第18章 終わりなんて、見えてしまったらつまらないでしょう。

 9月3日、俺の軟禁生活も三日目に突入していた。今日の訪問者は、宮尾と胡桃だ。岬は、少し用事があると言っていた。その用事が終わるのは16時頃、ということだったので、こちらから、無理して来なくていいと伝えていた。


 10時過ぎ……こんな午前中から来ることも無いのだが、大家はこの二人と会話することを楽しみにしていたし、宮尾は、高校時代なんか、いつもそのくらいの時間は学校で一緒にいたじゃん、と言って笑った。胡桃は、どうやら大家のことが気に入ったようで、本当にコロッケの作り方を教わろうとしていた。


「でもね、まずは野菜炒めとか、そう言ったものから始めていく方がいいの。揚げ物は特に、手慣れた人でも失敗しやすいからね」


 大家の必死の説得にも、胡桃は大丈夫ですよ、と笑顔で返している。俺としては内心、ハンバーグすらまだまともに一人で作れないのだから、止めておいた方が良い、そう思っていたが、あの彼女の笑顔を見てしまうと……正直、ここまで大家が食い下がれている方が、すごいと思った。それくらいに、芸能人の、特にアイドルの笑顔というのは、大きな武器だ。


「うーん、私でも揚げ物はなかなか手を出せないんだよね……胡桃ちゃん、けっこう厳しいと思うんだけどなぁ」


 彼女たちのやり取りを、不安げな様子で見つめる宮尾。小さいころから料理を作っていた宮尾でも、そう言うのだ、やはり無謀なのだ。


「そうなのかなぁ……? そういえば藤花ちゃん、弟さんがいるなら、から揚げとか、そういうの作るんじゃないの?」

「うーん、そういうの、出来合いのものを買っちゃうからなぁ。油の処理も面倒だし、やっぱりまずは普通の料理から始めた方が良いと思うんだ。こんなことで火事になったりしたら、それこそハルが大変になっちゃう」


 少し言い過ぎな部分もあるが、宮尾の意見は全く正しかった。少々不満げではあったが、胡桃はその意見を受け入れたようで、大人しく椅子に座った。


「うん、もうちょっと違う料理を覚えてきたら、いつか作り方を教えるからね」


 胡桃を優しくフォローする大家。この光景だけ切り取ったら、まるで祖母と孫のようだった。実際はまだ出会って間もないのだが、大家の包容力と、胡桃の芸能人としての経験が、こういった情景を生み出すのだろうな、そんなことを考えていた。


 ちなみに、昨日の件……森谷や村田と話した件、そして米村の推測については、すでにグループチャットで全員に伝えていた。もちろん、例の組織のことは伏せておいたのだが、それがあだとなり、鈴石の亡霊ぼうれいが毒物をまき散らしている、という、変な憶測を呼んでしまっていた。なので今日、大家が席を外したころを見計らって、改めて説明するつもりだったのだ。


「ハルは料理しないの?」


 急にこっちに話題を振ってきた宮尾。何のことか分からず、思わず聞き返してしまった。


「え、ごめん、何の話?」

「もー、ぼうっとし過ぎ! 狙われてるハルがそんなんじゃ、守ってる方も大変なんだよ? 料理の話。ハルも、この前言ってたでしょ、両親はもういないって。だったら、食事とかはどうしてたのかなって」


 宮尾に怒られてしまった。確かに、守られる側の俺が呆けていたら危ないな。気を引き締めよう。

 しかし、料理、か。正直な話、俺はロクに料理なんかしたことがなかった。両親の事件の後、俺はすぐに引き取られたし、一人暮らしなんて大学生になってから始めたんだ。料理をする機会そのものがなかった。


