第16章 妄想は人の心に宿る猛毒

 9月2日、10時40分。管理人室での生活に少し慣れてきた俺は、大家の手伝いをしていた。彼女は、月に一回程度、大掃除並みに部屋を片付ける習慣があるそうで、今日がちょうどその日だったのだ。


「やっぱり、若い人の手があると楽よね。……ああ、そこはもうやったから良いわよ、これで、そうね……おしまいかしらね。お疲れ様」


 管理人室とはいえ、普通のアパートの部屋なので、大掃除と言っても大体一時間程度で終わる。それが、俺の手伝いもあったためか何時もよりも早く終わったようだ。綺麗になった部屋を見て、にこりと笑顔を見せる大家。


「さて、手伝ってもらっちゃったのだから、アイスでもご馳走したいのだけど……今日はまだ誰もいらっしゃってないからねぇ、どうしましょうか」


 未だに、俺を襲った鈴石の手がかりが掴めていないようで、警察からは一向に何も連絡がない。昨日も結局、宮尾たちは遅くまで残ってくれたが、米村たちが姿を見せることはなかった。


 ちなみに昨日は、約束通り胡桃がハンバーグを作った。大家が手取り足取り教えたおかげで、不格好ぶかっこうであったが味は美味しく出来ていた。美味しい、と話す俺たちの様子を見て、胡桃はとても上機嫌だった。ただ、『次はコロッケを作ろうかな』、呟いていたのを聞いて、大家が青白い顔になっていた。


「今日は……米村さんか、中原さんが来るという話でしたね。米村さんは忙しそうでしたし、中原さんは、何というか、マイペースな方でしたから」

「そうねぇ……あの子、警察に向いていないと思うのだけど……」


 思わずため息をく大家。確かに、中原は警察官としての基本的な姿勢……というか、社会人としての基本が身についていない。その辺りは、俺も出会った当初から思っていた。

 しかし、彼女の警察官になった動機……自分の兄が殺された事件を、闇にほうむられた件の話を聞いてしまった俺には、もう彼女に警察官を辞めるよう話すことはできなかった。


「まぁ、彼女も二年目ですし、これからいろいろと成長するんじゃないですか。そうしたら……」


 俺は、そこまで話を言いかけて止めた。アパートの前に、車が止まった音が聞こえたのだ。この時間帯、宅配物の配送ではないだろうし、他の住人の家族、とかでは無い。彼らは、俺も含めて、ここのアパートに駐車場がないことを知っているし、一旦この道を入ると、なかなか大通りに戻りにくいのだ。そのため、車で送り迎えを依頼するにしても、このアパートの前には停めない。つまり、誰かがこのアパートを訪ねてきた、ということになる。


「……誰か、来たんでしょうか」


 大家は、その音に気付かなかったようで、俺の言葉を聞き、ようやく彼女は玄関先まで歩いて行った。すると、インターホンが鳴らされた。


「はい、どちら様ですか……ああ、はいはい……どうぞ、お入りください」


 大家は、インターホン越しに会話をし、来訪者を招き入れた。ということは、米村か、中原だろう。彼女の対応からして、宮尾たちに対するものではなかったのだ。しかし、俺の予想は少し外れた。入ってきたのは、中原。そして――――


「いや、どうも失礼しますね。お、元気してたかな、えーと、何だっけ、君の名前」

「……高島です、高島 春来。あなたも相変わらずですね、森谷さん」


 そう、森谷の姿があった。彼が来るときは、事前に米村から連絡が来るものだと思っていたが、そうではなかったらしい。もしくは、彼の独断でこちらに来たのかもしれないが。


「何だ、あまり歓迎されてないのかな。あ、大家さんどうも、私、そこの東京総合国際病院で脳神経内科医をしています、森谷 亨と申します。あ、これはつまらないものですが、どうぞ」


 森谷は、思い出したように大家へ挨拶をした。大家への第一印象は、これで問題はない。しかし、彼の場合は、ここからが問題なのだ。ルックスも良いし、人当たり自体は良い。ただ、人間性はなかなか難しい人であるということは、俺は良く知っていた。


「今日は、彼に少し用事があったこともありまして、警察へ連絡したところ、こうして彼女と一緒にここに来ることになりましてね。研究の都合上、あまり長居はできないのですが、よろしくお願いいたします」

「え、ええ、こちらこそよろしくお願いします。何だか、お医者さんがいらっしゃると聞いておりましたので、変わった方が来るものと思っていましたけれど……しっかりされているわね、それにイケメンじゃない」


