどうか、ちょっと確認させてくれる?」
「え? ええ、それは良いんですが……むしろ俺たちへの情報
俺と胡桃は少し驚き、彼女に確認した。
「何、今さら。ずっと前から、米村先輩とかが
なるほど、言われてみればその通りだった。中原は、あまり考えて行動しない人だと思っていたが、意外にも
「……わかりました。では、俺たちの知っている情報とすり合わせましょう」
「うん、そうこなくちゃ。……まずは、今回の事件を追っていくわね」
そう言って中原は、ホワイトボードに向かって左上を指さした。
「今回の事件は、この松山の事件が始まりとされている。それは大丈夫?」
「ええ、8月10日、絵描きが焼死体となって発見された事件、ですね。それはもちろん」
胡桃が返答した。そう、この事件自体は俺たちに全く関りはない。しかし、米村や村田からは、この事件が始まりであると聞いている。
「そう、彼が描いた絵、『火刑』にそっくりな様子で、彼自身が死んでいた事件。まぁ、結果として彼の絵は高額な値が付いているみたいだけど……この絵の価値を高める目的での殺人、もしくは自殺だという意見は、まだ根強いわ」
警察内でも、未だに意見が分かれているということは、何となく察するものがあった。何しろ、焼死体となったせいで、遺体からの情報がほとんど得られないのだ。……しかし、彼には今回の事件に絡む、重要な点があった。
「……でも、彼は
そう、後になって分かったことだったが、松山は
エンドルパワーについては、彼の住むアパートに空き瓶があったらしい。もちろん、それで彼がエンドルパワーを飲んだかどうかは不明だが、可能性としては充分に考えうることだった。
「私たちが知っている情報としては、こんなところでしょうか……他になにか、警察内で共有されている情報はありますか?」
胡桃は、いつの間にか例の大きな手帳……もはやノートだが、それを取り出していた。手にはもう既にボールペンが握られている。あの、森谷にサインした時と同じボールペンだった。
「うーん……会社をクビになって、しばらく精神的に病んでいた時期があった、という話は聞いているけれど……それだけ。友達もロクにいなかったみたいだし、絵描きとしても、別に何か昔やっていた訳でもないそうよ」
なるほど、簡潔に言えば、絵描きを称しているだけの無職なのだな。もちろん、会社をクビになり精神的に病む、というのは分からないでもないが……それにしても、絵描きとして生きていく、という行動には違和感があった。
「……とりあえず、分かっていることはそんなところですね。
「そうね、次は……胡桃ちゃんのお姉さんの事件」
俺は、思わず胡桃を見た。第二の事件は、彼女の姉が被害者だ。以前までは、その事件について語る胡桃は冷静そのものだったが、今の彼女はどうだろうか。先ほどの記者のせいで、精神的に不安定になっている可能性がある。そんな状態で、姉の事件の話が出来るのか、俺は不安だった。
しかし、そんな俺の不安を察したのか、俺の目を見て、胡桃は力強く頷いた。
「……大丈夫。お姉ちゃん……安藤 理佐は、頭部が切断された状態で、その日グラビア撮影を行う予定だったスタジオに届けられた。そして、その事件の八日後……頭部が自宅のリビングで発見された」
彼女の姉、安藤の頭部が発見された、という連絡は俺たちが胡桃に出会った、8月23日。ちょうど、あのカフェ・レストリアで会話していた最中のことだった。スタジオに届いたのは、八日前だから、8月15日だ。
「そうだ、それについては疑問だったんですが……どうして、彼女の自宅から頭部が発見されたのでしょうか。規制線も
そう、彼女の頭部が発見されたのは、彼女の自宅リビング。すなわち、犯人は変死事件のあった人間の自宅に、発生から約一週間程度しか経過していないにもかかわらず侵入し、頭部だけを置いて行ったのだ。犯人にとっては危険なうえに、何のメリットもないことだと、俺は思っていた。
「……そう、ね。変死とはいえ、それなりに時間の経過した事件だったし、規制自体もそこまで強くは無かったと思う。だからといって、自宅に侵入してまで頭部を置いていく理由は分からないわ。でも……」
