第2章 過去が事件の足元を彩り始める

 高島 春来、旧姓、吉岡よしおか 春来。彼は、特別変わった家庭環境に置かれていたわけではなく、むしろ裕福すぎるくらいに幼少期を過ごしていた。望むものは与えられ、望むことはさせてもらっていた。

 しかし、その後必ず、母から『そこから何を得られたか』を問われ、その回答によっては、『次は無いわね』と突き返されてしまうため、幼い身でありながら、必死に物事の意義を考えるようになったのだ。


 彼の父、吉岡よしおか 拓馬たくまは、新薬の承認を行う機関で働いていた。若くして、それなりの役職を得ていた、いわゆるエリートであった。聡明で厳格、しかし情に厚く、涙もろい。そんな人柄で、周囲には人が絶えなかった。言い寄る女性も多かったそうだが、彼は妻一筋であった。


 彼の母、吉岡よしおか 聡美さとみは、大学時代にサークルで拓馬に出会った。彼女も同じく、拓馬の人柄にきつけられ、聡美の方から交際を申し出た。拓馬は、聡美の朗らかな性格に惹かれ、交際を始めた。その後、卒業と同時に結婚をし、まだ家計的に余裕のない中、彼女は春来を身籠みごもった。


 しかし、春来の出産後に容体ようだいが急変してしまった。一命は取り留めたものの、出血多量で子宮の機能に障害が生じ、おそらくもう、子どもは望めないだろう、と医師から告げられていた。拓馬と聡美はしばらく落ち込み、今後について真面目に話し合うこともあった。

 その一方で、拓馬は次々と出世をし、多忙の日々となり自宅には帰っても夜中。聡美は、産まれたての春来の世話で手一杯となり、第二子について考えることは次第に薄れていった。


  春来が10歳の頃、奇跡堂薬品きせきどうやくひん、という製薬企業の新薬承認を、拓馬は担当することになった。一見、毒性試験も薬物動態もこれといって問題はない。ただ、その新薬『エンドラーゼ』には、どうしても気になる部分があった。


 『エンドラーゼ』は、オピオイド受容体を介さずに、オピオイド系製剤と同レベルの鎮痛効果を得られる、という画期的かっきてきな製品であった。モルヒネを代表とするこれら従来の製剤は、オピオイド受容体を介すことによって、便秘や傾眠けいみんなど、さまざまな副作用をていしてきた。がん性疼痛とうつうの患者に主に使用されるが、その副作用から倦厭けんえんされることも少なくない。

 しかし、『エンドラーゼ』は、その受容体を介さない、つまり便秘も、眠気も、吐き気すらも乗り越えた、まさに夢のような鎮痛薬なのだった。しかも、薬物血中濃度は一回の点滴で20日ほど有効域を保つ。半減期もまた非常に長いため、理論上は一か月に一回で良い、そんなことからも、とんでもないものだという認識を増長させるのだった。


(詳しい薬理機序は不明……第三相臨床試験まで全く問題なく通過している……副作用の発現率は、0.5%、最頻さいひんなのは頭痛、か……)


 まさに、夢、過ぎる。その上、有効性の評価に至っては、昨日まで痛い痛いと呻いていた患者が、投与数時間後には、ケロっとした表情で食事をしている、などという記載もあった。いくらなんでも、これはおかしい、そう感じた拓馬は、承認申請を保留としていた。


 無論、奇跡堂薬品側も黙ってはいなかった。これだけ画期的で、しかも素晴らしい結果をもたらした新薬の承認が渋られている。その原因が、特に根拠のないものなのだから。


 奇跡堂薬品は、大手医薬品メーカーではない。ほんの少し前に製造した頭痛薬が世間的にヒットした、それだけでなんとか食いつないでいるような、そんな企業だった。いつ、経営統合ないし合併などされても不思議ではない。社長の三屋みつや 浩紀ひろきとしては、社運を賭けた製剤、それが『エンドラーゼ』だった。


