第15章 悲しくも美しき幻想は永遠に散りゆく

 9月1日、14時30分。高島の住むアパートの前に、宮尾と胡桃の姿があった。チラチラと時計を気にしながら、もう一人の少女、岬の到着を待っている。


 アパートの大家は、自ら時間に厳しいと言っていた。その上、昨日は警察官を相手取っても時間の遅れを指摘できることを、宮尾は知っていた。だからこそ、今日は絶対に遅刻してはいけなかった。

 約束の時間は、15時。まだ30分の猶予ゆうよはある。しかし、約束の時間より早く来るのがマナーである以上、少なくとも五分前には集合していたい。それに、高島のいないところで話しておきたいこともあった。


「……やっぱり、こんなに早くに来るわけないよね。岬ちゃん、多分もっとギリギリに来るんだと思うな」


 ぼんやりと、そんな言葉を口にしたのは胡桃だ。彼女は、相変わらず私服のセンスが悪い。何故、柄物がらもの柄物がらものを合わせてしまうのか。そして、どう見てもその配色は、某百貨店の紙袋のそれだ。しかし、今はとにかく時間前に来てくれた、それだけでよかった。


「そだね、ちーちゃんには30分くらい早い時間を言っとけば良かったかも。でもなぁ、たまーに、すごく早く来ることがあるんだよね。ちーちゃん、待たせるのは平気だけど待つのは嫌がるんだよね」


 岬と宮尾は幼馴染であり、パーソナリティはお互いに把握し合っている。だからこそ、一見すると嫌味のように聞こえる彼女の発言も、そこまで気にならないのだ。それ以前に、彼女のそのふわりとした雰囲気により、多少の毒も緩和されている、ということもある。


「そうなんだ。……なーんか羨ましいな、そういう幼馴染がいるっていうの。私さ、小さいころから芸能界にいたじゃない? だから、地元とかにあまり友達がいないんだよね。芸能界の友達も、今はもう連絡とってないし」

「そうなの? うーん、でもね、ちーちゃんとは高校生になる前までは、ずっと離れてたんだよ。小学生の頃、私のお父さんが倒れて、その看病とかいろいろしてるうちに、ちーちゃんは引っ越しちゃったんだ。もう会えないかなって思ってて、高校の合格発表のときまですっかり忘れちゃってたの」


 宮尾の父親は、男手一つで彼女と、年の離れた弟の二人を養っていたが、過度のストレスにより倒れてしまったのだという。彼は、時が経った今でもまだ回復しておらず、年に数回、短期的に入院しているそうだ。その病院が、東京総合国際病院――――あの事件のあった場所であった。


「そうなんだ。でも、合格発表のときに偶然再会するなんて、何かロマンチックだよね。その相手が男の子だったら、恋愛ドラマみたいで良かったけど」


 ふふふ、と笑う胡桃。その言葉を聞いて、宮尾は昨日の失言を思い出してしまい、思わず赤面する。


「でも、お父さんがそんなことになって大変だよね、藤花ちゃん。それからずっと、三人分の食事を作ってるの?」

「え、ああ……そう、だね。大変は大変だけど、もう慣れちゃったし。お父さんの通院も、調子がいいときは一人で行けたりするから」

「そうなんだ、じゃあ、あの時はちょうどお父さんの通院の付き添いだったの?」


 あの時、というのは、全員で集まって渡辺の殺害現場に乗り込んだ時。そう、宮尾からの連絡があったおかげで、結果的にあの現場に入ることになったのだ。彼女の話では8時30分頃に、病院であの女性を見たと言っていた。外来の受付開始とちょうど同じくらいの時間だ、父親の付き添いとしてそこに居るのは自然である。


「え、うん、そうだよ。すごい偶然だったなぁ、あれ。でも、まさか私も、あの女の人に再会することになるとは思ってなかったよ。怖かったなぁ……」


 うう、と小さく身震いをする宮尾。胡桃は、そんな彼女の様子をよそに、別のことを考えていた。彼女の話には、何か、違和感を感じているように、少し目付きを変えながら。


「……あ、あと10分だよ」


 ふと宮尾が、スマホを見て言った。胡桃も慌てて腕時計を見る。14時50分……そろそろ到着していないとマズい時間だ。普段は優しいあの大家だが、最初に見たあの表情……警察官二人に相対したときの、般若の面のようなあの顔、あれが待っているかもしれないのだ。


