第14章 加速していく妄想と現実の乖離

 俺と中原は、その場に立ち尽くした。凍り付くような情報が、目の前に提示されてしまっていたのだ。宮尾は、二人の様子を見て戸惑っている。


「えっと、あの……?」


 宮尾は、二人が固まったまま何も言わない状況に耐えかねたのか、言葉を投げかけた。しかし、少なくとも俺にはその言葉が耳に入らなかった。鈴石……そこには、はっきりと明記してあったのだ。


「遅れてすまない、高島くんの部屋には異常はなかった……って、どうしたんだ君たち、そんな顔をして」


 宮尾の背後から、米村が顔を出した。そこで、俺はようやく我に返ることができた。しかし、言葉が口から出てこなかったので、震える指先を、中原の持つボールペンへ向けた。


「……?」


 しげしげと指示されたボールペンを眺める米村。しかし彼も、記銘を見た瞬間に凍り付いたのが分かった。


「先輩、すみません……素手すでで触ってしまいました」


 中原は、気まずそうに米村に謝罪した。そうか、あの女性が所持していたとされる品を、素手すでで触った。それは、ボールペンから指紋などを採取するのに妨げとなる。それは、現場に出る警察官にとっては初歩的なミスだった。宮尾は、そんな彼女の様子を見て、かばうように言った。


「い、いえ、そもそも私が拾ったときに、結構触っちゃってましたから……」

「いや、そこはもう仕方がないことだ。後で鑑識に渡す際に説明するよ」


 それは、今までになく中原に気を遣うような言い方だった。彼は、恐らく反省している人を責め立てることはしない人なのだろう。こんな米村を上司に持つ彼女は、かなり幸運だった。もちろん、普段の態度こそ素っ気ないが……。


「しかし、どうしてこんなものを宮尾さんが持っているんだ? まさか、あの女と何か揉み合いにでもなったのか?」


 米村は宮尾に問いかける。いえ、と彼女は首を横に振った。


「ぶつかったとき、あの女の人は倒れてしまって。助けようと思って、私、その人を抱きかかえようとしたんです。でも、その時にロングコートを着ていることに気づいて、あれ、って思って、ちょっとためらったんです。そしたらあの女の人、痛そうに足と腕、かな? をかばいながら、足早に逃げていったんです。」

「その時、君の他に誰かいなかったかな?」

「いいえ、私と、あの女の人だけでした。自転車で通りすがる人はいたけど、すぐに通り過ぎてしまったので見ては無いと思います」


 米村は、そうか、と手帳に記載を始めた。


「それは、何時ごろのことかな。大体で良いんだが、できれば詳しい方がいいな」

「すみません、気が動転していて、その時の時間までは……でも、ハルや、皆さんが到着する10分くらい前、だったような気がします」


 10分くらい前……ということは、あの車内での会話がなければ、俺は既にアパートに戻ってきて、管理人室にいたことになる。そして、その頃には米村たちは帰っていただろう。思ったよりも危ない状況だったのかもしれない……そう思うと、また背筋が凍る。


「いや、ありがとう。この道を行ったんだとすると……ああクソ、こっちは監視カメラが無い。やはり、周到に犯行を計画している可能性が考えられるな。そして、監視カメラの有無が分かるような奴らが相手、ということになるのか……」


 ほとんど独り言のように話をしている米村。宮尾は、そんな彼を横目に、俺に話しかけた。


「……ハル、大丈夫? 昨日は眠れた……訳ないよね。疲れた顔してるもん。ごめんね、また私、ハルに迷惑かけちゃったかな……」


 悲し気な顔で俯く宮尾。迷惑とは、このボールペンを見つけてしまったことだろうか。それとも、一連の事件そのものに巻き込んでしまったことを言っているのか……いずれにしれも、宮尾が謝ることじゃない。