 当時、奇跡堂薬品の開発担当責任者であった鈴石すずいし 初穂はつほは、連日、拓馬のもとに承認の催促のメールを送信し、却下であるならばその理由を教えるよう、要求した。しかし、返答は「もうちょっと待ってほしい」というものであった。


「社長、もう少しお待ちください。今度は直接、担当の者に掛け合ってみます」

「いつまで待たせる! 何があったていうんだ! 融資も、この『エンドラーゼ』にかかっている! それが分かっているんだろう!?」

「申し訳ございません!早急に!」


 ピッ、ツー、ツー……


「はぁ……」


 鈴石は、国立大学の薬学部を卒業後、医学部の博士課程に進学、そこで痛覚刺激と伝導路に関する論文を発表し、脳神経関連の学会で奨励賞を受けたりした、エリートだった。そんな彼女に、やりたい研究をしてみないか、と声をかけたのが三屋である。

 そういった経緯で、自分と、社運のすべてをかけて製造した『エンドラーゼ』であるから、それこそ、第二の我が子のような思いをもっていたのだ。


 そんなこともあり、しびれを切らした鈴石は、直接、承認担当へと交渉に乗り出したのだ。会議室に通され、担当者の到着を待つ。


(理論上は全く問題がない。安全性も、生殖せいしょく毒性も見た。ヒトへの試験も、むしろ喜ばれたくらいだ。何が問題なんだ? 薬理作用がはっきりしない製剤なんていくらでもあるはず!)


 ギリギリ、と爪を噛みながら、担当者の訪問を待つ。まさか、零細れいさい企業の製剤なんか承認しない、というのではないだろうな? そんな疑心暗鬼ぎしんあんきも生まれたころ、担当の吉岡拓馬が、会議室に姿を見せた。


「少々遅くなり申し訳ありません、担当の吉岡です」

「奇跡堂薬品の鈴石です。単刀直入にお尋ねします」


 鈴石は、ふぅ、と息を吐き、意を決して質問をした。


「何を問題としているのか、明確にお答えいただきたい」


 やや荒っぽい言い方となってしまい、心象を悪くしたかもしれない。それでも鈴石、いや奇跡堂薬品には大きなものがかかっている。必死なんだ。それを伝えたかったのだ。


「それなんですがね」


 拓馬は、うーん、とうめきながらも、はっきりと言葉にした。


「……は?」


 突拍子とっぴょうしもない言葉に、鈴石は唖然あぜんとなった。


「ですからね、科学的に正しいかもしれませんが、道義的に正しい薬なのかどうか、それが私には判断しかねているんです」


(なにをわけのわからないことをわめいているんだろう、この目の前の男は。道義的? 患者を、痛みから救う、それが道義に反する?)


 意味の分からない反論に、思わず血が上り、顔を紅潮させる。


「お言葉ですが……」


 ヴーン、ヴーン、


 反論しかけた鈴石の携帯電話が振動を始めた。しまった、切っておくべきだった、と焦り、電源を切ろうと思ったものの、


「どうぞ」


 拓馬は意に介さず、携帯電話に出るように促した。


「……失礼します」


(発信先は……東京総合国際病院? あぁ、『エンドラーゼ』の治験を行った、あの……)


「……はい、鈴石です。はい、え?」


 鈴石の顔面が赤から白へ、そして青へ変色した。その場に、へたり、と崩れ落ちる鈴石。その様子に、尋常ならざるものを感じた拓馬は、冷たい何かを感じつつも、電話が終わるまでは黙っていることにした。


「……分かりました」


 ピッ


「ど、どうかしましたか?」


 拓馬の問いかけに、鈴石は反応を示さない。視線も、どこか虚空こくうを見つめている。と、不意に鈴石は立ち上がり、ふらふらと会議室を後にした。


「え? あ、あのっ!」


 拓馬は呼び止めるが、鈴石の耳には届いていなかったようだ。そのまま、廊下の奥に消えていった。

 さすがに異常事態であると察した拓馬は、治験元の病院に電話を掛けた。


「はい、東京総合国際病院です」

「私、機構の吉岡と申します。例の治験薬について……」

「っ、少々お待ちください!」


 そう言いかけた段階で、受付の女性は内線へ切り替えた。数秒後、担当の医師を名乗る男性が電話に出た。


「もしもし、機構の方? あぁーそれはよかった。今回の治験の担当医の渡辺わたなべです」

「吉岡と申します、それで、何があったんです?」


 先ほどの鈴石の様子からして、被験者の一人が急変した、とか何かだろう、それは確かに一大事だな、などと考えていたようだが、渡辺の発言に彼は耳を疑った。


「……15。しかも

「は?」


(15人? 同時に? おいおいそれは……さすがにどっきりか何かではないのか?)