「いざとなったら、もう私たちだけで入ろうね。ちーちゃんには悪いけど……あれ、そもそも悪いのって、ちーちゃんじゃん」

「あ、そういえばそうだね。先に入ろうか」


 よく考えてみれば、岬一人を待っていて全員で遅刻するよりも、岬を置いて二人が先に挨拶したほうが良い。何より、犠牲者が少なくて済むのだ。簡単なことだった。


「うん、とりあえずちーちゃんにチャットして……」


 宮尾がスマホを取り出した。すると、そのスマホに宮尾自身の影ではない、誰かの影が入り込んでいた。一瞬、息を飲む宮尾。何故なら彼女は、昨日ロングコートの女性に会っている。しかも、ぶつかり合ってしまい、その女性のボールペンを拾って、なおかつ警察に渡してしまったのだ。高島の代わりに、狙われてしまう可能性があるのだ。


「どうしたの、藤花……あ」


 アパートに入ろうとする胡桃が、宮尾の異変に気が付き振り返った。そして、宮尾の背後にある影を見て、その身を硬直させた。

 一瞬の沈黙、暑さとは関係のない汗が、二人の額に滲み出る。勇気を振り絞り、振り返ろうと決意する宮尾。しかし、胡桃の口から出たのは、待っていた人物の名だった。


「岬ちゃん、時間ギリギリだったね……」


 その言葉を聞き安堵した宮尾は、くるりと身をひるがえす。するとそこには、妙な笑顔の岬が立っていた。笑顔と言うのには、少々作り笑いと言うか、違和感しかない表情だった。

 しかし、幼馴染である宮尾には、その表情の意味が分かった。これは、置いて行かれそうになって腹を立てている顔だということに。その表情に、安堵の顔が一転、引きつっていく。


「トーカぁ? どうしてそんな顔してるのかな? もしかして、ウチがお化けにでも見えてるのかなぁ?」


 にじり寄る岬。

 あ、ええと、と、しどろもどろになる宮尾。そんな彼女たちの様子を、胡桃は固唾かたずを飲んで見ていた。まるで格闘技でも見ているかの様に。









「そろそろかね、ちょっくら様子を見てこようか」


 俺と大家は、15時に来る約束の彼女たちを待っていた。時間は、14時55分。そろそろ顔を出してこれないと、大家の怒りスイッチが入ってくる頃だ。その証拠に、約束の五分前だというのに、彼女は外の様子を見に行くと言って立ち上がっているのだ。


(これで、アパートの前に誰もいない、何てことがあったらマズいぞ……)


 ハラハラ感が止まらない俺、これから来るであろう若い女子との会話にワクワクが止まらない大家。正反対な感情の二人は、アパートの前から何か騒がしい声がすることに気づいた。その音に揃って耳を澄ます。


「ごめんってば、だって、いつもなら遅れてくるパターンじゃん!」

「何よー、ウチだってTPOくらいわきまえてるんですけどー!」


 ……聞き覚えのある声だ。しかも最悪なことに、これからここへ来訪する予定の二人の声だ。大家の表情は、みるみるうちに曇っていく。彼女は、時間を守ることに関して非常に厳しい。しかし、それ以上に、騒がしくすることを嫌う。


 以前、このアパートに住んでいた大学生……恐らく同世代の男性が、数人の友人たちと部屋で酒盛りをしたことがあった。かなりうるさかったので俺も迷惑していたのだが、アパートの階段を、誰かが昇る音が聞こえた。その直後、急に水を打ったようになったのだ。そして、それ以来彼ら……その住人を含めて、このアパートで出会うことはなかった。恐らく、追い出されたのだろう。


 つまり、大家はこのアパートに害をなす者は、騒音であれ、異臭であれ、何であれ、容赦しないのだ。その大家が、アパートの前で騒ぐ彼女たち……恐らくは、あの三人に対し、表情を曇らせている。これはマズい。

 慌てて俺は、彼女たちにチャットを送った。『早く入れ、これ以上騒ぐと手遅れになるぞ』、と。頼むから、気づいてくれ――――俺は神に祈った。


 数十秒後、アパートの前から聞こえる声が、急に静かになった。近くの大通りから、車の通る音が小さく聞こえる。恐らく、今まで声を上げていなかった胡桃が、二人に俺のメッセージを見せたのだろう。大家の表情はまだ曇ってはいるが、なんだったのかね、と首をかしげる程度で済んでいたようだ。