「いや、むしろ感謝してるよ。ずっと警察官に囲まれていたから、ずっと緊張しっぱなしだったからな。それに、俺を心配してこんなとこまで来てくれたんだろ? だったら、俺こそ宮尾に謝らなきゃな。そして、ありがとう」


 俺は、宮尾の頭を軽くでた。その様子を見て、中原はニヤニヤとしている。


「……何ですか、中原さん」

「いやぁ、青春って感じだよねー……私さ、高校卒業してそのまま警察官になったし、高校生活もほとんどまともに送れなかった訳だからさ。こう……青春っていうの、憧れるんだよね」


 そうか、彼女の兄の事件……その影響で彼女は警察官を志すようになったんだったな。彼女の口から直接は聞いていないが、先ほどの米村と彼女の会話で、それが何となく分かった。

 しかし、俺はこの時、少し違和感を覚えた。彼女は確か、警察官になって二年目、と言っていたな。高校卒業してすぐに警察官になった。そして、二年目……ということは。


「……あの、中原さん……失礼ですが、ご年齢は?」

「え、何、いきなり本当に失礼ね。20歳だけど、それが?」

「えっ!?」


 俯いていた宮尾が顔を上げた。俺も、宮尾の頭に手を置いたまま固まってしまった。俺たち……俺、宮尾、岬は大学三年生、21歳だ。つまり、彼女は……。


「「年下だったんですか!?」」


 俺たちの驚く声に、中原は遠い目をしている。先ほどから何かぶつぶつと呟いていたはずの米村も、一連の会話を聞いていたようで、くるりとこちらに背を向けた。その背中は、小刻みに震えていた。


「……いいんですけどね、背がデカくてガタイも良いから、昔から随分と年上に見られていましたよ。もうね、慣れっこですよ、そんなことは」


 ねてしまった中原を、慌ててフォローする宮尾。そんな二人を無視し、米村は気を取り直したように振り返って、話を再開した。


「えーと、だ。そのボールペンはこちらで預かるとして……そのロングコートの女は、恐らく鈴石 初穂と関わりがあるか、もしくは本人であるという可能性が浮上したわけだ。であれば、やはり高島くん、君は、しばらく身を隠す必要がある。俺はそう確信しているが」

「……そう、ですね。でも、なんで彼女はボールペンなんて持っていたんでしょうか。しかも、奇跡堂薬品の記念品のボールペンですし、名前がはっきりと分かるものなのに」


 宮尾は、先ほどまでの話を聞いていなかったため、首をかしげている。もちろん、彼女にそんな話をしたところで意味は無いし、場合によっては、彼女もターゲットにされてしまいかねない。なので彼女には極力、この話は聞かれたくなかったのだが……相変わらず、米村は詰めが甘い。


「知り合いの研究者……いや、君も知っているな。森谷さんは言っていたよ。『何か書くものがないと落ち着かない』ってな。研究者ってのは、そういう人種なんだろう。それに、彼らはこだわりを持つことが多いからな、持ち物も恐らく、同じメーカーで同じ種類のものを揃える傾向にあるんじゃないか」


 ああ、森谷もそういえばボールペンを持っていたな。あのカフェにいたときも、シャツのポケットからペンの頭が見えていた気がした。……だとすれば、何で最初に俺たちと会った時、ペンを持っていなかったのだろう。黒マジックペンで書かれたサインにこだわりがあったのかな……そんなことを思い出していると、米村は不思議そうな顔でこちらに質問をしてきた。


「……今朝から思っていたのだが、君は、一昨日襲われた上に、さらに昨日、あんなことになったのだというのにも関わらず、随分と落ち着いているな。普通ならもっと、怖がって動けないままでいるか、もしくは逃避に走る者が多いのだが」


 米村の質問は、傍から見たら至極しごく当然のものだろうと、俺も感じた。そう、俺自身でも不思議なくらいに落ち着いていて、そして、犯人……鈴石にまた会ってみたい、そんな気持ちにすらなっている。この気持ちは、一体どうして生まれているのか。少し考えた俺は、米村に語り始めた。


