第5章 どこかで誰かの笑い声が聞こえる

 8月25日、東京総合国際病院。新宿に存在するその病院は、全国的にも名の知れた大病院である。バラエティ番組でお馴染みの芸能人健康診断から、他の病院では扱いきれない難病・奇病のたぐいまで幅広く扱う、まさに中核となる病院。

 そこの地下二階、薄暗い研究室に『脳神経内科研究室』と表示された場所がある。森谷もりたに とおるは、その中にいた。


 無精髭ぶしょうひげにボサボサの髪、というような誰もがイメージするマッドサイエンティスト、と彼は大きくかけ離れていた。白衣は毎日おろしたてのものを着用する。髭も整えられ、清潔感のある短髪。また、芸能事務所からスカウトされるほどに爽やかなイケメンであった。原宿などを数メートルも歩けば、幾人いくにんもの女性が振り返る、そんな彼が、地下二階という人の目につかないところにいる。


 何も知らない人からすれば、それは勿体もったいのないことだと思うだろう。しかし、森谷には特殊な性質があった。

 患者と喋るより、脳と喋りたい。そんなことを、患者に直接話すような人間性。

 ヒトをモノとしか認識していないような、そういった言動。

 彼は、この研究室内ですら浮いた存在だった。


 しかし数々の受賞歴があることや、研究や治療に対しては真摯しんしに仕事をする姿勢、なおかつ、ベテランの脳神経内科医が見てもわからないような脳の変化を即答する、そんなところを評価され、今は研究室長にまで上りつめていた。38歳にして異常な昇進を果たした彼であったが、特にそれについて興味を示してはいなかったようだ。


 そんな彼に、警察から鑑定の依頼が飛び込んできた。通常、特に公的な機関に所属していない人に対し警察が依頼をすることはない。

 しかし、今回の事件、安藤 理佐、奥村 保昌の変死事件だが、明らかな脳の萎縮いしゅくがある、という共通点が発見されたこと、さらに鑑識や法医学の権威たちによっても、その萎縮いしゅくの原因が発見できなかったことが重なり、やむを得ず森谷に依頼が舞い込んだのである。


(なんだっていいけど、楽しみだなぁ)


 その依頼を受けてから、上機嫌な森谷。鼻歌交じりで何やら試薬をいじっている。他の研究員たちは、その様子を見ても全く意に介することはなかった。それよりも、そろそろ来訪するであろう招かざる客たちに対する準備に追われていた。


 10時15分、研究室のドアがノックされた。待ってました、と言わんばかりに森谷はドアを勢いよく開け、満面の笑みで客を招き入れた。


「さあどうぞ! そして早く見せてください!」


 部屋に招き入れるやいなや、そう口走った森谷。そんな彼に、来客である警察官数人は戸惑っていた。その中に、あの米村もいた。


(なんだこの人、なんでうれしそうに……?)


 怪訝けげんな表情になる米村だが、まあ、仕事が早く片付くならそれはありがたい、こんな試薬クサい場所から早く逃げたい、そう考え、茶封筒を提示した。


「……そこに例の画像データが入ったUSBがあります。ああ、ウイルスについてはご心配なく」


 医療機関のPCに警察がウイルスを持ち込んだ、なんてことになったらそれこそ大ごとだ。そう考えた米村は、一応念押しをした。しかし森谷は聞いていないようだ。さっさとUSBを取り出し、フォルダを開け始めた。


「ふぅむ……?」


 手際よく並べられた二つのMRI画像。安藤 理佐のものは、死後数日経過していたと思われるため損傷が見られるようだが、思いのほか状態はきれいだ、というのが、検死医の見立てだった。

 ちなみに、奥村は身寄りがないため司法解剖されたが、安藤は家族……彼女の両親が拒否をしたため、画像のみの提出となった。というのも、既に首が切断されていることに加え、声帯部分が切り取られていたことで、もうこれ以上は、と懇願こんがんされたのだった。


(しかしこの男、本当に分かるんだろうか……?)