「今の、宮尾ちゃんの声かね? 随分と騒がしい女の子たちがいるみたいだけど」


 大家は俺に問いかけた。大家はまだ60代だが、少しずつ耳が遠くなってきている。実際、会話中も少々、声のボリュームを上げないと伝わらないことがあった。そんな彼女なので、昨日聞いたばかりの声でも、確信は持てないようだった。


「え、いやぁ、違うんじゃないですか? もうちょっと高い声だと思いますよ?」


 少し白々しかっただろうか、でも、大家には疑われていないようだ。そうかね、と言ってそのまま玄関の方へ向かって行った。ホッと胸をでおろす俺だったが、大家は余計なことを言いだした。


「まぁ、高島くんと一緒に寝ても良い、って言うような子のことだからね、そりゃあお互いよく覚えていることでしょうから」


 ニヤリと笑う大家。その言葉に俺は、ただ苦笑いするしかなかった。恐らく、この話はしばらくネタにされるような気がする、そう思うと、やるせない気持ちでいっぱいになった。


 そして、時刻は14時59分。管理人室をノックする音が聞こえた。もう既に玄関前に待機していた大家は、ロクに確認もせずにドアを開けた。恐らく、時間ギリギリでしびれを切らしていたのだろうが、鈴石から狙われている俺からすれば、そう易々とドアを開けられることに、強い恐怖感を覚えた。もし、これで鈴石が飛び込んできた場合、大家はもちろんのこと、俺も身動きができないのだ。後で大家には注意しておこう。


「ああ、いらっしゃい、時間ぴったりね。宮尾ちゃんも、昨日ぶりね」


 穏やかに応対している大家。やや騒がしくしたり、時間ギリギリだったことを考えれば、もう少し緊張感のある態度を取るかと思われたが、杞憂きゆうだったようだ。そういえば、宮尾とは既に顔を合わせているし、何なら、随分と長くこの部屋で談笑までしていたのだ。悪いイメージではないはずだった。


「し、失礼します」


 妙に緊張した表情の岬と胡桃、そして笑顔の宮尾が入ってきた。胡桃の手には、百貨店の紙袋があった。恐らく、気を利かせて手土産を持ってきたのだろう。それは、この大家に対して非常に良い印象を与えたと考えられる。そうでなければ、今頃はこんなに穏やかな空気ではなかったはずだ。

 ……しかし、彼女の服装は、その百貨店の紙袋と同じ配色だった。その格好で今日そこに行ったのだろうか、そう考えると、彼女の精神力はかなり強いのだと分かる。


「それで、宮尾ちゃんは昨日会っているからいいとして。あなたたちの名前は、何て言うんだい?」


「岬 千弦です。トーカ……いや、宮尾とは幼馴染で、ハル……高島くんとは高校時代からの友達です」


 なかなか呼び慣れない言葉に苦戦をしている岬。その様子を感じ、大家は静かに笑った。


「いいのよ、いつも通りやってくれて。私はね、時間とかそういうのにはうるさいのだけど、礼儀作法には特にこだわってないの。だから、自然に。それにね、私、若い人たちと喋る機会なんてなかなかないの。だから、くだけた感じで話してもらって、大丈夫」


 そう言って、大家は岬に微笑ほほえんだ。岬も、少し緊張がほぐれたのか、いつもの表情に戻りつつあった。


「そうですか、ではお言葉に甘えさせてもらいますね」


 岬は大家に、にっこりと笑顔で返した。ちゃんと従うべきところは従い、礼節は保つ……この辺は、社交性の高い岬らしい対応だと思った。

 彼女とは、高校・大学で行動を共にすることが多かったのだが、すれ違う人たち全員と会話をしているんじゃないか、そう思うくらいに知り合いが多い。まあ、彼女いわく『別に、定型文で成り立つ関係性だから』と非常にドライな関係性のようだが、それでも彼女は人気者、と言っても過言ではない。