「……もちろん、一昨日は一睡もできず、しかも宮尾たちをカフェに呼んだりして、明らかにおかしな行動を取っていたと思います。それは昨日、村田さんからも指摘されたことでしたが……今日は、不思議なくらいに頭がしっかりしているんです。今日というよりも、何でしょう……村田さんと話した辺りから、ええと、恐怖よりも、正義感のような……そんなものが強くなってきているような、気がします」

「先輩と話した辺り……何の話をしたんだ?」


 米村はそこに反応した。そうか、彼は監視カメラの捜査と解析を行っていたため、あの部屋にはいなかったな。俺は、その場で村田と話し合った内容について、米村に語った。過去の三人……松山、安藤、奥村の死に方が彼らの望む形だった。渡辺は、むしろ望まない形での殺害……渡辺こそが、犯人の目的ではないか、そう考えたこと。


「……なるほどな、先輩らしい」


 また米村は考え込み始めた。すると、誰かの影がこちらに近づく気配を感じた。不意を突かれ、俺は防御態勢が取れなかった。ヤバい、もしかしてあの女性が!?

 しかし、そこにいたのは見知った女性だった。彼女は、こちらを冷たい目で見ている。


「そろそろ、部屋に来てもらってもいいですかね。約束の時間は、とぉっくに過ぎているんですよ、警察の方々」


 そこにいたのは、アパートの大家だった。その声のトーンは、落ち着いてはいるものの、住人たちがゴミの回収日を間違えたときと同じだった。相当に怒っている。


「え、あ、ああ、すみませんでした。ちょっと込み入った話をしてしまって……すぐに」


 米村は慌てた様子でアパートへと向かって行った。俺も、それに付いていく形で後を追う。その様子に、宮尾と中原はまだ気づいていないようだった。まだねているのか、もう他の話題で盛り上がっているのか……そんなことはいい、今はとにかく、管理人室へ向かうのが先決だ。


「あれ? あ、待ってよハル!」


 俺たちが管理人室の前まで来たくらいのところで、取り残されていることにようやく気付いた宮尾と中原が、慌ててこちらに走ってきた。


「……まぁ、随分と緊張感のないこと。本当にあなたたち、この子を守ろうって思っているのかしら……」


 大家はご機嫌斜めだ。フン、と軽く鼻息を吐き、管理人室のドアを開けた。そして、俺たちは中へと入っていった。









 8月31日、午前11時30分。管理人室には俺と米村、中原、そして宮尾も一緒にいた。管理人室に入る際、米村は宮尾の入室を拒んだのだが、俺は彼女の入室を懇願した。彼女は事件の経緯をカフェで一緒に聞いているし、どうせ管理人室に移った経緯を、俺が彼女たちに直接チャットする予定だったので、手間が省けると思ったからだ。それに、彼女がいてくれた方が、俺は安心だったのだ。


 管理人室は、リビングキッチン、客間、あとは大家の寝室で合計三部屋だ。俺たちは、リビングの横長のテーブルへ案内された。テーブルの上には、ティッシュケースと花瓶以外に物は置いておらず、きちんと整理整頓されている印象を受けた。椅子に腰かける俺たちを確認した大家は、そのままキッチンへと向かった。


「まったく、もうお昼になっちゃったよ。良いもの作ろうと思ってたんだけどね」


 まだ大家はプリプリしている。台所を見ると、たくさんの野菜や肉などが並んでいた。そうか、10時頃には到着して、昼食をゆっくり作ろうとでも思っていたのだろう。それが、こんな時間まで何の連絡もなかったのだ、彼女も気が気ではなかっただろう。