中原は、またホワイトボードを指さした。そこには、一枚の写真……頭部のMRI画像と思われるものがあった。
「頭部の画像データが得られた。切断された遺体で、しかも死後一週間は経過しているというのに、鮮明に。それが意味すること……村田先輩の意見だけど、あえて、画像データを残したかったのかもしれない」
あえて、データを残すということ。それは、犯人による何らかのメッセージだと考える。つまり、犯人の目的は、彼女自身には関係なく、脳にあった、そう捉えても良い。
「い、いや、共通することはまだありましたよね。確か、あの時宮尾が言っていた……そう、過去に
「……あるとすれば、過去にひどいバッシングを受け、精神的に病んでいた時期があったということ、かな」
胡桃が、少しだけ暗い表情をしながらも情報を付け加えた。
「あ、ああ……。歌が原因で、売れっ子だった安藤は世間からバッシングを受けた。……確か、彼女の頭部から、声帯だけ取り除かれていた、と聞きました。そう言う意味では、松山と同じように、望んで得た死である、とも考えられなくはない、ですね」
望んで得た死、という表現は良くないかもしれない。でも、今回の事件で共通するもの、それを挙げていくと、どうしても遺体の状況……それを考えなければならなかった。
「そうね、その話は確か、君が襲われたあの夜……村田先輩と議論していた時に聞いたわね。あとは、マネージャーの伊藤の証言というのもあったけれど、特には関係ないと思うから省略するわ。……人道的にどうか、という議論は別としてね」
ファンレターを偽造し、やる気を出させようとしたマネージャーの行動は、あくまでも本人や事務所のことを考えた上での行動だと思うが、人道的ではない。しかし、この事件には関係のない事実であることは確かだ。今それを議論する意義は、恐らくない。
「じゃあ、第三の事件に移るわね。……この事件の第一発見者、と言っていいのかは分からないけれど、少なくとも目撃者になったのは、君たち三人だった、そうね?」
そう、忘れもしない、奥村の事件。代々木駅前の商業ビル屋上、そこで回転する遺体を、この目で見たのだから。
「……ええ。正確には、宮尾が見つけて、俺と岬は彼女の後に見ましたから、第一発見者、という意味では、宮尾です。まぁ、そこは大きな問題ではありませんが……」
「この事件は、8月22日……ああ、そういえばあの時、村田先輩に聴取されていたの、高島くんだったわね」
徐々に蘇る記憶の中に、確かに中原の姿があった。村田の背後に立つ、彼女の姿。しかし、その時点では、まさかこんな風に濃厚に関わっていくことになるとは、全く予想もしていなかった。
「そう、でしたね。宮尾があの遺体を発見したのは、12時10分を過ぎたころでした。そして、それより30分前の11時40分頃、宮尾はあのビルの屋上に人影や、もちろんあの遺体も含めて、おかしなものはなかったと証言しています」
そう、宮尾のスマホを見た時間が11時40分頃、そしてあのエンドルパワーの街宣車が通っていったのは、12時10分頃。その間に、あの遺体は出現したと考えられるのだ。
「確か、警察の方では監視カメラを当たってみたんですよね? それは結局、どうだったんですか?」
「あ、ああ。それは……」
胡桃の質問に、なぜか答えにくそうにしている中原。何を言い
「……11時41分、あのビル付近の防犯カメラに、被害者である奥村が映っているのを、米村先輩と村田先輩が確認したの」
「……は?」
それは、つまり……俺たちがビルの屋上から目を離した、たった30分の間、しかもビル付近のカメラということは、恐らく路上を映したカメラに、彼が映っていた。理論的に考えれば、犯人は奥村を、たった数分の間に串刺しにし、そして逃げた、ということだ。
「それは……あまりにも……」
「そう、あまりにも鮮やかで、無駄のない殺人。でも、状況的にはそうとしか考えられないの。例えば、そうね、君の記憶が違うということでもない限り」
……そうだ、監視カメラの映像には、はっきりと時間が記録されている。しかし、俺の見たスマホの時間、そして街宣車の通った時間は、証拠となるものが一切ない。今まで、自信を持って答えてきたはずのものが、