 数々の功績を聞いていたものの、実際に会ってみると普通の好青年だ。いや、いかどうかはともかくとして、どうにも優秀というには胡散臭い。米村がそんなことを考えていると、画像の一部を拡大した森谷の手が止まった。


「……前帯状皮質ぜんたいじょうひしつの肥大がある、そして頭頂葉とうちょうよう付近の神経細胞が極端に少ない。結果的に萎縮いしゅく、と考えられたか。どこかで見たな、これ……?」


 うーん、と悩み始めた森谷。その様子に、周りの研究員たちがざわつき始めた。その様子に困惑する警察官たち。米村も、一体何をしているのかと不安に駆られている。


「くそ、思い出せない……しかし、この二つの共通点……おそらくですが、情動じょうどう的なコントロールが効かなくなっていたこと、感覚が失われていたこと、それは有り得るかと思います。特に体性痛たいせいつうについては、針が刺さっても気づかないレベルだったでしょう」


 警察たちに向き直る森谷。そしてまた続けた。


「二つとも何らかの外的な損傷はありますが、割ときれいに見えている範囲で言えば、そんなところでしょうか。それとできれば、そうですね、この脳の細胞を見てみたいのですが」


 森谷は、二つの画像の同じ部分を指さしながら言った。黒っぽくなっている部分。先ほど彼が何か呟いていた部位だろうか。


「奥村については提供可能だと思うが……安藤は、家族から拒否されている。申し訳ないが、それでもいいだろうか」


「そうなんだ、勿体もったいない」


 勿体もったいない……その言葉に引っ掛かりを覚えた米村。確かに二人の細胞を調べることにより、より事件の関連性が見えてくるというのは、理解できる。しかし、勿体もったいない、というのは遺族、遺体に対する冒涜ぼうとくだ。


(こいつは……遺体をモノとしか見ていないのか? 人なんだぞ?)


「では、奥村の検体はまた追って届けることにします。それでいいですね?」


 沸々ふつふつと湧き出る怒りを抑えながら、米村は淡々と告げた。米村自身、こんな感情があったのか、というくらいに感じた怒りだった。他の警察官は、普段全く感情を示さない米村の、怒りがにじみ出る様子を見て驚いたようだった。しかし、森谷はそれに気づいていない。


「よろしくお願いします。できれば、次また死体が出たら、その時は検体をいただけると助かりますけども」


 悪びれる様子もなく、森谷はそう言って先ほどのUSBを差し出した。米村の顔色は、赤から白に変わっていた。


「……そうならないようにするのが、我々だ」


 そう言ってUSBを奪い取ると、無言で部屋を去る米村。それに続く警察官たちと、ポカンとする森谷。


「なんだ今の? 愛想悪いなぁ」


 やや不満な顔をする森谷だったが、そんなことはすぐに忘れ、先ほどの画像のことを思い出していた。どこかで、それも、割と最近、誰かから見せられたような記憶があるのだ。


「こんなことなら、他の人の顔も覚えておくべきだったかな」


 はぁ、とため息をついた森谷。


 一方で、エレベーターに乗り込んだ米村も、同時にため息をついていた。天を仰ぐが、エレベーターの天井の古いシミが目に映るだけだった。


「……捜査に協力してくれている人だ、失礼だったな、あの態度は」


 すでに冷静に自己分析を始めていた米村。あの言葉、その意味を考えると、怒りを通り越して呆れることしかできなかった。あの人、いや、あれは人ではない。あれに何か言っても無駄だろう。

 今までに見たことのない表情をたくさん見せる米村を、心配そうな目で見る他の警察官たち。彼らも、森谷の発言に怒りを覚えたはずだが、それよりも気になることがあった。そのおかげで、ある意味では森谷は難を逃れた、というべきだろう。


(しかし、分かったことがあった。やはりあの事件は共通している。そして……)