 思わず電話を落としそうになった拓馬だが、さらに渡辺は言葉を続けた。


「投与して、1か月くらい経ってたかな。被験者全員がさ、仲間意識を持ったみたいで全員で談笑してたんですよ。で、俺が楽しそうだね、って聞いたらさ、みんなで旅行にでも行こうか、って話してたらしいんですよ」

「それは、良かったと思うのですが、ということは、その旅行先で事故、とかですか?」

「いんや」


 渡辺は、少し言葉を選びながらも、また話し始めた。


「痛みを抑えたって、TPN……中心静脈栄養のことですけどね、それをやってたり、リハビリも何もしてない患者がいきなり旅行なんかできねぇでしょ? だから、てっきり俺はをしてんだなぁって思ってたんです」

「夢……」


 ふと、『エンドラーゼ』のことが頭に過った。夢のような薬、夢……


「んで、今日の午前。その談笑してた患者15人全員が、全くおんなじ時間に、心肺停止となったんです」

「そ、それはさすがに異常……」

「ですよねぇ」


 電話越しに、渡辺が頭をボリボリと掻いているのが、振動で分かる。15人、同時に、被験者が死亡。これだけで承認は却下だ。ただ、因果関係が分からないことには、判断が難しいが。


「先生が気にしてんのは、因果関係、でしょ? 『エンドラーゼ』の」


 こちらが質問をする前に、渡辺は切り出した。


「あるでしょうね。作用機序不明の、しかもモヒモルヒネなんかよりえー薬剤だ。俺は、この薬は、止めとくべきだと思いますね」

「……貴重な情報、ありがとうございます」

「どうも」


 電話を切った拓馬は、即座に、『エンドラーゼ』の承認申請書を却下し、以降の治験についても、行わせないよう、上司に報告した。


 『エンドラーゼ』のニュースは、翌日にはマスコミにより報道され、奇跡堂薬品は大バッシングを受けることになった。病院側の過失は、状況的にないと判断されたため、批難の先を一手に引き受けることになった奇跡堂薬品は、あっけなく倒産した。


 また、謝罪会見とめい打って、高級ホテルの大広間に姿を見せた、奇跡堂薬品の社長、三屋はよろよろと会見テーブルまで歩いたかと思えば、そのまま大量に吐血をして死亡した。会見前に毒物を内服したとの情報もあるが、真意は不明のままだとのことだ。

 結果として、その会見の様子も全国に生放送されてしまい、多くの国民に、『奇跡堂薬品=悪』というイメージが定着してしまった。


 一方の拓馬は、悪魔のような薬を世に出さなかった英雄、などと称賛されるようなことはなく、一連の報道を、ただ悲しそうな目で見ていた。

 彼らがやったことは、やはり間違っていた。少々、心にモヤモヤとしたものはあったが、それはそれ、と割り切り、日常へと戻っていった。









 春来が11歳になった10月25日、拓馬は仕事を休んで部屋の飾りつけをしていた。キッチンでは聡美が、春来の好物をたくさん作っている。時刻は15時。そろそろ、小学校の授業は終わるころだ。


「こんな風に、みんなでパーティできるなんて、いつぶりだろうね」


 しみじみと、しかし今まで家庭をかえりみず、申し訳ない気持ちもあった拓馬は、聡美につぶやいた。


「なーに? 大事なのは回数じゃないでしょ、心がこもっていれば、それでいいのよ。春来も、大分そういうことが分かってきたし」


 無い胸を張る聡美。


(そうだよな、教育とか、そういうことは全部任せちゃったけど、どんな思い出になるか、だよな)


