不信心な鏡像に捧ぐセレナーデ

第23章 妄想は妄想でしかなく現実は現実でしかない

「はぁ、まったく……米村先輩といい、村田先輩といい……仕事が早すぎるのよ……」


 移動中の車内、中原はブツブツと独り言を呟いた。


 鈴石と思われる遺体が発見されてから、まだ24時間と少ししか経過していない。それにも関わらず、村田は彼女の住居を特定したのだ。無論、この事件が起こる以前から、彼は鈴石の足跡そくせきを追っていたことは、この中原もよく知っていた。とはいえ、常識的な仕事量の範疇はんちゅうを、軽く逸脱いつだつしていることは確かだった。


 それに加え、一晩で監視カメラに映った女性が、鈴石であると特定した米村。血液中に存在する毒物の特定をした森谷。いずれも、常人じょうじんには考えられないような速度であり、中原にとっては彼らに追いすがるだけで精いっぱいとなっていた。


「私だって、少しは役に立ってみせる……」


 そう、それゆえに彼女は息まいて、単独捜査を引き受けたのだ。しかし、今のところ彼女にできた仕事と言えば、高島 春来の保護、それのみであった。

 通常の人間であれば、焦りが募ってしまうところだったが、彼女は違っていた。


「……ま、あの超人どもに立ち向かうのは、あまり考えない方がいいかな……とりあえず、今は鈴石の自宅を調べること、ね」


 彼女の長所は、まず目の前のことを処理する、という点だ。これについては、研修時代から彼女のことを知っている米村も、認めているところだった。まず与えられたことをしっかりこなし、次に向かう。そんなことは当たり前のように思われるが、意外と、それを実践できる者は少ないのだ。


 先ほどまでの豪雨が嘘のように消え、今はただ、水たまりが夕空を映している。中原の靴が、その夕空を揺らす。


「ここ、ね……」


 着いた先は、東高円寺ひがしこうえんじ駅付近にある、綺麗目なマンションだった。ここの五階……そこに、鈴石とよく似た女性が出入りしていたという。


 早速、中原はマンションの管理室へと向かった。当のマンションへの連絡はすでに村田が行っており、中原はただ、部屋の中を確認するだけだった。マンションの管理人同行のもと、中原はその部屋へと向かった。


「……それで、その住人の名前は分かりますか?」

「ええ、もちろん。入居時に頂いた書類が、こちらです……」


 移動中のエレベーター内、中原は管理人の前田まえだから提示された書類を受け取った。


「ええ、と……井上いのうえ 由貴子ゆきこ……鈴石ではない、か……入居時、身分証明のようなものは?」

「ああ、それもこちらに」


 中原は、書類を数枚めくった。確かに、そこには保険証の写しがあった。しかし、顔写真は見当たらなかった。


(保険証が偽造されていないかどうか、あとで確認しておくか……)


 彼女がそう考えているうちに、エレベーターは五階へと到着した。五階といっても、都心にほど近いこの近辺では、景色が良いということはない。大通りには高層ビルが並び、それよりも北に位置するこのマンションは、日中もあまり陽が当たらないのだろう。


「ええ、と。この部屋ですね。井上さん、あまりご近所の方と会話をすることもなくて、私も挨拶程度しかしないんです。というのも、数年前に旦那さんを交通事故で亡くしていまして、それからずっと、塞ぎ込んでいたんですよ」


(なるほど、皮肉なことだな……彼女が鈴石であったのなら、恐らくその旦那の事故、というのも作り話だろうが……自分も、まさかその交通事故で死ぬとは)


 そして、前田は合鍵を使い、鍵穴に差し込んだ。カチャリ、とドアの鍵が開く音が小さく響いた。


「では……あ、あれ?」


 前田は、ドアノブを回し、開けようとした。しかし、ドアは開かなかった。


「……鍵、開いてたのかな? 井上さーん、いらっしゃるんですかー?」


 彼はそう言うと、インターホンを鳴らし、中にいるであろう井上に声を掛けた。鍵が開いていた、ということは、場合によっては中に人がいる可能性が高い。そうだとすれば、一体誰がいるというのか。


(もしかして、村田先輩、場所を間違えたんじゃ……?)


