声を失い埋められるもの
19.錆びたカッター(breaking the seal)
「やっぱいつもの格好のが落ち着きますわね」
髪をくくったミネオラはそういって白衣の裾を膝で蹴った。見慣れた休憩スペースは温かく、広い場所につきものの、ある種のよそよそしさを感じることはすでにない。ミネオラはアズールを見る。代わり映えのしない青い髪に安堵を覚え、ミネオラは開きかけた口を噤む。そうして何でも無いようにベンチの前を歩いていって、自販機でホットレモネードを買う。生まれ故郷にはない味だ。ミネオラはこれが好きだった。故郷に帰れば、これを飲むことももう無いのか、とミネオラは考える。そうしてきりきりと封を切るミネオラを眺めていたアズールが、ふと思い出したように尋ねた。
「ミネオラはクローンって実際に見たことある?」
「え? ……ないっすけど、クローンってそんな見てこれだ、ってすぐ分かるようなものなんです? っていうかあーしが見るようなとこにいる? んです? 見る限り、それっぽいのは記憶に無いような。でもどうだろ……」
培養槽とかに入っているような風ではないんです? と言って、何も知らないオレンジの目はアズールをまっすぐに見つめる。状況を把握も理解もしていない、きょとんとした顔。アズールは見返し、そうだねえ、と言った。
「どうだろう。僕はミネオラが実際どんな仕事をしているか、全部を知ってるわけじゃないからね。クローンが見て分かるかについてだけど、これがあんまりわかんないから、ちょっとした問題になることもある。たいていの場合は大丈夫だよ。きちんとした管理がされているからね。守秘義務もある。まあ、研究所内じゃ筒抜けだけど」
蓋をあけたレモネードに口を付け、ふうん? とミネオラは言う。『きちんとした管理』。無論記録に残せない類いの調整をするような私的複製においてはそのかぎりではなく、横行するそれらの裏で大量の個体が水面に立つあぶくのように処分されている事実があるが、アズールは黙っていた。欺瞞であろうと無かろうと、よそ者であるミネオラにそれを伝えるのはあまり得策とは言えない。被検体として生まれたクローンの生命は培養槽を出てからの方がずっと長く、そこには仮初めであっても命がある。ジュースを飲み込んだミネオラはボトルから口を離し、唇を舐めた。
「自分のとこじゃそういう話って全然聞かなかったな。なんかいろいろあるんすよね。なんていうのかな、便利なことが? クローンの?」
濁した言葉に返ったのは更に不透明な質問だ。なにもない水の底を目の粗いざるで掻くようなミネオラの言葉に、アズールは僅かだけ目を細めた。
「便利、って言うのはよく分からないけど、リターンがないことをしようとする団体って無いんじゃないかな。研究は博打だって言うけど、その先にはちゃんと目標がある。コストに見合うかは分からないにしたって、それは利益と言うにふさわしいはずだよ」
不躾とも言える質問に、アズールは普段通りの柔らかな返答を返した。ミネオラは質問と同じ、曖昧な調子で頷いた。それで話は終わってしまった。ホットレモネードに再び口を付け、ミネオラは舌を潤す。酸味と粘りのある加糖のジュースからは蜂蜜の甘い匂いがした。
「なんだろな。クローンってよくわかんないけど、なんか、あーしらのとこより医療とかずっと進んでるんだよね。それってすごいことだ。なんだろ、いろんな事出来るみたいなこと言ってたし、そういうの……」
「えーっとね、前にも言ったような気がするけど、その辺は僕の専門じゃないから分からないな。医療のことは本職に聞かないと。あくまでこっちは試験なんだ、外に連れ出すのもほんとは良くない」
まあ、あれは特殊なケースだから、とアズールは言った。
「……クローン作るのって医療行為じゃないんすか? なんかいっぱい手が入ってて、普通の人って言うか……あーしたちと違うんでしょう?」
不思議そうにミネオラは尋ねた。クローニング技師がしようものなら一笑に付されるであろう質問に、アズールはなんと答えたものかと考えを巡らせる。
「なんていうのかな、医療行為の一環ではあるかも知れないんだけど、とにかく区分が細分化していてね。車椅子職人も調剤師も医者とは別の職業だろ? 車椅子職人が怪我の治療を行わないように、僕たちクローニング技師も生物学者の括りだから実際の怪我の治療ってさせてもらえないんだよ。もちろん絆創膏を貼ったり、包帯を巻いたりくらいは出来るし、先進的な治療法が考案されたら理論の正当性の検証くらいはするけど。その他の処方とか、手術とか縫合とか、そういうのは全部医者の仕事だ。もちろんクローン技師じゃない医者はクローニングはさせてもらえない。まあ、研究所にいるなら資格は取ってると思うけどね」
じゃあ、ここで何か聞いても知識を持ち帰ったりは出来ないのか、とミネオラがぼんやりいうので、アズールは少し困ったような顔をした。
「スパイ映画でも見たの? 機材がないと出来ないからどっちにしろ難しいんじゃないかな。まあ技術の輸出はしようって向きがあるみたいだから気長に待ったら良いよ」
アズールはそこまで言い、珍しく少しだけ真面目な顔になった。口元が引き結ばれると普段の底知れない闊達さがなりを潜め、どこか冷たく透明な雰囲気が出る。ミネオラは目を上げる。アズールは振り向かない。青い目はまっすぐどこかを見つめている。
「……そうなったら、今まで慣習でやっていたようなことも、もしかしたら出来なくなるかも知れない。薬の密輸は向こう側で罰せられるって話は前にもしたけど、国内での単純所持は別に違法じゃないんだ。使用に対して社会的制裁があるから蔓延はしないけどね。……うん、そういう抜け穴が沢山あるんだ。どれもこれもずっとそのままって訳にいかないだろうし、世界的な規模で運用するならどこかで片を付けなくちゃならない。何年かかるかな、十年……二十年? もっとかかるかもね。まあ、それまでは気楽にやってくよ」
アズールは少し笑ってミネオラに首を傾げて見せた。それでも。それでもいつか。世界的な技術開発が適ったなら。世の中はどんな風になるんだろうね、と言ってアズールは話を締めくくる。ミネオラは目を細め、その横顔や滑らかなまなじり、襟に当たって跳ねる青い髪を、レモネードを飲みながらじっと見ていた。
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