「まことにすみません。予想外に立て込んだ話が多くなってしまいまして」


 陳謝する米村。遅れた原因、といえば確かに彼のせいなのだが、俺が望んだことでもあったし、彼だけが謝るのも不自然だった。


「すみません大家さん。でも、米村さんたちは俺をちゃんと守ってくれると思います。そこだけは、誤解が無いようにお願いします」

「いいえ、もう済んだこと。折角だから、あなたたちも食べていきなさいな。大したものは出せないけど、警察官には栄養が大事でしょう? ……ああそうそう、ちょうど栄養のつく、良いものがあるのよ」


 そう言うと、大家は冷蔵庫からあるものを取り出した。あれは、見覚えのある瓶……まさか、それは……。


「うちの会が作ってる栄養ドリンクなんですけどね、私はこういうの、あまり好きじゃなくてね。良かったら持って行ってください」


 彼女は、何も悪気もなく、エンドルパワーをテーブルの上に置き、またキッチンへ戻っていった。緊張感のないパッケージのそれとは裏腹に、俺たちは緊張の面持ちで顔を見合わせた。


「先輩、何だったらこれ、また成分分析してもらいますか?」


 中原が、ボソッと米村に問いかける。


「……こんなにサンプルは要らないだろう。それに、すでに結果は出ている。何度も同じことを頼めないからな……そうだな、公務員だからとか、それっぽい理由をつけて返そう」


 米村の提案に、グッと親指を立てる中原。


「あの、私は……」


 宮尾が、困ったようにこちらを見ている。ああ、宮尾が受け取れない理由を考えるのは難しいな……。


「俺がこっそり、冷蔵庫に戻しておくよ。できるかどうかは……分からないけど」

「そ、そこは自信を持ってほしいかな!」


 ぷくっと頬を膨らませる宮尾。すると、粗方あらかた料理の下ごしらえが終わった大家が、こちらに戻ってきた。


「すみませんね、では話を伺いましょう。彼は、いつまでここに置いていればよいですか? もちろん、無期限でも私は構いませんけども」


 中原と米村に大家が尋ねた。彼女にとって大きな問題、それは、俺をいつまで保護管理下に置くのか、それだった。


「正直な話、それがはっきりしません。しかし、彼を襲った犯人は、監視カメラの映像から身元が割り出せる可能性があります。その犯人の確保が確認でき次第、彼は自由になれますとしか、現状ではお話しできません」


 そう、鈴石が逮捕、もしくは何らかの形で無力化できれば、俺は誰にも狙われる心配がなくなるのだ。そうすれば、俺は二階の自室に帰ることができるし、もうそろそろ大学の講義再開も気にしないといけない時期だ、就職のこともあるし、そう長くは軟禁されたくない。


「そうでしょうね、分かりました。でも、昨日あんなに大見おおみえ張ったのは良いんだけれど、今日もその犯人が、うちの前にいたのでしょう? ということは、少なくとも私も外に出かけるのが難しくなってしまうわね。それはちょっと、どうにかできないものかしら。少しの時間……そうね、買い物に行くとか、それを確保できるくらいの時間、誰かがここに居てくれると助かるのですけど」

「食事に関しては、宅配食を利用することも検討できますが……」


 中原は一つの提案をした。宅配食、お弁当の宅配のようなものだ。最近は高齢者や障碍しょうがい者用に、様々な形態のものがあるし、ジャンクフードのたぐいも利用できる店舗も増えているようだ。いい案ではあったが、大家は難色を示した。


「私、あまりそういうお弁当のようなものは苦手でしてね、ほら、化学調味料や添加物が多いらしいじゃない? 私の会は、そういうのを禁止しているのよ」


 そうだった、彼女は霊身教れいしんきょうの信徒で、それなりの地位にいるのだった。教義にもとることは許されないのだろう。それに、玄関のドアを開けて配達物を受け取る瞬間は、危険が伴うということは過去の様々な事件が教えてくれている。