 井上という女性が、もし被害女性とは別人であった場合……この部屋の鍵が開いているということは、彼女が中にいる可能性がある。そうなった場合、鈴石の住居を改めて探さなければならないのだ。


「……」


 しかし、しばらく待っていても、井上は姿を見せない。それどころか、物音ひとつ聞こえてこない。その様子に疑問を抱いた前田は、再度声を掛けた。


「井上さーん、入りますからねー」


 そう言って彼は、再度鍵を回し、ドアを少しだけ開けた。中原と彼の鼻腔に、部屋の空気が入っていく。


(……おかしい、新築のような、全く生活感のない匂いだ……)


 事前に彼女が調べた情報では、このマンションは築20年で、その間、リフォーム等は施していない。外壁塗装の工事くらいは行った、という話を受けているが、部屋から新築のような匂いがする、というのはどうにも考えにくかった。


 思わず、前田と目を合わせた中原。


「……入りましょう、恐らく、誰もいないのだと思います」

「……え、そうですか……? では、どうぞ……」


 そう言って、彼はドアを大きく開けた。それと同時に、中原は部屋へと踏み込んでいった。


 リビングスペースまで入っていった彼女は、その異質さに気が付いた。特に装飾もないリビング……テーブルと、イスが三脚。あとは特に何もない。テレビや、本棚といったものすら見られなかった。数年前まで、夫と二人で暮らしていたとは到底思えないものであった。


「あ、あれ……こんなに綺麗にしてるんですね……」


 前田も驚くくらいに、部屋には何もなかった。埃臭さもない、ショールームのような光景に、ただただ呆然としていた。


 しかし、中原はテーブル上に置かれた小瓶に気付いた。それは、今までの現場でたびたび目撃されてきた、栄養ドリンクの空き瓶だった。



(あ、あれは……!)



 そう、エンドルパワーの空き瓶だ。不自然に、その空き瓶だけがテーブル上に置かれている。

 恐る恐る、手袋をはめめた彼女は、空き瓶を眺めた。底に、ほんの少しだけ薬液が残った状態……ほぼ全て飲み切られていた。


「……前田さん、すみませんが、少しだけ外してもらっても?」


 中原は、ここの住人が明らかに被害者であると確信し、現場を荒らさないようにするため、前田に退去を促した。


「え、あ、はい。……管理人室におりますので、終わりましたらお声かけ下さい」


 そう言って、そそくさと退散する前田。話への理解が早いというよりは、不気味な光景と、そして警察官と一緒にいる、という空気に耐えかねていたようだった。


(……さて、と。ここまで何も無いとなると……その井上という女性が、どういった人物だったのか……)


 殺風景な部屋の中を、改めて目を通していく中原。


(テーブル上は、空き瓶が一つ。エンドルパワーの空き瓶だ。そして、小さいタンスが一棹ひとさお。中身は……から……から……うん?)


 中原は、そのタンスの下段を開ける際、その重さに違和感を感じた。上段、中段では感じなかった重み……しかも、かなり重い。衣服などが詰まっている可能性はあるが、ここまで殺風景な部屋で、タンスの一つの引き出しに、衣服を詰め込む意味が分からない。


(……思い切って開けるか……せぇのっ!)


 勢いよくタンスを引き出す。すると、ゴロン、という音と共に、大き目な瓶が数個出てきた。エンドルパワーではない、何かのサプリメントのようだ。


(? これは……これで栄養を補給していた、とかかな……)


 中原はそう思い、開封済みである一つの瓶を摘まみ上げた。ずっしりとした重量感のある瓶に、黄色く大きいカプセルがたくさん入っている。飲み込むにはなかなか大きなカプセルだ、そう思い、その内の一つを取り出そうとした。

すると――――


「うわっ!!」


 その出来事に、思わず彼女は小さく声を上げ、瓶を床に落としそうになった。慌てて瓶を掴み直した彼女だったが、代わりに、ポトリと黒い物体が床に落ちた。


(な、何で中に蟻が……!?)


 瓶の中から、死んだ蟻が出てきたのだ。


それは、そこまで大きくない、公園などでよく見る、普通の蟻だった。しかし、たとえ死骸とはいえ、密閉された瓶の中から出てくることはありえない。そう、普通はあり得ないのだ。


 そこで、中原の脳内に、ある画像が浮かんできた。それは、今調べている井上の、遺体の画像だ。あの遺体の、腹部にいたのは……。


(ま、まさか……)


 彼女は、大きく唾を飲み込んだ。ゴクリ、という音が、静寂な部屋に響き渡る。そして、彼女はゆっくりと、カプセルを一つ取り出し、窓から差し込む夕日にかざしてみた。

 そこで、彼女は気づいた。


(……そういう、ことか……)