「おにぎり、くらいかな……」


 そう言った俺に、宮尾が笑って反論しようとした時だった。管理人室の固定電話に着信が入ったのだ。



 プルルルルル……



「あら、何かしらこんな早くに」


 パタパタ、と電話機に駆け寄る大家。料理の話が、一瞬にして、何の電話だろうか、という興味に傾いた。そんなとき、ふと胡桃が宮尾に尋ねた。


「……ねぇ、藤花ちゃん、あなたのお父さんって、どういう病気なの?」

「どういうって?」


 キョトンとする宮尾。胡桃は、そんな様子の宮尾に対し、静かに言った。


「あの病院、東京総合国際病院は大病院でしょ? そこにずっと通院しているんだから、それなりに難しい病気なのかなって思って。言いにくいことかもしれないんだけど、ちょっと気になって」

「……」


 少しの間、無言になった俺たち。大家の電話する声だけが、部屋に響く。すると、口を閉ざしていた宮尾は、おもむろに話し出した。


「……精神的な病気、とだけ。私は、そうとしか聞いていない。お父さんは、話ができる状態じゃないし、お医者さんの話も難しくて分からないから……」


 暗い顔になる宮尾。それを見て、俺は少し胡桃に腹が立った。親のこと、とくに病気をしていることなんて、本当は知られたくないことだった。それを、事細かに聞いてくるのは、無神経にもほどがあると思ったのだ。


「胡桃、もういいだろ。これ以上、病気のことを聞くようなら、俺は君をここから追い出す。ちょっと頭を冷やしてくれないか」


 俺は静かに、しかし冷たく彼女に言い放った。少しビクッとした様子の胡桃だったが、俺の顔をじっと見つめた。


「な、なんだよ。無神経なのは……」

「ごめんね、私、これでも一応探偵だから。気になったことは聞いておきたかった。それだけ。傷つける意図も無かったし、無神経な質問だって言うことは自覚している。でも……」


 胡桃がそこまで言ったとき、ちょうど大家の電話が終わったようだった。受話器を置き、こちらに歩いてくる大家。


「ちょっとちょっと、大変……って、どうしたのかしら、暗い顔して」


 大家は、三人の様子が先ほどと打って変わって、険悪になっていることに気が付いたようだ。大家に心配はかけまいと、俺たちは無理に笑顔を作った。


「い、いえ! ちょっとテレビで怖い話をやっていたもので……そ、それで、何か大変なことでもあったんですか?」


 俺は嘘をくことが苦手だったので、恐らく普通の精神状態の大家なら、今の発言が大嘘だということに、すぐに気づいただろう。しかし、大家はそれに気づかずにいる。


「そうなの、これから米村さんがここに来るんだけど、その……」


 珍しく歯切れの悪い物言いの大家。その様子に、俺たちはお互いに顔を見合わせた。


「えっと、落ち着いて話してください。一体、どういう内容の話だったんですか?」


 そう言って俺は立ち上がり、大家の肩に手を置いた。ふぅ、と息を吐く大家は、少し落ち着きを取り戻したようだった。そして彼女は、少し微笑ほほえんだ様子で言った。


「高島くんを襲った犯人、見つかったらしいのよ」









 同日、6時。連絡を受けた米村は、その情報に愕然がくぜんとした。鈴石の運転免許証を所持した女性が、礫死体れきしたいとなって発見された。しかも、いた犯人は自ら通報しており、ちゃんと聴取を受けているのだという。


「間違いではないのか?」


 情報を持ってきた後輩に、改めて確認する。


「はい、渋谷警察署からの情報ですと、報告した通りです。画像データ等も、こちらに」


 後輩の警察官は、米村にUSBを手渡した。急いで確認する米村。


「これが遺体のあった現場……霊園か、なるほど……うっ!?」


 現場の画像の次、遺体の画像が鮮明に映し出された。粉砕され、脳が飛び出ている頭部。腹部は抉られ、腸管が出ている。一部は腸管すらも破れており、虫がたかっている。そして、どす黒い赤に染められたロングコートに、長髪。


