4.気の抜けた炭酸(Safe man)
ミネオラは被験者の響きにぎくりとする。被験者。わかっていても、改めて言われると据わりの悪い感じがする。学部生だった頃、治験のバイトに申し込んだ口さがない同級生のひと組が、互いのことをモルモットちゃん、と言い合っていたのをなぜだかふと思い出した。
「えーあー、平気。次の検査まで好きなことしててって放り出されただけだから、あー、えっと次までまだ三時間は余裕…… あーたは? なんか、仕事があったりするんじゃないの? 喋ってても大丈夫?」
あたしと同じって訳じゃないんでしょ、と言おうとして口ごもる。相手がどんな立場の人間かわからない以上、あまり言うべきでないことだ。ミネオラはもじもじと落ち着かない気持ちのまま白衣のポケットを意味も無く引っ張った。ここにきてからこんなことばっかだな、と少し思う。
「ああ僕? いいよ別に、仕事してなくったって怒られやしないんだし。なにより休憩はちゃんと取らないとね。急ぎの用なら僕がいなくたって誰かがやるよ」
「……それって、給料泥棒って言われません? 大丈夫なんです?」
アズールがさも当然のように言うので、ミネオラは口を滑らせた。口に出してからしまったと思うももう遅い。不味いことを言ったと思ってミネオラは冷や汗をかいたが、アズールは大して怒ったような様子もなく、首を傾げて爪の先を弄ったりなんかしていた。
「どうだろうな、裏では言われてるかもね。まあ、言われてても罵倒以上の事ってないから大丈夫じゃないかな? 少なくとも解雇されることはないよ。複製二課には今のところ僕の代わりになる人間はいないから」
返る言葉に、こいつとんだクソ野郎だな、とミネオラは思ったが、初対面の人間に給料泥棒という自分も大概だと思ったので取り立てて言葉にはしなかった。更に言えば大学の知り合いにはこういうのがいっぱいいて、その卑近さに少し親しみを覚えたというのもある。アズールはゆっくり歩いて行って、休憩スペースのベンチへ身体を投げ出した。
「休憩スペースで誰かとこんなに話すなんて可笑しいな。喉渇いてない? お茶かなんか飲む?」
「……お金もってんです?」
じとりと向けられた視線に、アズールは首にかかった名札のコードをつまんで、提げていたプレートをミネオラに示した。
「磁気カードの自動精算があるんだ。さっき小銭が必要だったのは本当だよ。好きな飲み物ってある? 僕はなんだろうな。エナジードリンクとかは多少飲むかな?」
アズールは立ち上がり、自販機の前に立った。ミネオラはベンチに腰掛け、白衣の背中とそこに出来るしわを見るでもなく眺めていた。
「エナドリ……って、なんつーか『理学の人間』って感じっすね、あーしは、ジュースかな……」
「いいね、何のジュース? この辺で人気なのはリンゴとピーチと、あと、ライチとかかな。白ブドウもなかなか評判が良い」
真っ先に100%のフルーツジュースが候補に挙がったので、コーラや加糖の清涼飲料水を思い浮かべていたミネオラは目を見開く。
「その、ぐ、グレープジュース、一番好きなのはピンクのやつ……」
ミネオラは眼鏡を直し、子供っぽいって思うかも知れないけれど、と若干ためらうような調子で言った。
「ピンク? それって『グレープ』じゃなくて『グレープフルーツ』じゃない? ブドウじゃなくて柑橘の方の……ああ、もしかして止められてるの? 大変だね」
大変だね、と言ったアズールはミネオラにひどく同情的だった。ミネオラにはその意味がわからなかったが、甘いものを食べる男の言うことなので、大方過去に病気かなんかしたのだろうなと思って気に留めなかった。
「ん、ウン。っていうかそもそも売ってないし、いつもは水か、リンゴジュース買ってる。ここのオレンジジュースってすごい色じゃない? 着色料入ってるのかな」
「どうだろうね、品種が違うんじゃない? 無添加100%って聞いてるよ。どうかな……ああ、ほら、成分表示上は果汁だけだ」
「え? え? あっ、本当だ……」
ミネオラが投げ渡された缶を眺めていると、天井のスピーカーから呼び出しアナウンスがかかる。ミネオラは缶を置き、自分に割り当てられたIDを確認した。呼び出しの数字が自分ではないことを知ると、ミネオラは名札から手を放した。
「何で番号で呼ばれるんすかね。名前で呼びだしゃいいでしょうに。おっかしいの」
「命名法則の関係上、この規模の集団だと同名の人間が山ほどいるからね。そして今呼ばれたのは僕だ」
戻らなくちゃ、と言って、アズールは持っていた缶ゴミをダストシュートへと投げ入れた。
「そういうわけでもう行くよ。ボトルの話は今度教えてくれ。ああそうだ。次会うとき、僕のことはきみの渾名と似たようなものだと思って『アズール』って呼んでほしいな。僕もきみのことミネオラって呼ぶよ」
じゃあね、といってアズールは風が吹くように出て行った。その背を呆然と見送りながら、次があるのか、とミネオラは思った。手に持っていたジュースの存在を思い出し、そこでようやくお礼を言いそびれたことに気がつく。次会うとき。ミネオラはジュースの缶をぎゅっと握り、自分も部屋を後にした。
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