「それで、そちらの方……あら、テレビで観たことあるような気がするのだけど、気のせいかしら?」


 そう言うと、大家は胡桃をまじまじと眺めだした。見られることに慣れている胡桃は、特に気にする様子もなく自己紹介をした。


「私は、安藤 胡桃です。自分で言うのもあれですが、数年前までアイドル活動をしていました。テレビにも出ていたので、そこで私を観たのではないかと思います。あ、これ、つまらないものですが」

「まぁ、ご丁寧に。……芸能人の方でしたのね、よく存じ上げてなくてごめんなさいね。私、あまりテレビは観ないのよ。こんな私でも観たことがある覚えがあるんだもの、ご活躍されたのね……」


 そう言うと大家は、彼女の服装を一瞥いちべつした。そして、宮尾、俺の方を見た。俺は、彼女の言わんとすることが分かったので、憐れむような眼で頷いて見せた。そうです、可哀そうになるくらいオシャレ度低いんです、と言わんばかりに。

 そして、苦笑いする大家。どうやら、俺のリアクションの意図が分かったようだ。


「ま、それはさておき……私はここのアパートの管理人、大家をしています、高木たかぎ 敬子けいこよ。別に、大家さん、でも高木さん、でもいいわ。でも、おばあちゃんは止めて頂戴ね」


 そう言って軽く微笑んだ大家。俺は入居時に彼女の名前を聞いていたと思うのだが、今の今まですっかり忘れていた。今さら高木さん、だなんて呼べるわけがない。もちろん、おばあちゃんなどと呼んだ日には、恐ろしいことになるだろう。


「さてと、若い子たちが来るって言うからね、私ちょっと張り切ってケーキなんか作ってみたのよ。良かったら食べていってね」


 そう言うと、大家はキッチンへ入っていた。その言葉に、甘いものに目がない岬が色めき立つ。


「ケーキ! すごーい……どんなケーキかなぁ、パウンドケーキかなぁ……」


 ニコニコと体を揺らす岬。その様子は、まるで小さい子どもの様だった。もう21歳にもなる女性が、全く恥ずかしい。俺はニヤリと笑い、彼女に言った。


「そうしていると、まるで妹みたいだな」


 なんてことはない、子どもっぽさを茶化しただけの発言だった。しかし、その言葉を聞いた岬は、体の動きを止め、こちらを真顔で見つめ返してきた。その表情は怒りとは違う。これは、驚き……そして、悲しみ。それが滲み出ていた。


「……? えっと、岬?」


 豹変してしまった彼女に、俺は慌てて声を掛けた。しかし、まだぼんやりと呆けている岬は、ボソリと呟いた。


「……お兄ちゃん……」


 お兄ちゃん、確かに彼女はそう言った。兄って、誰が。俺が? そんなはずはない、俺は一人っ子だったし、岬にも兄弟はいなかったはずだ。そして、彼女と俺は同い年なのだから。


「岬、聞こえてるか? おーい」


 もう一度、岬に語り掛ける。宮尾と胡桃も、そんな彼女の様子が気になり見つめている。しばらくの後、岬は、ふと我に返った。そして、いつもの表情に戻っていった。


「え、あ、うん、何?」

「いや、お前……大丈夫か? 何か表情がおかしかったぞ。」


 俺の言葉に、宮尾も胡桃も頷く。喜怒哀楽をしっかり表に出す彼女が、あれだけ曖昧な表情になることは滅多めったになかったし、その上、顔色も良くないようだ。岬は、ううん、違うの大丈夫、と言って、何かを誤魔化そうとしていた。しかし、俺たちはそんな彼女が心配だった。


「……何かあってからじゃ遅いんだ。どうしてそんなに、ぼうっとしたのか、理由を聞かせてくれないか。もしかして、何かの病気なのか?」

「病気って……違うよ、そんなんじゃない。その……」


 目を泳がせる岬。やはり何か言いたくないことを隠している、そう強く感じた。もごもごと口を動かす岬に、胡桃はそっと言った。


「お兄ちゃん、って私には聞こえたよ。岬ちゃんには、お兄さんがいたの?」


 ドキッとした顔で、胡桃を見つめる岬。少しの間、四人に訪れた沈黙。キッチンから聞こえる、ケーキを切るかすかな音だけが室内に響いた。そして、静かにため息を吐いた岬は、恥ずかしそうに言った。