 ペラペラと手帳をめくる米村。先ほどの森谷の意見、情動のコントロールと、体性痛のマヒ……それが彼らの死に、何か関係しているというのか。


「さて、署に戻るか」


 時間は13時過ぎ。米村は、まだ昼食を取っていないことに気が付いた。しかし、もはや取る気力はなかった。一刻も早く報告しよう、そう思うだけであった。









 同日、16時を回ったころ。東京総合国際病院内のコンビニに、森谷はいた。彼の燃料、安い紙パックのコーヒーをまとめ買いしに来たのだった。

 森谷は、そういうことでもない限りは地上に現れない。病棟で会うことはまずないし、会っても人の顔を覚えない。誰に会っても初めまして、と返すため、挨拶はすれど、声をかける人はいなかった。そんな周りの様子を彼は気にしないものだから、周りの人たちもそれに慣れていた。


「さてと、あとはあのデータをまとめ直して……」


 そう独り言を呟いたとき、背後から声を掛けられた。


「おや、森谷先生じゃないですか。珍しいですねぇ」


 森谷が振り返ると、50代くらいの白衣の男性がいた。小奇麗にしてはいるものの、ひげの剃り残しや白衣のシミが目立っている。


(誰だっけかな、この人……)


 全然覚えてない、という空気を全く隠そうとしない森谷に、その男性は苦笑いしつつ、


「相変わらずひでぇな。前に色々世話してやったんだけど」


 と言った。


 森谷は、仕方なしにネームプレートを見た。渡辺わたなべ 淳一じゅんいち。……どこかで会ったことがあるな、と考えた彼はとりあえず挨拶をするように頭を下げた。


「いやあ、忙しくてつい忘れてしまうんですよ」


 忘れた、ということをはっきりと口に出す森谷。その言葉に、腹を抱えて笑い出す渡辺。


「いやまったく、先生はそれでいいと思うよ、面白くていい」


 ひとしきり笑い終えると、ゴホン、と一回咳ばらいをし、森谷に訊ねた。


「……いや、警察が来たって話じゃないですか。一体何したんです?」


 神妙な面持ちでこちらを見ている渡辺。ネームプレートをよく見ると、内科医長、と小さく書いてあった。おそらく、病院の名に傷をつけるようなことしたのでは、と疑っているのだろう。


「……いいえ、詳しくは言えませんが、私の能力が試されただけです。犯罪なんて起こす気もないですし、そんなことで貴重な時間を取られるのは御免です」


 さすがに、鑑定の依頼があった、とは言えなかったものの、彼は自分自身への嫌疑については否定をした。そもそも、普段から外に出歩かないので、犯罪をすることがまずないのだ。


「うん、まあそんなことだろうと思ったさ。それに、俺も警察には苦い思い出もあるし、そこは同情するってもんだ」

「苦い思い出?」


 思わず森谷は訊ねた。渡辺は、森谷の反応に驚きの表情を見せた。何を話しても、脳以外に興味を示さなかった男だ。それが渡辺の話に興味を持った、ということは、相当に警察により疲れさせられたか、あるいは何か興味をくものがあったに違いない。


「お疲れさん、だったな。そう、俺もあの治験の時、大量にステったもんだからよ、散々取り調べを受けたんだよな……。」


 ステる、とはsterben……ドイツ語で『死亡』を意味する単語から取った造語だ。病院では患者などに分からないよう、隠語のようなものが多く存在する。これはその一部だ。

 治験で大量死、とはなかなか穏やかではない。その話を聞き、ふと記憶がよみがえってきた。ああ、もしかして例の画像の既視感は……


「失礼、以前私は、先生のその患者たちの画像を見せてもらったんでしょうか?」


 確認のため尋ねる森谷。それに渡辺は頷いた。


「そうそう、脳に興味があるって言ってたから、二年位前かな、15人分の画像を見せたと思うぜ。俺にはさっぱりだったが、随分と熱心に見てた様子だったと思うけども、それも忘れてたのかい?」


 ニヤリと渡辺が笑う。しかし、森谷は急に考え事を始めた。彼の世界から、すべての人間を消し去ってしまったかのような表情に、渡辺はぎょっとした。


「……すみませんが、その症例は報告されたのでしょうか?」

「え、ああ、公にってことか? できねぇよ、新薬の治験での出来事だしよ。それに、あの会社もえらい騒ぎになっちまって、さすがに出すような雰囲気じゃなかっただろうが。まあ、うち以外であるとすれば、機構と警察くらいだな、情報を持ってるのは」