「な、なるほどな……これじゃ、まるで誰だか分からない、か」

「すみません、私、少し席を外してもよいでしょうか」


 そう言うと、真っ青な顔をした後輩は、足早に部屋から出ていった。あの様子では、恐らく向かう先は……。


「ま、無理もないだろう。……しかし派手に死んでくれたもんだな、監視カメラ……は無いだろうな、この場に及んで、そんな情報を残すことはないだろう。しかし、一応、確認しておくとするか」


 そう独り言を呟いた米村は、画像を閉じ、USBを取り外した。すると、部屋のドアを勢いよく開けた何者かが、こちらへ向かってくるのが分かった。


「……騒々しいな、もうちょっと静かに入ってこい」


 米村は、入ってきた女性、中原に向かって冷たく言った。しかし中原は、そんなことなど全く意に介していなかった。


「せ、先輩、鈴石の遺体が見つかったって、本当ですか!?」


 息を切らせつつ、彼女は米村に問いかけた。彼は彼女に連絡を入れていなかったが、恐らく先ほど席を外した後輩が、気を利かせて彼女にも連絡を入れたのだろう。ということは、恐らく……。


「声がデカい。……ということは、村田先輩もここへ来るんだろうな」


 はぁ、とため息をく米村。


「そうだ、彼女は、ええと……秋山という男の運転するトラックにかれた、そう聞いている。所持品は財布しかなかったそうだが、その中に運転免許証が入っていたそうだ。確実、とは言えないが……遺体の画像を見る限りは、恐らく彼女で間違いないだろう」


 冷静に情報を伝える米村。しかし、彼がそうだったように、中原もなかなかその事実を受け止められないようだった。


「し、信じられません。あれだけ探し回っていた鈴石が、そんな簡単に、それに事故死だなんて……」

「ん? 俺は事故死だなんて一言も言っていない。秋山が明確な意図をもって、彼女を殺した可能性だってある。そこは間違えるな」


 米村は、そう言うとポケットにしまい込んだUSBを取り出した。


「それは?」

「現場の画像と、遺体の画像だ。俺は、これを見ておおむね納得した。見たいか?」


 中原は、大きく頷いて米村からUSBを奪い取った。そして、手近なPCを使い、画像を確認していく。


「ははぁ、霊園ですか……うっ!?」


 彼女も、米村と同じ画像を見て、思わず口元を抑えた。やはり、そういう反応になるよな、そう言って、彼はおもむろに、彼女の着ていたロングコートを拡大した。


「もう血で染まっているが、以前見た映像のものと同一のコートだろう、そして……」

「あ、あの……先輩……」


 中原が、米村の話を遮った。彼女は、先ほど急に席を外して出ていった後輩と同じ顔色をしている。


「……どうした、君も品川しながわくんと同じく、席を外すか?」


 米村は、彼女の様子を見て、意地の悪そうに笑った。


「……最低ですね、ほんと」


 そう彼女は米村を睨み、口元を抑えつつ、USBを引き抜いて部屋を出ていった。


「お、おい! ……全く、USBごと持っていくやつがいるか」


 思わず、部屋を出て呼び止めようとした米村だったが、そんなことをして、ここで嘔吐おうとされてもそれはそれで問題だ。パワハラなどで訴えられても困る。ふぅ、と一息いた米村。


「あの様子じゃ、しばらくは戻らないだろうな。……仕方がない、渋谷署に行くとするか」


 そう呟き、米村は足早に部屋を去った。村田からは、彼女とペアを組んで行動しろ、そう言われていたが、事情が事情だ。あとで彼女から電話が着たら、居場所を教えてやるか。部屋を出た米村は、職員用トイレに駆け込む中原の様子を見て、小さく笑った。









 一方、女子トイレに入った中原は、まだ少し怒りが治まらない様子だった。あの米村の言い方……他の先輩警察官でさえ、吐き気を催すような画像であるなら、先にそういえばよかったのだ。彼女が青くなる様子を、鼻で笑ったのだ。