「……似てたの、ハルが、その、お兄ちゃんに」


 俺は、彼女の兄に似ていた、彼女はそう言った。しかし、彼女に兄がいるということは聞いたことがない。俺は、改めて確認した。


「お兄ちゃんって、岬は一人っ子じゃなかったのか?」

「違う、本当の兄弟じゃなくて……なんていうかな、小さいころから可愛がってくれた、近所のお兄ちゃんに、だよ。高校一年生まで、ずっと好きだった……いや、今も大好きなお兄ちゃんに」


 少し、目に涙を浮かべる岬。『好きだった』……その言葉から、その兄と呼ぶほどに慕っていた人は、遠くに行ってしまったのだと考えられた。それも、恐らくはもう二度と会えないところへ。


「……もしかしてそれって、翔也しょうやさんのこと、かな?」


 宮尾が口を開く。翔也、その名前が出たとき、岬は手で顔を覆った。そして彼女は、無言のまま、ゆっくりと頷いた。


「そっか、ハル……笑うと確かにちょっと似てる、かな。ごめんね、思い出させちゃって」


 宮尾は悲しい表情で、岬を慰めるように、彼女の頭を撫でた。その様子から、先ほどの俺の考えは正しかったことが証明されたようだ。とても申し訳ないことを聞いてしまった、そう思った。


「俺も、ごめん。軽く聞いていい話じゃなかった。無神経でごめん」

「私も、ごめんね」


 頭を下げる俺と胡桃。そんな俺たちに岬は、少しだけ潤んだ眼をこすりつつ、笑顔で答えた。


「いいの、もう過去のことだから。でも、そっか……もう六年になるんだなぁ……」

「何が六年なのかしら? 待たせちゃったわね、はい、特製のシフォンケーキですよ」


 ちょうどキッチンから出てきた大家は、岬の話を途中からしか聞こえていなかったようだ。ニコニコしながら、大きなシフォンケーキを一切れずつ、皿に入れて全員に渡した。


「うわ、おっきい。これを作ったんですか!? すごーい!!」


 宮尾は驚き、大家に尋ねた。


「そんな言うほど大きくないわよ、それにレシピ通りに作っただけだから、誰にでも出来ることよ? 何にもすごくないわ」


 そう言いながらも、大家はちょっと鼻の穴を膨らませた。昨日からお世話になっているが、料理の腕ももちろんのこと、お菓子作りまでできてしまうとは、なかなかすごい人だ。


「レシピ通り、かぁ。私、どうしてもレシピ通りに作れないんです。なんででしょう」


 大家特製のシフォンケーキをしげしげと見ながら、胡桃は呟いた。


「え? えっと、味が美味しくない、ということかしら?」


 大家は首をかしげている。確かに、レシピ通りに作っても上手くいかないんです、と言うのなら分かる。しかし、彼女は『レシピ通りに作れない』と言った。見てもその通りにできない、とはどういうことなのか。


「いえ、レシピ通りに、ちゃんとした分量で、同じ手順でやっているのに、そうならないんです。この前は、ハンバーグが、なぜかメンチカツになりました……」


 目が点になる大家。先ほどまで涙ぐんでいた岬も、ポカンとしている。この子は一体、何を言っているんだろう。確かに、メンチカツの中身はほぼハンバーグみたいなものだが、揚げ物だ。そもそもジャンルが違うのだ。よくある失敗談、的なノリで話し始めた胡桃だったが、全員の反応を見て、少し慌てだした。


「ど、どこのタイミングで揚げたの? レシピにそんなこと書いてなかったんじゃないかな……」


 宮尾は若干、引いている。彼女が引く、というのは中々ないことだ。その宮尾の様子にショックを受けつつ、胡桃は、当時の作り方を頭の中で再現した。


「え、え? お肉と玉ねぎをねて、空気を抜いて……焼くときに、フライパンに油を敷いて、って書いてあったから、いっぱい油を入れて……焼けたかなって思って見たら、なんか揚げ物になっちゃってた、かな」

「そこかよ」


 自然とツッコんでしまった俺。ハンバーグを焼くときなんかそんなに油要らないし、何故いっぱいに入れたのか。揚げ焼きになるじゃないか。っていうかそれ、メンチカツでもないし。


「それと、そのレシピも日本語がちょっと違う。油は、敷く、じゃなくて、引く、が正しいんだ。フライパンの一面に延ばす感じだからな、敷くのはおかしい。もし、敷くのだとすれば、まぁ胡桃は正しいことになるけど……」