 渡辺の言葉に、森谷は確信した。そうだ、あの違和感は、これだったか。しかし、決め手が欲しいな……


「今、彼らのデータはどこに?」

「え? カルテにあるんじゃないか? ……10年くらい前の治験データだしな、電子化もしていたし、多分な」


 なんでそんなことが今さら、と訊ねようとする渡辺だったが、森谷はそれだけ聞くと、挨拶もなしに足早に去っていった。残された渡辺は、小さくなる森谷の背中を黙って見ていた。そして渡辺の足元には、紙パックのコーヒーが置き去りになっていた。


「なんなんだ、一体……」


 渡辺も、彼が足元に残したコーヒーに気付かず、そのままボリボリと頭を掻きながら去っていった。









 渡辺が去った後、そこに一つの影があった。真夏だというのに、ロングコートを着た、髪の長い女性……その足元には、取り残されたままの紙パックのコーヒーが置いてあった。

 一瞬の無音、そして勢いよく蹴りだされた右足。無防備な紙パックは、血飛沫ちしぶきを散らすかのように中身を散乱させ、重い音を立てて廊下に転がった。その様子を満足そうに眺める女。


「もうすぐ……だ」


 一言、ボソリと呟き、不気味な笑みを浮かべた。そして、何事もなかったかのようにまた歩き出した。蒼白そうはくな顔面が病院の白と同化し、やがて姿を消した。飛び散ったコーヒーだけが、彼女の存在を告げているかのようだった。









「……」


 8月26日、11時の代々木。いつにも増して表情のない米村だが、どこか不機嫌な様子も窺える。カフェ・レストリア……彼はまたここに来ていた。それに、目の前には、その不機嫌の理由となる存在があった。


「す、すみません、無理を言ってしまって」


 俺は米村の前に座っている。彼は、無表情のままこちらを見ている。少しだけ、やっぱり止めておけばよかったかもしれない、そう考えていた。





 さかのぼること、午前10時。代々木駅周辺のコンビニに、俺は姿を現していた。目的は、米村に会うことだった。


(……やっぱり気になるんだよな、あの一言……俺の、名前……)


 あの時の、彼の発言が俺を突き動かしている。今日は宮尾も岬も、当然胡桃もいない。誰にも内緒で、米村を待ち構えていた。

 そろそろアスファルトが悲鳴を上げる時間帯、そのころになり、ようやく待ちがれた存在が、陽炎かげろうの先に現れた。やはり無表情、しかし、さすがの彼もこの暑さで汗を流し、少しだるそうな雰囲気を出している。


(よし、後を追うぞ)


 話しかけやすい場所に出たところで、偶然を装って声を掛ける算段だった。それは、あの時まではうまくいっていた。……いや、そもそもうまくいってなかったのかもしれない。あの時、それは、米村が角を曲がって小さな路地裏に入った時のことだ。