 カプセルを夕日に透かし、見えたもの。それは、黒い物体だった。そして、驚くべきことに、その黒い物体は、カプセルの中でうごめいていた。


 思わず嘔吐おうとしそうになった中原だったが、急いでカプセルを瓶の中に放り込み、蓋を強く締めた。強く締めすぎて、手が痛くなるくらいだったが、それでも彼女は、強く、強く締め続けた。

 そうでもしていないと、吐き気に負けてしまいそうだったのだ。



 しばらくの静寂、少し離れた大通りから、大型トラックの走行音が小さく聞こえた。少し放心状態になっていた中原は、いつの間にか夕日が落ち、部屋がすっかり暗くなっているということに気付いた。


(あ、し、しまった……何をぼうっとしているんだ、私!)


 そう思い、中原は自分の頬を軽く叩く。先ほど強く瓶の蓋を締めた右手が、少しだけ疼いた。

 気を取り直し、再度部屋を捜索する中原。暗くなっていたため、一度電気をける。


 パチッ


 リビング内に光が広がっていくが、改めて見ても、何か証拠になりそうなものと言えば、エンドルパワーの空き瓶と、先ほどの大きな瓶……。


(証拠、隠滅済みだった、なんてことはないよね、まさか……)


 嫌な予感が、彼女を襲った。すでに、井上と名乗る女性の住居からすべての遺留物が撤収されていたとすれば、この光景にも説明がつく。……二種類の瓶を除いて。


 彼女は諦めかけ、その場を去ろうとした。しかし、タンスの上……よく見ると、タンスと同化していた、小さな板があった。形状的には、写真立てのようだった。


(こ、こんなところに……まさか、同化していたから気づかなかった、ということ?)


 中原は、静かにタンスに近づき、そしてその写真立てをかえした。


 そこには、四人の写真……恐らく家族で撮ったと思われる写真があった。そして、そこには……。


(あ、これは!)


 そう、鈴石だとして捜査してきた例の女性が仲睦なかむつまじく、二人の男性と、一人の女性と共に写っていた。

 隣に写っている男性は、この鈴石として捜査していた女性と同じくらいの年齢……恐らく、交通事故で亡くなったという夫だろう。そして、残りの男女……そのうちの一人、男性の顔に、中原は見覚えがあった。


 それは決して忘れない、何度か家に遊びに来ていた、そして、兄と同じアルバイトをしていた、あの男性……。


「い、井上……翔也さん……」


 井上 翔也。岬 千弦が兄のように慕っていた、帝都大学での事件で、中原の兄と共に亡くなった、あの男性だった。


「ま、まさか、井上 由貴子って……」


 そう、今まで鈴石 初穂として追ってきた、この写真の女性は、井上 由貴子。井上 翔也の実の母親だった。









 同日、同刻。中原宅には、俺と、胡桃の二人がそのまま残されていた。

 テレビもなく、何かすることもない俺たちは、ただひたすらにスマホを見たり、ホワイトボードを眺めるしかなかった。


「……というか、ここに泊まるのかな、俺たちは……」


 時間だけが過ぎていく中、俺は一先ひとまず冷静に考えてみた。警察官の社宅……公務員とはいえ、決して広くない部屋に、年頃の男女が三人……どう考えても、不健全だった。

 もちろん、俺は二人のどちらかに手を出す予定はないし、むしろ手を出そうものなら、そのまま外に放り出されるだろう。今、そんな意味のないことをする必要はない。


「いっそ、岬ちゃんとかみんな呼ぼうかな?」

「おい、それは調子に乗りすぎだろ」


 あはは、と胡桃は軽く笑った。


 一応、胡桃も記者に追われている身だ、あの記者が胡桃の自宅前で張っている可能性は充分にあった。俺よりも、むしろ胡桃の方がここに泊まるべきだろう。もしくは、中原か、もっと強そうな警察官を引き連れて、彼女の自宅まで送ってもらうか。


「……とはいえ、テレビもラジオもないし、俺のスマホはもう充電が危うい。事件のことを考えていれば、そりゃ時間は過ぎるけど……」

「普通の人は、あんまり気は進まないよね……私も最初はそうだったから……」


 中原がこの部屋を出た当初は、事件のことを少し議論した時もあった。しかし、情報が得られない状況で、今分かっている情報だけで議論をしても、何も思い浮かばないし、むしろ悪い方へどんどん進んでしまう。自分で精神的に追い込んでしまうのは、どう考えてもアホくさい。