 思いのほか、大家には好印象だった森谷。俺も、彼がこんなに社会人としての礼儀がきちんとできる人だとは思っておらず、感心した。


「本来は、米村先輩とここに来る予定だったんですが、彼から急に電話がかかってきましたので、取り急ぎ、私がここまで連れてきました」


 大家と俺に、こうなった経緯を説明する中原。成程、彼の行動らしいと言えばそうなるか。しかし、そこまでして彼が俺に伝えたいこととは、一体なんだろうか。


「そうだったの、でもね、中原さん……車は、家の前に置かないでもらっていいかしら。あそこは邪魔になるの」

「あ」


 そういえば、彼女の車はこのアパートの前に停まったままだった。大家は顔こそにこやかだったが、少し鋭い目つきで彼女を見た


「す、すみません、動かしてきます……」


 すごすごと管理人室を出る中原。その様子は、やはり警察官としては何か足りていない雰囲気だった。車のエンジン音が、アパートに木霊こだまする。

 ふぅ、と息をいた大家は、森谷に椅子へ座るよう促した。言われるままに腰を下ろす森谷だったが、少しタイミングを見計らうかのように、大家に言った。


「それで、ええとそうだな……大家さん、申し訳ないのですが、席を外していただくことは可能ですか? 少し内密なお話をしたいと思っておりまして。不躾ぶしつけなお願いだとは承知しております」


 申し訳なさそうな表情の森谷。やはり、彼は事件の何かしらの情報を、俺に伝えようとしてここまで来たようだ。察しの良い大家は、静かに頷いた。


「ええ、もちろん構いません。それに、ちょうどアイスでも彼にご馳走しようと思っていたところなの。しばらくかかりそうなら、ついでにお買い物もしてきてしまいますが、長い話になりそうですか?」

「ええ。しかし一時間もあれば十分だと私は思います。ですので、今からですと……12時過ぎくらいまでには、私から彼への話を終わらせておきます。宜しいでしょうか」


 大家は、また静かに頷いた。そして、よっこらしょ、と掛け声を出しつつ立ち上がり、買い物バッグを手に玄関まで歩いて行った。


「あ、そうそう。何か食べたいものはありますか? せっかくなので何かご馳走いたしますけど、ご希望があれば」

「いえ、結構です。ありがとうございます」


 森谷は、きっぱりと断った。恐らく、昼食の希望がないのではなく、昼食は要らない、という意思表示だと思われる。その意図を理解した大家は、少し悲しそうな顔で言った。


「そう。それでは、彼をよろしく……ああ、あなたもよろしくね。車の移動、ありがとう」


 出かける大家と、入れ違いになる中原。中原はチラ、と大家の方を気にしつつ、こちらへ戻ってきた。


「……彼女を追いだすほどに重要な話なら、署で聞かせてくれれば良かったんじゃないですか? なんでわざわざここまで来て、彼に話すんです?」


 中原は少し不満そうに言った。彼女の言う通り、そんな重要な情報であるなら、まずは警察に話を持ち掛けるべきだ。俺もそこが引っかかっていたのだ。


「でもね、俺が事件に関与して何か調べているっていうのをさ、他の警察官に見られて良いのかなって思うんですよ。ほら、米村さんだっけ。彼、俺を使ったことで上司から指導を受けたらしいじゃないですか。さすがにさ、それはマズいかなって思ったんですよ、俺としては。それに、俺はあそこあんまり好きじゃないから」


 そうか、彼は米村に配慮したんだな。研究以外に興味のない人間だと思っていたが、今日の一連の態度、そして今の発言。若くしてのし上がった人間というのは、恐らくこういった場面でも頭が切れるのだろう。


「そう、ですね。ご配慮いただいたようで、ありがとうございます。……それで一体、何を彼に伝えようとしているんですか? 我々ではなく、あえて彼を選んでいるのですから、それには理由があるんですよね」


 中原は、少し強い口調で森谷に言った。彼女としては、タクシー代わりにされた挙句、暑い中、車の移動だなんだで歩き回らされたのだ。少々不機嫌になるのは理解できた。


「急かさないでくれよ、逃げるような情報じゃないから大丈夫だって。……えっと、これだ。このファイルが、昨日俺のPCにメールで送られてきたんだ」


 森谷はカバンから一つのクリアファイルを引っ張り出し、テーブルに置いた。それを俺と中原は凝視した。



『エンドラーゼ開発の経緯と製法、副産物に関する調査書』



「これ、なんでこんなものが森谷さんに?」

「いや、だから知りませんよ。不明なアドレスからのメールだったんで、最初は未開封のまま捨てようと思ったんです。でも、メール自体の文字数が少なすぎるし、添付ファイルもPDFだったんで、開けてみたんですよ。で、これが出てきたと」