「……そう、ですか。我々も、出来る限り警戒を行うつもりですが……」


 なかなか妙案がでない状況で、重苦しい空気が漂い始める。すると、宮尾が思いもよらない提案をした。


「部屋にいるだけなら、私とか、ちーちゃん、胡桃ちゃんでも大丈夫ですか?」


 その提案に驚く俺。米村は軽く驚きつつも、それはできるのか、と宮尾に確認した。


「はい、多分できるんじゃないかなって思います。ちーちゃんも私も、もちろんハルもですけど、まだ夏休みですし。胡桃ちゃんは、捜査のことがあるけど……今は探偵の仕事をお休みしてるって聞きました。時間が合えば、できないことはないと思います」

「むしろ、警察の方々には犯人の逮捕に尽力してもらって、出来るだけ早く彼を解放してやることを優先してもらいましょうか。その方が、効率は良いでしょうね」


 大家も、それには賛成のようだ。中原と米村は、互いに顔を見合わせた。そして、米村は宮尾に再度確認した。


「では、君たちのいずれかが、ここに来てしばらく警戒する……それでいいだろうか。泊まることは可能ですか?」


 米村は大家にも確認した。


「うちにいることは全然問題ないですが、泊まるとなると、部屋をもう一つ用意しないといけないですからね……それは難しいでしょう。今、空いている部屋は彼の部屋だけですが、そこに彼女や、そのお友達が泊まるのは危険でしょうから」

「そうですか? 私はハルと同じ部屋で寝ても良いですけど……」


 キョトンとする宮尾。おい、どこまで天然なんだ、そこを掘り下げなくて良いから。思わず苦笑いをする米村とまたニヤニヤする中原。


「……あら、あなた高島くんの彼女だったの? それなら、あなたもここに居たらどうかしら?」


 大家は、微笑ほほえみながら宮尾に聞いた。しばらくその意味を理解していなかった宮尾だったが、自分が発言した内容の意味を考え始め、そして、あっ、と小さな声を出した。その顔は、高熱が出たときのように、とても真っ赤だった。


「ち、違います! その、えっと、そういう意味じゃありませんから! ……ハルも分かってたんなら否定してよ! バカぁ!!」


 宮尾は、少し涙目になりながら顔を手で覆った。クスクスと笑う大家、ニヤニヤが止まらない中原。俺はただ、変な汗をかかされた上に、バカ呼ばわりされただけの被害者なのだが……でも、だいぶ空気が和んだようだ。今はもう、先ほどまでの重苦しさなんてものはなかった。


「さて、あとは宮尾さんか、もしくは高島くんから岬さん、安藤さんに連絡を取ってくれ。ここに来ることが無理そうなら、また追って連絡してくれ。そうだな……あとは森谷さんにも協力をあおいでみるか」

「森谷さんに?」


 米村の言葉に、俺は思わず聞き返した。森谷って、あの医者の? 忙しくて来られるわけがないだろうに。


「ああ、彼はこの辺に住んでいるからな。以前、こちらから情報提供する際に身元の確認上、住所などを詳しく聞いたことがあってな。確か、ここから五分も離れていないはずだ」


 思いがけず、ご近所だったようだ。しかし、医者をここ……霊身教れいしんきょうの信徒の住まいに招いても良いのだろうか。それが気になり、大家の方を見た。大家は、こちらを見て意図を把握したのか、小さく頷いた。


「……大丈夫、なんですか。森谷さんは医者です。医者は、あなたたちの教義に反する職種ですが」

「ええ。……もちろん、医療を施しに来られるのでしたらお断りですけど、あなたの知り合いなんでしょう? だったら、私に拒否する理由はないわ。職業は気に入らなくても、それを生業なりわいとする人間を嫌うことは、また別のこと。まぁ、その方が随分と変わった方なのでしたら、それはそれで考えますけど」


 恐らく、大家の最後の一言は冗談の意味で言ったのだと思う。しかし、その通りで森谷は変人だ。果たして、彼女は彼を受け入れるだろうか……少し心配になった俺と米村。


「大丈夫でしょうか……」

「ええと、色々と自重するように、とは話しておく。それと、可能であれば彼女たちも、最初は全員会っておく方が良いだろう。それも含めて、彼女たち二人に連絡を取ってくれ。そうしたら、俺は森谷さんへ連絡を取ってみる。ただし、期待はするな」