 すかさず後に続く俺。しかし、目の前には彼がいた。突然の出来事に固まる俺と、相変わらず無表情の米村がお互いに顔を合わせ、立ち尽くしている。


「……警察を尾行だなんて、バカというか、勇気があるというか。何か用なのか?」


 ヤバい、不機嫌だ。それはそうなんだけども。大学生に、しかも先日、軽く説教したばかりの……そんな奴につけられていた、それは彼にとって屈辱的だろう。


「えっと……」


 本当のことを告げればよかったのだが、なぜか言いよどんでしまう俺。少しの沈黙、室外機の音がうるさく響く。


「はぁ、おおよそ検討はついているよ。……、だろう?」


 俺はぎょっとした。何も言っていないのにバレていた。暑いのとは違う、冷や汗が俺の首筋まで流れてくる。


「確かに、あの時ちゃんと言っておけばよかったな。それは俺の落ち度でもある」


 そう言って、くるりとひるがえった米村。そして、付いてこい、と言わんばかりに歩き出した。仕方がなく付いていく俺。嫌な汗が、既に滝のようになっていた。

 すると、少し歩いたところで米村さんは立ち止まった。


「……今日はおごらないからな?」


 顔を上げると、目の前にはあのカフェ……つい先日、彼に連れられて来た、レストリアがあった。無言のまま入店する米村。


「あ、あのちょっと?」


 慌てて俺も続いて入る。冷やりとした空気が俺の体を包んだ。冷房がとても効いている……ああ、あの時と同じか。





 ……というのが、今までの経緯だ。落ち度がある、という割には不機嫌そうな米村だったが、ここまで来たのならもう、当たって砕けるしかない。そう俺は考えた。


「……それでは、単刀直入に。米村さんは、俺の……」


 静かにため息をついた米村は、俺の言葉を制止した。


「いい、それは俺から伝えるべきことだろう。正直言ってあの時、あんなことを呟いてしまったことは、ずっと俺の中で引っかかっていたんだ」


 少しの無言。それを察したかのように、マスターが紅茶を運んできた。ここは紅茶がイケると、以前米村がそう言っていたことを思い出し、アメリカンコーヒーを頼んだことを少し後悔した。


「そうだな……君は、どこまで聞いている?」


 どこまで、と聞くということは、つまり両親のことを指しているのだろう。成程、それがあったからあの時触れなかったのかもしれない。


「俺が高校生になった頃、生活安全課の方が教えてくれました。俺の両親がどうなったか、そして、犯人についてのこと、あと、あの会社のこと」

「……随分とお人好しだったんだな、その人は」


 苦笑いのような無表情を浮かべた米村。ここまできて、ようやく俺は、彼が俺の身を案じていたということに気づいた。そうでなければ、捜査情報を漏らすことはなかっただろう。結果として、事件の連続性に気づいてしまったのだけれど。


「そうだ、君の両親……吉岡 拓馬、聡美夫婦は殺害されていた。殺害方法も残虐そのもので、鉄製の杭、それが彼らの体を一つ残らず貫いていた。しかし、死因は失血死……つまり、じわじわと杭を刺していったことが窺えた。」


 死因、さすがにそこまでは聞いたことはなかった。そこまでするということは、よほどの恨みを買っていたか、もしくは狂った殺人犯だったのか……


「容疑者……もう亡くなっている以上はどうにも追及できないが、鈴石 初穂は、奇跡堂の研究室で息絶えていた。衰弱死、という扱いになっていたな」


 そこは俺も聞いたことだった。でも、衰弱死だったということは知らなかった。というよりも、俺の両親を殺した犯人が、死んだ、それだけで十分だった。死に方なんてどうでもいい、ただ、恨みをぶつける相手がいなくなった、ということなのだから。


「奇跡堂は倒産し、社長は服毒自殺。残された社員たちは、これといってコネクションのある会社ではなかったから、おそらく苦労しただろう」

「……それで、米村さんと、俺はどこで会ったんですか?」


 肝心なことはそれだ。さっきまでの情報は、高校生までの俺だったら喉から手が出るほど聞きたかったことだろう。

 しかし、今は宮尾や岬がいる。俺のことを本気で心配し、助けてくれる親友が。彼女たちがいてくれたから、両親の死についてそこまで執着することはなくなった……のだと思う。本人たちには言わないけれども……。


「すまない、しかしどこまで知っているのかは確認しておきたかった」


 そう言うと、紅茶を少し啜った米村。そして、遠くを見つめるようにして続きを話し始めた。


「……俺は、当時新米の警官だった。ちょうどパトロール帰りだったかな、電話が鳴っていたから、出たんだ。相手は通行人、君の家の前で、不審な物音を聞いたのだという。何となく嫌な予感がして、急いで君の家に向かった」


 そして、しばらくまた無言が続いた。その緊張は、強い冷房の風ですらかき消すかのように、渦を巻いて俺らの席を取り囲んでいる。


「そこで、俺は会った。倒れた君、そしてぶら下げられた、君の両親。……無我夢中だったさ、それこそ、警察官になって初めて、というほどに」


 もしかして、記憶の中にうっすらとあった、あの倒れるときに聞こえた声、あれが米村のものだったのかもしれない。その彼が、今は目の前にいる。


「すまない、もう少し早く辿りついていれば、あんな現場を見ることはなかっただだろうに。一生消えない傷を負わせてしまった、そのことは、謝っても謝り切れないと思うが……」