「……でもま、警察官としては、そんなことで一々吐いてられないのも事実、か」


 そう言って彼女は、ポケットにしまったUSBを取り出した。トイレに駆け込むのに必死で持ってきてしまったもの、ではない。彼女は、意図的にこれを持ち出したのだ。


「先輩、気づいてなかったのかもしれないですけど……私って、そんなに感受性豊かじゃありませんからね」


 そう、ボソッと呟いた中原は、少し時間を潰した後、ゆっくりとトイレを出た。予想では、恐らく彼は単独行動をとる。トイレに行って出てこなかった、という理由で。


「そっちがその気なら、私も存分に利用させていただきます。すみませんね、先輩」


 ニヤリと笑った彼女は、そのまま別の部屋へと入っていった。









 同日、11時10分。電話を受け、来客の準備を始めている大家と、急に聞かされた事実に、ただ驚き、戸惑う俺たち。犯人が見つかった、確かに大家はそう言った。捕まった、ではなく、見つかった……そう言ったのだ。


「どういうことなんだろう、見つかった、っていうことは、住所が分かったのかな……」


 その言葉の意味を考えている様子の胡桃。先ほどまでの険悪なムードは一転して、事件に対する議論へと移っていった。


「いや、住所が分かったって、わざわざ連絡しに来るものか? しかも米村さん本人がここに来るって言うんだから、そういうことじゃないと思うんだよ」

「だとしたら、逃げられちゃったのかなぁ? だから、もっと今まで以上に注意しろ、って言いに来る……とか」

「いや、それはあまりにも無責任な話だし、だったら電話なんかしないですぐに来るよね」


 そんなことを議論していると、大家は、パン、と手を打った。その音に、俺たちは小さく飛び上がった。


「はい、そこまで。無意味な議論をする時間があるなら、ちょっとは手伝ってちょうだいな」


 大家は、キッチンからお菓子を取り出し、皿に盛っていた。


「ああ、すみません。じゃあ私、お茶をれますね」


 宮尾は慌ててキッチンへ駆け寄った。胡桃と俺も、席を立ってテーブルや床の掃除を始めた。とは言っても、目に見えるような埃はないし、いつでも来客を迎え入れられるような環境であった。しかし、大家はそういうところに妥協はしないのだ。


 しばらくして、管理人室のインターホンが鳴った。大家が玄関へと駆けていく。


「すみません、急に押しかける形になってしまって」

「良いのよ。それに、大事な話なんでしょう?」


 玄関先で、米村の声が聞こえる。大家と他愛もない話をした後、彼は部屋に上がり込んだ。そして、大家はそのまま外へ出ていった。心配そうな大家の顔が、一瞬だけ目に映った。


「やあ、高島くん。ああ、それに宮尾さん、安藤さんも。申し訳なかったね、彼の安全を守るためとはいえ、朝早くからここに来てもらって。……内密な話になるから、申し訳ないが大家さんには一旦、席を外してもらった。なに、すぐに終わる話だ。心配しなくていい」

「いえ、それは別に構いませんけど……どういうことなんですか、見つかったって」


 宮尾は、俺が聞きたかったことを先に聞いた。黙ったまま、彼は椅子に腰を下ろし、俺の方をじっと見つめた。


「……今朝早く、青山霊園のすぐ傍。外苑西通りで、トラックと歩行者の衝突事故があった」

「……は?」


 俺は間の抜けた声を出してしまった。衝突事故? それが一体何だって言うんだ?