「せめてテレビがあればなぁ……もしくは充電器、か……」


 そんな、呑気な会話をしていた時だった。


 ピンポン


 古めかしい呼び鈴が鳴った。……恐らく、この部屋に誰かが訪れてきたのだ。


「……え、嘘だろ?」


 俺は慌てて、ドアの方向を向いた。そこで、俺は致命的なミスに気が付いた。


 玄関の鍵をかけていなかった。


 確か、中原の指示では居留守を使え、ということだったが、相手が警察関係者であれば、それは通じる。女性の部屋に無断で入ってくるような同僚がいたとすれば、それはすぐさま上司などに報告され、訓戒くんかいなどの処分へと繋がるだろう。例えそれが同性だったとしても、無断で入ることは許されない。


 しかし、警察関係者ではなかった場合。特に、今回の事件の犯人が、まだ俺を追っていた場合だ。この状況は、明らかにマズい。どういった装備で襲ってくるのか見当もつかない上に、こちらは全くの丸腰だ。いて言えば、ホワイトボードで入り口を塞げないこともないが、意味はないだろう。最悪、窓から飛び降りるしかなくなってしまう。


「……」


 先ほどまでの空気が一変し、全神経が、物音を立てないよう過敏になる。息を殺し、飛び出そうになる心臓を、必死に抑え込んだ。



 ピンポン ピンポン



 また呼び鈴が鳴る。しかも二回だ。

 ……そこで俺は、少しだけ冷静になった。何故、呼び鈴を二回も鳴らしたのか。答えは明白だ。


 俺たちがここにいることを知っている人物が、ここに来たのだ。そして、この場合だが……恐らく、訪れてきた相手は……


 俺はおもむろに立ち上がり、息を殺したまま、異形を見るかのような目で俺を見つめる胡桃の横を通り、玄関へと向かった。

 ドアスコープなど、見る意味はない。何故なら、もう相手には見当が付いていたからだ。


 そして俺は、ガチャ、とドアを開け、そこにいる人物に声を掛けた。


「……中原さんなら、まだ戻ってきていませんよ、村田さん」

「おお!?」


 突然開いたドアに驚いたのか、村田は携帯電話を落としそうになっていた。ちらりと携帯電話の画面が見えた。……彼は、俺に電話を掛けようとしていたようだ。


「まったく、ちょっと声を掛けてくれればそれで済んだでしょうに。心臓に悪いですよ」

「あ、ああいや、すまんな。中原は……まだ、だな?」


 村田は、俺の隙間から部屋をのぞき込んでいた。はたから見れば、ただ趣味の悪い行為。ただ、これまでの経緯を考えれば、彼女の身を案じている、そういう風に捉えることもできる。

 ……こんな風に彼のことを考えたことは無かったが、器用でいて、そして不器用なんだ。


「ええ、見ての通り。……ああ、可能であれば、胡桃を自宅に送ってあげたいのですが、村田さんに頼んでもいいんでしょうか?」

「ああ?」


 村田を足にするという行為は、あまり褒められたものではない……とはいえ、胡桃をこのまま、ここに置いておくというのも、何かそれは違う。それに、彼女は彼女の仕事も抱えているはずだ。


「……そうか、安藤の妹もここにいる、か……ついでだ、少し話、いいか?」


 そう言って、俺の許可など得ることも無く、村田は部屋へと上がり込んだ。中原が見たら、心底嫌がりそうな光景ではある。しかし、彼の表情……何か、重要なことを言いに来た、そんな様相を呈していた。





「へぇ……何でこんなもん、家に入れてるんだアイツ」


 部屋に上がり込んだ村田は、開口一番にそれを尋ねてきた。無理もない、俺も、そしてそこにいる胡桃も、同じように思っていたのだから。


「これ、会議室にでもあったもの、でしょうか。勝手に持ってきたんですかね」

「いや、会議室のものなら、備品だっていう表示がどこかにあるはずだ。それがねぇってことは、自分で入れたんだろうよ」


 こんな大きなホワイトボードを、自費で購入し、密かに部屋に持ち込んだということか。まったくあり得ない話ではないが、そこまで事件を真面目に追っている人物だとは、さすがに知らなかった。人を見た目だけで評価してはいけない、確かにその言葉通りだ。


「……別に、ノートか何かでも良かったのでは、とも思いますが……」

「それは否定しねぇが」


 そう言って、村田は小さく笑った。


「ところで、ここまで村田さんが来たということは、何か中原さんに伝えたいことがあったんですよね。何故、電話しなかったんです?」


 俺は、椅子に腰かける村田に質問した。わざわざ向き合って話さなければいけないような話であれば、むしろ俺たちは邪魔だろう。それとも、通話記録などに残らない方法を取りたかった、という意味だろうか。