「……春来くんが、自信を持って言っていたことは事実。それに、あの街宣車は確かに、毎日同じ時間に通っていたことは間違いない……」
「ま、その街宣車も、奥村の所有していたものだからね……その日は本当に、その時間に通っていたのかは分からない、かな」
胡桃や中原の意見を聞けば聞くほど、俺の記憶は間違っていた可能性が高いと感じた。物的証拠があるんだ、そう、今はそれを優先して考えた方が良いのかもしれない……。
「でもね、死亡推定時刻は、あの回転があったから分からないんだそうだけど、9時から11時、遅くても11時30分よりは前、らしいのよ。そうなると、どの話にも一致しないんだけどね……」
遺体の状況からして、死亡推定時刻に多少の差はあると考えれば、あまりその時間は参考にならないだろう。となると、やはり俺の記憶が違っていたのだろうか。
「……ま、今はそれを責める時間じゃないし、とりあえず今、分かっていることをまとめよう。ここで議論できることじゃないしね」
そう言って、中原は一旦、時刻に関する話題を
「奥村は、
となれば、奥村と他二人との共通点は、
「でも、そうか。奥村が
例の組織、その言葉を口にした途端、中原と胡桃の表情が、一気に険しくなった。中原にとっては兄の敵であり、胡桃にとっても、先ほどの推測が正しければ、東野 遥の死に関係しているかもしれないのだ。それと関連づけるのは、まだいささか性急ではあった。
「そう、ね。可能性として、それは考えておきましょう。
少々、強引に話を区切った中原。彼女の言い分はもっともであるし、また例の組織が本当に存在し、この事件に関与しているのだとすれば、もう俺たちの手には負えないのだ。まだ、そこは考えないようにしておくべきだ。
「……じゃあ、次の事件に……」
そう俺が口にしたとき、強い閃光と、大きな音が部屋に行き渡った。その光と音に、中原と胡桃は飛び上がった。
それは、大きな雷鳴だった。この部屋に入る前から、少しずつ地響きを
……そして、ポツ、ポツと、窓ガラスに雨粒が付着していく。
「ああ、もうびっくりした! なんだ、雷か……って、うわ、雨粒大きいね……」
中原は、少し興奮冷めやらぬような声を上げた。雨粒は徐々に窓ガラスを侵食し、やがて、外の世界は雨粒によってモザイクがかかったように、灰色に覆われていった。
「ほんとだ、すごい雨……洗濯物、外に出さないでよかったぁ……」
先ほどまでの緊迫した表情から一転して、安堵する胡桃。しかし、俺は気づいてしまった。そうだ、俺は洗濯物……血の付いたタオルなどを干したままだった。
「うわぁ、まじかぁ……」
「あ、なに、やっちゃった?」
落胆する俺に対し、なぜか嬉しそうに声を掛けてくる中原。なるほど、あの米村や村田から、一定の信頼を得ているだけのことはある。
「類友、というやつですね……」
「え?」
あえて聞こえるように言ったのだが、意味を理解していないのなら、それはそれでいいとしよう。逆に、気づかれた方が面倒かもしれない。
「……さてと、ちょっと気が抜けちゃったね。何か飲み物を用意しよっかな……みんな、コーヒーか紅茶、どっちがいい?」
中原は、これを機に、文字通りのコーヒーブレイクをしようとしていた。実際、俺は先ほどまでの議論で喉が渇いていた。胡桃も、反応を見る限りは恐らく、俺と同じ状況に陥っている。
「あ、じゃあ……コーヒーで」
「私は、紅茶で……」
その言葉を聞き、中原は手際よくカップを取り出していく。女性らしい、可愛いマグカップだ。
「……ねぇ、さっきの話なんだけど……」
マグカップにコーヒーと紅茶を注ぐ中原を尻目に、胡桃が俺に耳打ちをしてきた。
「私は、春来くんのことを信じるよ。だから、あんまり落ち込まないでね……」
そう言って、胡桃は静かに
「……ありがとう、胡桃」
「でも、それが本当かどうかは、事件の真相が解明されてから、だからね。今は、春来くんを信じる。ただそれだけ」
そう言って彼女は、また真剣な表情に戻った。そうだ、俺の記憶が正しかったかどうかは、今後分かることだ。今は、変に気に病むよりも、前を向いていかなければ。
「さて、と……お待たせ。お菓子も用意したから、適当に食べて良いからね。……と、それで、次は……第四の事件、渡辺の事件、ね」