 森谷に謎のメール、そして『エンドラーゼ』の開発資料……これは、一体何を意味するのだろう。まさか、この中に犯人のメッセージが隠されているのだろうか。


「森谷さんは、これを読んだんですか?」

「ああ、昨日のうちに。いや、内容は驚くようなものばかりでしたね、さすが鈴石先生の研究だな、と思いましたよ。発想も着眼点も、実験方法に至るまで、天才の仕事だなって感じでしたね」


 森谷は、少し興奮気味に話した。鈴石は、脳神経関連の学会ではかなり期待されていた存在だ。年齢は離れているが、森谷も脳神経の研究を行う者として、彼女の名前、そして研究については詳しく知っていたのだと思われる。


「……それで、森谷さんは一体、俺に何を見せたかったんですか?」


 正直、鈴石がどういう人間で、どういった功績を挙げたのかなんて知りたくもない。両親を殺し、さらに俺にも危害を加え、そして今、俺は軟禁状態になっている。彼女の存在は、俺の人生全てを狂わせたのだから。


「いやそんな怖い顔しないでくださいよ。まぁ、君が鈴石先生に襲われた、というのはもう米村さんから聞いてますからね、そう怒りたくなるでしょうけど。でもね、彼女の人生もまた、別の人たちに狂わされたんだから、そう一方的に嫌悪しないでほしいな」


 米村はどこまで彼に話したのか分からないが、今の話からすると、少なくともこの前俺たちと車の中で話したことを、彼には全部伝えているのだろう。そうでなければ、説明がつかない。


「そもそも、こんな研究をしていたら彼らに目を付けられるのは当然でしょう。何をしたら、ここまで徹底的に潰されるのか分かりませんけど、よっぽど、あの組織に対して喧嘩を売ったんでしょうかね。彼女か、もしくは当時の社長かどうかは知りませんが」


 俺と中原は、その言葉に驚いた。あの組織、彼はそう言ったのだ。世間一般には知らされていない組織について、

 ドクン、と心臓が反応する。


「待ってください、あの組織、というのは、もしかして……」

「そうだよ、あの、名前のない組織。こんな大掛かりなことができる奴らなんて、大体想像がついていたけどね」


 俺は思わず中原を見た。彼女は、一点を凝視している。それは、森谷の顔だった。そして、唇を震わせながら、彼女は森谷に尋ねた。


「あ、あの……あなたは、その組織を、何で知っているんですか。どうして、その……」


 言葉になっていない中原。何故、彼女はここまで彼に対する態度を変えたのか……俺はその原因に気づいてしまった。そうか、彼女は、と思っているのだ。


 しかし、彼がその組織の一員だったすれば、嫌な仮説が成り立つ。彼らが、死亡したことにしてまで管理下に置きたかった鈴石が、何らかの理由で逃亡した。そして、今回の事件を引き起こしているとしたら。


 そうだ、俺たちの存在は、彼らの組織にとって都合が悪い。鈴石本人を見たか、見ていないかに拘らない。鈴石が生きている、と知っている人物は、どんな小さな芽でも摘まれなければいけない。今日ここに米村がいない理由は、恐らく彼か、もしくはその組織がすでにほうむったのかもしれない。


 つまり俺たちは、ここで森谷に殺される可能性がある。彼が持ってきた、この『エンドラーゼ』の書類。不明のアドレスから送付されてきた、と言っていたが、果たして本当か。彼がもともと持っていたもので、それをわざと見せつけたのかもしれない。俺たちを油断させ、大家をここから追い出すために。


 俺たちは、ここで彼に殺される……そんな妄想が、じわりじわりと俺の精神を弄る。強い緊張感に、息を吐くことすらままならなくなった。


「おや、どうしたんだい、急に苦しそうに。まさか、何か毒でも飲んだのかな?」


 ニヤリと笑みを浮かべる森谷。まさか、この息苦しさは、彼が仕込んだ毒物の影響だというのか!? 額に汗がにじむ。すると――――



 プルルルルル……



 管理人室の固定電話が鳴った。急な音に、俺と中原は飛び上がった。


「ああ、電話が。全く、間の悪いことだね。……高島くん、君が取ってくれるかな。ほら、俺たちがここにいること、知られてはいけないでしょう?」


 両手を横に広げ、おどけたポーズを取る森谷。息苦しさを抑え、俺は指示された通りに固定電話の前に立った。発信元は……携帯電話のようだ。チラリと横目で森谷を確認する。彼は、未だ震える中原の方を見ていた。


「も、もしもし……」


 恐る恐る電話に出る俺。電話の向こうでは、けたたましいサイレンの音と、ざわざわとした雑踏ざっとうの音が聞こえた。しかし、肝心の相手の声が聞こえない。


「もしもし? もしもし!?」


 嫌な予感がする。まさか、米村が死ぬ間際に電話をかけてきているのかもしれない……心臓が早鐘を打つ。しかし――――


「もしもーし、聞こえるかい? 私よ」


 向こうから聞こえたのは、大家の声だった。米村じゃない?