「まぁ聞いてくれ、トラックの運転手は、特に居眠りや飲酒もしていなかった。普通に車道を走行し、そして歩行者をいたんだ」


 何を言い出すのかと思えば……その言い方だと、歩行者側の不注意でかれた、単なる事故だ。それに早朝、ということは、被害者は徘徊はいかいしていた老人の可能性もある。これは、いたトラックの運転手には申し訳ないが、不運だったとしか言いようがない。


「それで、それがこの件と何か関係があるんですか? ……もしかして、その被害者って……」


 事件の犯人が見つかった、そう言った意味……まさか、捕まらないところに居る、という意味だったのか。そうだとすれば、トラックにかれた人っていうのは、つまり……。


「そうだ、そのかれた歩行者……所持品はほとんど無く、財布が一つだけだったそうだ。そして、その財布から、これが出てきた」


 そう言って、彼は一枚の写真を見せた。古い運転免許証……更新期限はとっくに切れているが、証明写真には彼女の姿がバッチリと写っていた。そして、その氏名は。


「鈴石……初穂……」

「そうだ、彼女はトラックにかれて死んだ。その上、彼女はロングコートを着ていた。例の監視カメラで観た、あのロングコートと、おおむね同じものだと、俺は確認している」


 鈴石が、トラックにかれて、死んだ? まさか、そんなことって。


「申し訳ないが、遺体の画像は損傷が激しいため見せられない。あれを一般人が見たら、少なくとも今日一日、何も喉を通らないだろうね」


 少し気の毒そうな顔をした米村。その言い方で、どれだけ悲惨な死に方だったかが想像できた。恐らく、原形を留めないほどに。


「それは……本当に、彼女なんでしょうか。免許証とロングコート……確かに状況を考えると、鈴石である可能性は高いと思うんですが、あまりにも急な話過ぎて……」


 理解が追い付かない俺。あれだけ、何日も俺を苦しめた犯人が、そんなあっさりと、しかも交通事故だって? にわかには信じられなかった。


「……これは俺の推測だが……君に殴られた後、彼女は足と肩を負傷していたね? あの監視カメラの映像を観ても、それは一目瞭然だった」


 そう、彼女を最後に観た映像……このアパート付近のパン屋の監視カメラに映っていた彼女は、足を引きずり、肩を抑えていた。


「その痕跡が、彼女にもあった。右肩には大きなあざ、右足には骨折痕があった。これは本当に偶然だと思うか?」


 その情報に、俺は愕然がくぜんとした。それは、まさに彼女がその被害者であると同時に、死んでしまったことを意味するのだ。途端に、唐突な幕切れに対する戸惑いと、心地よい安堵感で頭がいっぱいになった。


「じゃ、じゃあ、この事件はもう……」


 宮尾は、目をぱちくりさせながら、米村に言った。そして、米村ははっきりと、ある言葉を口にした。その言葉は、ここのところずっと待ち望んでいた言葉だった。


「ああ、恐らくだが……もう終わった。君はもう、彼女の影に怯えなくて良い」


 終わった。彼はそう言った。あの忌々いまいましい女性の死によって、この事件は終焉しゅうえんを迎えた。俺の顔には、自然と笑みがこぼれた。


「そう、だとすれば」


 すっかり緊張感のなくなった部屋の中、一人だけ、まだ険しい表情をした胡桃は、米村に話し始めた。


「警察は、これをどう発表するんです? マスコミだってバカじゃない。犯人の名前が公表されれば、彼女がどういった人間で、どうして今回の事件を起こしたのか、追及してくると思います。まさか、公表せずに隠す、そういうつもりなんでしょうか……?」


 その発言に、米村は苦い顔をしている。


「……本当、察しの良い人間っていうのは、説明が省けて良い。そう、俺がわざわざ、こうやって君たちがいることを知って来ている。その意味は、この事件を口外させないためだ」


 そうか、この事件……すでに四人も死んでいて、さらに今回、加害者である鈴石が死んだ、こんな事件を、口外させないように、彼はここに来たというのか。恐らくは、例の組織……あれが絡んでいるのだろう。そうとは知らない胡桃の表情が、さらに険しいものへと変わっていく。