「いいこと言うよな、聡美は」

「ふふ」


 忙殺されることが多かった日々の中、こうして二人でゆっくりと話をできるのは、彼にとって非常にありがたいことであった。そして何より、家族の温かさを感じることができるのだ。


(それにしても……)


「……料理、作りすぎじゃないか?」

「え、そう?」


 から揚げや、ハンバーグ、ピザなどの定番料理と、きれいに盛り付けられたサラダ。それに寿司まである。そして、聡美はまだ何か煮込んでいる。


「食いきれるかな」

「余ったら、明日のあなたのお弁当にするから、大丈夫よ」


 途端に拓馬は胸焼けを感じた。


(まさかお弁当に寿司は入れないよな? 賢い聡美だが、たまに変なことをするから侮れない)


 以前も、二段重ねのお弁当で、両方に白米が詰め込まれていたことがあった。その時は、拓馬は同僚に笑われ、食べるのにも苦労したのだった。


「あと、春来の大好物、ふろふき大根で終わりにするから」


(ふろふき大根……あれが好きなのか、春来は。どこをどうしたらそういう味覚になるんだ?)

 と首を傾げつつ、拓馬は飾りつけの最終チェックを行い始めた。すると、


 ピンポーン


 呼び鈴が鳴った。


「あ、ちょっとお鍋見ててくれる?」


 聡美はそう言って、玄関へパタパタとかけていく。ふろふき大根のお鍋を見てと言われても、作ったことのない拓馬は困惑し、とりあえず眺めてみることにした。


「……」


 グラグラと、鍋はゆだっている。火にかけてもうずいぶん経つ、一度冷ました方がいいのかもしれない。そんなことを考えた拓馬は火を一度止め、飾りつけの確認をしようと食卓へと視線を移す。その時、ふと時計が目に映り込んだ。


 聡美が玄関へと向かってから、もう5分以上は経つ。しかしその聡美は一向に戻ってこない。


(お隣さんでも来て、話し込んでいるのか? ……いや、完璧主義者の聡美のことだ、春来が帰ってくるまでに料理を終えられない、なんて悔しがるに決まっている。どこかで話に終わりをつけて戻るはずだ)


「……」


 しばらく無言でその場に佇む拓馬。しかし聡美は、さらに10分を過ぎても戻ってこなかった。


「聡美?」


 渋々、拓馬は玄関へと歩みを進めた。あまりご近所の付き合いがない拓馬にとっては、主婦たちの会話というのがどうも苦手だった。話の展開が早い上に、何より脈絡がよくわからない。そう思っていても、表面上はうまくごまかせるのが、拓馬の取り柄の一つでもある。そういうこともあってか、ご近所での拓馬の評判は良好だった。


 リビングのドアを開けると、玄関に聡美の姿はみえなかった。靴は、あるようだ。お気に入りのサンダルが、きちんとそろえてある。来客対応をした後、二階に上がった可能性も否定できない。


「聡美ー?」


 拓馬は二階に声をかけてみた。しかし、反響するのは彼の声と、カラスの鳴き声、そして子供の話し声だけだった。


(子供の声……? おっと、もう下校してきているのか! まずいな……)


 春来にどっきりパーティをしかけたい、そんな思いで、今日は休みを取って朝から飾り付けたり、プレゼントを買いに行ったりしたのだ。こんなことで計画を台無しにされてしまっては困る。 しかし、聡美の姿は一向に見当たらない。念のため、彼は外の様子を窺うことにした。

 少し慌てながら玄関のドアを開ける。しかし、そこにも聡美の姿はなかった。


「外にもいないのか……」


 やはり二階か? そう思い、ドアを閉めようとしたその瞬間、頭部に衝撃が走った。


「ガッ……!」


 そのままの勢いで、拓馬は玄関に倒れこんだ。頭部からは緋色ひいろの液体が彼の頬を伝い、ゆっくりと床を侵食していく。


「え……?」


 理解のできないまま彼はふと見上げると、一つの影が、彼を見下ろしていた。無論、聡美ではなかった。


(どこかでみた、いや、会話もしたような。誰、だっけ、か……)