「え、あ、高島、です。どう、したんですか?」

「ちょっとねぇ、電車の事故があったみたいでね、全然バスが動かないのよ。これから買いに行くというのに、まったく嫌になっちゃう」


 緊張感のない声に、俺の体から力が抜けていくのを感じた。


「それでね、ちょっと帰るのが遅くなっちゃいそうなの。刑事さんたちには申し訳ないのだけど、ちょっと待っててもらってていいかしらね」

「あ、はぁ、そう、ですか。分かりました、お伝えします」


 ガチャ


 受話器を下ろす俺。……ただの大家からの電話だった。それだけで何だか、先ほどまでの緊張感が嘘のように消えていった。しかし、問題はまだ片付いていない。そうだ、少しの脱力感はあるが、まだ森谷がこの部屋にいるのだ。

 また横目で彼を見る。彼は今、中原に何か話しかけているようだ。すると、こちらの様子に気づいたのか、森谷……ではなく、中原が俺に声を掛けてきた。


「どうしたの? 何かあったの?」


 思わず彼女の顔を見た俺。何ともない、ケロっとした顔だ。先ほどまで震えていた彼女の姿は、どこにもなかった。


「おや、高島くん、ひどい汗だね。何かマズい電話だったのかな!?」


 慌てて心配そうに駆け寄ってくる森谷と中原。何が何だか分からなくなった俺は、戸惑い、その場に座り込んだ。


「え、あれ? 中原さん、さっきまであんなに震えて……?」


 普通に行動する中原に、率直な質問をぶつけた。彼女は、苦笑いしながら答えた。


「あ、ああ。さっきまで、ちょっとこの部屋が寒くて。森谷さんがクーラーの温度下げすぎてたから、上げてもらったの。私、結構冷え性なんだよね」


 冷え性って、そんな理由で震えていたのか!? いや待てよ、あの時の森谷の発言……あれはじゃあ、一体どういう意味なんだ?


「い、いや、森谷さんが、毒でも飲んだのかって、俺たちに笑いかけてたじゃないですか!?」

「へっ!?」


 森谷はポカンとしている。そして、中原と顔を見合わせて、彼は何かを思い出したのか、ちょっと引きつった笑顔で答えた。


「いや、君たちが突然、おかしな行動を取るもんだからさ、ね。ちょっとした冗談のつもりだったんですが……伝わらなかったのかな、うん」


 冗談……だって? じゃあ、あの息苦しさは、気のせい……?


「それよりさ、さっきのは何の電話だったんですか? 君が急におかしな様子になったから、電話の向こうで何かあったのかと、てっきり」


 森谷と中原は、困惑した顔でこちらを見ている。困惑しているのはこっちだったが、素直に大家の遅刻について話した。


「ああ、そういう……」


 気が抜けたように席に戻る森谷と中原。俺は、まだ脱力が抜けきらず、その場に座ったまま、呆然としていた。じゃあ、さっきまでの一連の緊迫した雰囲気は、全部俺の妄想、だったのか……?


「えっと、話の続きをしてもいいかな? それとも……高島くん、体調が悪いならまた日を改めるけど、どうだろう?」


 こちらを気にする森谷。中原も、うん、と頷いている。


「い、いえ。気のせいでしたから、もう大丈夫です。ありがとうございます」


 そうだ、俺はまだ彼に聞いていないことがある。それに、あまり長居はできないと言っていた。そうであれば、こんなところでつまづいている場合じゃない。俺は、力を振り絞って立ち上がった。


「そうかい? じゃあ、続けるけども……えっと、どこまで話したかな」

「ちょっと……森谷さんは、なんで例の組織について知っているのか、という話でしたよ」


 そうだ、俺もそれが今、一番知りたかった情報だ。あんな醜態しゅうたいを晒した後だ、もう何を聞いても驚きはしない。


「そうでしたかね? 俺は、そう、あの組織のメンバー、というべきかな。ああ、これ以上は聞かないでくれ。これは、君たちの身の安全に関わることだから」


 元メンバー、彼はそう言った。そうか、元メンバーであれば組織自体を知っているだろう。それに、彼の能力については誰もが認めるところだ。納得はできるが、それでは、鈴石と彼とでは、一体何が違っていたのだろう。