「そう怖い顔をしないでくれ。俺も、ここで事件は終わり、もう忘れろ、なんて上から言われている。もう、俺一人の力ではどうにもならないんだよ」

「忘れろって、そんなこと言われても……」


 宮尾は、突然の彼の申し出に困惑している。当たり前のことだ、自分から事件に首を突っ込んだ、という事実はあるが、彼女もそれなりに怖い経験をした。それを、急に忘れろだなんて、あまりにも身勝手に思えたのだ。


「殺されそうになった俺も、みんな同じように、そういうことでしょうか。それは……」

「理解してくれなくていい。俺も、こんなことを言いたくてここに来ている訳ではない。悔しい気持ちは分かる、しかし……」

「分かる……?」


 胡桃が震える声で言った。


「お姉ちゃんは……私の姉は、不可解な事件に巻き込まれて、理由が不明なまま死んだ、そういう風に世間では理解されることになります……その気持ちが、貴方は分かるっていうの? ……ふざけないで……私は、まだ事件を……」


 胡桃の言葉の端々から、彼女の姉への想いが、ひしひしと伝わってきた。このまま、事件を闇にほうむるのは、警察からすれば簡単かもしれない。しかし、ほうむられた側の人間は……。


「申し訳ない」


 米村は、そう言って立ち上がり、深く頭を下げた。彼のその姿を見て、肩を震わせる胡桃。すると、自分の感情を抑えきれなくなった宮尾が、そっと彼女を抱きしめた。悔しさと悲しさでいっぱいになった胡桃は、そのまませきを切ったように泣き出した。

 壊れてしまったかのように、大声で泣き出す胡桃……俺は思わず、非情な発言をした米村を睨んだ。しかし、頭を下げたままの彼の表情は、俺たちの何倍も、苦しそうで、悔しそうに見えた。


「……これも、俺たちが負う責任でもあるんだ。こうして、やり場のない悲しみ、怒りなんかを、警察は受け止めるしかない。俺たちは、そういう仕事をしているんだから」


 いつまでも泣き止まない胡桃、深く頭を下げたまま動かない米村。そんな様子を見て、俺と宮尾もポロポロと涙を零した。


事件は、こんなにもあっけなく終わった。しかし、とてもやり切れないままに、俺たちの心に棘を残したまま。









 同日、同時刻の代々木警察署。中原と村田は、とある画像を見てうなっていた。はたから見れば、単純なグロテスクな画像。腹部から飛び出た腸管、途中で裂け、虫がたかっている。

 トントン、と机を指で叩きながら、村田は中原に再度確認した。


「……要するに、お前はこの傷自体がおかしい、そう言いてぇんだよな」


 その傷……鈴石 初穂の、腹部の傷。頭部は粉砕され、傷どころかタイヤ痕すら残っていない。しかし腹部には、綺麗に抉られたような傷が残っていたのだ。タイヤ痕どころか、擦過傷さっかしょうすらない。明らかにおかしかった。


「そうです、トラックと歩行者による交通事故……頭部が粉砕され、脳が飛び出る、そういうことはあり得ないことじゃありません。実際、そういった例は過去にもありました。しかし、これだけ綺麗に腹部を抉るなんて、トラックのタイヤではこんな芸当はまずあり得ないでしょう」

「それはそうなんだが、秋山の証言では、彼女はトラックが横を通るまでは立っていたって話だ。こんな傷を抱えたまま、路上に立っていることなんて……」


 村田は、そこまで言いかけて、ふと気づいたことがあった。今までの事件、どういった関連性があった? どうして被害者は、あんな風に殺されても抵抗しなかった? 答えは、そうだ、森谷が言っていた……あの物質……。


「そうか、まさかこいつ……」


 ハッとして振り返る村田。中原は、小さく頷いた。


「そうです、例の『エンドラーゼ』の副産物……あれを投与することにより、ある程度の疼痛とうつうは感じなくなっていたと考えられます。であれば、あの程度の腹部の傷であれば、もしくは」