 倒れた彼を見て、その影は笑っていた。どこか視線の合わないような、そしてやつれ果て、ぼろぼろになった皮膚。荒れた髪に、シワだらけの服。そしてその手には、大きな何かをたずさえていた。









「遅くなっちゃったな……」


 俺は、クラスの帰りの会のあと、先生に呼び止められた。本当は、誕生日だからすぐに帰りたかった。けれど、先生は少々おかんむりだった。


「春来くん、先週、お掃除さぼったでしょ」

「げっ」


 そんなわけで、先生にこってりと絞られた挙句あげく、罰掃除を行うことになったのだった。もちろん、最初は一人だったが、途中から先生も掃除に参加してくれた。ご苦労様、と笑顔で先生に言われると、先ほどまでの負の感情は、嘘のように消え去るのだった。

 まったく、先生という種族はアメとムチの使い方が宜しいようで。


 気づけば、17時半を過ぎようとしていた。小学校から家までは、大体15分くらい。走ったらもっと早いが、誕生日が楽しみだ、というのを、母に悟られたくなかった。


 ゆっくり歩くこと、ちょうど15分、自宅に到着した俺は、妙なことに気が付いた。


(あれ? うちの玄関の床って、灰色……だったよな?)


 もう暗くなってきているため、はっきりとは見えないのだが、それでもさすがに分かるくらいに、玄関が着色されている。きれいに、角まで、黒っぽい色に染まっている。しかも塗りたてなのか、妙な臭いがする。


(塗るならもっと明るい色のほうがいいよな、あとペンキが乾いてないし、これじゃ食欲がなくなっちゃうよ)


 しかし、妙にべたつく。靴底から嫌な感触が伝わる。塗りたてにしたって、塗りたてすぎやしないか? さっき塗ったのか? そう思い、床をよく見ると、


「あれ、これ……赤いのか?」


 しかも、どこかでみた、あまりきれいじゃない、赤。臭いも、ペンキとは違う。この前、拓馬が買ってきた、ジビエ料理の時に嗅いだ時のそれに、何となく近い。


「うっ……」


 こんな装飾を、誕生日にやらなくたっていいじゃないか。気分を害した俺は、少し腹を立て、玄関のドアを強めに開けた。


「ただいま!」


 いつもより強めに叫んでみる。そうすれば、母は、何かあったのか、と聞きに来るはずだった。叫んだあと、しばらく反応を待った。

 ……シーンと静まり返っている。時間も遅いのに、電気もついていない。もう陽は落ちているし、真っ暗なのに。シーンとした静けさで、耳が痛くなった。


「ただいま!!」


 もう一度、更に大きな声を出す。しかし、返ってくるのは静寂だけだった。


「買い物に行ったのかな……」


 俺は、妙な出来事の連続に不安感を抱きながらも、もしかしたらどっきりかもしれない、と思い直し、リビングへと歩みを進めた。リビングの前まで来ると、料理のいい匂いが漂っていた。


「な、なーんだ、やっぱりどっきりか! 詰めが甘いんだから!」


 先刻までの不安感は嘘のように、晴れやかな気分で、リビングのドアを開けた。心なしか、そのドアの重みは羽のように軽く感じる。そして、パチッ、とリビングの照明をけた。


「……え?」


 電気をけた瞬間、目の前に障害物があった。天井から吊るされており、サンドバッグのように、ゆらり、ゆらり、と揺れている。それが、手前に一つ、奥にもう一つ。


「なに……?」


 これは何か、と探ろうとした瞬間、足元に冷たい感触があった。濡れている。足元をみると、赤黒い液体が、水たまりのようになっていた。その液体は、サンドバックのようなものから、ポタリ、ポタリと流れていた。


「っ……!」


 数歩、後ずさりをし、奥にあるそれも確認してみた。同じように、液体を滴らせているが、奥の方はサイズが少し小さいようだ、そのおかげで……そのせいで、俺は、それの正体について気づいてしまった。