 米村はそう言うと、そそくさと席を立った。中原もそれに続く。


「それでは、本日は長いことお待たせして申し訳ありませんでした。また後日、時間を作って伺いますので」

「あら、お昼をこれから出すので、少しお待ちいただいていいかしら。そんな時間くらいはあるのでしょう?」


 大家は、優しい笑みを浮かべて彼らを制止した。改めて見ると、キッチンにはかなりの量の料理が見えている。


「いえ、そういうわけには……」


 米村が断ると、大家は一転して悲しい顔になった。


「それは困るのよ、大勢が来るって思ってましたので、少し多く作りすぎてしまったの。食べていってください」


 ああ、そういえば……もう他界してしまっているが、俺の祖母も、俺たち家族が帰省した時にはいつも、とんでもない量の食事を用意していたな。毎回食べきれずに残そうとすると、今の大家のような悲しい顔をするんだ。これを断るのは、なかなか難しい。


「……分かりました、それでは、お言葉に甘えます」


 観念した米村は、そのまま椅子に座りなおした。


「では、私は手伝いますね」


 中原はキッチンへ向かった。いいのよ、と言いながら大家が彼女を追いかけていった。その様子に、俺と宮尾は顔を見合わせ微笑ほほえんだ。









 同日、18時。米村と中原が署に戻った後、俺はすぐにチャットを使い、岬、胡桃に連絡を入れた。しかし、彼女たちからが返信がなく、俺と大家と宮尾は、談笑しながらテレビを観ていた。

 あの後、本当はロングコートの女性……鈴石と鉢合わせした件について、米村は宮尾から詳しく聞こうと思っていたようだ。しかし、彼女は相変わらず、署に行くのは断固として拒否した。いつものように、あそこはイヤ、と言って。

 仕方がなく、宮尾については一旦保留とされ、結果、彼女はこんな時間までこの部屋に留まっていた。


「こんなこともあるのねぇ」


 大家がテレビを観て呟いた。ヒヨコが親ではなく、ぬいぐるみを追いかけている映像……インプリンティング、一般には刷り込みと呼ばれるものだ。


「知らなかったんですか? 結構有名な話ですけど」


 インプリンティングについては、様々な動物で確認されているし、何度かテレビで観たことがあった。比較的、広く知られていることだったと思ったが、大家には初耳だったらしい。


「ええ、あまり私は動物に興味がなくってね。でも、今は独りで暮らしているじゃない? だから、そろそろ何か飼おうかなって思っていたところだったの」

「あ、それなら犬が良いですよ! 可愛いし、しつければ室内でも飼えますし、何より私は断然、犬派です!」


 宮尾が犬派だったことは知らなかったが、この年齢で、しかも動物に興味がなかった人間に勧めるにはハードルが高い気がするが……そんなことを考えていると、スマホの振動が、テーブルを揺らした。


「おっと……ようやく岬が返答したぞ」


 スマホの画面には、『新着メッセージ ちー』と表示されていた。俺はそのままスマホの操作を始めた。返信をしようとした瞬間、またスマホの振動が、今度は俺の手に響いた。


「あ、胡桃も返答している……」

「え、ほんと?」


 宮尾はそれを聞き、ようやく自分のスマホを取り出した。どうやら彼女は、スマホの着信設定をオフにしているようだ。よくそれで、今まで即返できていたな、そんなことを思いつつ、チャットを確認する。

 二人とも、経緯については驚いているようだったが、ここに来ることについてはいつでもOK、とのことだった。


「よかったね、ハル」


 彼女もチャット画面を見たのか、にっこりと微笑ほほえむ宮尾。少し安堵した俺は、そのまま警察署に連絡を入れた。もちろん、米村に彼女たちの許可が得られたこと、そして森谷の都合を確認するためだ。