 今まで彼と話してきたが、これほどまでに弱弱しく、しかし強い信念で話す姿を見たことはなかった。よく見れば、わずかに手が震えているようだった。

 警察官として、人の命を守ること、それが為せず。その上、子どもに残虐なシーンを見せることになった。それは、許しがたいことなのだ、そう思われた。

 でも、それは違う。米村は、助けてくれた。


「俺は、助けられました。米村さんに。あのとき、誰かの声が聞こえていた。それはわかっていたけれど、感謝なんてする余裕もなかったから。でも、今ははっきりと言えます。助けてくれて、ありがとうございました」


 俺は、今まで言えなかった感謝を漸く告げられた。その意味だけでも、とても大きいものだと思う。米村、宮尾、岬……みんなの助けがあって、今こうしている。


「……そうか、俺も、ずっと心にもやがかかっていた。事件のことがずっと頭にあったからな。でも、そうか、感謝されていたか、そうか……」


 再び静寂が訪れる。しかし、包んでいた緊張感は、どこかへ消えていたようだった。冷たい冷房の風を感じられるほどに。


「あ、あの」


 俺がまた話を続けようとしたその時、米村のスマホが鳴り始めた。


「……すまない」


 米村は席を立ち、歩きながら話し始めた。先ほどまで、少し沈痛の面持ちだったが彼だが、またいつもの無表情に戻っていた。それがなんだか可笑しく思えた。

 しかし、彼の空気は一変する。途端に険しくなる表情、おそらく何かがあった、それははたから見ても、たとえ相手が米村でも、はっきりと分かった。


「……分かりました、すぐに向かいます」


 電話を切り、上着を手に取る米村。そして千円札を一枚置いた。


「すまん、緊急の用事だ。金はこれで払っておいてくれ。足りなければ……そのうち返す」


 そう言い残し、彼は足早にカフェを去っていった。後には、飲み残された紅茶と、固まったままの俺だけになった。何が起きたのか聞けばよかったかな、そう思ったが、米村の先ほどまでの言葉を思い返した。

 彼の、俺の身を案じる言葉。無表情な彼が、はっきりと見せた態度。あれを考えれば、もうこれ以上、心配させるような行動はとれない。


(これ以上、事件に首を突っ込むのは、止めたほうがいいんだろうな……)


 そう思い、店を立ち去ろうとバッグを手に取った。すると、スマホに通知が来ていた。新着チャットの通知……相手は、宮尾だった。


トーカ『東京総合国際病院で何かあったみたい。今警察を呼んだようだけど、ヤバいらしい!』

ちー『もしかしてまた事件かな?』

胡桃『私、家が近いので向かいます!宮尾さんは病院にいるんですか?』

トーカ『うん、でもここからだと良くわかんないや、来てくれるなら助かるよ』

胡桃『わかりました、向かいますね』


 東京総合国際病院……確か、代々木駅近くにある大きな病院、だったな。そこで何かがあった? 通知の時間は、ちょうど三分ほど前。米村が電話に出たころだ。

 まさか、また変死事件が? そして宮尾がなぜそこにいる? さっきようやく引いた汗が、また噴き出してくる。


高島『俺も向かう、場所は受付でいいのか?』

トーカ『うん、とりあえず受付に来て!』

ちー『ウチも行くよ!』

胡桃『では、受付で落ち合いましょう!』


 スマホをバッグにしまい、代金を払う俺。結局また奢ってもらってしまったが、そんなことを考える余裕はなかった。何かが起きた、しかも宮尾のいるところで。心配しないわけがない。


(すみません米村さん、今回は大目にみてください……)


 心の中で懺悔し、俺も足早に病院へ向かった。何が起きているのか確認したら、すぐに帰ればいい……俺の考えは、甘いものだったことを、この後存分に思い知らされるのだった。

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