 ちょっとした雑学に、岬と宮尾は、おおー、と声を上げた。思わず鼻が高くなる気分だ。しかし大家は、みんなから滅多打ちにされて落ち込む胡桃に、優しく微笑んだ。


「……大丈夫、みんな最初は失敗するものよ。大事なのは、同じ失敗を繰り返さないようにすること。もうこれで覚えたでしょうから、次は失敗しないわよね。どんどんチャレンジしなさい」


 優しく微笑ほほえむ大家に、胡桃は笑顔で答えた。


「はい、ありがとうございます。……ただ、ハンバーグを作ること自体は、10回くらい経験があるんですけど、徐々に成功に近づいているので、次は上手くできると思います」


 また目が点になる大家。10回って……あ、そういえば、彼女が現役アイドルだった頃、料理番組で彼女が色々とやらかしていたような……俺は最初、ヤラセだと思って観ていたのだが、まさかそれが本当だったとは。


「あ、大家さん。折角なので、今日私ここでハンバーグ作っても良いですか?」


 自信が出たのか、突拍子とっぴょうしもない提案をした胡桃。唖然あぜんとする俺と岬。大家も、少し顔が引きつっている。しかし、先ほど『チャレンジしなさい』と言った手前、後には引けなくなっていた。胡桃が、大家に期待の眼差しを向ける。


「あー、えーと……今日は材料がね、そう、ひき肉とか買ってないから、また今度にしましょうか、ね?」

「大丈夫です、材料は買ってきますので! ひき肉が無いんでしたよね、買ってきます。……えっと、何キログラムぐらい必要ですか?」


 一歩も引かないどころか、材料を買いに行くと言い出した胡桃。しかも、ひき肉は何キログラム必要かって、運動部の寮じゃないんだから……。必死に抵抗する大家と、大丈夫、と自信たっぷりに言い張る胡桃とのやり取りは、なんと20分にも及んだ。


 そんなやり取りを繰り広げ、結局は大家が折れることになった。今晩のディナーは、胡桃特製のハンバーグだ。俺たちは、事件を追っているときのスリルとは、また別のスリルを味わうこととなったのだ。


「良いお肉買ってくるからね!」


 元気よく、大家と二人で出かけた胡桃。隣に立っている大家は、さっきより少しやせたような顔つきだ。


「……なるようになれ、だなぁ」


 俺は、小さく独り言を言った。宮尾は、出ていった彼女の方を見て、ふふ、と笑った。


「どうしたの、トーカ」

「ううん、最初会ったころとは、もう別人だなって思って。なんか、ちょっと嬉しくなっちゃった」


 その言葉に、俺も岬も笑って頷いた。そう、あの時……自分の姉を無残な状態にされ、挙句、その遺体の頭部の行方も不明だったころ。その頃とはまるで別人だ、タメ口で、あんなに明るくなった。


「これも、岬や宮尾のお陰だと思うぞ? あの渋谷での買い物、楽しんでたしな、胡桃」

「そう、だったら嬉しいな。ウチらの力で、人を元気にできたんだから」


 岬は、少し照れながらも、嬉しそうに言った。そういう俺も、彼女たちに力を貰ったうちの一人だ。でも、やっぱり恥ずかしくて言えないな。


「さて、とりあえず今日は……食べられるものが出るかどうか、祈ろうじゃないか」


 宮尾と岬は、だね、と声を揃えた。そろそろ夕刻、辺りの街灯にLEDライトがともり始めていた。久しぶりにゆっくりとした一日、それをじっくりと噛み締め、再び俺たちは談笑を始めた。









 同日、21時。東京総合国際病院、地下二階。森谷 亨のデスクトップPCに、一通のメールが届いた。見覚えのないアドレス……森谷は、そういったたぐいのものは読まずに削除する。しかし、その日のそのメールは、どうにも開けなければいけない、そんな思いに駆られていた。


 気が付くと、彼は無意識にそのメールを開いていた。数行の文字、添付ファイルは、PDFファイル。念のためウイルススキャンをかけるが、反応はなかった。そして、その文面には、こう記されていた。


 森谷 亨 様


 奇跡堂薬品の鈴石です。開発時の資料を添付いたしました。どうぞ、ご確認ください。

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