「もしもし、ああ高島くんか。どうだった?」


 何も言わず、彼は結果を聞いてきた。相変わらず話の呑み込みが早い。


「ええ、二人とも、いつでも良いという返答でした。あとは森谷さんがどうか、によると思います」

「そうだな、彼はまだ研究で忙しいようだ。済まないが、彼のことについては明日以降……場合によっては連絡すら取れない可能性もある。予定と違って申し訳ないが、君たちは先に大家と顔合わせしてもらえるか?」

「分かりました、そう伝えます」

「よろしく頼む。じゃあな」


 そのまま電話を切った米村。電話口から、どうもバタバタとした雰囲気が伝わっていた。また何か新発見があったのか、もしくは別の事件でもあったのかもしれない。


「米村さんに電話したの?」


 宮尾はこちらに問いかけた。彼女は、昼間の段取りをすっかり忘れているようだった。もしくは、恥ずかしくて忘れたかったのかもしれないが……。


「あのな……まあいいや、森谷さんはどうも来れそうに無いらしい。だから、早いうちに岬たちと大家さんの顔合わせをしておいてくれってさ」

「りょーかい、送っとくね」


 宮尾は、それを聞くや否や、チャットで岬たちに連絡をした。また手の中でスマホが震える。しかし随分と何度も振動している……何を連投しているんだ、こいつら。


「お友達は来れそうなの?」


 スマホのことなど何も分からない大家は、心配そうにこちらに尋ねた。


「はい、えっと……明日の午後、15時くらいに来れるそうです」


 宮尾は大家にスマホの画面を見せる。しかし、最新機器にうとい大家はそれが何を意味するのか、理解していない様子だった。ただ、こちらに15時頃に来る、ということは理解したようだ。


「じゃあ、お菓子でも用意しておきましょうか。……そうそう、遅れないようにちゃんと言っておいてね。私、そういうところは結構うるさいのよ」


 ふふ、と大家は笑っている。しかし、俺だけでなく宮尾も、彼女が時間に厳しいことは、午前中のやり取りで嫌になるほど理解していた。


「……大丈夫かな、ちーちゃん……」


 ボソッと俺の耳元で囁く宮尾。そう、俺はそれがとても不安だった。あの遅刻常習犯の岬が、果たして時間通りに来るかどうか……。


「……神に祈るしかないだろ、そればっかりは」


 顔を見合わせ、苦笑いする俺と宮尾。そして、宮尾はおもむろに立ち上がった。


「じゃあ、今日はお邪魔しました。もう遅いし、弟の食事も作らないとなので」


 急に行動を始める宮尾に、少し戸惑った様子の大家だったが、弟の食事を作らないといけない、そのことは既に話してあったため、特に引き留めることもなかった。


「ああ、そうだったね……これから大変になるけど、あなたも気を付けてね。彼をみんなで守りましょうね」

「うん! じゃあね、大家さん、ハル!」


 そう言うと、宮尾は元気よく管理人室を後にした。残された俺と大家は、黙って彼女を見送った。


「良い子だね、高島君も、あの子を大事にしなさい。そのうち家族になるんでしょう?」

「違いますよ……そういう関係じゃないです。でも……」


 そう、そういう関係じゃないけど、大事にしたいな、という気持ちは、ずっと心の中にある。例え彼女に何があろうと、俺は味方でいたい、そう思っていた。


 さて、色々とあった今日だったが、収穫も多かった。特に、あの女性が鈴石であるという、ほとんど確信に近い情報が得られたのだ。俺は今日から軟禁生活が始まるわけだが、時間を無駄になんてするものか。鈴石を迎え撃ってやる。


 そう意気込んだは良いものの、もう体力の限界だった俺は、夕食もほどほどに、そのまま眠りについた。久しぶりの、ゆっくりした睡眠……俺はそれに身を委ね、明日から始まる生活への英気を養った。

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