 そう、TOX - A……あれは、脳の疼痛とうつうを感じる部位の細胞をアポトーシス……死滅させる働きがあった。あれがもし、彼女に投与されていたとすれば……。


「そんで、トラックのライトを見たら飛び出すように暗示をかけ、放置した、と。なるほど、考えられなくねぇな。……悪くねぇ」


 村田は、大きく頷きながら彼女に言った。


「それを、米村には言ってねぇんだよな?」

「ええ……でも、それは昨日、村田先輩ご自身が指示されたことです。私は、米村先輩に黙っていることが正しいと思えないんですが……どういう意図があるんですか?」


 中原は、昨日あのアパートで、村田が帰る直前にした、あの指示……『米村に話す前に、俺に話せ』……それについて、未だに疑問に思っていた。それは当たり前のことだ、先輩の捜査を妨害することにも繋がりかねないことなのだから。その質問に、村田はまた険しい顔になった。


「……それは、まだ言えねぇ。余計なことは気にすんな、今はとりあえず、目の前のことをやるしかねぇからな」


 そう言うと、また彼は遺体の画像に視線を移した。


「しかしなぁ……不自然、っちゃあ、不自然なんだよな……」

「え?」


 突然の村田の呟きに、中原が反応した。不自然、彼は確かにはっきりと言った。しかし、一体何が不自然だというのだろうか。


「えっと、不自然、とは?」

「腹を、あらかじめ切っておく、それは良いんだが……出血するだろ? なのに歩道には血液はほとんど付着してねぇ。これはどういう理屈だ?」


 そう言われれば、確かに腹部を切っておいて、トラックが通るまで放置しようとしても、痛みは抑えられても、出血は止めようがない。彼女が立っていた歩道の辺りには、血溜まりは無かった。ロングコートがある程度、血液を吸収していたとしても、持って10分もないだろう。あの抉れ方だ、それなりに血管を傷つけているはずだ。


「……素直に考えれば、彼女を殺した犯人がいたと仮定した場合、恐らく、トラックが通る直前まで、一緒にいた、と考えるべきかと」


 そう、直前まで一緒にいて、トラックが通る前に腹を裂けば、出血の問題は回避できる。しかし、なかなかリスクの高い選択だ。早朝とはいえ、人通りが全くない道路ではない。人の目を盗んでやるには、どうしても難しい。それに……だ。


「あと、一番不自然なのは、これだよ」


 村田は腸を指さした。……いや、腸ではない、それに群がる虫……蟻を指さしていた。


「蟻、ですか……別に、死体に集ることは普通なのでは?」

「無ぇよ。アメリカにいるグンタイアリってのが、人も襲うってのでニュースになったりするがよ、日本に居て、死体に蟻が集るなんてまず無ぇ。そもそも、蟻がたかる前に警察が来るだろうが。アイツらの移動速度、知ってんだろ?」


 そう、彼女がかれて、運転手の秋山はすぐに警察へ連絡を入れている。そして、警察官が到着するのに10分程度しか時間はなかったはずだ。それなのに、これだけの量の蟻がたかっているのは、どう考えても意図的なものを感じる。


「こいつは……何かあるんだろう。調べられるか?」

「もちろんです」


 村田は、中原に確認した。中原は、拒否権など無いとでも言わんばかりに、即答した。


「それで、この件については……米村は抜きだ。お前一人で捜査しろ。報告はおこたらないように」


 そう言って、また村田は別の画像をチェックし始めた。有無を言わさないその表情に、思わず唾を飲んだ中原。そして彼女は、静かに部屋を去った。


「まずは、腸の内容物、かな……うう、虫は苦手なんだけどなぁ……仕方がない、やるだけやるぞ!」


 身震いしながらも、中原は自分に活を入れた。時刻は既に14時、昼食を取り損ねた彼女だったが、今はそれよりも事件に集中していた。

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