「あっ……母さ……!?」


 母、。正確には、聡美だったものだった。顔には傷ついていないようだったが、血の気を失くしたように真っ白で、そして、体は何か布のようなものに巻かれて、吊るされていた。布は全面赤黒く、しかも、ところどころに杭のような金属が打ち込まれていた。


「母さん! 母さん!!」


 手前のものを避け、聡美だったものにすがり寄る。布に触れた瞬間、ヒヤリ、ヌルリ、とした感触が手に伝わった。布に触れた手を見ると、赤黒く染まっていた。


「うっ……」


 俺は猛烈な吐き気に襲われ、その場で嘔吐した。吐いても、この異様な空間は消えない、この嫌な臭いも取れない。夕食を楽しみにしていた俺の胃には、すでに食物などなく、ただ胃液だけが口からこぼれ出ていた。


「ゲホッ……う……」


 なぜ母さんが、どうして……、そう思ったとき、ふと、先ほどは手前にあった、大きなものが気になった。見ない方がいい、そう心の中で感じ、目を閉じた。しかし、物音がした。玄関の方から、ガチャリ、と音が聞こえた。


「っ……!?」


 物音に驚き、目を開け、玄関の方を見た。助けに来た誰か、もしくはもっと別の、なにか怖いものが来る、そう感じてしまったのだ。……結果として、俺のその視界に、見てはいけない大きなものが入ってきてしまった。


「父……さん……!?」


 それは、父、だった。同じように布に巻かれ、天井から吊るされている。その体には、同じように金属の杭が、しかし、聡美に打たれた数の比にもならないほど多くの杭が、打ち込まれていた。


「あ……」


 俺には、もう絞り出せる言葉はなかった。パクパクと口を動かし、目からは止めどなく涙が流れた。尿は漏れ、音は聞こえなくなった。


 最後に俺が覚えているのは、制服姿の男が入ってきて、ゆさゆさと体を揺さぶってきたこと、それだけだった。そこで、俺の意識は途絶えた。









 俺は、その後親戚に引き取られ、『高島 春来』と名前を変えた。もともと、あまり親戚の多くなかった両親ということもあり、身元の引き受けについてはかなり苦慮くりょしたのだ、と当時の担当の人が話していたことを覚えている。


 両親の事件の、その後の経緯については、高校入学を機に、当時の担当刑事から聞くことができた。

 もちろん、殺人であったこと。そして、犯人は、鈴石すずいし 初穂はつほ、41歳。例の、『エンドラーゼ』の開発責任者だったという。物的証拠として、奇跡堂薬品の社員証、鈴石の名前のもの、が、庭先に落ちていたのだそうだ。

 ICチップなどを調べても、鈴石本人のものであることは間違いなかったそうで、新薬承認を取り消され、逆恨み的に犯行に及んだのでは、という見立てだそうだ。


 当の鈴石は、事件から一週間後、廃墟となった奇跡堂薬品の研究室から、遺体で見つかったそうだ。遺書などはなかったが、当時の社員たちからの話によると、新薬の承認取り消し以来、目はうつろで、何を話しかけても聞こえていないようだった、らしい。


 その刑事の見立てだが、復讐心がつのりにつのり、暴走して、最終的に自殺したのだと、と話してくれた。被害者家族である俺、高島 春来は当時小学生であったので、身も心も成長した時に、事件について説明しよう、と警察、親戚の間で決めたそうだ。


 とはいえ、あの光景、吊るされた両親、血の臭い、あれは忘れようがない。しばらくは肉料理は食べられなかったし、今でもたまに夢に見る。もちろん、精神状態は良くなく、小学校時代の友達とも疎遠そえんになった。中学の頃の記憶なんて、ほとんどない。


 そんな状態の俺だったが、高校に入学し、ちょうど半年くらい経った頃、あの事件が起きた。そう、宮尾 藤花、彼女が俺の、いや男子の着替えを覗いていたのだ。じーっと、微動だにせず。