「……そうさなぁ、簡単に言うと、だな」


 無意識に彼の右手は、灰皿を探していたようだが、生憎とここは会議室でも自室でもない、中原の私室だ。俺は、ここは禁煙です、と目で示した。


「ああ、そうだった、な。考えごとにはちょうどいいんだが……まぁいい」


 村田は、口に咥えたタバコをしまい、ふぅ、と一息いてから言った。それは、まるで予想もしなかった言葉だった。



「俺は、殺されるだろうな」

「……え?」


 村田は、顔色一つ変えず、静かに言った。殺される、と。俺ではなく、そして中原でもなく、村田自身が。


「そ、それはどういう……?」


 言葉の意図が分からず、狼狽うろたえる胡桃。そうだ、彼の言っている意味、それが全く分からない。


「今すぐ、ってことじゃねぇだろう。でもな、色々と考えてみたんだよ……」


 そう言って彼は、薄汚れた天井を見上げた。


「今回、中原に行ってもらった鈴石の家、あそこは、井上 由貴子という女性の居宅だったところだ。その女は、井上 翔也……知ってるだろ、あの帝都大学での事件の被害者。あれの母親だよ」


 井上 翔也の母親……その人が暮らしていた家に、鈴石が住んでいた? 言っている意味が分からない。


「え、と、それは……その井上と鈴石が同居していた、という訳じゃないですよね……?」

「ったりめぇだ、バカかお前。鈴石は、井上だったんだよ」


 鈴石は、やはり別の人間だった。しかも、井上……例の組織の実験により犠牲になった、井上 翔也の母親だった。


「そ、そんなこと一体どうやって……」

「……俺も、半信半疑だったよ。マンションの管理人に名前を聞いたときに、まさかな、と思った。でもな、少し前に中原から電話があったんだ。井上の写真を、その家から見つけた、とな。そこまで見つかってんなら、話は早い。あの事故で死んだ女は、井上だ」


 あの、ロングコートの女は、鈴石ではなく井上。しかも、岬の慕っていた男性の母親。その上、その男性は例の組織によって殺された。これは、偶然だろうか?


「見間違え、ではないんですよね……」

「刑事二人が見間違えると思うか? 俺はともかく、中原はお前らより若いし、記憶力もいい。そんなアイツが、見間違えると?」


 ……100%ではないが、見間違え、ということではない。村田の言葉からは、そういう意図が感じ取れた。しかし、だ。あの女性が井上であれば、なおさらおかしいことがある。


「……それでは、何故、俺が狙われたんですか……俺は、井上なんて知りません。息子の方も、母親の方も。むしろ、岬や宮尾の方が知っているでしょう。それなのに、何で俺が狙われたんですか……?」

「……それは、私も聞きたいことです。村田先輩」


 不意に、玄関の方から声が聞こえた。振り向いた先には、肩で息をしながらも、こちらを睨んでいる中原の姿があった。


「おお、中原。どうだ、やはり井上だっただろう?」


 村田は、彼女が家に着くころを見計らって、ここに来たようだ。彼女が急に現れても、眉一つ動かさなかった。

 中原は、はぁ、と一息き、つかつかと村田に詰め寄っていく。


「知っていたのなら、先に言ってください。米村先輩もそうですが、性格が悪いですよ」


 そうか、中原は井上 翔也を知っているのだ。それも含めて、あえて彼女に行かせたかったのかもしれないが……確かに、知っていたのなら教えておくべきだ。彼女は、彼が犠牲となった事件で兄を亡くしている。PTSDになるくらいに、その事件は彼女にとって重要なものだった。


「先入観を持たせない方がいい、そう思ってな。先に言っていたら、何かお前、手袋とか一切忘れて、現場に踏み込んでいきそうだからな」

「……それは……」


 なるほど、それも見越した上で黙っていた、ということらしい。無神経なように思えて、実は先々まで見通している。そういう人なのだろう、この村田と言う男は。


「……もういいです、それについては。それで、その報告をしようと署に向かったんですが……まさか、先輩がこっちに来るとは思っていませんでした。それで」


 また一つ、小さく息を吐いた中原は、強い口調で言った。


「なぜ、先輩は殺される、と……そう思うのか。じっくり聞かせてください」

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