「重ねて言うけど、組織については、もうこれ以上は聞かないこと。いいですか?」


 俺が質問をしようとした矢先、これ以上の話はしないこと、と釘を刺されてしまった。無理に今、質問をしたところで彼は帰ってしまうかもしれないし、それに、身の安全が保障できないとなれば、嫌でも従わざるを得なかった。


「……よろしい。では、本題に入ろうじゃないか。俺がここに来た理由は、まあ本当は米村さんと密な話が出来そうだから、だったんだけど……今日はいないみたいだから、えっと、とりあえず中野さんと、高島くんに……」


「中原です、な か は ら」


 キッと森谷を睨みつける中原。その目つきにビクッとする森谷。


「す、すみません、えっと、中原さんね。うん、とりあえずだけど、話しておこうと思って。ほら、俺って忙しいからね、あんまり警察に出向いて話をする時間が作れないんですよ。だから、今回ここに来たってわけです」


 要するに、米村を当てにして電話してみたものの、彼がいなかったので、代わりに米村とコンタクトの取れる俺たちに話しておこう、という魂胆こんたんか。成程、随分とバカにされている気がする。それは、中原も同様の気持ちだったようだ。指でテーブルを、やや強めに叩いている。


「それで、本題とは何ですか?」

「うん、この開発時のデータで……ここですね、この副産物のところ。このうちの、これだ」


 森谷は、資料の中にある一つの構造式を指さした。TOX - Aと記載されている。


「……これは?」


 中原は、何が何だか分からない、と言いたげな表情で森谷を見た。俺も、これだけ見せられても何も分からない。同じように森谷の顔を見た。


「まあ、普通は分からないですよね。TOX - A……正式名称は、化学構造からすると……えっと、難しいな。まあいいや、とりあえずTOX - Aという副産物が、『エンドラーゼ』の開発途中で発見されたわけですよ。それで、この物質を取り込んだマウスのデータが、72ページだから……ここ、これです」


 森谷の指さした図表。そこには、n = 36、全例死亡、と記載されていた。


「この、nというのはマウスの数ですね。これが、まぁ全部死んだわけです。この物質を投与したことで」


 さらりと残酷なことを言い放った森谷。『エンドラーゼ』の副産物に、そんな猛毒の物質がある、それが事実だとすれば、これは問題だ。


「えっと、つまり、10年前の15人の同時死亡事故は、この物質が混入した『エンドラーゼ』が投与されたから、ということですか? それだったら、本当にこの薬のせいだった、ということですよね」

「半分正解。確かに、次のページにあるけど、この物質による影響は……これ、脳細胞の急激なアポトーシス誘導によるものだと推測できる。であれば、あの患者たちの脳に生じた変化は、これが原因である可能性が指摘できるんですよ。でもね」


 森谷は、湯飲みに入ったお茶を、グイッと一気にあおった。


「ふぅ、まずあり得ないんですよ、これが製品に混入することは。確率から言っても、第一相、第二相と臨床試験を重ねてきた製剤が、今更になってこんなものを混入させることは、まずないです。それに、そもそもこのTOX - Aという物質は、『エンドラーゼ』になる前に作られるもので、この……」


 パラパラとページをめくる森谷の手が、急に中原の手に掴まれた。ギョッとした顔で中原を見る森谷。中原は、彼の顔ではなく、管理人室の玄関を見ていた。


「え、えっと……?」


 戸惑う森谷に、静かにするよう促した中原。そして、


「外に誰かいます」


 と小さく言った。……しん、と静まる部屋、そして、外から声が聞こえた。まるで、俺たちが静まるのを待っていたかのように。


「おう、その話、俺にも聞かせろや。聞こえてんだろ、中原よ」


 この声は、どこかで聞いたことがある。そして彼女、中原の名前を知っている人物だということが分かった。中原は、緊張の表情を崩した。


「あぁ……来ちゃったか」


 外には聞こえないように呟くと、そのまま玄関の方へ歩き出した中原。管理人不在の中、本来は来客を招く立場にないのだが、今回ばかりは認めるほかにない。何故なら、彼は彼女の上司で、さらに米村の上司でもあるのだ。止められるものがいなかった。


 ガチャ、と玄関のドアが開く。そして、彼……村田 宗一郎が姿を現した。


「全く、そういう話は署で聞かせろって。なぁ、高島くん?」

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