「……何、してんの」


 俺が宮尾に話しかけた、最初の言葉だ。社交性の欠片もなく、感情も希薄だった俺だが、さすがに突っ込まざるを得なかった。


「え、いやー、忘れ物を、取りに来たら、男子が、その、着替えてて……」


 あたふたする宮尾。性別が逆だったら、一発で学校来れなくなってたぞ。


「すぐに閉めたらいいじゃん。なんで凝視ぎょうししてんの」


 うぅ、とたじろぐ宮尾に対し、訳の分からない行動をする女子への恐怖感を覚える俺。そこに、岬 千弦が現れた。


「ちょっと! なにウチのトーカをいじめてんの!」

「ちーちゃん! うぇぇぇん! 怖かったよう!」


 急にキレ気味に割り込んできた岬。しかし、俺は至極しごく冷静に、かつ端的に状況説明をした。なぜなら、あまり関わりたくないと思ったからだ。

 初対面の男子にいきなりキレる岬もそうだが、特に宮尾は、泣き真似まねなんかしている。こんな奴らと話すのは御免だ。厄介でしかない。


「ふむ、よーく分かった!」


 俺の説明に、うんうん、と頷く岬。ああ、こいつは理解力があるのか、と俺はほっとした。しかし、


「じゃあ、白黒はっきりつけようじゃないか!」


 うん? 何を言い出すんだこいつ?


「腕相撲でヨロ? んで、勝った方が勝者!」

「いやちょっとまて、白黒も何も俺が悪い要素ないだろ、しかも勝ったら勝者、ってなんだ。日本語になってないぞ。」


 訳の分からないペースに巻き込まれ、いつもの俺ではない俺が出ている。自分でも、あれ、俺はこんなに喋れるんだっけ、と不思議に感じた。


「言い訳無用! それじゃ、スタンバイ!」

「話を聞け!」

「えへぇ、負けないからね!」


 腕まくりをする宮尾。さっきまでの泣く演技はどこへ行ったのか、満面の笑みを浮かべていた。


「お前も話を聞けー!」


 ……というのが、俺の、宮尾 藤花と、岬 千弦との出会いである。思い返せば、相当にひどい出会いだったと、改めて思う。


 その後、俺は律儀りちぎに腕相撲をし(そして俺は負けた)、そして、なんやかんやでいちいちちょっかいを出してくる宮尾と岬に対して、徐々に心を開くようになっていった。

 そのころから、周りとも少しずつ打ち解けていって、友達、とまではいかないにしても、少なくとも一人で、何もない高校生活を送る、ということはなかった。


 そんなわけで、俺は二人にとても感謝している。この関係が、とても居心地よく感じているのだ。絶対に口にはしないけれど。









(と、そういうわけで、あんまりこいつらの意見を無下むげにするのは気が引けるんだよな)


 8月にしては涼しい日だった。夏の猛暑の間に気まぐれに来る、秋の雰囲気。それはとても清々しいもの、なのだが、今から殺人現場に、しかも昨日直接見てしまった現場に行くというのは、さすがに気が滅入る。大分マシになったが、今でも血を見ると卒倒しかけてしまう俺だ。心底嫌だ。


 しかし、岬と宮尾は、スキップでもしそうな、良い表情をしている。ピクニックにでも行くつもりなのか、と突っ込みを入れようとしたが、ふと気づくことがあった。


「そういや宮尾、お前の言う、その、手掛かり? ってなんだ?」

「う?」


 宮尾は首を傾げた。いやいや、さっき言ってただろ、手掛かりがあるって。


「もう人気もないし、こっそりでも聞かせてくれないか? なんかこう、モヤモヤする」


 もうすでに代々木駅付近にまで来てしまっているのだが、まあなんだ、時間稼ぎするわけじゃなく、単に情報共有をしておきたい、そういうことだ、うん。


「あー、ウチも、そういやずっと気になってたんだ。何か見たの?」


 岬も興味津々な様子だ。これは良い、現場に行く必要がなくなるかも……


「見たっていうか、その……あっ」


 何かを口にしようとした宮尾だが、突然表情が強張こわばる。俺と岬の後ろを見て、固まっている。視線の先に、また何か見つけた様子だった。


(まさか……?)