俺と胡桃の前にマグカップを置いた中原は、そのままホワイトボードの前に立ち、話を再開した。渡辺の事件……あれはちょうど、森谷と初めて会った時のことだった。
「確か、8月26日……でしたね。俺はちょうど、米村さんとあのカフェにいました」
「そうね、そう聞いている。私もこの時、あの現場にいたから、君たちがどうして居たのかは聞こえていたかな。……全く、現場に乗り込んでくるなんてね」
現場に乗り込んでいったのは、結果的に不可抗力みたいなものではあったが……警察の制止を聞かずに入っていったのだから、それは
「ま、それについては米村先輩や村田先輩から厳しく言われただろうし、私から特別、何か言うことはないわ。ただ……」
そう言うと中原は、じっと俺を見つめた。
「村田先輩に話していたこと……あれが確かなら、この件と前の三件は別にして考えなくちゃいけない。そうなると、この事件の犯人は別にいる可能性がある、ということになる。『エンドラーゼ』の臨床試験を担当した医師、そしてその試験を中止に追い込んだ張本人、という大きな事実があるから」
村田に話したこと……この事件だけ、前の三件と殺害方法が異なるということ。松山、安藤、奥村はある程度、希望に沿ったような殺され方をしていた。しかし、渡辺は希望に沿わない殺され方をしていた。それは、明らかに悪意を持ったものであり、渡辺だけは殺す、という明確な意図が伝わってきたのだ。
「その話、前に春来くんから聞きました。確か、殺害方法が希望した方法ではない、渡辺は栄養剤みたいなものが嫌いだった、って。だから、エンドルパワーを飲むこともないし、ましてや点滴なんて受けようともしない……」
そうだ、そんな渡辺に、15本もの点滴を入れて毒殺したのだ。正確に言えば、毒殺してから、点滴を入れた。それは、明らかな殺意であり、強い怨恨によるものだと、俺は感じたのだ。
「ただ、未だに渡辺が『エンドラーゼ』の臨床試験を、わざと失敗させたという事実は見つかっていないし、彼が
刑事部捜査第二課……横領や脱税といった罪を捜査する部署、だったか。中原の知り合い、ということはその人も若手なのだろう。そうなると、こっそり調べるには時間がかかるのも良くわかる。
「それがはっきりすれば、渡辺の目的も見えてくるんですが……まぁ、少なくとも彼が殺された理由は、あの点滴の数からしても、分かりやすいですよね」
「そう、15本という明確な数字と、それに脳の異常……ここから、今回の事件と、10年前の事件を関連づけるようになった。そういう意味では、大きな事件だったけれど……問題は、あの監視カメラの映像、ね」
あの監視カメラの映像……まるで、ホラー映画のワンシーンのような、あの映像。あれはもう、どこにも存在しない。見た瞬間から、あのデータは消去されてしまっていたからだ。あれも、ある意味では奥村の事件と同じく、記憶にしか残っていない証拠だと言える。
しかし、あの女性は実在した。それどころか……。
「あの女性は、俺を襲ってきた。そして、あの女性が誰なのか、米村さんは突き止めた……」
「それが鈴石 初穂……それで、この事件は
それで終わるはずだった……あの女性が鈴石であったならば、俺が狙われる理由もあり、他の事件への関与も、少なくとも渡辺の事件に対しては濃厚だと言える。しかし、鈴石は死んだ。いや、死んでいたはずの人間だった彼女は、再び殺された。
「その鈴石が、交通事故により亡くなった。……事故の様子については、米村先輩から聞いてはいないよね?」
「え、ええ。食事が出来なくなる、と言われました」
「……まったく、同僚以外には甘いんだから……でも、正解。見ない方が良い」
中原はそう言って、少し身震いをした。気丈な彼女がそこまで言うのだ、俺なんかが見たら、恐らく卒倒するだろう。
「あの遺体は、鈴石のものかどうかはまだ不明。でも、あれが鈴石ではないという可能性を考えると、やっぱり君はまだ狙われる可能性がある、ということかな……」
理論上は、その通りということになる。鈴石、という俺のトラウマをわざわざ用意し、しかも襲わせているのだ。俺を襲うということは、10年前の俺の両親の事件を想起させたい、という意図がはっきりしている。しかし、その理由とは一体何だ?