 嫌な汗が噴き出す。あの時の光景が、一瞬フラッシュバックした。岬も同じく感じたようで、いつもの笑顔が消えていた。

 俺と岬は、一瞬目を合わせ、意を決して、ゆっくり後ろを向いた。


「……?」


 そこには、スーツ姿の、スラッとした良いスタイルの男が立っていた。特に外傷があるとか、そういうものはない。宮尾は、何に驚いたんだ?

 そう疑問に思った瞬間、宮尾の口から驚きの言葉が飛び出した。


「……刑事、さん」


 え? 刑事? 知り合いか? 戸惑う俺と岬だが、その男は話しかけてきた。


「やあ、昨日会ったばかりだけど、久しぶり、というべきかな、宮尾 藤花さん」


 彼は無表情のまま、こちらに話しかけてきた。全く表情からは感情が読み取れない。本当に刑事なのだろうか?


「ああ、君たちには会っていなかったね。ほら、警察手帳。」


 じーっと見る。『米村よねむら 奎吾けいご』。写真と同じ人物。本当に警察官だ。


「あぁ……その節は、どうもお世話になりました」


 なぜか刑事と知って安堵した俺は、気が抜けたように挨拶をした。しかし、岬は苦い表情のままだ。


「さっきから聞いてたけど、何かな、その手掛かりって」


 あ、しまった、そうだった。宮尾は、手掛かりを見つけたことを警察に言っていないのだ。彼の言葉に、また汗が噴き出してきた。


「もう20歳過ぎてるんだし、罪に問えないことはないと思うけど、またウチに来てもらおうか? どうする?」


 顔面蒼白な俺と、何か思案している岬、肝心の宮尾は……笑っている。とうとう気が触れてしまったのだろうか。


「あー、刑事さんも聞いた方がいいですよね、あの、実はあのときー」

「「ちょ、ちょっとまて!」」


 米村と俺の声が重なった。まさかこの場で話し出すとは、さすがの刑事さんでも図りかねたらしい。一方の宮尾は、う? と首を傾げた。


「あー、えーとだね、署で、調書を取りたいんだけど」


 米村は心を落ち着かせるかのように、スーツの上着を正し、改めて宮尾に聞いた。


「それはイヤ。あそこ、雰囲気がイヤ」


 宮尾はきっぱりと断った。雰囲気って……さすがだな。岬と不意に目が合った。クスクスと笑っている。そんな岬につられて、俺も軽く噴き出した。


「そうか、それじゃ、どこかカフェにでも行かないか? ここじゃあ、あまりに不躾ぶしつけだろう?」


 はぁ、とため息をつきながら、米村は代案を提示した。俺は驚いて、


「いいんですか、そんなことして」


 そう返した。


「まあ、そういうこともある。それに、そんなもので手掛かりが掴めるのなら、安いもんだろ?」


 経費だしね、と付け加え、米村は少し微笑んだ、ような気がした。直感的に、だが、この刑事は信頼していい、そんな気がする。


「俺は、刑事さんに賛成するけど」

「ウチもそれでいいよ、喉も渇いてきてたしね」


 岬も、同じように考えていたようだ。あとは、宮尾だが。


「うん、カフェなら雰囲気バッチリだよね」


 だから、その雰囲気っていうのは一体何なんだ、そう突っ込もうとしたが、もう疲れてきたのでやめた。


「じゃあ、あそこで良いかな、仕事帰りによく寄るところなんだ」


 米村はきびすを返し、スタスタと歩き始めた。それに俺ら三人が付いていく。


 岬と宮尾は、何を飲もうか、だの、ケーキは経費かな、だの勝手なことを話している。俺は、さすがに米村が不憫ふびんだと感じた。


「すみません、刑事さん。お金はこちらで出しますから」

「いいや、学生が大人に遠慮するなよ」


 そう言い終わるのが先か、米村は少し硬い表情に変わった。何かを、決めたかのようだった。


「……」


 急にどうしたのか、また汗が噴き出そうになるような少しの沈黙の後、米村は俺に尋ねた。



「こんなに、大きくなったんだね、高島、いや、

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