「あ、そうそう。
その事実には、そこまで大きな衝撃はなかった。彼女や村田が、俺を保護するために動いていた、ということは、恐らくそういうことなのだ。
一連の事件の犯人は、ある程度利用し終えた鈴石を殺したのだ。
「血液から、例の副産物が検出されたんですか?」
「ああ、それはまだ。でも、森谷さんに頼んだんだし、そろそろはっきりするんじゃないかな。あの人、そういう動きはすごく早……おっと」
そう言いかけた中原は、何かに反応した。彼女の部屋に小さく響く振動音……スマホへの着信だ。
「ああ、さっそく村田先輩だ……悪いわね、ちょっと待ってて」
彼女はホワイトボードから離れ、足早に玄関の方へ歩いて行った。俺たちに聞かれてはいけない話もあるのだろう。
「……こう、事件を一列にして考えると、やっぱり鈴石が凶行に及んだ、というのがしっくり来るんだよな……」
「うん、でも春来くんの言う通り、渡辺の殺され方はちょっと異質だよね……」
松山、安藤、奥村は
鈴石の遺体が見つかる、ということは、例の組織や警察からしても避けたかったことだろう。それを、わざわざ見せるような状況にしたのだ。交通事故という、明らかな物的証拠の残る殺し方で。その事実から考えると、例の組織がこの事件に関わっていなかった、ということにも繋がる。
「さっきも言っていた通り、鈴石は、やっぱり10年前に死んでいた、とする方が自然なんだよな……」
今回の事件を起こしたのは、鈴石に遺族がいないという事実がある以上、『エンドラーゼ』の研究に関わった人間、もしくはあの臨床試験の被害者遺族たちが最も疑わしい。しかし、その場合は俺が狙われたという事実……これが全く証明できないのだ。この事件は、一連のものではないのか?
「はい、分かりました」
俺たちが思考している間に、中原は電話を終えたようだった。そして、彼女は俺たちに言った。
「ごめん、少しだけここで待っててもらっていいかな? ……鈴石と思われる女性の、住居が分かったらしいの」
「え?」
鈴石の、住居? そんなもの一体どうやって調べたのだろう。俺を襲ってきた時だって、ほとんどの監視カメラには映っていなかったほど、周到だったはず……。
「……ほんと、村田先輩ってすごいよね……集められる限りの映像を、片っ端から、ほぼ毎日見続けていたそうよ……あの年齢で、視力も衰えてきているというのに」
「ええ……!?」
それは、素直にすごい。胡桃も
「で、私はそこに行ってくるから。二人はここで待ってて。誰か来ても、居留守にしてもらっていいから!」
そう言って彼女は、素早く支度を済ませて、外へと出ていった。つい先ほどまで、豪雨により灰色に染まっていた外の世界は、いつの間にか澄み渡り、爽やかな風が吹き抜けるようになっていた。
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